青木玲奈(あおき れな)がA国の空港に着いたのは、すでに夜の九時を過ぎていた。
今日は彼女の誕生日だ。
携帯の電源を入れると、たくさんの誕生日メッセージが届いていた。
同僚や友人からのものばかり。
藤田智昭(ふじた ともあき)からは何の連絡もない。
玲奈の笑顔が消えかけた。
別荘に着いたのは、夜の十時を回っていた。
田代(たしろ)さんは彼女を見て、驚いた様子で「奥様、まさか……いらっしゃるなんて」
「智昭と茜(あかね)ちゃんは?」
「旦那様はまだお帰りになってません。お嬢様はお部屋で遊んでいます」
玲奈は荷物を預けて二階へ向かうと、娘はパジャマ姿で小さなテーブルの前に座り、何かに夢中になっていた。とても真剣で、誰かが部屋に入ってきたことにも気付かない様子。
「茜ちゃん」
茜は声を聞くと、振り向いて嬉しそうに「ママ!」と叫んだ。
そしてすぐに、また手元の作業に戻った。
玲奈は娘を抱きしめ、頬にキスをしたが、すぐに押しのけられた。「ママ、今忙しいの」
玲奈は二ヶ月も娘に会えていなかった。とても恋しくて、何度もキスをしたくなるし、たくさん話もしたかった。
でも、娘があまりにも真剣な様子なので、邪魔はしたくなかった。「茜ちゃん、貝殻のネックレスを作ってるの?」
「うん!」その話題になると、茜は急に生き生きになった。「もうすぐ優里おばさんの誕生日なの。これはパパと私からの誕生日プレゼント!この貝殻は全部パパと私が道具で丁寧に磨いたの。きれいでしょう?」
玲奈の喉が詰まった。何も言えないうちに、娘は背を向けたまま嬉しそうに続けた。「パパは優里おばさんに他のプレゼントも用意してるの。明日……」
玲奈の胸が締め付けられ、我慢できなくなった。「茜ちゃん……ママの誕生日は覚えてる?」
「え?何?」茜は一瞬顔を上げたが、すぐにまたビーズを見つめ直し、不満そうに「ママ、話しかけないで。ビーズの順番が狂っちゃう……」
玲奈は娘を抱く手を放し、黙り込んだ。
長い間立ち尽くしていたが、娘は一度も顔を上げなかった。玲奈は唇を噛み、最後は無言のまま部屋を出た。
田代さんが「奥様、先ほど旦那様にお電話しました。今夜は用事があるので、先に休んでくださいとのことです」
「分かりました」
玲奈は返事をし、娘の言葉を思い出してちょっと躊躇した後、智昭に電話をかけた。
しばらくして電話が繋がったが、彼の声は冷たかった。「今用事がある。明日にでも……」
「智昭、こんな遅くに誰?」
大森優里(おおもり ゆり)の声だった。
玲奈は携帯を強く握りしめた。
「何でもない」
玲奈が何か言う前に、智昭は電話を切った。
夫婦は二、三ヶ月も会っていない。せっかくA国まで来たのに、彼は家に帰って会おうともせず、電話一本でさえ、最後まで話を聞く気もなかった……
結婚してこれだけの年月が経っても、彼は彼女にずっとこうだった。冷淡で、よそよそしく、いつも面倒くさそうに。
彼女は実はもう慣れていた。
以前なら、きっともう一度電話をかけ直して、どこにいるのか、帰ってこれないのかを優しく尋ねていただろう。
今日は疲れているせいか、そうする気が突然失せていた。
翌朝目が覚めて、少し考えてから、やはり智昭に電話をかけた。
A国は本国と十七、八時間の時差がある。A国では今日が彼女の誕生日だった。
今回A国に来たのは、娘と智昭に会いたかったのはもちろん、この特別な日に三人で揃って食事がしたいと思ったから。
それが今年の誕生日の願いだった。
智昭は電話に出なかった。
しばらくして、やっとメッセージが届いた。
「用件は?」
玲奈:「お昼時間ある?茜ちゃんも連れて、三人で食事しない?」
「分かった。場所が決まったら教えて」
玲奈:「うん」
その後、智昭からは一切連絡がなかった。
彼は彼女の誕生日のことなど、すっかり忘れているようだった。
玲奈は覚悟していたつもりだったが、それでも胸の奥が痛んだ。
身支度を整え、階下に降りようとした時、娘と田代さんの声が聞こえてきた。
「お母様がいらっしゃったのに、お嬢様は嬉しくないのですか?」
「私とパパは明日、優里おばさんと海に行く約束してるの。ママが一緒に来たら、気まずくなっちゃうでしょう」
「それにママは意地悪よ。いつも優里おばさんに意地悪するもの……」
「お嬢様、玲奈様はあなたのお母様です。そんなことを言ってはいけません。お母様の心が傷つきますよ」
「分かってるけど、私もパパも優里おばさんの方が好きなの。優里おばさんを私のママにできないの?」
「……」
田代さんが何か言ったが、もう玲奈には聞こえなかった。
娘は自分が一手に育て上げた子。ここ二年、父娘の時間が増えてから、娘は智昭に懐くようになり、去年智昭がA国で市場開拓に来た時も、どうしても付いて行きたがった。
手放したくなかった。できれば側に置いておきたかった。
でも娘を悲しませたくなくて、結局認めた。
まさか……
玲奈はその場に凍りついたように立ち尽くし、血の気が引いた顔で、しばらく動けなかった。
今回仕事を後回しにしてA国に来たのも、娘との時間を少しでも多く持ちたかったから。
今となっては、その必要もないようだ。
玲奈は部屋に戻り、本国から持ってきたプレゼントを、スーツケースに戻した。
しばらくして田代さんから電話があり、子供を連れて出かけると言われ、何かあったら連絡してほしいとのことだった。
玲奈はベッドに座ったまま、心の中が空っぽになったような気がした。
仕事を後回しにしてまで駆けつけたのに、誰も彼女を必要としていない。
彼女が来たことは、まるで笑い話のようだった。
しばらくして、彼女は外に出た。
この見知らぬ、それでいて懐かしい国を、あてもなく歩き回った。
お昼近くになって、やっと智昭との昼食の約束を思い出した。
朝聞いた会話を思い出し、娘を迎えに帰るか迷っていた時、智昭からメッセージが届いた。
「昼は用事が入った。キャンセルする」
玲奈は見ても、少しも驚かなかった。
もう慣れていたから。
智昭にとって仕事でも、友人との約束でも……何もかもが妻である彼女より大切なのだ。
彼女との約束は、いつだって気まぐれにキャンセルされる。
彼女の気持ちなど、一度も考えたことがない。
落ち込むだろうか?
以前なら、たぶん。
今はもう麻痺して、何も感じない。
玲奈の心は更に霧の中にいるようだった。
はずんだ気持ちで来たのに、夫からも娘からも、冷たい仕打ちばかり。
気がつくと、以前智昭とよく来ていたレストランの前に車を停めていた。
中に入ろうとした時、智昭と優里、そして茜の三人が店の中にいるのが見えた。
優里は娘と仲睦まじく並んで座っていた。
智昭と話しながら、娘をあやしている。
娘は嬉しそうに足をぶらぶらさせ、優里とじゃれ合い、優里が食べかけたケーキに口をつけていた。
智昭は二人に料理を取り分けながら、優里から視線を離そうとしない。まるで彼女しか目に入っていないかのように。
これが智昭の言う『用事』。
これが、彼女が命を賭けて十月十日の苦しみを耐え、産み落とした娘。
玲奈は笑った。
その場に立ち尽くして、眺めていた。
しばらくして、視線を外し、踵を返した。
別荘に戻った玲奈は、離婚協議書を用意した。
彼は少女時代からの憧れだった。でも彼は一度も彼女を見つめてはくれなかった。
あの夜の出来事と、お爺様の圧力がなければ、彼は決して彼女と結婚などしなかっただろう。
以前の彼女は、頑張りさえすれば、いつか必ず彼に振り向いてもらえると信じていた。
現実は彼女の頬を、容赦なく叩いた。
もう七年近く。
目を覚まさなければ。
離婚協議書を封筒に入れ、智昭に渡すよう田代さんに頼み、玲奈はスーツケースを引いて車に乗り込んだ。
「空港へ」運転手に告げた。
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