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葉山の観察

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-06-25 17:29:15

会議室の前の廊下には、まだ湿気を含んだ空気がほんのりと漂っていた。九階のフロアは天井が高く、遮音ガラスに囲まれているため、外の車の音も遠くくぐもって聞こえる程度だった。床のカーペットは静音仕様で、誰かの足音さえ吸い込んでしまう。

そんな中、ドアのすぐ外で背伸びをしている男の声だけが、妙にくっきりと響いた。

「ふー、なんか湿気すごない? 髪まとまらんて、ほんまに…」

河内拓真は片手に持った会議資料を軽く仰ぎながら、汗を拭くような仕草で襟元を摘んだ。ジャケットはさっきまで肩にかけていたが、会議室に入る前にようやく袖を通したばかりだ。襟元が乱れていても、誰も指摘しない。むしろ、そんなラフさが彼の持ち味であり、社内の空気を和らげる潤滑剤のようにも機能していた。

そこへ、静かに近づく足音がある。ピンヒールの先がカーペットを踏みしめる軽やかなリズム。

一歩、また一歩。河内が声の主に気づいて振り返ると、スラックス姿の女性が、片手にタブレットを抱えて立っていた。

「……遅刻、二回目やな」

チームリーダーの葉山千景だった。三十代前半。肩まで伸びた髪をひとつに結い、白いブラウスに深いネイビーのパンツスーツを合わせている。姿勢に無駄がなく、表情は柔らかいが、目つきだけは鋭い。社内でも“デキる女”と呼ばれ、信頼されている存在だった。河内にとっても、直属の上司である。

「すんません。今日はマジで電車が…いや、うそです。寝坊です」

あっさり白状してみせる河内に、葉山は鼻で笑った。

「ポイントカードでも作っとくか。十回で始末書、二十回で減給」

「えげつな。俺もう二十ポイント溜まってるで。なんか景品くれへん?」

「その景品、お説教でええ?」

やりとりに、横を通りかかった若手社員が思わず吹き出した。

河内は気にせず、葉山と顔を見合わせて笑う。その顔は、いつものように整っていた。笑いながらも、目は細く、声の調子は軽い。けれど、葉山はその笑顔の下にうっすらとした疲れを感じ取っていた。まるで、どこかにいる別の誰かを思いながら喋っているような、うわの空の笑顔だった。

「…なんか、最近あんた、よぉ笑うようなったな」

「え、そう? ええことやん。愛想ええのが、営業の基本でしょ」

「愛想と愛嬌は違うんやけどな」

葉山がぽつりと呟いた時、会議室のドアが内側から開いた。

中ではすでに、数名のメンバーが着席を始めていた。小阪陸斗も、早々に資料に目を通している。モニターの前には、白紙のメモと黒のボールペンだけが整然と並べられていた。姿勢は相変わらずまっすぐで、背筋が椅子に寄りかかることはない。彼の存在がそこにあるだけで、室内の空気がどこか張り詰めていた。

河内がドアを押さえ、葉山に先を促す。そのとき、会議室の中で小阪がちらりと顔を上げた。

ほんのわずかに、視線が河内のほうへ向いた。けれど、その目は一瞬にして細くなり、眉の筋がわずかに寄った。まるで、騒がしさそのものを顔に貼り付けた河内に対して、反射的に拒絶したような表情だった。

河内はそれに気づいたわけではない。気づいていないふりをしたのか、あるいは見ようとしていないのか。いずれにしても、軽く肩をすくめて葉山の後に続いた。

葉山はというと、誰にも気づかれないように、小阪のその表情を確かに見ていた。

眉がわずかにひそめられた瞬間。ほんの、数秒のこと。それでも、そこには明確な感情があった。嫌悪か、警戒か。いずれにせよ、無関心ではなかった。

けれど、葉山はそのことについて、何も言わなかった。言葉にしないことでしか守れない距離というものを、彼女は知っていた。言葉はときに、無意識の領域を汚してしまうからだ。

「よっしゃ、やりますか」

河内の声に合わせて、椅子を引く音が一斉に響く。

その音に、小阪は何の反応も示さず、黙って資料に目を落とした。

そのまぶたの奥に、誰の顔が残っているのかなど、誰にもわからなかった。

けれど、葉山だけはその沈黙に何かを感じ取っていた。

気配と、わずかなズレ。

それが、後々火種になると知っていたとしても、今はまだ静かに通り過ぎるしかなかった。

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