アメリア・デイビスはグレース・マーティン公爵夫人の葬儀で、年齢不相応の振る舞いをする子カレブと出会う。彼女はカレブを侮辱する言葉を吐く彼の父、ルーベン・マーティン公爵を衝動的に引っ叩いてしまった。ルーベンはアメリアに興味を持ち、彼女を脅して結婚する。アメリアの生真面目な不器用さを愛おしく思うルーベンと、献身的に真っ直ぐ自分に向き合ってくれる彼女に惹かれてしまうカレブ。恋に疎いアメリアは執着とも言える2つの愛に翻弄されていく。
View More恋は落ちるもの。
アメリア・デイビス男爵令嬢は恋も愛も知らなかった。
現在18歳のライラック色の腰までのウェーブ髪に透き通るアクアマリンのような空色の瞳をした彼女は人目を引く美しい令嬢だ。
彼女には前世の記憶があった。 前世で彼女は臨床心理士だった。 彼女は仕事で多くの障がい児に関わってきた。 「障がいのある子ども」がいる事で仲違いする夫婦も見てきた。 彼女は子供を持つことを恐れた。自分が結婚しても子供を持ちたくないとお見合い結婚したパートナーには伝えた。
納得してもらったはずの条件は5年経つと離婚原因となった。 1人になった彼女は、生き辛さを抱えた子たちと関わることに生涯を捧げた。♢♢♢
春の木漏れ日が注ぐ午後。
天気も良く、まるで何もかも問題ないような1日。 グレース・マーティン公爵夫人の葬儀が行われていた。「まだ、カレブ公子様も幼いのに奥様を亡くされたなんてルーベン・マーティン公爵殿下もお気の毒ですわね」
人の不幸は蜜の味というのか、葬儀だというのに弾んだような声で話す貴族令嬢がいる。
赤髪に深海のような深い藍色をした瞳を持つフローレンス・ハリス侯爵令嬢だ。彼女はルーベンをスナイパーのような目で見つめていた。 現在32歳のルーベン・マーティン公爵。漆黒の艶やかな髪に憂いを帯びたルビー色の瞳を持つ彼は社交界でその美しい容姿と卓越した能力で注目を集めていた。
彼は淡白で、アルバート・ガルシア国王の言われるがままに隣国の王女グレース・リンドと結婚した。しかし、カレブという息子に恵まれながらも、グレースはその子が13歳になるのを待たずに亡くなった。葬儀の場でカレブは母親の死を理解していないのか、沢山の人が集まっている状況を愉快に思っているかのようにはしゃいでいた。
歳の割には随分と体が小さく、6歳くらいに見えるカレブ。 色が透き通るように白く病弱なようにも見える。彼が6歳くらいまでは、亡くなったグレース公爵夫人に連れられているのを周囲から目撃されていた。
しかし、ここ7年近くはグレース公爵夫人は病に伏したと言うことで表舞台からは姿を消し、同時にカレブの姿も見ることはなくなった。
周りの人間に記憶されているカレブの姿と、長い時を経たはずの彼の姿に変化はない。 カレブの父親であるルーベンと似た美しい容姿とは裏腹に、彼の貴族の令息にしては躾のなっていない自由な行動は嘲笑の的となった。 カレブに対する冷ややかな気持ちを胸に秘めつつも、次期公爵夫人を狙う女たちがルーベンに近寄ろうとした時だった。土にしゃがみ込んで道の小石を集めては並べているカレブにアメリアが近寄る。
「カレブ公子様、とても上手に石を並べられましたね。1、2、3、4、5、6、7。では、この石を次は積み上げてみましょうか?」晴れ渡る空に響き渡る澄んだ声。
アメリアは喪服のスカートに土がつくのも厭わず、カレブの前に跪き目線を合わせて語り掛けていた。その様子をフローレンスたち貴族令嬢は汚いものを見るような侮蔑の目で見つめていた。
「ふん、ふん」
カレブはアメリアの言葉を理解しているのか謎の声を発しながら、並んでいた石を今度は積み上げる。平面を利用し上手くずらしながら積み上げたところで、1番上の石がころりと地面に落ちた。「あら、1つ落ちてしまった石がありますよ。寂しいよー。僕も仲間に入れてよー。石が大騒ぎしだしました」
彼女の言葉にカレブは大口を開けて、ひっくり返りそうにながら笑い転げた。その場違いな笑い声に周囲の注目が集まる。
「アメリア・デイビス⋯⋯カレブを連れて屋敷の中に入っていて頂けないだろうか?」
アメリアの耳元で低い声でルーベンが囁く。 彼女は彼の言葉にそっと頷くと、カレブを葬儀の場から連れ出した。♢♢♢
アメリアはカレブを連れて、マーティン公爵邸の温室で過ごしていた。
カレブは温室には初めて来るのか、昔来たのを懐かしんでいるのか周囲を食い入るように見渡していた。温室には春の花が咲き誇っていた。庭師が丁寧に日々世話をしている事が分かる。毎日でも午後のティータイムを過ごしたくなる場所なのに、ガーデンテーブルも置かれてなく普段屋敷の主が訪れている痕跡はない。
咲き誇る花々の上品で優しい香りに包まれていると、ふとカレブがアメリアの手を強く握ってきた。
アメリアは心が温かくなり、彼の手をそっと握り返す。「フリージア、ヒヤシンス、ムラサキハナナ、ムスカリ⋯⋯沢山の春の花が咲いてますのね。公子様がお好きな花はどちらですか?」
「ナナ!」アメリアが優しく語りかける言葉に、カレブが揚々と答えた。
明らかに彼は4枚の花びらが慎ましく寄り添うような「ムラサキハナナ」を指しながら答えている。カレブは一見足りなそうな振る舞いをしているが、アメリアには彼がとても物知りな人間に見えた。アメリアは前世でムラサキハナナが諸葛孔明が広めた花として『あふれる知恵』といった花言葉を持っていたことを思い出す。
彼女はカレブが言葉を発せなくても、自分に何かを伝えようとしているのではないかと思った。アメリアとカレブが幼少期の親子が過ごすような理想的な優しい時を過ごしていると、静寂を破る怒鳴り声がした。
「アメリア・デイビス! こんなところにいたのか。カレブ早く中に入りなさい」
喪服に身を包んだルーベンは少し焦ったような顔をしていた。 彼は妻の葬式の中、1度も悲しみを見せなかった。 実際、彼は妻を見送った事に少しホッとしていた。高位貴族らしく感情を隠す術を持っていたルーベンだが、その安堵を敏感なアメリアは見抜き寂しく思っていた。
「マーティン公爵殿下、奥様のことお悔やみ申し上げます」
「そんなことはどうでも良い。カレブをあまり連れ回さないでくれ」ルーベンは乱暴にカレブの手を引き自分の元に引き寄せた。
カレブはあからさまにアメリアから離れるのを嫌がっていて、彼女の方に手を必死に伸ばしている。 アメリアはカレブに近づき彼の手を、両手で宝物のように包み込んだ。「カリブ公子様はまだこちらにいたいようです。公子様が満足いくまで、お過ごしになられたら屋敷の方に連れて行きます」
「頭の悪い、理解力のない女だな。カレブはこの通り言葉も話せない状態なんだ。人目に極力触れさせたくないのが分からないのか?」
アメリアは前世から人様の家庭の事情には極力口を挟まない主義だった。トラブルの元になるのは分かっていたし、表からは分からない家庭の悩みが存在することを知っていたからだ。しかし、彼女はカレブが苦しそうに顔を顰めるのを見て黙っていられなかった。
「マーティン公爵殿下、言動にはお気をつけください。カレブ子様は貴方様の言動を全て理解していますわ。公子様は以前はお話されていたのではないですか? 何があったのかお話ください。私はできる限り公子様のお力になりたいと考えております」
アメリアには前世の経験から確信があった。
カレブは生まれながらに言葉が出ない子とは明らかに違う。 耳も問題なく聞こえていて、知能的にも問題がないのが分かる。「何を言ってるんだ。そんなに役に立ちたいのなら、俺と結婚してまともな後継者を産んでくれ。こちらは妻がこのような出来損ないを残して死んで困っているんだ。俺の要求に従ってくれれば、君の借金まみれの実家に援助して⋯⋯」
ルーベンが言い終わらない内に、アメリアは手を振り上げ彼を平手打ちした。たかだか、男爵令嬢が公爵である自分の頬を打った事実にルーベンは驚きを隠せなかった。
舞踏会会場は通常よりも薄暗い照明になっていた。少女趣味ローズパレスとは異なり、内装は非常にシンプルで大人っぽいシックなものに統一されていた。 オーケストラではなくカルテットが静かな曲を演奏している。 仮面を身に付けた男女が体をピッタリつけて踊っては、沢山ある個室へと消えて行った。 アメリアは急に不安になった。 目元だけ隠した仮面を付けて、明らかにふしだらな事を目的とした場所に来てしまったのだ。 その事が露見した時に、このリンド王国で足場を固めようとしているカレブの足を引っ張るような気がした。「オリビア⋯⋯私、見学は終わりましたので、ここで失礼しようかと⋯⋯」 オリビアに話しかけると、彼女は真っ黒な仮面を付けた銀髪の男の手を取ろうとしていた。「ここで、名前を呼ぶのは禁止よ。楽しみなさい。いつもの自分ではない、他の誰かになれるのよ。自分を解放するのって、気持ち良いわよ! 少しはその頑丈な殻を破って楽しむ事を覚えないと、いつか貴方は爆発しちゃうわよ」 オリビアは軽やかにそう言い残して見知らぬ銀髪の男に連れられ、体を密着させてダンスを踊る。アメリアはその姿を見ながら、自分には絶対にできないと思った。(ルーベン、会いたい、ルーベン⋯⋯) 決してここにいるはずのない夫の名前をアメリアは頭の中で繰り返してアメリアは騒めく心を落ち着かせ冷静を保とうとした。 アメリアはジロジロと仮面越しに自分を見てくる男の視線に不安になり、後ずさる。壁にゴンと頭をぶつけた所で、痛さに自分の現在の状況を落ち着いて見られるようになった。 オリビアに馬車で会場まで連れて来られたが、ここは彼女の特権区域の中でも奥まった場所にある。真っ暗な中、馬車で目的地まで来てしまったので1人で歩いて帰れる自信がない。「美しいご令嬢、私と踊って頂けませんか?」 目の前に来た茶髪に白い仮面を付けた男の言葉にアメリアは反射的に勢いよく首を振った。 ダンスを1曲踊ったら、個室に連れて行かれるのがこの場所のルールである事が分かったからだ。 好奇心など消え失せ、アメリアを恐怖心が襲う。
鈴蘭邸から仮面舞踏会の会場へはそれなりに距離があるので、馬車で向かった。王族の紋章のない地味な焦茶色の馬車は、オリビアが他の招待客に紛れ身分を隠す為だという。「アメリア・マーティン、私、貴方が全く理解できないわ。結婚は子供を産む為にするものでしょ。結婚したけれど、子供を産まないなんて信じられない。マーティン公爵はカレブの父親だから美しい方なんでしょうけれど、カレブみたいな面倒な子がついてきてまで結婚したかったの?」「私は、ルーベン・マーティンに実家の借金を返して貰う為に結婚しました」 アメリアは正直に結婚理由を伝えたのに、オリビアには笑われてしまった。「そんな理由ってあるのね? その程度の気持ちなら、カレブと結婚してあげたら? カレブならしっかりしているから、継続して貴方の実家の面倒も見てくれると思うわよ。私がこのような事を言ったのは秘密にして欲しいんだけど⋯⋯」 オリビアが言い難そうにしているのを見て、アメリアは自分も不器用だが彼女はもっと不器用で損な性格をしていると思った。思い遣りに溢れている自分をなぜか彼女は必死に隠そうとする。「秘密にしますわ。今晩の仮面舞踏会への参加も含めて秘密にします」 アメリアの微笑みを見て、オリビアは一呼吸おいて、語り始めた。「カレブが貴方を好きなのは純粋な恋というものに、父親へ憎しみとか複雑な思いが混じっている気がするの。自分の母親を助けてくれなかったのに、すぐに他の女を娶って夢中になっている父親をどんな思いでカレブが見つめていたのか⋯⋯」「オリビア王女殿下の言う通りかもしれません。気持ちに寄り添ってくれる優しいお義姉様がカレブの側にいて安心しました。私が帰国してもカレブを宜しくお願いします」 アメリアは罵り合っていても、オリビアがカレブの事を考えてくれている事に安堵した。「私にはカレブなんかの気持ちなんて正確には分からないわよ。ただ、私も同じような経験があって、ウィラード国王陛下を憎んだことがあったから⋯⋯とにかく、アメリア・マーティンは別にマーティン公爵殿下が好きな訳ではないのよね。だったら、カレブの側にいることを選択してくれても良いのに⋯⋯」 ア
パアン! その時、カレブがオリビアの頬を叩いた音が部屋に冷たく響いた。「アメリアとあの人は『白い結婚』だ。アメリアは誰にも穢されてなどいない! 彼女は義姉上のような女が侮辱して良い方ではないんだ」 オリビアが頬を抑えながら、アメリアを見る。 その瞳が戸惑いと寂しさに揺れていて、アメリアは彼女が心配で胸が詰まった。 アメリアの慈愛と同情に満ちた視線は、少なからずオリビアのプライドを傷つけた。 オリビアはカレブを見据えると、再び強く攻撃的な言葉を吐く。「リンド王国の王妃は出産を大衆で公開するのよ。誰にも穢されてもいなかった貴方の大好きな人は、貴方のせいで大衆に穢されるの! それで、壊れるのよ! 私の母のように」「王族の生まれを公開する神聖な儀式で、イライザ王妃が心を壊したのは義姉上が女だったからだろう。恥をかかされた挙句、産んだのが女だったら誰だって失望する」 アメリアはリンド王国が王族の出産を公開していることは知識として知っていた。自分は出産を経験した事がないが、それを大衆で公開する事は死ぬ程恥ずかしいと想像できた。 リンド王国の王妃でオリビアの母親であるイライザ・リンド。彼女は今、ウィラード国王に不妊になる毒を盛った罪で塔に幽閉されている。一夫多妻制のリンド王国でウィラード国王は5人の妻を持ったが、オリビア王女の後にウィラード国王の子が生まれる可能性は無くなった。 他国でも自分の子に王位を継がせたいと側室に毒を盛る女はいる。 しかし、夫である国王に毒を盛ったのは後にも先にもイライザ・リンドだけだ。 国王に王妃が不妊になる毒を盛るという前代未聞の醜聞は、狂った王妃の所業として取り上げられた。 アメリアは最初にそのニュースを聞いた時には悪しき風習の恐ろしさを感じただけだったが、今は違う感想を持っている。「イライザ王妃殿下は、壊れていないと思います。自分が嫌だった事を他の女性にはさせたくなかった優しい方なのではないでしょうか⋯⋯」 アメリアは会ったこともないイライザ・リンドに思いを馳せていた。 オリビアは関わってみると、他
後続の馬車から降りてきたクロエが小走りで近付いてくる。「カレブ様! 不敬にもお話が聞こえてしまった事をまずはお詫びさせてください。カレブ様さえ宜しければ、私がオリビア王女殿下の元へアメリア様をお連れ致します。お茶会が終わり次第、離宮の鈴蘭邸にご案内しておきます」「お気遣いありがとう、クロエ! ここに来るのは初めてだから、道案内をしてくれると本当に助かるわ。では、また後でね、カレブ」 アメリアは問答無用とばかりにカレブに手を振る。 その姿に彼女の頑固さを知っているカレブは諦めの表情を浮かべた。「ウィラード・リンド国王陛下への挨拶を終わらせたら、すぐに僕が迎えに行くよ。気をつけてくれ、あの女は毒針を持った嫌味な女だ」「どんな毒針か楽しみだわ」 アメリアは余裕の笑みを向けて、クロエに案内を頼んだ。 高い塀に囲まれた門の前に到着すると、クロエは大きく深呼吸した。 ここが王宮の前とは信じられない程、隔離された空間だ。「この門を潜って緑のアーチをずっといくと、ローズパレスです。この敷地内にある庭も劇場も舞踏会などが行われるホールも全てオリビア王女殿下の持ち物です。招待された人間以外はこのアーチを潜る事を許されていません。私はここでお待ちしています」「ありがとう。クロエ」 アメリアの軽やかな笑顔とは真逆にクロエの表情は固かった。 緑のアーチを潜って100メートル程行ったところで、腰までのウェーブのかかった金髪を靡かせてくる紫色の瞳をした泣きぼくろのある色っぽい女性が歩いてくるのが分かった。 クリーム色のドレスを着た一目で分かる高貴さを持った彼女の正体を、アメリアは肖像画を見て知っていた。婀娜っぽい印象の彼女は、健やかで清廉な雰囲気を持ったアメリアとは対極の女性だ。「オリビア・リンド王女殿下に、アメリア・マーティンがお目にかかります」 アメリアが優雅にゆっくりとお辞儀をすると、オリビアは彼女を見下すような目で意地悪そうに笑った。「成る程、厳しく採点してしようとしても、減点する箇所が見つからないくらい美しいわね。貴方がリンド王国の
もうすぐ夏だと言うのに、リンド王国はガルシア王国に比べ涼しかった。 地理的にもリンド王国はガルシア王国の北に位置する。 このホテルは見晴らしの良い丘にある街の中に建っていたから、高地であることもあり風が強い。 アメリアが震え上がるとカレブは彼女をより強く抱き寄せた。「街灯が付いてて街も明るいのに、誰も人が外に出てないのね」「この時間は外出禁止命令を出したから、僕とアメリアの2人きりだよ。まるで、この世界に2人だけみたいだね。本当にそんな世界があったら良いのに⋯⋯」 うっとりと語ってくるカレブにアメリアはまた不安になった。 アメリアはリンド王国の法律に関する絶対的な法則を思い出した。この国において、王族は絶対的な存在だ。法律だけでなく、多くの法令も鶴の一声で覆せる発言権をリンド王国の王族は有している。 アメリアは街を貸切するような状況を楽しめる性格ではなく、恐縮してしまうタイプだった。その贅沢を当たり前のように享受できるカレブは生まれながらに王族の血を引いている。 真夜中に銀色の月だけが浮かんで、2人を見ている。 ふとホテルを囲む泉に映る自分たちを見ると、知らない人が見たら恋人同士に見えるのだろうとアメリアは思った。(籍が抜けようと、カレブはずっと私の大切な子だわ) 隣にいるカレブの顔を見上げると、彼がずっとアメリアを見つめていた事に気がついた。「アメリア、僕が君をどれだけ恋しく思っていたか分かる?」「私だって、カレブが恋しかったわ。ずっと貴方に会いたくて堪らなかった」 アメリアはカレブがいなくなってから、体の半身を奪われたように生きた心地がしなかった。前世に多くの子と関わってきても、「自分の子供」と接するのは初めてだった。それゆえ、アメリアにとってカレブは特別な存在だった。 「アメリア、僕は本当にずっと君のことが⋯⋯」 カレブがアメリアの頬に手を添え顔を近づけた瞬間、彼女の目にカレブの後ろを通る鉄の棒を地面に差し込む灰色の作業服を着た人が見えた。「あっ、あの方は!」「アメリア⋯⋯それは、その内分
「アメリア、何を読んでるの?」 カレブが興味深そうにアメリアの手元を覗く。 その姿は先程の選り好みしている彼とは違い好奇心旺盛の子供のようだった。「リンド王国についての本よ。ガルシア王国とは全く異なる文化を持っているようだから失礼がないように学んで置かないと」「アメリアは本当に真面目だな。王族の僕と一緒にいればアメリアが注意される事はないのに」「注意をされるとか、されないと言った問題ではないの。カレブと一緒にいる私がマナー違反をしたら貴方が恥をかくわ。それに、カレブが暮らしている国を知りたいのよ」 アメリアが微笑みながら言った言葉は、カレブの心を満たした。彼は毎日のように持ち歩いているガルシア王国の書式の離婚届をアメリアの前に差し出す。毎日のように見せられるそれにアメリアは脱力しため息を吐いた。 「アメリア、今日こそは離婚届を書いてくれる? 僕はアメリアの為を思ってあの人から離れた方が良いと言ってるんだ。僕はアメリアには幸せになって欲しい。母上のように不幸にはなって欲しくはないんだ」 カレブがルーベンがグレースを不幸にしたと思っている事にアメリアは反論したかったが我慢した。「一緒に手紙も同封しても良いなら⋯⋯離婚届を書くわ」 カレブが毎日何度も離婚届を書くよう言ってくるので、アメリアは自分の欄だけ署名してカレブに渡した。彼女はこれ以上、彼がルーベンを悪く言うのを聞きたくなかった。 カレブは離婚届に記載されたアメリアのサインを見て満足したよう声を弾ませた。「これは、僕が責任を持ってマーティン公爵邸に送っておくね。はぁ、これでやっとひと段落だ。⋯⋯アメリア、ゆっくりで良いから僕を見て欲しい」 カレブはアメリアの頬に軽く口付けを落とすと、足取り軽やかに部屋を出て行った。「私はいつも貴方を見てるわ、カレブ⋯⋯」 アメリアが苦々しい思いで呟いていたのを彼は知らない。 彼女はベッドサイドのサイドテーブルに置いてあるリンド王国の新聞を手に取り、その日付にため息をついた。ルーベンに黙ってマーティン公爵邸を出てから、もう1ヶ月以上も経過していた。
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