アメリアとルーベンのファーストダンスが始まった。
彼女は靴擦れで足が痛いのを必死に耐えていた。 いつもとは違って周りの視線を感じて彼女はとても緊張していた。その事に気がついたルーベンは、そっとアメリアを抱き寄せ耳元で囁く。
「アメリア、俺に体を預けろ。このダンスが終わったら、今日はもう帰ろう。あと少しの辛抱だ」
彼女はルーベンの気遣いに心が温かくなり、彼に甘えるように体を預けた。 いつもとは違う彼女の様子にルーベンの心臓が跳ねた。「ルーベン、気を遣わせてしまいましたね。それにしても、貴方は本当にダンスがお上手なんですね」
「小さい頃から踊り子にでもなるのかというくらい練習させられたからな」
ルーベンが珍しくイタズラっぽく笑い、アメリアも微笑み返す。 周囲から見ても仲睦まじい夫婦の光景だった。オーケストラの荘厳な演奏が終わり、ルーベンがアメリアの手を通り帰路に着こうとした時だった。
「マーティン公爵殿下、アルバート・ガルシア国王陛下がお呼びです」 アルバート国王の侍従がルーベンに耳打ちする。「分かった。君も一緒に来るか? アメリア」
「いえ、あちらの端の方で待っています」 アメリアは明らかに切迫したような表情をした侍従を見て、自分は行かない方が良いと判断した。「すぐ戻るから、他の男にダンスを誘われても断るのだぞ」
「もう、踊れませんよ。ルーベン」 正直ルーベンが抜群にダンスが上手かったから、足が痛くても体を預けることでも踊れたとアメリア自身も分かっていた。「そうじゃないだろう。愛する夫以外とは踊りたくありませんと断るんだ」
「ふふっ、何を言ってるんですか」 ルーベンの言葉にアメリアは肩をすくめて笑った。「あの⋯⋯マーティン公爵殿下、本当にそろそろ⋯⋯」
明らかに急いでる侍従を夫婦の戯れにより待たせてしまったようで、ルーベンもアメリアも顔を見合わせ照れ笑いを浮かべた。アメリアが壁に辿り着き軽くもたれかかると直ぐに、赤髪を揺らしながらフローレンス侯爵令嬢が近づいてきた。オーケストラが2曲目の演奏を始めて、多くの貴族たちが踊り始める。
「ご機嫌よう。フローレンス嬢」
挨拶を返す訳でもなく人目も憚らず公爵夫人になった自分を見下すように見つめてくるフローレンス。 アメリアは彼女を関わらない方が良い人間として看做した。アメリアが彼女を避けるように、挨拶だけして遠ざかろうとした時だった。
フローレンスはアメリアの手首を折れるような力で掴み、顔を近づけてくる。彼女の深い藍色の瞳には隠しきれない敵意があった。「マーティン公爵夫人、カレブ公子様のことでお話があるのですが宜しいですか?」
突然出てきた「カレブ」の名前にアメリアは咄嗟に頷いてしまった。 自分について来いとばかりにバルコニーに移動するフローレンスにアメリアは戸惑いながらもついて行く。バルコニー到着すると、春だというのに夜風が冷たくてアメリアは少し震え上がった。
「そうやって、震えてか弱い女のフリをしてルーベン・マーティン公爵殿下に取り入ったの? 汚い女!」
突然、親の仇を見るような目でフローレンスに睨まれ罵倒されてアメリアは驚いてしまった。「私に対してどのように認識をされようとかまいませんが、カレブの話とはなんでしょうか?」
アメリアにとって自分がどう思われるかは、さして重要ではなかった。しかし、それをフローレンスは彼女のことなどどうでも良いと軽視されているように受け取った。「まずは、子供に取り入るなんて本当に考えましたわね。人を惑わす狡猾でずる賢い女狐を私は認めませんわ。 マーティン公爵殿下は貴方さえいなければ私と結婚するはずでしたのに!」
フローレンスに強く押されて、アメリアはその場に尻餅をついた。「何をなさるのですか? 無礼ですよ」
「無礼? この間まで下級貴族だった癖に、急に公爵夫人気取りですか? どんなにそれらしく見繕っても生まれは隠せませんわね。このようなところで足を見せてふしだらですわ。そうやってマーティン公爵殿下も誘惑したのですね」アメリアはめくれているドレスを咄嗟に直そうとすると、その手をフローレンスに思いっきり踏みつけられた。
「い、痛っ」
「私の心はもっと痛かったのが理解できますか? 私はマーティン公爵殿下をずっとお慕いしていたのです! ようやっと邪魔者が消えて、彼は私のものになるはずだったのですよ! この売女さえ現れなければ!」 アメリアが立ちあがろうとするも、それを防ぐようにヒールでフローレンスが踏みつけてくる。舞踏会会場からバルコニーに続く扉が勢いよく開いた。
「何をやってるんだ!」 怒りの炎で燃えるような瞳をしたルーベンが、フローレンスを引っ叩く。 「何をなさるのですか? マーティン公爵殿下! いくら貴方様でも貴族令嬢に乱暴を働くような横暴な真似が許されるとでもお思いですか?」彼女は悲痛な表情を浮かべながら、ルーベンに訴えた。
「それは、こちらのセリフだ。君はフローレンス嬢だったか⋯⋯今回の件は君の家にも正式に抗議させてもらうぞ。君にも相応の罰を受けて貰う」
ルーベンの言葉にフローレンスは慌てふためきだした。「違うんです。最初に夫人が私に手を出してきたんです。この間のお茶会の件が気に入らなかったようで⋯⋯」
「本当に愚かだな。窓ガラス越しに君の暴力行為を見ていた令嬢たちが俺を呼びに来てくれたんだぞ。君から手を出したという目撃者が大勢いる」 「そ、そんなはず⋯⋯」ガラス越しに舞踏会会場を見ると、あの日にお茶会にいた令嬢たちがバルコニーを見つめていた。フローレンスは取り巻きに裏切られたようだ。
「そんな⋯⋯」
泣き崩れるフローレンスを置いて、アメリアはルーベンに支えられるようにそこを去った。帰路に着く馬車に乗り込むなり、アメリアを抱き込むようにしてルーベンが隣に座った。
「ルーベン、私は大丈夫です」 「大丈夫なわけ無いだろう。手の甲が内出血しているぞ」 ルーベンはアメリアの手の甲にある紫色の鬱血部分にそっと唇を落とした。「ひゃっ! おやめください。そんな事されたら余計痛みが増しそうです」
「そんな訳無いだろう。早く帰って手当しよう。こちらもだな」 ルーベンはそういうと、アメリアの靴を脱がし足を持ち上げ靴擦れ部分にキスを落とした。「そんな所に口付けをするのはやめてください。い、今ので足が攣りました」
アメリアが痛そうに自分の足を摩る。「う、嘘だろう? 君は運動不足なんじゃ無いのか? なんだか、いつも机に向かって書き物をしているイメージだ」
「ガルシア王国の高位貴族の令嬢は武闘派が多いですね。今日のフローレンス嬢には驚きました」
「本当だな。これからは、絶対俺の側を離れるなよ。猛獣たちから君を守らなければならないからな」 ルーベンの言葉にアメリアは猛獣のように荒れ狂ったフローレンスを思い出して思わず笑いが溢れた。 馬車がマーティン公爵邸に到着するなり、ルーベンはアメリアを横抱きにした。 彼女はそっと彼の首に手を回す。「今日は、やけに素直だな」
「もう、怪我をするのが怖いだけです。しっかり捕まってなくて振り落とされたら怖いので⋯⋯」アメリアは指摘されて少し照れるように目を逸らした。その仕草がルーベンには自分を意識してくれているように好ましく映った。
「死んでも君を落としたりしないから安心しろ。今日の件の始末に関しては俺に一任してくれ。2度と君があのように傷つけられないようにする」アメリアは、真剣な眼差しで顔を覗き込まれ思わずその美しいルビー色の瞳に身惚れてしまった。
「はい、頼りにしてます。ルーベン」 彼女は気がつくとらしくもなく従順な返事をしていた。舞踏会会場は通常よりも薄暗い照明になっていた。少女趣味ローズパレスとは異なり、内装は非常にシンプルで大人っぽいシックなものに統一されていた。 オーケストラではなくカルテットが静かな曲を演奏している。 仮面を身に付けた男女が体をピッタリつけて踊っては、沢山ある個室へと消えて行った。 アメリアは急に不安になった。 目元だけ隠した仮面を付けて、明らかにふしだらな事を目的とした場所に来てしまったのだ。 その事が露見した時に、このリンド王国で足場を固めようとしているカレブの足を引っ張るような気がした。「オリビア⋯⋯私、見学は終わりましたので、ここで失礼しようかと⋯⋯」 オリビアに話しかけると、彼女は真っ黒な仮面を付けた銀髪の男の手を取ろうとしていた。「ここで、名前を呼ぶのは禁止よ。楽しみなさい。いつもの自分ではない、他の誰かになれるのよ。自分を解放するのって、気持ち良いわよ! 少しはその頑丈な殻を破って楽しむ事を覚えないと、いつか貴方は爆発しちゃうわよ」 オリビアは軽やかにそう言い残して見知らぬ銀髪の男に連れられ、体を密着させてダンスを踊る。アメリアはその姿を見ながら、自分には絶対にできないと思った。(ルーベン、会いたい、ルーベン⋯⋯) 決してここにいるはずのない夫の名前をアメリアは頭の中で繰り返してアメリアは騒めく心を落ち着かせ冷静を保とうとした。 アメリアはジロジロと仮面越しに自分を見てくる男の視線に不安になり、後ずさる。壁にゴンと頭をぶつけた所で、痛さに自分の現在の状況を落ち着いて見られるようになった。 オリビアに馬車で会場まで連れて来られたが、ここは彼女の特権区域の中でも奥まった場所にある。真っ暗な中、馬車で目的地まで来てしまったので1人で歩いて帰れる自信がない。「美しいご令嬢、私と踊って頂けませんか?」 目の前に来た茶髪に白い仮面を付けた男の言葉にアメリアは反射的に勢いよく首を振った。 ダンスを1曲踊ったら、個室に連れて行かれるのがこの場所のルールである事が分かったからだ。 好奇心など消え失せ、アメリアを恐怖心が襲う。
鈴蘭邸から仮面舞踏会の会場へはそれなりに距離があるので、馬車で向かった。王族の紋章のない地味な焦茶色の馬車は、オリビアが他の招待客に紛れ身分を隠す為だという。「アメリア・マーティン、私、貴方が全く理解できないわ。結婚は子供を産む為にするものでしょ。結婚したけれど、子供を産まないなんて信じられない。マーティン公爵はカレブの父親だから美しい方なんでしょうけれど、カレブみたいな面倒な子がついてきてまで結婚したかったの?」「私は、ルーベン・マーティンに実家の借金を返して貰う為に結婚しました」 アメリアは正直に結婚理由を伝えたのに、オリビアには笑われてしまった。「そんな理由ってあるのね? その程度の気持ちなら、カレブと結婚してあげたら? カレブならしっかりしているから、継続して貴方の実家の面倒も見てくれると思うわよ。私がこのような事を言ったのは秘密にして欲しいんだけど⋯⋯」 オリビアが言い難そうにしているのを見て、アメリアは自分も不器用だが彼女はもっと不器用で損な性格をしていると思った。思い遣りに溢れている自分をなぜか彼女は必死に隠そうとする。「秘密にしますわ。今晩の仮面舞踏会への参加も含めて秘密にします」 アメリアの微笑みを見て、オリビアは一呼吸おいて、語り始めた。「カレブが貴方を好きなのは純粋な恋というものに、父親へ憎しみとか複雑な思いが混じっている気がするの。自分の母親を助けてくれなかったのに、すぐに他の女を娶って夢中になっている父親をどんな思いでカレブが見つめていたのか⋯⋯」「オリビア王女殿下の言う通りかもしれません。気持ちに寄り添ってくれる優しいお義姉様がカレブの側にいて安心しました。私が帰国してもカレブを宜しくお願いします」 アメリアは罵り合っていても、オリビアがカレブの事を考えてくれている事に安堵した。「私にはカレブなんかの気持ちなんて正確には分からないわよ。ただ、私も同じような経験があって、ウィラード国王陛下を憎んだことがあったから⋯⋯とにかく、アメリア・マーティンは別にマーティン公爵殿下が好きな訳ではないのよね。だったら、カレブの側にいることを選択してくれても良いのに⋯⋯」 ア
パアン! その時、カレブがオリビアの頬を叩いた音が部屋に冷たく響いた。「アメリアとあの人は『白い結婚』だ。アメリアは誰にも穢されてなどいない! 彼女は義姉上のような女が侮辱して良い方ではないんだ」 オリビアが頬を抑えながら、アメリアを見る。 その瞳が戸惑いと寂しさに揺れていて、アメリアは彼女が心配で胸が詰まった。 アメリアの慈愛と同情に満ちた視線は、少なからずオリビアのプライドを傷つけた。 オリビアはカレブを見据えると、再び強く攻撃的な言葉を吐く。「リンド王国の王妃は出産を大衆で公開するのよ。誰にも穢されてもいなかった貴方の大好きな人は、貴方のせいで大衆に穢されるの! それで、壊れるのよ! 私の母のように」「王族の生まれを公開する神聖な儀式で、イライザ王妃が心を壊したのは義姉上が女だったからだろう。恥をかかされた挙句、産んだのが女だったら誰だって失望する」 アメリアはリンド王国が王族の出産を公開していることは知識として知っていた。自分は出産を経験した事がないが、それを大衆で公開する事は死ぬ程恥ずかしいと想像できた。 リンド王国の王妃でオリビアの母親であるイライザ・リンド。彼女は今、ウィラード国王に不妊になる毒を盛った罪で塔に幽閉されている。一夫多妻制のリンド王国でウィラード国王は5人の妻を持ったが、オリビア王女の後にウィラード国王の子が生まれる可能性は無くなった。 他国でも自分の子に王位を継がせたいと側室に毒を盛る女はいる。 しかし、夫である国王に毒を盛ったのは後にも先にもイライザ・リンドだけだ。 国王に王妃が不妊になる毒を盛るという前代未聞の醜聞は、狂った王妃の所業として取り上げられた。 アメリアは最初にそのニュースを聞いた時には悪しき風習の恐ろしさを感じただけだったが、今は違う感想を持っている。「イライザ王妃殿下は、壊れていないと思います。自分が嫌だった事を他の女性にはさせたくなかった優しい方なのではないでしょうか⋯⋯」 アメリアは会ったこともないイライザ・リンドに思いを馳せていた。 オリビアは関わってみると、他
後続の馬車から降りてきたクロエが小走りで近付いてくる。「カレブ様! 不敬にもお話が聞こえてしまった事をまずはお詫びさせてください。カレブ様さえ宜しければ、私がオリビア王女殿下の元へアメリア様をお連れ致します。お茶会が終わり次第、離宮の鈴蘭邸にご案内しておきます」「お気遣いありがとう、クロエ! ここに来るのは初めてだから、道案内をしてくれると本当に助かるわ。では、また後でね、カレブ」 アメリアは問答無用とばかりにカレブに手を振る。 その姿に彼女の頑固さを知っているカレブは諦めの表情を浮かべた。「ウィラード・リンド国王陛下への挨拶を終わらせたら、すぐに僕が迎えに行くよ。気をつけてくれ、あの女は毒針を持った嫌味な女だ」「どんな毒針か楽しみだわ」 アメリアは余裕の笑みを向けて、クロエに案内を頼んだ。 高い塀に囲まれた門の前に到着すると、クロエは大きく深呼吸した。 ここが王宮の前とは信じられない程、隔離された空間だ。「この門を潜って緑のアーチをずっといくと、ローズパレスです。この敷地内にある庭も劇場も舞踏会などが行われるホールも全てオリビア王女殿下の持ち物です。招待された人間以外はこのアーチを潜る事を許されていません。私はここでお待ちしています」「ありがとう。クロエ」 アメリアの軽やかな笑顔とは真逆にクロエの表情は固かった。 緑のアーチを潜って100メートル程行ったところで、腰までのウェーブのかかった金髪を靡かせてくる紫色の瞳をした泣きぼくろのある色っぽい女性が歩いてくるのが分かった。 クリーム色のドレスを着た一目で分かる高貴さを持った彼女の正体を、アメリアは肖像画を見て知っていた。婀娜っぽい印象の彼女は、健やかで清廉な雰囲気を持ったアメリアとは対極の女性だ。「オリビア・リンド王女殿下に、アメリア・マーティンがお目にかかります」 アメリアが優雅にゆっくりとお辞儀をすると、オリビアは彼女を見下すような目で意地悪そうに笑った。「成る程、厳しく採点してしようとしても、減点する箇所が見つからないくらい美しいわね。貴方がリンド王国の
もうすぐ夏だと言うのに、リンド王国はガルシア王国に比べ涼しかった。 地理的にもリンド王国はガルシア王国の北に位置する。 このホテルは見晴らしの良い丘にある街の中に建っていたから、高地であることもあり風が強い。 アメリアが震え上がるとカレブは彼女をより強く抱き寄せた。「街灯が付いてて街も明るいのに、誰も人が外に出てないのね」「この時間は外出禁止命令を出したから、僕とアメリアの2人きりだよ。まるで、この世界に2人だけみたいだね。本当にそんな世界があったら良いのに⋯⋯」 うっとりと語ってくるカレブにアメリアはまた不安になった。 アメリアはリンド王国の法律に関する絶対的な法則を思い出した。この国において、王族は絶対的な存在だ。法律だけでなく、多くの法令も鶴の一声で覆せる発言権をリンド王国の王族は有している。 アメリアは街を貸切するような状況を楽しめる性格ではなく、恐縮してしまうタイプだった。その贅沢を当たり前のように享受できるカレブは生まれながらに王族の血を引いている。 真夜中に銀色の月だけが浮かんで、2人を見ている。 ふとホテルを囲む泉に映る自分たちを見ると、知らない人が見たら恋人同士に見えるのだろうとアメリアは思った。(籍が抜けようと、カレブはずっと私の大切な子だわ) 隣にいるカレブの顔を見上げると、彼がずっとアメリアを見つめていた事に気がついた。「アメリア、僕が君をどれだけ恋しく思っていたか分かる?」「私だって、カレブが恋しかったわ。ずっと貴方に会いたくて堪らなかった」 アメリアはカレブがいなくなってから、体の半身を奪われたように生きた心地がしなかった。前世に多くの子と関わってきても、「自分の子供」と接するのは初めてだった。それゆえ、アメリアにとってカレブは特別な存在だった。 「アメリア、僕は本当にずっと君のことが⋯⋯」 カレブがアメリアの頬に手を添え顔を近づけた瞬間、彼女の目にカレブの後ろを通る鉄の棒を地面に差し込む灰色の作業服を着た人が見えた。「あっ、あの方は!」「アメリア⋯⋯それは、その内分
「アメリア、何を読んでるの?」 カレブが興味深そうにアメリアの手元を覗く。 その姿は先程の選り好みしている彼とは違い好奇心旺盛の子供のようだった。「リンド王国についての本よ。ガルシア王国とは全く異なる文化を持っているようだから失礼がないように学んで置かないと」「アメリアは本当に真面目だな。王族の僕と一緒にいればアメリアが注意される事はないのに」「注意をされるとか、されないと言った問題ではないの。カレブと一緒にいる私がマナー違反をしたら貴方が恥をかくわ。それに、カレブが暮らしている国を知りたいのよ」 アメリアが微笑みながら言った言葉は、カレブの心を満たした。彼は毎日のように持ち歩いているガルシア王国の書式の離婚届をアメリアの前に差し出す。毎日のように見せられるそれにアメリアは脱力しため息を吐いた。 「アメリア、今日こそは離婚届を書いてくれる? 僕はアメリアの為を思ってあの人から離れた方が良いと言ってるんだ。僕はアメリアには幸せになって欲しい。母上のように不幸にはなって欲しくはないんだ」 カレブがルーベンがグレースを不幸にしたと思っている事にアメリアは反論したかったが我慢した。「一緒に手紙も同封しても良いなら⋯⋯離婚届を書くわ」 カレブが毎日何度も離婚届を書くよう言ってくるので、アメリアは自分の欄だけ署名してカレブに渡した。彼女はこれ以上、彼がルーベンを悪く言うのを聞きたくなかった。 カレブは離婚届に記載されたアメリアのサインを見て満足したよう声を弾ませた。「これは、僕が責任を持ってマーティン公爵邸に送っておくね。はぁ、これでやっとひと段落だ。⋯⋯アメリア、ゆっくりで良いから僕を見て欲しい」 カレブはアメリアの頬に軽く口付けを落とすと、足取り軽やかに部屋を出て行った。「私はいつも貴方を見てるわ、カレブ⋯⋯」 アメリアが苦々しい思いで呟いていたのを彼は知らない。 彼女はベッドサイドのサイドテーブルに置いてあるリンド王国の新聞を手に取り、その日付にため息をついた。ルーベンに黙ってマーティン公爵邸を出てから、もう1ヶ月以上も経過していた。