「……っ……は……!」
声にならない息が喉からこぼれた。
夢――?
それにしては、あまりにも鮮明だった。
「もう誰も、信じない……」
私は、今の自分の声だったのか、
手が震えていた。
どうして?
「知らないはずの景色なのに……
部屋の静けさがやけに冷たく感じた。
夢の中で終わったはずの“痛み”が、まだ身体のどこかに残っていた。
翌朝、目覚ましの音で起きたはずなのに、身体は重たかった。
まるで、まだ夢の中に引きずられているような感覚だった。
あの二人の姿。
(……まだ心が追いついていない)
胸の奥がズキズキと痛む。
今日は、休みたい。
けれど、首を横に振る。
(……だったら、外に出よう)
誰かと顔を合わせて、会話をして、いつもの空気に触れれば、少しは気が紛れるかもしれない。
重たい身体を引き摺るようにして、洗面所へ向かう。
「……はぁ……」
長く、深いため息を吐いた。
そうして私は、淡々と仕事へ行く支度を始めた。
歩き慣れたはずの道。
胸の奥が、ふいにざわついた。
一瞬、立ち止まりそうになる。
(でも……確かに感じた。何かが、私の中で動いている)
出勤途中の電車の中。
ふいに、耳元で――
「梨央」
誰かに、そう呼ばれた気がした。
え……?
顔を上げて周囲を見渡す。
(気のせい……だよね?)
自分にそう言い聞かせるけれど、心は静かにざわついていた。
職場のエントランスに着く。
視線を感じた。
振り返っても、誰もいない。
(やっぱり、何かが変だ……)
でも、それが何なのかは、まだわからない。
ただ一つ言えるのは……
「あの夢は、忘れられない」
リリアとの密会が始まってから、数週間が過ぎていた。 カイルの心は、ナフィーラへの罪悪感と、リリアが与える刺激的な快楽との間で引き裂かれ、満たされるどころか渇きが募る日々を送っていた。 小屋での穏やかな日常は、まるで夢の名残のように遠ざかり、彼の目はいつしか、獲物を探す獣のように森の奥の闇を見つめるようになっていた。その夜、カイルは「村の見回りに行ってくる」とナフィーラに告げ、小屋を出た。 夢の残滓が心を苛み、リリアの香と囁きが耳の奥にこびりついて離れない。拒むために、あるいは逆に求めてしまうのか――その境界も曖昧になり、ただ闇の中へ足を進めずにはいられなかった。霧が深く、秋の雨が静かに止んだ後だった。森は冷たい湿り気を湛え、獣の気配さえ息を潜めている。 (…なぜ、俺はここにいる?) 己に問いかける声は、森の冷気に溶け、答えは返らなかった。その時、微かな呻きが耳に届いた。 カイルの足が止まる。木々の影が重なる暗がりの中、獣か、あるいは罠か。 手が無意識に腰の剣の柄を探った。かつて英雄として生きた時の本能が、静かに目覚める。音を立てぬよう声の元へ近づくと、濡れた草の上に、人の形をした影が横たわっていた。 白銀の髪は泥に汚れ、裂けた外套の隙間から覗く肩に、血が乾いて黒くこびりついている。胸元の焼け焦げた紋章だけが、その者がかつて高貴な地にあったことを物語っていた。「……とどめを……刺すのなら……早く……」 かすれた声が、死を望むように響いた。だが、その響きの奥に、ただの哀れな敗残者とは違う、不思議な気高さがあった。カイルの目が闇に光る瞳をとらえた。 絶望の淵に立ちながら、それでも崩れきらぬ誇り。その目は、リリアが放つ甘美な毒とは真逆の、砕け散った硝子の刃のように胸を刺した。「……誰だ。何者だ」 鋭い声の裏に、心の奥に微かなざわめきが走った。 この女の纏うものは、リリアの魅惑でもナフィーラの慈愛でもない。砕け、傷つき、それでも残る危うい輝きだった。「……名を失った女に……名を問うのですか……? 私は……誰でもありません……」 その声は、か細くも凛としていた。 カイルの心の奥に、かつて己が呪いに蝕まれ、名を捨てようとした夜の記憶が蘇った。「くだらんことを言うな」 吐き捨てるように言った声は、己自身に向けた言葉のようだった。
夜が更け、村を照らしていた焚き火の塔は、最後の火の粉を散らし、静かに燃え尽きていった。賑やかだった広場は今や静寂に包まれ、家々の窓から洩れる灯りも一つ、また一つと消えていく。ナフィーラは小屋の寝台で、カイルの腕の中に身を預け、安らかな寝息を立てていた。その顔は、祭りの笑顔のまま、微かに微笑んでいるようだった。しかし、カイルの瞳だけはなお醒めたまま、天窓越しの月を見つめていた。 (……俺は、このままでいいのか?)祭りの輪の中で感じた幸福、ナフィーラの笑顔。それは確かに、何にも代えがたい宝だった。腕の中の温もりこそが、今の彼の世界のすべてだ。 だが、村人の「カイルさん、頼りにしてるぜ」という声、子供たちの「カイル兄ちゃんは英雄みたいだ!」という無邪気な呼び声、そして――あの木陰から感じた、獲物を見定めるような鋭い視線。 それらの記憶が、彼の心の湖に小さな波紋を広げていた。まだそれは小さい。だが、水底に沈めたはずの「英雄」としての魂が、その波紋に呼応して疼いていた。ナフィーラは、眠りの淵でふと目を覚ました。カイルの腕が、無意識に強張っているのを感じ取ったからかもしれない。 窓の外、星空と月が澄んだ光を地上に注いでいた。秋祭りのこの夜は、かつて神殿にいた頃、「女神セレイナの恵みが最も地に満ちる夜」とされ、ナフィーラ自身が徹夜で祈りを捧げた聖なる夜でもあった。
日が落ち、村長が厳かに松明を掲げた。 「皆の者、今年も大いなる山の恵みに感謝を! この火が、我らの未来を明るく照らさんことを!」その声と共に、焚き火の塔に火が入れられた。パチパチと薪のはぜる音が夜空に響き、炎は勢いよく天へと駆け上った。村は瞬く間に炎の揺らめく光に包まれ、家々の壁に映る影が踊る幻想的な光景が広がった。太鼓の音が打ち鳴らされ、笛の音が澄んだ夜空に舞う。男たちは酒を酌み交わし、女たちは賑やかに笑い、子供たちは歓声を上げて駆け回る。村全体が一つの生命体のように脈打つその中で、カイルとナフィーラもまた祭りの輪の中にいた。ナフィーラは頬を上気させ、木の実の酒を注いだ杯を二つ手にカイルの元へ駆け寄った。 「カイル、村長がくれたの。飲んで、今年一番の出来なんですって」「ありがとう」 杯を受け取ったカイルが口をつけると、芳醇な香りと優しい甘みが広がった。 「美味いな」「でしょ?」 ナフィーラは満足そうに笑うと、いたずらっぽく彼の手を取った。 「さあ、踊りましょう!」「待て、ナフィーラ、俺は踊りは苦手だ」
広場では男たちが薪を積み上げ、焚き火の大きな塔を組んでいた。 「カイルさん、そっちの丸太を頼む!」 「ああ、任せろ!」カイルは軽々と太い丸太を肩に担ぎ上げ、村の若者たちから感嘆の声が上がった。 「すげえな、カイルさんは。そんなの俺たち三人でも音を上げるってのに」 「はは、昔取った杵柄ってやつだ」カイルは多くを語らず笑ったが、人々の輪の中で汗を流し、頼りにされることに確かな充足感を覚えていた。 だが、その胸の奥に、微かなざわめきが生まれていた。 (……頼られることの心地よさ。だが、どこかで剣の柄を探す癖が抜けないのは、なぜだ)無意識に指が腰の辺りに触れ、そこにあるはずの剣がないことに気づいて、彼はそっと指を握り締めた。 (俺はもう、英雄の剣を置いた。だが――)広場の反対側では、女たちが収穫した野菜や果物で料理を作り、子供たちは色とりどりの布をまとって踊りの稽古に興じていた。「ナフィーラさん、その香草の刻み方、本当にお上手だねぇ」
季節は移ろい、春の芽吹きはやがて力強い緑へと変わった。 陽光は大地を熱く照らし、昼の空気は草と土と川の匂いに満ちていた。 村の畑は豊かに実り、森は獣たちの息づかいで満ち、山々は夏の雲を頂に湛えていた。ある日の朝、太陽がまだ山の端に顔を出したばかりの頃、カイルは森へと入った。 「カイル、気をつけて」 戸口で見送るナフィーラに、彼は頷き返す。 「ああ。今日は大物を狙ってみる。夕飯はご馳走だ」 「ふふ、期待しているわ。でも、無理はしないで。あなたが無事に帰ってくることが、一番のご馳走なのだから」その言葉を背に、カイルは森の奥へと足を踏み入れた。 鳥のさえずりが薄明の静寂を破り、草いきれと湿った苔の匂いが彼を包んだ。 弓を引き絞り、息を止め、獲物を射止めるその一瞬だけ、彼の心に沈殿した呪いの疼きも、名もなき焦燥も、静かに消え去った。昼、ナフィーラは小屋の裏で草を刈り、畑に水をやり、収穫した野菜を抱えて戻ってきた。 「あら、ナフィーラさん。精が出るねぇ」 隣家の老婆が声をかける。 「こんにちは、マーサさん。ええ、この子たちが日に日に大きくなるのが嬉しくて」 ナフィーラは瑞々しいキュウリを一本、老婆に差し出した。 「よかったら、どうぞ。今朝採れたてなの」 「おやまあ、いいのかい? じゃあ、お返しにうちの卵を持っておいで。うちの鶏は村一番の卵を産むんだよ」そんなやり取りが、ナフィーラの世界を豊かに彩っていた。 頬には汗が光り、土で汚れた手には、力強い命があった。夕方、二人は村はずれの川辺に並んだ。 カイルが冷たい水でナフィーラの背を流し、ナフィーラはくすぐったそうに笑った。 「きゃっ! 冷たい! ……もう、カイルったら意地悪ね」 「はは、悪い。だが、気持ちいいだろう?」 「ええ、とても。でも、くすぐったいわ、カイル!」その声は川音に混ざり、森の静けさに溶けていった。 カイルはしぶきを上げて笑う彼女の姿に、思わず見とれていた。 その笑顔こそ、彼が命を賭してでも守りたかった光だった。(この日々が永遠なら……) そう願う自分に、安堵と戸惑いが混ざり合う。英雄であった自分、呪われた自分、そして今、ただ一人の男としての自分。 そのどれもが彼自身であり、心の中でせめぎ合っていた。「どうしたの? 難しい顔をして」 ナフィーラが心
荒野を越え、血と苦しみの逃避行の果て、二人はようやく小さな村にたどり着いた。 切り立った山々に囲まれ、世界から忘れ去られたかのような辺境の村だった。 村の外れにある打ち捨てられた小屋を借り、二人はひっそりと息を潜めるように暮らし始めた。 誰にも追われぬ平穏な日々が、ようやく訪れたのだ。季節は巡り、長く厳しい冬を越えて、再び春が訪れた。 雪解け水が小川のせせらぎを力強くし、風に乗って運ばれてくる湿った土の匂いが、生命の目覚めを告げていた。 芽吹きの風が、窓辺に立つ二人の頬を優しく撫でた。ナフィーラは、窓の外で少しずつ緑を取り戻していく大地を眺めていた。 その手は、冬の間にすっかり節くれだち、爪の間には消えない土の色が染み付いている。 かつて神に祈りを捧げ、聖油を塗り清められていた繊細な手は、今や鍬を握り、種を蒔くための逞しい手へと変わっていた。「カイル、見て。土がすっかり柔らかくなっているわ」 ナフィーラが振り返ると、カイルが優しい眼差しで彼女を見つめていた。「ああ。今日は種を蒔くのに良い日になりそうだな」 「ええ。今年は、あなたの好きなカボチャも植えようと思って」 「それは楽しみだ。君の作るカボチャのスープは絶品だからな」二人のささやかな会話。それが、どんな宝物よりも尊いと、カイルは心の奥で感じていた。ナフィーラは畑に出て、柔らかな土を踏みしめた。 神殿での暮らしは清浄で汚れを知らなかった。だが今は違う。 土の匂い、汗の塩辛さ、芽吹く若葉の力強さ――生々しく、現実の重みを持つすべてが、彼女にとってかけがえのないものだった。種を一つひとつ土に埋めながら、ナフィーラの祈りはもはや天には向かわなかった。 ただ、大地に根を張り、太陽の光を浴び、健やかに育ってほしいと願うだけだった。数日後、小さな双葉が土を割って顔を出したとき、ナフィーラの胸には、神から与えられる奇跡の光ではない、自らの手で育んだ生命のか細い輝きが、静かに広がった。「カイル! 芽が出たわ!」 弾んだ声に、薪を割っていたカイルが顔を上げ、二人は手を取り合ってその芽を覗き込んだ。「すごいな、ナフィーラ。君は土に愛されている」 「うふふ、そうかしら。でも、あなたが水を運んでくれたからよ」(私はいま、この人と、同じ大地の上で生きている。神殿の冷たい石の上ではなく、