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出会い

Author: 吉乃椿
last update Last Updated: 2025-06-01 19:18:32

エレベーターの扉が開くと、いつもと変わらぬフロアの空気が広がっていた。

それなのに、なぜか一歩踏み出すたびに、胸の奥がざわついて落ち着かない。

「おはようございます」

「おはよう、梨央ちゃん。……あ、今日から新しい人来るの、知ってる?」

隣を歩いていた総務の佐伯が、軽い調子で話しかけてきた。

「え、知らない……誰か移動してくるの?」

「うん、なんか本社から来たって。めっちゃ仕事できるらしいよ。有馬さんって人」

その名前を聞いた瞬間、

梨央の呼吸が、一瞬だけ止まった。

有馬――。

ただの名前なのに、耳に触れた途端、胸の奥が強く震えた。

(……なんで? どこかで……聞いた?)

記憶にはないのに、身体が先に反応している。

背筋に冷たいものが走り、喉が急に乾く。

「フルネーム、何て言ったっけ……あ、有馬真一さん?」

その瞬間、心臓がふっと掴まれたように跳ねた。

寒気とも違う、じんわりとした震えが背筋を伝っていく。

(……え? なんで……?)

目の前の彼の横顔。あの目元。あの雰囲気。

名前も知らない。初対面のはず。

なのに、どこかで確かに知っている気がした。

(さっき夢で見た……あの人と……)

記憶の断片が、視線の奥で繋がりかける。

あの夢に出てきた男。炎の中で剣を抜き、黙って私を見つめていた、あの人――。

(……似てる。信じられないけど、似てる……)

理解できない。説明もつかない。

けれど、魂の奥が、その瞳を覚えていた。

廊下の先、人だかりができていた。

「今日から来る人、イケメンらしいよ」

「元本社勤務とか……エリートだよね」

そんな声がひそひそと飛び交っている。

その中心に、彼はいた。

黒のスーツに身を包み、涼やかな目元と端正な横顔。

淡い微笑を浮かべながら、周囲の挨拶に丁寧に応じている。

ただ――。

その横顔を見た瞬間、梨央の心臓が、

ずん、と痛んだ。

呼吸が一瞬止まり、膝がふらつきそうになる。

脳裏に、炎に包まれた神殿が過った。

剣を抜く音、あの瞳、あの無言の悲しみ。

(……この人、知ってる)

そう思った自分に、梨央自身が一番驚いていた。

会ったことなどない。

なのに、視線がぶつかったその瞬間、胸の奥が苦しくて、痛くて、切なくてたまらなくなった。

彼もまた、一瞬だけ梨央のほうを見た。

ほんの一秒、その瞳が重なった気がした。

けれど彼はすぐに目を逸らし、別の同僚へと会釈を向けた。

(……夢の中で、何度も見た顔だ)

遠ざかる背中に、なぜか涙が出そうになる。

その理由を、梨央はまだ知らなかった。

けれど、魂はもう、再会の痛みを知っていた。

(……どこかで……聞いたことがあるような)

思い出せないのに、胸の奥がざわついてならなかった。

脳のどこかが、名前だけで警鐘を鳴らしている。

(気のせい……じゃない)

そう思えば思うほど、夢で見たあの瞳が、脳裏に焼きつくように浮かんだ。

まさか、あの夢と関係があるなんて……そんなはず、ないのに。

言葉にできない既視感。

夢の中で剣を抜いた“彼”の瞳が、まざまざと蘇る。

エントランスから続く空気が、妙に重たく感じた。

もうすぐ彼がそこに来る。

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