Mag-log inエレベーターの扉が開くと、いつもと変わらぬフロアの空気が広がっていた。
「おはようございます」
隣を歩いていた総務の佐伯が、軽い調子で話しかけてきた。
「え、知らない……誰か移動してくるの?」
「うん、なんか本社から来たって。めっちゃ仕事できるらしいよ。有馬さんって人」
その名前を聞いた瞬間、
有馬――。
ただの名前なのに、耳に触れた途端、胸の奥が強く震えた。
(……なんで? どこかで……聞いた?)
記憶にはないのに、身体が先に反応している。
「フルネーム、何て言ったっけ……あ、有馬真一さん?」
その瞬間、心臓がふっと掴まれたように跳ねた。
(……え? なんで……?)
目の前の彼の横顔。あの目元。あの雰囲気。
名前も知らない。初対面のはず。
(さっき夢で見た……あの人と……)
記憶の断片が、視線の奥で繋がりかける。
(……似てる。信じられないけど、似てる……)
理解できない。説明もつかない。
廊下の先、人だかりができていた。
その中心に、彼はいた。
黒のスーツに身を包み、涼やかな目元と端正な横顔。
ただ――。
その横顔を見た瞬間、梨央の心臓が、
呼吸が一瞬止まり、膝がふらつきそうになる。
(……この人、知ってる)
そう思った自分に、梨央自身が一番驚いていた。
会ったことなどない。
彼もまた、一瞬だけ梨央のほうを見た。
けれど彼はすぐに目を逸らし、別の同僚へと会釈を向けた。
(……夢の中で、何度も見た顔だ)
遠ざかる背中に、なぜか涙が出そうになる。
けれど、魂はもう、再会の痛みを知っていた。
(……どこかで……聞いたことがあるような)
思い出せないのに、胸の奥がざわついてならなかった。
(気のせい……じゃない)
そう思えば思うほど、夢で見たあの瞳が、脳裏に焼きつくように浮かんだ。
言葉にできない既視感。
夢の中で剣を抜いた“彼”の瞳が、まざまざと蘇る。
エントランスから続く空気が、妙に重たく感じた。
エルゼリアの懐妊は、カイルの世界を静かに、しかし決定的に塗り替えた。かつて彼を苛んでいた絶望や虚無感は、鳴りを潜めた。 代わりに彼の胸を満たしたのは、狂おしいほどの守護の意志と、燃え盛るような独占欲だった。「俺が、守る」彼は何度も、自分に言い聞かせるように呟いた。 エルゼリアを、そしてまだ見ぬ我が子を。 この腕の中にある小さな世界だけが、彼のすべて――それ以外は、排除すべき敵だった。その新たな「誓い」は、彼の力に恐ろしい変質をもたらした。奈落の力は、彼の強い意志に呼応し、より深く、より濃密な闇となって彼に流れ込んだ。 だが、それはもはや純粋な破壊の力ではなかった。 彼の独占欲を映し出し、触れるものすべてを支配し、変質させる――禍々しい呪いそのものだった。彼が歩けば、足元の草花は生命力を吸われたように黒く枯れ果て、 彼が湖の水を覗き込めば、水面は鏡のように光を失い、濁った沼と化した。森の動物たちは彼の気配を恐れ、鳴き声ひとつ上げることもなく姿を消した。 かつて生命に満ちていた迷いの森は、カイルの歪んだ愛を体現するかのように、静かで不毛な「彼の領域」へと変貌していく。かつて、どんな絶望の中でも人々の希望となっていた彼の手が、 今はただ、命を枯らす黒い炎となって森を焼いていた。そして――彼自身も、その変化に気づいていた。だが、彼はそれを意に介さなかった。むしろ、心地よいとさえ感じていた。この静寂こそが、二人と一人の聖域を守る結界。 この枯れた大地こそが、誰にも侵されない安息の揺りかご。「どうした、カイル? 難しい顔をして」エルゼリアが、彼の背中にそっと寄り添う。 彼女の存在だけが、このモノクロームの世界で唯一、鮮やかな色彩を放っていた。「……いや。この森が、静かになったと思ってな」カイルは振り返り、愛おしげに彼女の頬を撫でた。 その指先から放たれる微かな闇の波動に、エルゼリアが気づくことはない。「ええ、そうね。でも、私はこの静けさ、好きよ。 あなたと、この子と、三人だけでいられるのだもの」彼女は幸福そうに微笑み、カイルの胸に顔をうずめた。その無垢な言葉が、カイルの心をさらに奈落へと突き落とす。(そうだ。これでいい。これが正しいんだ)彼の瞳の奥で、かつての英雄の光は完全に消え失せ、底なしの闇だけが揺らめいてい
リアムとセイ=ラムが森の闇に消えた後、湖畔には重たい沈黙だけが残されていた。冷たい空気を裂くように、カイルはゆっくりと振り返り、震えるエルゼリアをそっと後ろから抱きしめた。その腕の力は、たしかに優しかった。かつて彼女が安らぎと感じた、あの包容と同じはずだった。「……もう大丈夫だ」けれど、その腕はもう、彼女にとって安息ではなかった。まるで逃がさないと囁くように、静かに締め付ける――鎖のような重さ。彼の胸に耳を当てると、焦りを孕んだ鼓動が、エルゼリアの魂に刺さるように響いてくる。目には見えない小さな亀裂が、二人の間に静かに生まれていた。夜。焚き火のそば、エルゼリアは静かに口を開いた。「カイル……」思いがけず、落ち着いた声が自分の口から出ていた。「あの、光の剣を持った人は……本当に私たちの敵なのでしょうか?」カイルの肩が、かすかに強張った。「……そうだ。奴らは神々の尖兵だ。俺からお前を奪い、偽りの秩序の中に閉じ込めようとする」エルゼリアは首を横に振った。「でも……あの時、あなたの纏う闇が、一瞬だけ揺らいだように見えたの。まるであなた自身が……苦しんでいるみたいに。カイル、あなたは一体、何と戦っているの?」その言葉は、刃のようにカイルの胸を貫いた。彼は一瞬、答えを失い、視線を逸らす。だがすぐに、冷たく硬い仮面を被り直した。「お前は、何も知らなくていい。ただ……俺に守られていればいいんだ」彼のその声は、問いへの答えではなかった。それは懇願であり、呪いであり、彼自身の魂を繋ぎ止めるための唯一の祈りだった。そしてその夜――エルゼリアは、彼の腕の中で疑念が溶けていくのを感じていた。真実も、正義も、どうでもよかった。この腕の中がすべて。この人がいる場所が、自分の世界のすべてだった。彼の背にそっと腕を回し、彼女は自らを捧げるように、その愛を受け入れた。たとえその先が、光のない奈落の底だったとしても。カイルは、その儚い存在を壊してしまいそうなほど強く抱きしめ、唇を求め、肌を重ね、魂ごと喰らい尽くすようにエルゼリアを愛した。彼女は、その激しさに身を委ねながら、微かな違和感が胸の奥に残っていることに気づいていた。――これは、ほんとうに“守られている”感覚なのだろうか?その問いは、快楽に溶けるように霧散した。けれどその夜、彼女
迷いの森の中心、霧が淡くたゆたう湖畔。それまでエルゼリアに穏やかな視線を向けていたカイルの表情が、凍り付いたように変わった。彼の腰に佩かれた剣が、鞘の中で高く澄んだ音を立てて鳴いた。「来たか――」湖の水面が風もなくさざ波立ち、森の空気が鉄の匂いを帯びていく。それは神聖なる者が放つ、紛れもない神意の波動だった。「カイル……?」不安げに立ち上がるエルゼリアを、カイルは背後から強く抱き寄せた。「大丈夫だ。誰がお前を奪いに来ようと、俺が全てを斬り捨てる。俺だけを信じろ。俺だけが、お前を守れる」その言葉に、彼女は何も言わず、ただ小さく頷いた。だがその胸の奥、どこかにわずかな震えがあった。愛と呪縛――
王都アストリアから東へ数日の距離にある、広大な「迷いの森」。 その森の入り口に、二つの異なる勢力が、期せずしてほぼ同時に到着していた。 【ガイウス率いる王国軍】 森の南側。陽光が届く開けた街道に、王国騎士団を主軸とした大規模な軍勢が陣を敷いていた。掲げられた旗は、王家の紋章。しかし、その軍を支配する空気は、正義のそれとは程遠い、欲望と焦燥に満ちていた。 「まだ見つからんのか! 奴らはこの森のどこかにいるはずだ!」 陣の中央で、豪華な装飾鎧に身を包んだガイウスが、地図を睨みながら斥候に怒鳴りつけていた。彼の野心は、日ごとに膨れ上がっていた。魔女を手に入れ、その力を独占し、病床の王に代わってこの国を掌握する。その輝かしい未来予想図が、彼を焦らせていた。 「しかし、ガイウス様。この森は古くから『神隠しの森』と呼ばれ、一度入れば二度と戻れぬとの言い伝えが…」 古参の騎士が懸念を口にするが、ガイウスはそれを鼻で笑った。 「臆したか? 迷信に怯える腰抜けは、ここで王の帰りを待っているがいい! 功名を立てる好機を逃すことになるがな!」 ガイウスは、兵士たちに向かって高らかに宣言した。 「聞け、者ども! この先に、国を裏切った逆賊カイルと、災いを呼ぶ魔女がいる! だが、恐れるな! あの魔女を捕らえた者には、望むだけの金銀財宝と地位を約束しよう! 陛下の御名において、私が保証する!」 金と地位。その言葉に、兵士たちの目がぎらついた。彼らの多くは、騎士団の誇りよりも、目先の報酬に心を動かされる傭兵上がりの者たちだった。士気は、歪んだ熱狂によって高まっていく。 彼らにとって、これは聖戦ではない。一攫千金を狙う、宝探しのための戦争だった。 【リアムとセイ=ラム】 一方、森の西側。古木が鬱蒼と茂る、獣道さえない場所に、二人の人影があった。 リアムと、彼の師であるセイ=ラム。 リアムは、息を殺して森の奥の気配を探っていた。セイ=ラムとの地獄のような修練を経て、彼の五感は人間を超えた領域にまで研ぎ澄まされていた。 「…南の方角から、大軍の気配がします。かなりの数です」 リアムの報告に、セイ=ラムは静か
ナフィーラの魂が北の聖地で覚醒の光を放った頃、王都アストリアは、静かだが確実な腐敗の渦中にあった。リゼア=アナが撒いた「堕ちた騎士」と「奇跡の魔女」の噂は、人々の恐怖と欲望を煽り、一つの大きな悲劇を生んでいた。騎士団長バルトロムが、堕ちた英雄カイルに討たれたという衝撃的な事件。それは王国の守りの要である騎士団の権威を失墜させ、王都に不穏な空気を蔓延させていた。【王城・玉座の間】玉座の間では、野心が鈍い光を放っていた。 騎士団長の後釜を虎視眈々と狙う貴族騎士、ガイウス。彼は、病弱な国王の前で恭しく膝をつき、その舌で巧みに恐怖と希望を編み上げていた。「陛下、バルトロム卿の無念、必ずやこのガイウスが晴らしてご覧にいれます。しかし、かのカイルが連れる魔女は、ただの災厄ではございません」ガイウスは、リゼア=アナが夢で囁いた言葉を、さも自分が得た情報であるかのように語る。「噂によれば、その魔女は死者さえ蘇らせるとも言われるほどの、奇跡の治癒の力を持つとか。もし、その御力を王家のものとできれば、陛下の御心の安寧は、未来永劫続くことでしょう」その言葉に
ナフィーラが、愛した村と愛した人の背中を同時に失ったのは、まだ春の香りが風に名残をとどめていた頃だった。カイルを逃すため、彼女は自ら村人の非難を受け入れた。 その沈黙の圧力が、彼女を門の外へと押し出す。彼らが消えた森とは反対の、北へと続く荒野。 誰もいない、風の音すら寂しげな道を、彼女は一人で歩き始めた。最初の数日は、何も感じなかった。 石の硬さも、風の冷たさも、自分の鼓動さえも、まるで他人のもののようだった。思考を手放し、ただ夜が来れば眠り、朝が来れば歩く。 心は、厚い氷に閉ざされた湖面のように、静まり返っていた。カイルの最後の瞳に、自分の姿はもう映っていなかった―― その事実だけが、無音の幻影として、何度も再生された。泣くこともできなかった。 涙も、嘆きも、神への祈りさえも、この空虚な心の前では無力に思えたからだ。荒野を越え、やがて彼女は人の気配のない北方の古の森へ辿り着いた。そこは「観月の森」と呼ばれ、かつて月の女神セレイナに捧げられた“観月の祭壇”が存在したという伝承が残る地だった。森はまるで、世界の原初の静寂をそのまま閉じ込めたような場所だった。 苔むした巨木が空を覆い、木漏れ日がまだら模様を地面に描く。風さえも、神聖な囁きのようだった。彼女はその中心、静かな湖のほとりに、小さな庵を築いた。 朽ちた枝、蔓、落ち葉……森の中にあるものだけを使い、祈るように住処を編んでいく。日中は薬草を摘み、夜は湖に映る月を見つめる。 けれどその祈りは、もはや誰かのためではなかった。それは、魂への問いかけだった。「私は、何者だったのか」「なぜ、あれほどまでに彼を愛したのか」 「なぜ、最後の夜に、あの背中を引き止めなかったのか」彼の無事を祈る気持ちと、裏切られた傷に囚われる心。 そして――「彼を赦したいと思ってしまう自分を、どうしても赦せない」その矛盾が、祈りというより自責の念として彼女を苛んだ。「私はまだ……光の巫女でいていいのでしょうか……?」季節は静かに巡り、森は紅に染まり、やがて白い雪に覆われた。 心は摩耗し、感情は鈍くなり、命の光すら、胸の奥で弱まりつつあった。それでも、彼女は生きていた。そして、冬の最も厳しい、ある満月の夜。湖に厚い氷が張り、澄み切った銀の月が、まるで巨大な瞳のように、静まり返った森
ナフィーラは静かにエイルの手を取った。その手は冷たく震えていたが、確かに“希望”を握って戻ってきたのだ。「ありがとう、エイル。……あなたでなければ、見つけられなかった光です」ナフィーラの声は凛としていた。だが、その瞳の奥には、深い哀しみと、それを上回るほどの決意が宿っていた。彼女は立ち上がると、祈りの間の奥へと歩を進める。そこには、歴代の巫女でさえ、生涯で一度触れるかどうかも分からない、禁断の「観月の祭壇」へと続く封印の扉があった。「……ナフィーラ様。まさか、“あれ”を――」 エイルの声が、驚愕に震える。ナフィーラは静かに微笑むと、まっすぐ前を見据えた。 「巫女としての私が
ナフィーラの祈りが天に届き、神々の新たな試案が動き出した頃。“堕落の次元層”から現実世界へと滲み出たカイルは、夜の闇に紛れ、かつて自らが守護したはずの王都に立っていた。彼が最初に向かったのは、セナトラ神聖騎士団への寄進も多く、カイルを「王都の英雄」と公然と讃えていた豪商の屋敷だった。夜会が開かれているのか、窓からは明るい光と楽しげな音楽、そして人々の笑い声が漏れ聞こえてくる。以前の彼ならば、その平和な光景に安堵し、静かにその場を去っただろう。だが、今のカイルの耳には、その全てが自分を嘲笑う不快な騒音にしか聞こえなかった。(俺が血を流して築いた平和の上で、何の苦労も知らずに笑う者ども
その狂的な叫びを聞き、リゼアは満足げに微笑んだ。 「ええ、それでこそ私の騎士よ。さあ、行きなさい。その剣で、あなたの望む全てを蹂躙し、支配するの。それが、あなたが私に捧げる、最高の愛の証」リゼアに背中を押され、カイルは一歩、現実世界への干渉へと踏み出した。 彼の魂はもはや、光の神々の声が届かぬほど深く、暗い欲望の泥沼に沈んでいた。 戦神の誇り高き騎士は、今や欲望の神に身を捧げ、支配を渇望するだけの、哀れな堕落者へと成り果てていた。 その瞳に、かつての理性の光はどこにもなかった。――その頃。祈りの間に膝をついたナフィーラは、ふと息を詰まらせた。 絞り出した声は、誰に届くでもなく
光が消えた。常に魂の隣で感じていた温かな盾が、まるで存在しなかったかのように消え去った。ナフィーラの世界から、守護という概念がごっそりと抜け落ち、代わりに吹き込んできたのは、肌を刺すような絶対的な孤独と、底知れぬ不安だった。彼女の清らかな魂に刻まれた契約の紋様が、黒い炎に焼かれていく。その痛みは、カイルが今、魂の対価としてどれほど甘美な毒を受け入れているかを、残酷なまでに彼女に伝えていた。「どうして……カイル……」その問いかけは、もはや悲痛な叫びですらなかった。ただ、理解を超えた現実に打ちのめされた、虚ろな呟き。二人が共に紡いできたはずの誓いは、あまりにも脆く、儚く散った。――そして







