シーツにはまだ、小阪の体温が残っていた。
ぬるく湿った跡が、河内の指の腹に絡みつく。仰向けに寝たその輪郭だけがくっきりとベッドの片側に刻まれていて、それがもうすぐ乾いて消えてしまうことに、妙な焦燥感を覚える。少しでも長く残っていてくれと願いながら、河内はそこにそっと腰を下ろした。窓の外は、薄桃色の朝焼けに染まりかけている。カーテンの隙間から差し込む光が、床に長い影を落としていた。音はなかった。テレビもつけていない。カーテンの布が、わずかに揺れる音だけが耳の奥で響く。
小阪の匂いがまだ部屋のどこかに残っていた。いつも身につけているあの伽羅の香り。線香とも香木ともつかない、湿った土と燻された煙のような重たく甘い匂い。香水のように主張はしないが、確実に残る。河内はその香りを吸い込んだ瞬間、昨日の夜、指先がなぞったあの冷たい皮膚の感触が蘇るのを感じた。
空になったグラスが、ナイトテーブルの上に置かれている。氷はすっかり溶けて、薄まったウイスキーの香りすら漂ってこなかった。河内はそのグラスを取り上げ、縁を親指でなぞった。小阪がそこに口をつけていたのか、それとも違うグラスだったのかは、もう確かめようもなかった。
なぜ、何も言わなかったのか。
なぜ、涙を流したのか。そしてなぜ、何も聞かずに部屋を出ていったのか。問いは山ほどあるのに、どれも言葉にならなかった。喉元まで上がってきても、舌に乗せた瞬間、崩れてしまう。河内はベッドの端に腰を掛けたまま、ゆっくりと息を吐いた。
ふたりの間に、確かに交わされた行為があった。肌が触れ合い、深く満たし、快楽が頂点まで達したはずだった。それでも、あの夜のすべてが“虚”だったような感覚だけが、今も胸の奥に残っている。小阪は、身体を差し出した。それだけだった。
言葉も、感情も、微笑みさえもなかった。まるで何かを差し出すことで、自分の存在を消そうとしていたかのように、沈黙のまま差し出してきた。それを受け取った自分は、いったい何をしていたのか。慰めたかったのか、支配したかったのか、それともただ…愛された午後三時を過ぎたあたりで、オフィスの空気がわずかに緩んだ。会議の合間、資料のやりとりも一段落し、どこかぼんやりとした倦怠感が漂う時間帯。河内はデスクを離れ、エレベーターホール横の喫煙所に足を運んだ。喫煙室の扉を押すと、ガラス越しに外の薄曇りの空が覗ける。雨上がりの午後、湿った空気が僅かに煙と混じる。河内はポケットから煙草を一本抜き、指先でフィルターを弄びながら火を点けた。ジッポの金属音が密閉された空間にカチリと響き、しばらくぶりの煙が肺の奥をじんわり満たしていく。いつもより重く感じる一口目を吐き出し、ガラスに背をもたせたまま深呼吸をする。ふいに、背後の自動ドアが静かにスライドした。誰かが入ってきたのを感知する。だが、この時間帯は利用者も少ない。視線を上げぬまま無意識に自分の存在を消すように壁に寄る。そして、ドアの脇をすり抜けてきた足音。そのリズムと、音の軽さに心当たりがあった。河内は反射的に、手の煙草を握りしめた。視界の端に、小阪の姿が映る。黒のパンツに、柔らかそうなシャツ。ポケットに片手を差し込んだまま、目線を足元に落とし、河内の存在を意識しながらもあえて目を合わせようとしない。どちらからも言葉が出なかった。だが、その沈黙のなかに、先ほどまでデスクで感じていたピアスの黒い点が、脳裏にまたよぎった。小阪はポケットから煙草の箱を取り出す。左手で箱の蓋を開け、右手で一本抜く。その一連の動作が、想像していたよりも滑らかで自然で、どこか無意識に体に馴染んでいるように見えた。先ほどまでの、デスクで仕事に没頭していた静かな横顔とはまた別の、生身の仕草。火を点けるために顔を少し下げたとき、顎のラインがふっと陰に沈む。ライターの火が一瞬だけ小阪の頬を照らし、その輪郭がわずかに緩む。煙草の先に火が灯り、吸い込む音が微かに響く。河内はその仕草を、意識せずにはいられなかった。こいつ、こんな顔で煙草吸うんや。意外なような、けれど妙に納得できるような感覚。どこか、違う場所で見ていたはずの小阪の一面に
午後のオフィスは、窓から差し込む光が少しだけ傾き始める時刻だった。蛍光灯の白い明かりと外の淡い陽射しが入り混じり、デスク上の書類やパソコンの画面に淡い影を落としている。河内は手元の資料をまとめ、確認のためにデザインチームの島へと向かう。この時間帯は決まって静かだった。各自がそれぞれのモニターに向かい、イヤホン越しに小さく音楽が漏れる。人の気配も、声も、午前よりずっと抑制されている。小阪のデスクは島の端、窓に一番近い場所にあった。パーテーションの低い背後から近づくと、彼の後ろ姿が視界に入る。相変わらず背筋が真っ直ぐで、どこか浮世離れした静けさを漂わせていた。そのまま小阪の横を通り過ぎようとしたとき、ふとした角度で、彼の左耳に小さな黒い点が見えた。ピアスだった。それは、照明の光を吸い込むような、深い黒。わずかに艶があり、シルバーの縁取りがごく細く光る。主張しすぎず、それでいて妙に目を引いた。まるで夜の欠片が、耳の端に残ったみたいに見える。河内は一瞬、立ち止まってしまいそうになった。あの夜、小阪の顔しか見ていなかった。唇の震えや、涙の線、汗の滲む頬や、黙ったままの目の奥ばかりを追いかけていた自分を思い出す。ピアス。あの夜、きっと同じ場所に、同じものがあったはずだ。なのに、気づいていなかった。何故今になってこんなにも鮮烈に、脳裏に焼きつくのか。それは単なる“装飾”という以上に、何か小阪の一部のように感じられた。耳たぶにぴたりと張りついた黒い点。その小さな存在が、どうしようもなく、河内の意識をかき乱した。書類を渡すために一歩近づく。小阪は画面から目を離さず、右手でペンを動かしていた。ふとした拍子に髪が動き、ピアスが微かに揺れる。照明の光が反射し、ごく短い時間だけ銀色が滲む。河内は無意識に、指がかすかに震えているのを感じた。仕事のふりをして、ただ資料を置くだけ。そのはずなのに、身体の内側ではまるで違う記憶が蘇っていた。ピアスの形、その黒さ、その小さな
社内の時計が午後六時を指しかける頃、ミライズ・クリエイションズのフロアにはゆるやかな緩みが訪れ始めていた。打ち合わせの資料をまとめる音、パソコンのキーボードが打ち込まれる音も、少しずつ間延びし、帰り支度を整える足音がどこからともなく聞こえてくる。河内は自席に戻り、背もたれに体をあずけると、天井の照明越しに窓の外を見やった。高層ビルの隙間から覗く空は、夕焼けが濃くなり始め、灰色と朱の中間でゆっくりと夜に溶け込んでいく色をしていた。その色が、なぜか胸の奥を締めつけた。──週末と、今日を隔てるものは何やったんやろ。視線はぼんやりと外に向けながら、内側の声だけが鮮明に響いていた。ホテルの部屋で交わったあの夜。何も言わずに、小阪は出ていった。その背中を追うこともできなかった自分が、こうしていつもの席に座っている。何も変わっていないように見える。周囲は笑い、誰かが「今日飲みに行きませんか」と声を上げ、また誰かが「明日の資料、頼んどいていい?」と返している。それが“平常”で、社会人としての正しさだとすれば、河内はもう、どこに自分の居場所があるのかすら曖昧だった。近づいたはずだった。けれど、近づいた“つもり”になっていただけだったのかもしれない。「……ほんまに、おれらは、まだ何も始まってへんのかもな」呟いた言葉は、もちろん誰にも聞かれていない。そして、聞かれてはいけない。ここは職場であり、恋愛の場所ではない。でも、それでも胸に残る何かを、無視できるほど器用にもなれなかった。向かいの島で、小阪の姿がふと立ち上がるのが見えた。PCの電源を落とし、資料を整理し、カバンを肩に掛ける。背筋を伸ばし、足早に出口へと向かう姿には、迷いも逡巡も感じられなかった。けれど、河内の目には、その背中が妙に小さく見えた。誰にも気づかれないように、まるで空気に溶け込むようにして姿を消していく。そ
午後一時を少し過ぎた頃、フロアには昼食から戻った社員たちのざわめきが戻り始めていた。机上の書類がめくられ、プリンターが断続的に音を立て、空調の吹き出し口からは涼やかな風がひんやりと肩先を撫でていく。河内は、手に資料を数枚抱えて、クリエイティブチームの島へと足を運んでいた。業務連絡の名目があるにはあったが、実際は理由にならない理由を自分で用意したようなものだった。胸の奥にくすぶる“気になる”という感情を誤魔化すには、仕事という仮面がちょうどよかった。島に足を踏み入れた瞬間、空気の密度がわずかに変わったように感じられた。声をかけるまでもなく、彼の視線は小阪を探していた。その姿はいつもの位置にあった。右手にマウス、左手に資料。背筋を伸ばし、肘の角度も無駄がない。真横から見える顔は淡白で、彫刻のように無機質な静けさをまとっていた。だが、そのときふと、小阪が視線をこちらに向けかけた。ほんの一瞬。けれど確かに、河内の存在を認識した視線だった。その瞬間だった。河内の目に、小阪の耳元でわずかに揺れる黒い光が映った。耳たぶに添うように、さりげなくつけられた小さな黒いスタッズピアス。ごく細い縁に、かすかに銀のラインが縁どられている。──あの夜、気づいていなかった。視線がそこに吸い寄せられる。柔らかな髪が少しだけ動いたとき、照明の光がそのピアスの縁に当たり、ごく短く輝いた。まるで、そこだけが夜の名残を秘めたような、無言の装飾。河内は、一歩足を止めた。資料を持ったまま、その場に立ち尽くしていた。心臓が、音を立てて打った。ほんのわずかに、喉が乾く。──なんやねん、それ。そんなふうに思ったのに、口に出すことはできなかった。言葉にした瞬間に、なにかが壊れる気がした。言葉は境界だ。踏み越えれば戻れない。「そのピアス、似合ってんな」そう言いかけた。だが、唇はそのまま閉じたままだ
オフィスの時計が正午を指した瞬間、フロアの空気が一気に緩んだ。キーボードを叩く音が少しずつ減り、電子レンジの稼働音や紙袋のシャカシャカという音が代わりに広がっていく。誰かの笑い声が会議室の方から洩れ聞こえ、空調の風音がその隙間を縫って低く唸った。河内は、自販機の前に立ち尽くしていた。紙コップのコーヒーから立ちのぼる湯気を見つめながら、浅い呼吸を何度も繰り返す。眠っていないような感覚が、まだ背中のあたりに張り付いていた。あの夜の、無音のまま絡み合った身体と、朝のドアが閉まる音。どこを切り取っても、感触だけが鮮明に残っていて、記憶の奥がずっとざわついている。カップを口に運びながら、自販機横の小さなスペースに背を預けた瞬間、廊下の向こうから軽い足音が聞こえてきた。何気なく顔を上げたその先に、見慣れた細身のシルエットがあった。小阪だった。黒のシャツに、耳にはイヤホン。歩幅は一定で、姿勢は崩れず、誰とも視線を交わさないまま、真っ直ぐこちらに近づいてくる。河内は反射的に声を出しかけた。「なあ──」けれど、声は半分で止まった。喉の奥に何かが詰まり、呼び止めるには弱すぎたその一音は、空気に溶けていった。小阪は立ち止まらなかった。こちらを見ることもなく、すれ違う寸前にイヤホンのコードを指先で無意識になぞっていた。白く長い指が、線の先をゆっくりとたぐる仕草。それが妙に幼く見えて、河内の胸に引っかかる。すれ違いざま、ふと微かに、香が鼻をかすめた。伽羅。あの夜と同じ匂い。湿った木のような、熱を孕んだ香り。微かで、だが確実に、肌の裏側に触れてくるようなその残り香に、河内の指先が小さく震えた。思わずコーヒーのカップを握りしめた。液体が少し溢れ、熱が手のひらを掠める。舌打ちをこらえながら、自販機横のゴミ箱へと投げ捨てた。カップが内側にぶつかって響いた音が、周囲のざわめきとは異質に感じられた。小阪の背中
月曜午前九時半。クリエイティブ第三チームの定例ミーティングが、会議室の奥で始まった。ガラス張りの壁越しに外の光が差し込んで、ホワイトボードの端にうっすらと影を落としている。葉山が、資料をタブレットでスクロールしながら淡々と議題を読み上げていく。声は落ち着いていて、口調はいつもと変わらない。「じゃあ、今週の進行確認入ります。プロジェクトA、ビジュアル案、更新来てたよね」「はい。修正案、先ほどスライドに反映しました」小阪の声が、穏やかに響いた。一言のみ。静かで、透明で、温度のない声だった。小阪はスクリーンに資料を映し出し、レーザーポインターを持って立ち上がる。スライドの切り替え、デザインの説明──どれも必要最小限の言葉で進む。説明の途中も、目線は決して誰かに触れようとはしなかった。河内は、その横顔ばかりを見ていた。指先の動き、資料を送るタイミング、スライドの背景色に光を吸われる頬の輪郭。すべてが整いすぎていて、逆に痛い。まるで感情を塗りつぶすために“完璧”を装っているようだった。この三日間、何があったのか。あるいは“なかったこと”にされたそれは、一体、どこへ消えたのか。「…そんで、木曜までにパターンAとB、両方クライアントに出す形でええな?」葉山の確認に、小阪がうなずく。「はい、問題ありません」河内はその返事に遅れて相槌を打ちかけたが、ほんの一瞬、言葉が詰まった。──問題ない、って。何が。誰にとって。自分が何を言いたいのか、すぐにはわからなかった。ただ、胸の奥に何かが引っかかったまま、口を開けないまま黙った。「タク、そっちはどう?」「…あ、うん、営業側は先方と調整済み。スケジュールもこの通りで通ると思う」慌てて返しながら、視線を逃がすようにタブレットを見た。そのとき、向かいに座っていた森の視線がふと、小阪へ向けられたのを感じた。森──ディレクター職、三十一歳。小阪とは美大の同