玲奈は一瞬だけ言葉を失い、それから淡々と告げた。「あなたが何をしたいかは、あなたの勝手よ。私に相談する必要なんてない」智也が言葉を継ぐ前に、玲奈は通話を切った。スマホを握りしめたまま、ソファに腰を落とし、しばらく呆然と座り込む。ほどなくして画面が光り、着信が入った。智也かと思えば、表示された名は――昂輝。「昂輝先輩」電話を取る声を、できる限り平静に装う。彼は玲奈の沈んだ気配に気づいたが、何も聞かずに提案した。「明日は土曜だろ。一緒に図書館へ行かないか?」玲奈は拒まなかった。「ええ、何時に?」「十時に」「分かったわ」彼女は大学院受験を控えていた。だがこのところ愛莉の病気で勉強が滞っていた。今なら娘はいない。久しぶりに腰を据えて勉強できる――そう思った。翌朝、早くから身支度を整え、図書館へ向かう。図書館には昂輝がすでに待っていた。一緒に勉強するとはいえ、彼は自分の時間を割いて、玲奈の質問に答え、要点を丁寧に解説してくれた。昼食は軽く外で取り、午後も再び勉強。だが夕方五時、病院から緊急手術の連絡が入り、昂輝は慌ただしく戻ることになった。彼が去ったあとも、玲奈は一人で勉強を続け、ようやく目が霞んできたころ、外はすっかり暗くなっていた。荷物をまとめ、駐車場で自分の車に乗り込む。エンジンをかけようとした、そのとき。助手席から低い声が響いた。「どうして、俺がやった贈り物を突き返した?」心臓が跳ね、玲奈は振り向いた。拓海の鋭い眼差しが闇の中に浮かんでいた。「......ど、どうやって車に?」震える声を押し出す。答える代わりに、拓海は身を寄せ、手を伸ばして彼女の手首を掴む。ぐいと引き寄せられ、簡単に間合いを奪われた。至近距離。互いの息遣いが混じり合い、甘く曖昧な気配に包まれる。玲奈の睫毛が小刻みに震える。拓海の目は深い闇を宿し、その震えを追いかけるように彼女を見つめた。声はかすれ、低く押し殺されている。「答えろ。どうして返した」恐ろしいほどの迫力を持つ男が、彼女の瞳を覗き込んだ瞬間、力を失ったように手の力を緩める。眉を寄せた玲奈の顔を見て、痛ませたと悟ったからだ。彼女は軽く身を捩ったが、逃れることはできない
一華の茶化すような言葉に、玲奈の耳が赤く染まった。「一華、冗談はやめて」肘で軽く小突き、真剣な顔をする。彼女が生真面目なのを分かっていても、一華はつい諭すように言った。「でもさ人間、一人に固執してちゃ、人生面白くないでしょ。智也がダメなら、別の誰かを試したっていい。人生は一度きりなんだし、しかも先に裏切ったのはあっちじゃない」玲奈は唇を結び、無理に笑みを作った。「......もう、その話はやめましょう」それ以上、一華は追及せず、話題を切り替えた。二人はまた少し街を歩き、久我山の名物を食べ歩いた。夜十時近くになると、一華が「疲れたからホテルに戻る」と言い出した。玲奈はホテルまで送った。降りる直前、一華がふと思い出したようにバッグを探り、小さな包みを取り出す。「はい、これプレゼント。もうすぐ誕生日でしょ?」受け取った瞬間、玲奈の目が潤む。「......ありがとう、一華」智也と結婚してから、玲奈は実家との縁を断たれていた。毎年、唯一誕生日を覚えてくれているのは綾乃だけ。密かにメッセージと振り込みをくれたが、それも家族のように祝うものではない。もう何年も誕生日らしい誕生日を迎えていない。今年も、一華に言われなければ忘れていただろう。あと数日で二十七歳になるのだ。一華は彼女の胸の内を察し、そっと抱きしめた。「もっと自分を大事にしなきゃ。気にする価値のない人間のために、心をすり減らす必要なんてないのよ」玲奈は肩に顔を埋め、小さく「......うん」と答える。しばし沈黙ののち、ふと思い出したように尋ねた。「そういえば......昂輝先輩も久我山にいるのよ。会いに行かないの?」一華の笑みが消え、首を横に振る。「いいの。だって、前に告白して振られたこと、まだ忘れてないから」大学五年の実習のとき、一華は昂輝に想いを告げた。そのことを知っている数少ない人物の一人が玲奈だった。昂輝は「恋愛するつもりはない」とはっきり断った。それ以来、一華は彼に連絡していない。「そう。じゃあ無理には勧めないわ」車を降りた一華は、立ち止まって玲奈に微笑んだ。「帰りは気をつけてね。着いたら連絡して」玲奈が小燕邸に戻ったのは、夜の十一時。愛
智也の言葉に、玲奈は怒りを覚えた。だが、もはや言い合う気力も残っていなかった。「いらない」短く答え、ためらいもなく通話を切った。そばにいた一華は、一部始終を聞いて顔をしかめる。「何あのクズ男!ここまでされても、まだ離婚しないの?」玲奈は掠れた声で答えた。「......もうすぐよ」一華はますます腹を立てる。「愛人の誕生日に何千万も花火を上げて、贈り物だって桁違い。一方で、あなたが娘の服に数百万円使おうとしただけで口を出すなんて!どうしてあんな奴、罰も受けずに平然と外を歩けるのかしら!」玲奈は胸の奥に失望と痛みを抱えていた。けれども、それすらも習慣になってしまった。「一華......私が買わなければ済む話よ。あなたが怒ることじゃない」一華は納得できず、拳を握りしめる。「本当にあのクズ、ぶっ潰したい!」玲奈は彼女の手を取って、静かに宥めた。「もういいの。そんな価値もない」――こんなこと、これが初めてではない。いちいち怒っていたら、とっくに憎しみに呑まれていただろう。一華は悔しさを滲ませながら言った。「玲奈......あなたはあんな男のせいで学業を棒に振って、自分を犠牲にして。あの頃は学年一位の成績で卒業したのに、今じゃ最下層の医師扱い。私でさえ産婦人科の執刀医になったのに、あなたがこんな境遇だなんて」玲奈は俯き、静かに答えた。「......必ず学業を取り戻すわ」一華は信じていた。玲奈ならきっとやり直せる。けれど、結婚のために失った五年間――誰が償ってくれるのだろう。二人は再び子ども服売り場へ戻った。玲奈が選んだ商品は、まだレジ脇に置かれていた。店員が気づいて近寄る。玲奈は申し訳なさそうに口を開いた。「すみません、さっきの品は......」「不要です」と言い切る前に、背後から低く響く声がした。「全部包んでくれ」振り返った瞬間、玲奈の目に飛び込んできたのは、黒いトレンチコートに身を包んだ拓海だった。彼の最も好む色――黒。荒々しい雰囲気をまといながらも、その整った顔立ちが野性味を打ち消していた。拓海は口元に笑みを浮かべていた。挑発的で、傲慢なほどの笑み。玲奈は眉をひそめる。「必要ないわ。もうい
子ども服売り場に足を踏み入れると、玲奈は夢中で愛莉の洋服を次々と手に取った。一華はその様子を見て、思わず口を開く。「そこまで娘さんに尽くすより、自分にもう少し使ったら?」玲奈は淡く微笑み、静かに答える。「......今回が最後かもしれないもの。次に買えるのがいつになるかも分からないわ」それ以上、一華は強く言えず、ただ根気よく付き添った。いくつもの袋いっぱいに選んだあと、ようやくレジへ向かう。店員が品物をまとめ、金額を告げた。「百七十六万円です」玲奈は一瞬だけ驚いたが、特に疑問は抱かなかった。ここは高級ブランドの子ども服売り場。品質は良いが、その分値も張る。愛莉を育ててきた数年間、彼女は何度もここで買い物をしてきた。少なくて数十万円、多いときは一度に数百万円。慣れている金額だった。まして智也は専用のカードを渡しており、毎月のように振り込みもしていた。「娘のために使え」という意味だと分かっていた。最初のうちは残高を気にしたこともあった。だが、一度に千万円単位で入金されるので、使い切ることなどなかった。そのうち確認すらしなくなった。一華は値段に目を丸くしたが、すぐに思い直す。智也の妻と娘なら、使う物が高級でも当然。――そういう生活なのだ。玲奈はバッグからカードを取り出し、店員に差し出す。「暗証番号は****です」店員がカードを通す。だが、表示されたのは「決済不可」の文字。玲奈は耳に飛び込んだ機械音に、思わず固まった。店員も彼女の顔を知っており、その経済力を疑ったことはなかった。だが、事実として決済は通らない。店員も困惑の色を浮かべる。一華はさらに驚き、声を漏らす。「どういうこと?」店員がカードを確認し、やがてこう説明した。「春日部さま......このカードは凍結されています」「凍結?」玲奈の眉が寄る。店員は何度も確認し、確かめるように繰り返した。「はい、凍結されています」玲奈はしばし立ち尽くし、ようやく声を絞り出す。「すみません......品物は預かってください。電話を一本かけてきます」そう言い、一華の腕を引いて店を後にする。人目のない階段の踊り場で、玲奈は迷わず電話をかけた。――意外にもすぐ繋
智也が小燕邸を発ったのは、金曜の夜だった。その晩、まだ体調の戻らない玲奈は、愛莉のために彼女の部屋のソファで横になった。翌朝には熱も引き、少し気分も回復していた。朝食を済ませると、娘を連れて外へ出かけることを思いつく。このところいろいろあって、愛莉の玲奈に対する態度は日によって温度差がある。「外で少し歩こうか」と提案すると、拒むことはなかったが、嬉しそうでもない。義務的に応じただけのようだった。それでも、玲奈は気にしなかった。母親としてすべきことを果たす――ただそれだけだ。公園をひとまわり散歩したあと、スーパーへ寄る。戻ったときにはすでに十時近くになっていた。「お昼は栄養のあるものを作ろう」そう思い立ち、早めに台所に立つ。十一時を回ったころ、電話が鳴った。画面に映った名は――大学時代の同級生、一華。第二子を身ごもったとき、玲奈の流産手術を担当したのが彼女だった。彼女の名を見た瞬間、玲奈の胸に、あの生まれることのなかった子の影が蘇る。――あの時、二人目で智也の心を繋ぎとめようとした自分。今振り返れば、なんと愚かで滑稽だったのだろう。通話に出ると、一華が明るく言った。「玲奈、今日の午後、新幹線で久我山に着くの。一緒に食事しない?」「ええ、私が予約しておくわ」迷いもせず、玲奈は応じた。そこで会話は終わるはずだった。だが、一華は言いかけては黙るのを繰り返す。「......どうしたの?」ためらいの後、彼女は息を吐き出した。「さっき婦人科病棟に行ったとき......智也を見かけた気がするの」玲奈は一瞬だけ間を置き、何事もないように答える。「そう」それでも一華は堪えきれない。「でもね、女の人と一緒で、すごく親しげで......まるで夫婦みたいだった」その瞬間、玲奈には相手が誰か分かった。けれど表情ひとつ変えずに告げる。「心配しないで。分かってるから」その静けさが、むしろ一華を不安にさせる。「本当に大丈夫なの?」玲奈は淡々と答えた。「彼女は深津沙羅。智也が本当に愛している人よ。愛されない女こそ、負けるの」「でも!婚姻関係にあるのはあなたなのよ?あの女のすることなんて、ただの不倫と変わらないじゃない!」
玲奈を二階へ運んだ智也は、大きなベッドに彼女をそっと横たわらせ、布団を掛け直してやった。解熱剤と白湯を持ってきて、ベッドの縁に腰を下ろし、彼女が薬を飲むのを見守る。飲み終えたところで、手からコップを受け取ると、ふいに口を開いた。「少し、話そう」玲奈は頭の奥がずきずきと痛み、枕に凭れながら彼を見上げる。「何を?」「週末に出張がある」その一言に込められた意図は明白だった。――玲奈に愛莉を任せたいのだ。玲奈もその含みを察していたが、あえて気づかぬふりをする。「智也、あなたがどこへ行こうと、私に報告する必要なんてないわ。もともと干渉するつもりはなかった」かつては報告を望んだこともあった。だが今となっては、家にすらろくに帰らない彼が、自分に逐一伝えるはずもないと知っている。「週末はお前が家で愛莉を見ていろ。日曜には戻る」智也はもう遠回しにせず、直截に言った。彼があまりにも率直に要求するので、玲奈も深く考えず、ただ仕事としての出張だと思った。新垣グループの社長である以上、彼の手を待つ案件は山ほどある。週末に出張が入るのも当然だろう。玲奈も週末は休みで、ちょうど当直もない。少し迷った末に、静かにうなずいた。「......分かったわ」智也が出張で、沙羅も不在なら、愛莉の傍にいられるのは自分だけだ。果たすべき義務を果たせばいい――そう思った。彼女が承諾すると、智也はようやく安堵したように息を吐く。「じゃあ、休め。俺は愛莉を見てくる」玲奈は返事をせず、そのまま布団に潜り込んだ。智也は掛け布団を直し、乱れた髪をそっと撫で付けた。玲奈は無意識に目を閉じた。――現実感のない仕草。けれど、触れられた箇所の熱は確かに残り、夢ではないと告げていた。智也が愛莉の部屋に入ると、彼女はベッドに寝転びながら沙羅とビデオ通話をしていた。ただ繋いでいるだけで、言葉を交わすことはない。画面の向こうで沙羅は病床の母を世話し、こちらで愛莉は別のタブレットでアニメを見ている。扉が開いた瞬間、愛莉が顔を上げた。「パパ!」小さな両手を差し伸べ、抱っこを求める。智也の心は一瞬で溶け、すぐに近づいて膝の上に抱き上げた。ビデオの向こうで沙羅が母親に何かを伝えているが、智