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商談の空気

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-07-09 12:36:37

応接室のドアが閉まる音が、意外と硬く響いた。十時半、〈柴田不動産〉との定例商談。部屋の窓からは曇り空が覗いていて、陽は差さないが、柔らかい明るさがテーブルの上に拡がっていた。応接ソファに腰掛けた柴田は、書類を手にしたまま眉間に皺を寄せたまま動かない。その表情は、最初からどこか突き放すようで、場に沈黙が広がっていた。

鶴橋は黙って、タイミングを待った。こういうとき、先に口を開くのは得策ではない。柴田の手元にあるのは、今朝今里がまとめた提案資料。開かれたページには、周辺相場の推移グラフと、過去のトラブル事例を整理した表が見えていた。

「……この物件、去年うちが揉めたやつに、似てますよね」

唐突に、柴田が口を開いた。その声には、驚きというより、警戒心を含んだ確認の色があった。

「そうですね」と、鶴橋は軽く頷いた。「そのとき御社が問題にされた保証人の提示条件と、契約時の付帯条項を、先に整理して提示するようにしております」

「……なるほど」

柴田の目が資料に戻る。数秒の間、静かな紙のめくれる音が続いた。やがてその目線が止まったところに、赤い付箋が貼られていた。

「ここ、よう見てくれてますね。うちの担当者が神経質に言ってたポイントまで拾ってる。……これ、覚えてたんですか?」

言葉の調子が、少しだけ和らぐ。

「前回の商談内容を記録し、今後の参考としてまとめていました」と鶴橋が答えた。今里に視線を送る。彼は一歩後ろ、鶴橋の左斜め後ろに立ち、わずかに姿勢を正した。

「この物件は、供給数が限られており、加えて相場の変動リスクが高いので」と、今里が静かに口を開いた。「同じ地区での過去の交渉例を並べました。価格推移と照合すれば、現状の値付けが適正であることがご確認いただけます」

今里の声は、落ち着いていて、よく通るのに余計な感情を含まない。数字の根拠を淡々と示し、必要な部分を指し示す。それ以上は言わない。その控えめな話し方が、かえって説得力を持っていた。

柴田は一つ息を吐き、椅子にもたれた。ファイルを閉じながら、わずかに口角を動かす。<

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    夕方のオフィスは、いつもより静かだった。午後五時を回ったところで、営業チームの数人が早めに外回りに出ていたせいか、席の半分が空いている。蛍光灯の光は変わらないのに、人の気配が薄くなっただけで、空間が広くなったような錯覚すらある。そんな中で、今里澪の背中だけが、黙々と動いていた。鶴橋は、ファイルを整理するふりをして、何度目かの視線をそちらに送った。デスクに広げられた数枚の書類に目を落とし、ホチキスの針を打ち直し、ラインマーカーで数値の訂正をしている。そういった作業は、本来、アシスタントに任せてもいいようなことだった。だが今里は、自分の手でやる。彼の手は細く、節立っている。けれど動きには無駄がなく、紙をめくる際には必ず軽く指で空気を抜くように撫でる。気を抜けば、何も感じない程度の動作だ。だが、そこに無意識の丁寧さがにじんでいた。(やっぱり、すごい人やな)胸の奥で、自然とそんな言葉が浮かぶ。この“すごさ”は、誰かに褒められるためのものじゃない。誰かに評価されるためでもない。たぶん、彼自身が納得できるかどうかだけのために、こうして修正を重ねている。その一点にだけ集中するような、淡々とした姿勢。その背中を見ていると、鶴橋の中に、どうしようもなく“知りたい”という気持ちが湧きあがってくる。なんでそんなに丁寧なんやろ。誰も見てへんところで、なんでそんなに正確にやるんやろ。…そもそも、なんでここにおんねんやろ。ふと、今里がわずかに顔を上げた。視線が、鶴橋の方に向いた。その刹那、目が合いかけた気がした。けれど、お互いに反射的に目を逸らした。何もなかったかのように、鶴橋はファイルのページをめくり、今里もまたペンを握り直す。その一瞬には、言葉も笑顔もなかった。ただ、そこにあったのは、無数の感情の粒だった。尊敬、好奇心、静かな予感。それらが名前を持たないまま、すこしずつ重なっていく。理解したい、ではもう足りない。もっと知りたい。

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    給湯室には、午後の光がほとんど届いていなかった。天井の蛍光灯が白々とした明かりを落とし、カップの中で湯気だけが頼りなく揺れている。ポットから注ぎ終えた緑茶を片手に、鶴橋は壁に背を預けて、ひと息ついた。休憩といっても、実質数分。冷たい思考を少し溶かすための儀式みたいなものだ。ドアの向こうで足音がしたかと思えば、すぐにスニーカーの先が視界に入ってきた。「やっほ。鶴ちゃん、またお茶か」軽やかな声とともに、奥村佳奈が顔を覗かせた。いつもながらテンションは一定して高めで、それが不思議と耳に障らないのは、彼女の人柄のせいかもしれない。「缶コーヒー、今日は売り切れててさ」と、鶴橋は軽く肩をすくめて応じた。「ほんま、うちの営業フロアってコーヒー消費量すごいよね。あれ、絶対課長が半分飲んでるわ」と笑いながら、佳奈は自分もコップに白湯を注いだ。その間も、視線だけはこちらに残している。ふとした間が訪れる。お互い、話すつもりもなかったのに口を開いていたことに気づいて、わずかに沈黙が落ちる。給湯室特有のこもった静けさが、それを余計に際立たせた。「なぁ、鶴ちゃん」「ん?」「今里さんのこと、好きなんちゃう?」言葉はあまりに自然で、あまりに突然だった。思考の隙間にひゅっと吹き込んでくる風みたいに、無防備なままそのまま心に触れてきた。「えっ……」湯飲みを持つ手が、ほんの少しだけ傾いた。熱くはないけれど、心臓の鼓動が小さく跳ねる。「いやいや、そんなんちゃうわ」と笑いながら即座に返す。けれど、その“笑い”はどこか間の抜けたような響きで、自分でも完璧にごまかせていないと感じた。佳奈は、ほんの一拍の沈黙ののち、静かに頷いた。「そっか」その声は冗談めいていない。不思議なほどにまっすぐで、押しつけがましくも、茶化すようでもなかった。ただ一言、確認を終えた人間のように、肯定でも否定でもなく“納得”の色を纏っていた。コップをテーブルに置き、佳奈は振り返る。「じゃあ、戻

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    社内の廊下にひんやりとした空気が流れ込んでいた。春も半ばを過ぎたというのに、このビルの奥まった通路はいつも季節に取り残されたような冷たさを纏っている。鶴橋は左手に缶コーヒー、右手にはポケットから出したスマホを持ち、昼休みの終わりをなんとなく惜しむように歩いていた。昼を食べ終えても、すぐに席へ戻る気になれなかった。そういうときに立ち寄る自販機前で、いつものようにカフェオレか微糖かを迷いながら、けれどすでに手には買った缶があるという無意味さに、小さく笑う。そのとき、ふと視界の端に動きがあった。廊下の先、ガラス越しに見える屋外スペース。ビルの裏手にある小さな喫煙所のベンチに、一人、誰かが腰をかけている。紺のカーディガン。落としたような姿勢。弁当箱の蓋を静かに閉じる細い指。一瞬でわかった。今里だった。気づいた瞬間、体の動きがわずかに止まる。足取りが自然と緩み、もう一歩前に出るつもりだった右足が、床をなぞるように小さく踏みとどまる。声はかけない。そもそも、その距離はガラス一枚を隔てた場所だ。けれど鶴橋は、無意識に姿勢をほんのわずかだけ崩して、その様子を見た。というより、目が離せなかった。今里は、こちらに気づいていない。というより、気づいていても表には出さないのかもしれない。その顔はいつも通り、感情の色の少ない穏やかなもので、箸を動かす手だけが静かに時間を刻んでいた。その一挙手一投足に特別なものはない。ただ、黙ってそこに座って食事をしているだけの光景だ。それなのに、胸のどこかに、小さな安堵が広がっていた。(ああ、いたんや)言葉にはならなかったが、脳裏にその感覚が確かに浮かぶ。べつに、探していたわけじゃない。姿が見えなくて心配していたわけでもない。ただ…あの空席を見た後、自分の中のどこかが、何かを欲していたことに、今さら気づいた。そしてそれが“ほっとした”という感情に結びついたとき、鶴橋は自分自身に軽く戸惑った。(なんで、こんなことで…)今里の姿が見えた。それだけで、知らぬ間に強張っていたものが緩んでい

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  • もう一度、隣に立つために~傷ついた先輩と僕の営業パートナー再出発記   沈黙という壁

    蛍光灯がひとつ、時折ちらついている。終業時刻を過ぎたオフィスには、人の気配がまばらに残っていた。誰かが遠くで荷物をまとめる音、プリンターの静かな駆動音、そして外を走る車のエンジン音が、鈍く反響していた。鶴橋は、手にしていた書類をクリアファイルに収めるふりをしながら、ちら、と視線を斜め前方に送った。今里は、いつも通りだった。無駄な動きは一つもなく、画面を見つめながらキーボードに指を滑らせ、時折、横に置いたメモ帳に何かを書きつけている。その姿に焦りはなく、かといって楽しげでもない。ただ、そこに在ることが当然のように、静かに呼吸するように“仕事”という行為を続けているようだった。(さっきの商談、あの資料がなかったら、多分押しきれんかった)柴田不動産との商談で、あれほど先方が頷いたのは、間違いなくあの資料の綿密さのせいだった。数字の整合性、言葉の選び方、順番。全てが、相手の言いたいことより半歩だけ先を行っていた。だが今里は、自分が手柄を立てたとは一言も言わず、ただ黙って引いた位置に立っていた。そういう人なのだ、と言ってしまえば簡単だった。ただ──その沈黙には、何かが隠れている気がしてならなかった。必要以上に言葉を足さないのは、配慮か、距離か、それとも…恐れか。机に戻る鶴橋の足取りは、無意識のうちに今里の席へ向かっていた。通り過ぎるふりはできなかった。今日だけは、何か言葉を伝えたかった。「今里さん」その声に、今里の手が止まった。キーボードの上で指が宙に浮く。そのままの姿勢で、ゆっくりと顔を上げる。鶴橋と、視線が合った。「今日の資料、ほんまに助かりました」その一言は、心からのものだった。誰かに聞かれることもないような声の大きさで、けれど、はっきりとそう伝えた。すると今里は、少しだけまぶたを伏せた後、また目を開き、かすかに頷いた。「……そうですか。お役に立てたなら、よかったです」低い声だった。抑揚はほとんどなく、相手に余韻を残すこともしない。でも、その声がまっすぐに返ってきたことで、鶴橋の胸の中に、じんと何かが残った。た

  • もう一度、隣に立つために~傷ついた先輩と僕の営業パートナー再出発記   反応しない横顔

    今里が背を向けるようにして座っているのは、営業フロアの一番端、窓際の席だった。ちょうど午後の光が斜めに差し込み、ディスプレイに反射しないように傾けられたブラインドの隙間から、やわらかな光が差し込んでいた。その光はまるで狙いすましたように、彼の頬の輪郭だけを静かに照らしていた。キーボードを叩く音はほとんど聞こえなかった。指先の動きはなめらかで、リズムに抑揚がない。顔をほとんど動かさず、ただ目線だけでページを追い、ファイルを切り替える。肩も背も、一切の無駄がなかった。整った所作というより、何も感情を挟んでいないからこそ生まれる、透明な動きだった。鶴橋は、自分の席に戻るでもなく、通路を歩いていたはずの足を止め、目線だけを今里に送った。真正面からではなく、斜め後ろ──少し高い位置から。その角度から見える横顔には、どこか“時間が止まっている”ような静けさがあった。周囲は、午前の成功を引きずったまま、どこか浮き足立っていた。電話口で佳奈が「うちの提案、刺さったみたいでさ〜」と明るい声を出し、別の営業が「じゃあ今日は焼きにでも行きます?」と冗談を飛ばす。そのどれもが届いているはずなのに、今里の表情は変わらなかった。反応がないというより、そもそも“聞いていない”のかもしれないと思わせるほど、彼の目は深く静かだった。しかし、まったく無関心という印象とは違った。鶴橋には、今里の目が“ある一点から、決して逸らさないようにしている”ように見えた。まるで、意識的に自分を輪の外に置き、反射を避けるように光をずらしている。その意図を持った無関心が、逆に胸を締めつけた。(ほんまに、何も思ってへんのやろか)資料の整備も、データの抽出も、どれも淡々としていて、ひとつひとつの仕事に感情の波がない。けれどその中には、冷たさとも違う丁寧さが宿っていた。たとえば、前日遅くまで残っていた今里が、それでも翌朝には資料を整えて机に置いてくれていたこと。ホチキスの角度が揃えられていたこと。表紙に自分の名を入れてあったこと。それらは意識しなければできない、けれど“心を込めています”とは一度も言わない類の手間だった。

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