東京に到着した。
「車が迎えに来てるからこっち」 「……はい」 空港から外に出ると空気がじめっとしていて肌にまとわりつくような感覚だった。 いかにも高級車という感じで運転士がドアを開けて待っていてくれた。 「美月、乗って」 レディーファーストで背中をそっと押して乗せてくれる。突然の出来事で疲れてしまったのもあるし、不安と恐怖心で体がガチガチになっていた。 到着したのは渋谷にあるタワーマンション。 東京には首が痛くなるほどの高層の建物がたくさんあったが、中でもここのマンションは一番高く見える。 エントランスに入るとコンシェルジュが待機していた。 厳重なオートロックを越えると、エレベーターホールがあり、最上階のボタンを押した。 「実家はここから車で十五分くらいのところに一軒家がある。そこに住んでもいいが、新婚生活は二人で暮らしたいなと思って家を決めさせてもらった。もし気に入らなければ引っ越しするのも構わないし、今後、家を建ててもいい」 私は恐縮しすぎてまともに会話すらできなくなっている。 黙って後ろをついていきカードキーでドアを開けると、広い玄関があった。 入るのに躊躇していると優しく背中を押してくれる。 中に足を踏み入れると、明かりがパッとついた。 左に曲がると長い廊下があり、まっすぐ進めば二十畳はある広いリビングダイニングがあった。 こんなところで生活するなんて信じられなくて夢でも見ているようだ。リビングからは広いバルコニーがあって、そこでくつろげる空間もある。 窓からは夜景が広がっていた。自分の部屋に入った美月を見送ると、仕事に取りかかるため書斎に入った。 義堂財閥の一人息子として生まれてきた俺は、幼い頃から親の決めたレールの上を歩かされていた。 やりたいことを素直に言えず、自分が生まれてきた意味がわからなかった。 俺は、医者になりたかった。 幼い頃に母が体調を崩し入院し、その時に世話になった医者がすごく優しくて、親切で憧れた。 その夢を父に伝えると『何を言っているんだ。そんなことを言っている暇があれば経営の勉強でもしろ』と叱責されてしまった。 それから自分の価値というものを考えるようになり、だんだんと心の中に負の感情が溜まっていったのだ。 五年前、もう死んでしまいたいと思っていた。 親の主催するパーティーに連れ回され、将来の社長だと挨拶をさせられる日々。 大学に行けば財閥の息子だからと女が寄ってきて、好きだとか告白される毎日。 うんざりだった。 そしてついになんで生きているのかわからなくなってしまったのだ。 こんな人生であれば、産まれた意味などない。親の駒として生きるのはうんざりだった。 最後に北海道を旅行して俺の人生は終わりにしようと決意をした。 今思えば浅はかな考えだったとは思うが、当時の俺は本気でそう思ってしまうほど追い詰められていたのだ。 家から抜け出して急いで空港に向かい、飛行機に乗り函館に到着した。北海道の冬は空気が冷たくて身震いした。 昔から気になっていた湯の川温泉にある老舗旅館に予約を入れておいた。女将が三つ指をついて丁寧に頭を下げてくれる。 内心はこんな若造が一人で宿泊とはなんだろうと疑問に思っていたのではないだろうか。しかし完璧な笑顔を浮かべて『ようこそおいでくださいました、ごゆっくりなさっていってください』と言われた。 俺は頭を下げて旅館の中に入っていく。重厚な歴史ある建物に感動を覚えていたが、声が聞こえた。『美月、あんたが案内しなさい。あのお客様、あんなに若いのにお一人で泊まるなんて様子がおかしいから見張っておきなさいよ』『……はい』『うちで自殺でもされたら面倒なことになるから』 ものすごい上から目線の口調だと思ったし、仮にも客がいるのに聞こえていないと思っているのか? あんな口調で言うのはどうなんだ。
まるでテレビドラマで見ているかのような景色だ。「昼になると緑も見えるんだ。北海道にいたから自然も必要かと思って、ここを選ばせてもらったんだ」 私のことを気遣うような発言に、胸がキュンとする。 その後、3LDK+2WICの部屋を案内してくれた。「この部屋は仕事で使わせてほしい。ベッドルームが二つあるのだが、美月も一人でゆっくりしたい時間もあるだろう。ここは好きなように使ってくれ」「こんなに立派な部屋を提供していただいてもいいんですか?」 私が言うと彼は厳しい表情を浮かべた。「あんなに大きな旅館のお嬢さんだったのに、あれからもやっぱりそういう扱いしか受けていなかったんだな」 私はハッとしてうつむく。 あまり両親のことを悪く言ってはいけない気がしたのだ。 悠一さんと出会った頃は辛くて思わず自分の気持ちを話してしまった。 まだ十七歳だったということもあり、そのことは許してほしい。「できれば夫婦として寝室で一緒に眠りたいところだが、少しずつでいい。この生活に慣れたら一緒に眠ろう。食事は家政婦が用意してくれるが、自分で作りたかったら自由にキッチンも使っていいし。ここは美月が安心して暮らせる自分の家だ」 大切に思ってくれているのが伝わって胸がふわりと温かくなってきた。 でも母が言っていたように、おじい様の体調が悪いから、安心させるために早く結婚したかったのだろうか。 愛があって私と結婚したのではない。 出会いから五年も過ぎている。変な期待はしちゃいけない。「美月、いきなりの東京の生活で不安なこともあると思うが、不安なことがあれば遠慮なく言ってくれよ」「ありがとうございます」 愛情がなくても人に優しくすることはできるかもしれない。 だから悠一さんを好きにならないようにしなければ……。 その夜はケータリングで食事を用意してくれたが、ほとんど食べることができずに私は自分の部屋に行って眠りについたのだった。
東京に到着した。 「車が迎えに来てるからこっち」 「……はい」 空港から外に出ると空気がじめっとしていて肌にまとわりつくような感覚だった。 いかにも高級車という感じで運転士がドアを開けて待っていてくれた。 「美月、乗って」 レディーファーストで背中をそっと押して乗せてくれる。突然の出来事で疲れてしまったのもあるし、不安と恐怖心で体がガチガチになっていた。 到着したのは渋谷にあるタワーマンション。 東京には首が痛くなるほどの高層の建物がたくさんあったが、中でもここのマンションは一番高く見える。 エントランスに入るとコンシェルジュが待機していた。 厳重なオートロックを越えると、エレベーターホールがあり、最上階のボタンを押した。 「実家はここから車で十五分くらいのところに一軒家がある。そこに住んでもいいが、新婚生活は二人で暮らしたいなと思って家を決めさせてもらった。もし気に入らなければ引っ越しするのも構わないし、今後、家を建ててもいい」 私は恐縮しすぎてまともに会話すらできなくなっている。 黙って後ろをついていきカードキーでドアを開けると、広い玄関があった。 入るのに躊躇していると優しく背中を押してくれる。 中に足を踏み入れると、明かりがパッとついた。 左に曲がると長い廊下があり、まっすぐ進めば二十畳はある広いリビングダイニングがあった。 こんなところで生活するなんて信じられなくて夢でも見ているようだ。リビングからは広いバルコニーがあって、そこでくつろげる空間もある。 窓からは夜景が広がっていた。
神前に行き、まっすぐ前を見る。 神職が祓詞を述べ、身を清めてくれる。 神職が神に結婚を報告し、祈りを捧げてくれた。 三々九度の盃は緊張でこぼしてしまわないか呼吸を整えるので精一杯だった。いまだに夢か現実かわからない状態で私はこの場に立っていた。 滞りなく式は終わり、旅館自慢の日本庭園で記念撮影をして終了となった。 悠一さんのお父様は、スケジュールが立て込んでいるようで先に帰るようだ。奥様も一緒みたい。 「東京でゆっくりお茶でもしましょうね」 「ありがとうございます。楽しみにしています」 両親を見送ると私はすぐに着替えを済ませた。 母がまとめていた荷物を手に持つ。たった一つのボストンバッグのみ。 「契約がなくならないように、ちゃんと機嫌を取りながら結婚生活を送ってくるんだよ」 最後の最後まで母は私に冷たい言葉を投げかけている。 「はい」 頭を下げた。 母に愛情はなかったのだ。昔からわかっていたことだけど胸の奥から悲しみが湧き上がってくる。 「ほら、行くよ」 私と母は玄関へと向かった。 もうここを出たら、たとえ悠一さんと離婚をしたとしても、戻ってこないと決意を固める。 「今まで育ててくださり、ありがとうございました」 両親は私に冷ややかな視線を向けていた。 そんな私の背中を悠一さんはそっと支えてくれる。 「美月さんのことは、責任を持って幸せにするのでご安心ください。美月、そろそろ行こうか」 私と悠一さんは迎えに来ていた車に乗り込んだ。 そのまま空港へと向かう。 不安でたまらない。うつむいていると大きな手で私の手を包み込んでくれる。 「冷たくなっている」 「飛行機に乗るのが初めてなので緊張しているんです」 「そうか。俺がそばにいるから何も心配することはないさ」 飛行機もそうだし、東京に行くのも初めてだし、男の人と二人で暮らすというのも初体験で、頭の中が混乱してパニックを起こしそうになっていた。
ドアがノックされた。視線を動かすと控室にうちの両親が入ってくる。母は品定めするかのように目を細め、深く頷く。 「あら、美月かわいいわね」 母の白々しい態度に私は思わず苦笑いをしてしまった。 「ありがとうございます」 どうせ私のことなんて駒としか思っていないのに、こんなにも演技できるなんてと感心していた。 続いて義堂家のご両親も控室にやってきて、挨拶をする。 財閥を背負っている威厳があるお父様と、彼を支えるお母様。二人は穏やかな表情を浮かべている。 結婚する気がない息子が結婚してくれたことが嬉しかったのかもしれない。 「美月さん体調は大丈夫ですか」 悠一さんのお父様が質問をしてきて、その隣でお母様も心配そうな瞳を向けていた。 「先日は同席できずに申し訳ありませんでした。すっかり体調も良くなり本日を迎えることができ安心しております」 言い訳や反抗をしたかったけれど今は抵抗するのは最善の策ではないと思った。 「息子のことをどうぞよろしくお願いいたします」 「こちらこそよろしくお願いいたします」 なぜ私は今こんな挨拶をしているんだろう。 夢でも見ているのではないかとふわふわとした気持ちだった。 「お時間になりましたので、ご移動お願いいたします」 式場スタッフが声をかけにやってくる。 入場する瞬間、視線を感じて震えそうになった。正直なことを言うと怖くてたまらなかった。
私は緊張しながら扉に瞳を向けた。 間違いない。 入ってきたのは、五年前に出会った義堂悠一(ゆういち)さんだった。 ずっと会いたくて忘れられなかった人が目の前にいる。不思議な気分だった。 彼が元気に生きていてくれたのだとわかって安堵が胸いっぱいに広がる。 悠一さんは、身長が高くなっていて、一八〇センチは超えているように見えた。つややかな黒髪は綺麗に分けられていて、額がすっきりと見える髪型だ。 凛々しい眉毛に美しい二重。筋が通った鼻と薄くて形のいい唇。 紋付きの袴に身を包んだ体は細身だが、よく鍛えられているのがわかった。 過去よりもはるかに男前になっていて、まるで王子様のように見えた。 挨拶することも忘れ私は目が奪われていたのだ。 「美月」 「悠一さん……お久しぶりです」 「あぁ、久しぶり。体調は大丈夫か?」 顔合わせの時に私は具合が悪かったことになっている。 「ご心配をおかけして、申し訳ありません」 「結婚式に体調が戻って安心した」 心からホッとしたように言った彼がゆっくりと近づいてきた。 「美しい。ずっと会いたかったんだ」 両手を伸ばして私を抱きしめようとしたので、一歩後ずさる。 悠一さんは怪訝そうな顔をした。 「この結婚を喜んでくれていると聞いたんだが……」 話を合わせなければと思って私は笑顔を作る。彼は病気のおじい様のために結婚相手として私を選んだ。ということは私のことを愛していない。 正真正銘の契約結婚である。 「旅館を救ってくださり、本当にありがとうございます」 「そういう意味で喜んでくれたのか」 悠一さんは少しせつなそうに言って私に視線を向ける。 そしてにこりと笑った。 心臓が貫かれたような衝撃が走り、頬が熱くなる。 悠一さんが旦那さんになるなんて信じられない。 「婚姻届は明日提出する予定だ。式が終わったら、今夜東京に戻って一緒に生活を始めるから」 「本当に……。私は結婚するのですね」 「そうだ。これからは生まれ変わったように幸せな人生にすると約束する」 真剣な眼差しを向けられたので、その目に吸い込まれてしまいそうだった。 彼の言う幸せとは、何を意味しているのだろうか。お金に困らない