五度目の区役所。 けれど、今回も私と篠原湊真(しのはら そうま)は、婚姻届を提出できなかった。 縁起の良い日を選び、朝から準備万端で来たというのに——受付まであと一組というタイミングで、彼のスマホが鳴った。 慌てた様子で立ち上がろうとする湊真の腕をつかみ、私は画面を指差して訴えた。 「あと一組だけだよ。区役所も空いてるし、10分もあれば終わるよ……それからにして。籍入れてからでも遅くないよね?」 湊真は会社を経営していて、時間の融通も利く人だ。 だからこそ、私は甘えてしまっていたのかもしれない。 しかし彼は、表示された番号を一瞥しただけで、手にしていた番号札を私に無造作に押し付け、うんざりした顔で言い放った。 「俺はいつだって君と結婚できる。でも今は処理しなきゃいけない仕事がある……感情的になるなよ」
もっと見る「うん」私は素直にうなずいた。少し話してみて、やっぱり社長の言っていた通りの人だった。誠実で、まっすぐで、結婚を考えるには申し分のない相手。だけど——私は表情を引き締めて、彼に嘘をつきたくないと思った。だから、自分のことをすべて打ち明けた。「顧野さん、多分知らないと思うけど……私、五年間付き合ってた彼がいて、半年前に別れたばかりなの。去年の年末には、子宮外妊娠で流産も経験した。それに、母は今、がんで闘病中なの。それでも構わないって言うなら……一度、付き合ってみない?」ほかに飾る言葉はなかった。母はずっと、生きているうちに私が誰かを連れて帰る姿を見たいと思っていた。陽真は、今の私にとってその願いに応えられる最良の人だった。「全部、知ってるよ」陽真は眉を上げて、優しく笑った。「やっぱり、僕の目に狂いはなかった。高梨さんは、素敵な女性だ」驚いた。社長の慎重な性格からして、私のことを事前に調べていても不思議じゃなかった。だけど……「本当に、私と付き合ってみたいの?」陽真はまっすぐうなずいた。「うん。結婚を前提に、ちゃんと向き合ってみたい」「でも、それって顧野さんにとっては、不公平じゃない?」そう言わずにはいられなかった。陽真は首を振って、ためらいもなく言った。「過去がどうとか、僕は気にしない。初めて会ったときに思ったんだ。この人だ、って」その瞬間、私は言葉を失った。湊真と五年も付き合ってきたけれど、こんなふうにまっすぐに選ばれたことなんて一度もなかった。その確信に満ちた目が、何よりも安心させてくれた。食事のあと、私たちはLINEを交換し、陽真は家まで送ってくれた。半年後、正式に恋人同士になり、私は彼を実家へ連れて行った。母は、彼の姿を見た瞬間から笑顔を絶やさなかった。手を握りしめ、目を潤ませながら何度も繰り返した。「本当にいい子ね……私、琴の相手に会えないまま逝くのが心残りだったの。琴はいい子よ。この子と結婚すれば、きっと幸せになれるわ」陽真はうなずいて、私を見つめながらこう言った。「おばさん、琴は本当に素敵な方です。もし驚かせないのなら……今すぐにでもプロポーズしたいくらいです」私は思わず顔をそらして、頬を赤らめた。それから三
深夜、私は鍵をテーブルの上に置き、スーツケースを引いて、この街を後にした。夜が明けるころ、湊真から何度も電話がかかってきた。画面が明るく光るのを見て、私はそのまま電源を切った。実家に近づいてから、ようやくスマホの電源を入れ、一度だけ折り返した。「本当に行ったのか?なんで送らせてくれなかったんだよ!琴!なあ、何か言えよ!送るって……約束してたじゃないか!」電話の向こう、湊真は叫ぶように喚いていた。私は窓の外の穏やかな風景を見ながら、微笑んだ。「湊真。だから言ったじゃない、穏やかに終わろうって」「お前……」彼が何か言いかけた瞬間、電話越しに別の女の声が割り込んだ。「湊真、もう電話やめて……お腹、すごく痛いの……」——心咲だ。きっとまた、彼のもとへ駆けつけたのだろう。けれど今回は、彼の反応は違った。「腹が痛いからって、俺にどうしろって?俺はロキソニンかよ!」湊真の苛立った怒声が響いた。彼女は明らかに戸惑っていた。「私は、あなたのために堕ろしたのよ?全部、後遺症なの。あんなに優しかったのに……琴に何か言われたの!?」「後遺症?はっ。くだらない!」湊真は冷笑しながら、「中絶」という言葉を何度も反芻した。「——もう終わりだ。これ以上、俺の前に現れるな」彼はそう言い放ち、心咲の手を振り払った。彼女がどれだけ叫ぼうと、彼は振り向かなかった。数秒後、彼の声が落ち着いたように戻ってきた。「琴……聞こえたろ?心咲とは終わった。もう何もない。許してほしい。もう一度だけチャンスをくれ。名栗野に一緒に行くよ。支社だって、君の街に移すから。だから……」哀願する声に、私は小さく頭を振った。「何度も言ってるでしょ。壊れた関係って、元には戻らないの……湊真、最後まで静かに終わろうよ」受話器の向こうで沈黙が続いた。やがて、かすれた声が届く。「……幸せに……ごめんな」私は静かに通話を切り、彼の番号をブロックした。実家に戻ると、母の病状が想像以上に悪化していた。癌は急速に進行しており、すでに髪もすっかり抜けてしまっていた。——それでも私は、名栗野に帰ってきて本当によかったと思った。それから半年、昼は全力で働き、夜は母と過ごす毎日だった。母は以前より笑顔が増え
「琴……ごめん。俺が心咲とあんな曖昧な関係だったせいで、琴が怒るのも、無理ないよな……もう一度だけ、チャンスをくれないか。籍入れて、君の実家にも一緒に挨拶に行こう。五年も一緒にいて、うまくやってきたじゃないか。別れるなんて、もったいないよ」私は彼の手からネックレスを押し返し、冷たく笑った。「もったいない?全然そんなことない。ようやく、解放されたわ」はっ、って鼻で笑った。——GPSだの、あいまいな関係だの、自分ばかり我慢して成り立つ恋愛なんて、もうたくさん。次の日、私はウェディングフォトを受け取りに行った。湊真は「一緒に行きたい」としつこく言い張ったので、運転手代わりに同行させた。なぜかその日は、心咲からの電話が一度も鳴らなかった。……それだけでも不思議だった。月曜の婚礼サロンは人が少なくて、静かだった。「……いつ撮ったの?」湊真が、遠慮がちに聞いてきた。私は口を尖らせて答えた。「半年前。あなたが来なかったから、一人で撮ったの」あのときは、四度目の婚姻届のタイミングだった。心咲からの電話で、湊真はまた私を置いて出て行った。罪悪感からか、「先にウェディングフォトを撮ろう」と言い出して——私は喜んで、衣装選びからスケジュールまで全部準備した。「明日は天気がいいって。暑すぎず寒すぎず、撮影日和なんだって」「うん、明日はちゃんと君に付き合う」その夜は、本当に幸せだった。でも翌日、彼がメイクを終えた直後、また電話が鳴った。「悪い、急用。すぐ戻るから」三人のカメラマン、メイクアップアーティスト、スタイリスト……皆が私たちを見つめていた。目を潤ませながら、私は懇願するように彼を見た。「一着だけでいい。三枚だけでも撮って、それから行って」「すまない。本当に、行かなきゃいけないんだ。今度、ちゃんと付き合うよ」彼はスーツを脱いで去っていった。彼が去ったあと、私はその場にぼんやりと座り込んだ。カメラマンたちは戸惑いながら、慌てて私を慰めようとしてくれた。泣きすぎてメイクはぐちゃぐちゃ。でも——私はそれでも、ウェディングフォトを撮ることにした。彼のいないウェディングフォトを。まるでこの五年間の恋そのもの。彼はずっと、本気でこの関係に向き合ってこなかったの
湊真の整った顔に、次々と浮かぶ感情——驚き、信じられないという戸惑い、痛み、そして……後悔。周囲の空気を察した同僚たちは、私に軽く挨拶をしてすぐに解散していった。「琴ちゃん、また頂上で会おう!」「頂上でね」皆が去ったあと、私は箱を抱え、正面玄関へと向かった。その背後から、湊真の震えた声が聞こえた。「さっき……なんて言った?別れたって、言ったのか?」私は立ち止まり、彼をまっすぐに見つめた。——この場面、何度も心の中でシミュレーションしていた。昔は怖くて、辛くて、踏み出せなかった。でも、今は……妙に軽やかだった。私は唇を引き締め、微笑んだ。「うん。別れるよ。籍入れようって言うたびに、あなたはどこかへ行った。一度だって、この結末を想像しなかったの?」湊真は私の手を掴んだ。指先が震えていた。本気で動揺しているのが、よくわかった。今まで、どれだけ私が怒っても、別れを切り出したことは一度もなかったから。「今からでも、すぐ籍入れに行こう。結婚しよう、琴」「もういいの」もう、「いらない」じゃない。「愛してない」のだ。湊真の目が赤く染まり、慌てて私の荷物を奪い取ると、強引に車に乗せた。私は抵抗する気力もなく、助手席に乗り込んだ。けれどすぐに、胃が絞られるような痛みに襲われ、顔色が青ざめた。鞄から常備薬を取り出すと、残りがあと一錠しかないことに気づく。「薬が足りない。先に病院、寄って」湊真は呆然とした表情で私を見つめた。「病気、だったのか?」「うん。胃の持病」「いつから?」私は一瞬言葉に詰まり、そして自嘲気味に笑った。彼と出会う前は、ちゃんと食べて、眠れていた。彼と一緒になってから、彼が心咲に呼ばれて離れていくたびに、私はひたすら自分を責めて、心を閉ざしていった。食べる気力も、笑う余裕もなくなっていった。——二年前、深夜に急性胃痛で倒れて、救急外来で「胃の切除も視野に」と診断された。幸い、仕事には影響は出なかった。けれどその間も、私は何度か彼の前で薬を飲んでいた。にもかかわらず——ある日、彼はこんなことを言った。「何演技してんだよ。心咲が病気だからって、真似してんの?」「なあ、本当はいつからなんだよ?」湊真の黒い瞳が潤み
子犬が突然私に飛びかかってきて、私は悲鳴をあげて寝室へ逃げ込み、ドアを閉めた。しばらくして、湊真が静かにドアを開けて、背後からそっと私を抱きしめた。「ごめん……琴が犬を怖がってるなんて知らなかった。もう、あの子は手放した」「……うん」私は淡々と返事をした。このとき、初めてはっきり気づいた。湊真は、私のことを何も知らなかったのだ。五年も付き合って、私は彼の好みも習慣も全部覚えてるのに、彼は私の一番大事なことさえ知らない。——でも、八年前に別れた心咲の好みなら、細かく語れるくせに。「もう怒るなって。明日、時間あるから……一緒に、籍入れに行こう?」暗がりの中、湊真の声はやけに優しく、甘かった。……本当なら、きっぱり断るべきだった。なのに私はまた、期待してしまった。——これが最後。これでダメなら、もう何も残さない。翌朝、私は丁寧にメイクをして、お気に入りのワンピースに袖を通した。湊真も、珍しくスーツを着て、車で区役所まで連れて行ってくれた。今回、彼は自分のスマホをわざわざ機内モードに設定し、私の携帯でナビを操作していた。道中、私たちはひと言も言葉を交わさなかった。ただ、静かに車が進む。番号札を取り、列に並んで、ようやく呼ばれる直前——湊真のポケットで、スマホが振動を始めた。……我慢できなかったんだな。私の視線に気づいたのか、彼はバツが悪そうにスマホを取り出し、無言でサイレントに切り替える。それでも、スマホの震えは止まらなかった。ふと掲示板を見ると、あと一組で私たちの番だった。「……出てあげて。気もそぞろじゃ、署名だって間違えるでしょ」湊真は二秒ほど迷ってから、頷いて通話ボタンを押した。スピーカーから、弱々しい女の声が響いた。「湊真、下腹部から血が出てて……病院にいるの。先生には、流産の後遺症だって言われて……来てほしい」「今、区役所で手続き中で、動けない」彼の声は緊張気味で、それでもこっそり私の表情を窺っている。私は無言で彼を見つめ返した。次の瞬間、スピーカー越しに鋭い女の声が割り込んできた。——それは、心咲ではなく、あの親友の水嶋紗夜(みずしまさよ)だった。「湊真、心咲の状態は本当にヤバいの。彼女が言ってたよ。あんたが来ないなら、手術受け
二年前、会社が名栗野に支社を立ち上げたとき、幹部だった千佳さんは、すぐに私を誘ってくれた。当時はまだ、湊真が起業する前。私は彼に、名栗野に一緒に移住しようと提案した。やっぱりここは地方都市だし、名栗野は沿岸の主要都市。チャンスも多い。でも彼は、あっさりと「必要ない」と言った。——そんな遠くまで行く必要はない。——君の地元で暮らす必要は、ない。あのプロポーズのときもそうだった。彼はただ指輪を一つ差し出しただけ。飾りつけも、演出も、何もなかった。「どうしてサプライズとかしてくれないの?会場とか、雰囲気とか……」そう聞いたとき、湊真は軽く笑ってこう言った。「必要ないだろ。どうせ、お前はOKするんだから」——でも心咲の誕生日パーティーには、あれほど大掛かりな演出をしていた。そのときは、「必要だから」と言っていた。……だから今度は、私が自分のために選ぶ番だった。「名栗野は私の地元なんです。千佳さん、推薦お願いします。資料も準備します」そう言うと、早川さんは安心したように微笑んだ。「よかった。ようやく、決めてくれたのね」二日後、私はオンライン面接を受け、幸運にも合格。支社の上司からは「そちらの引き継ぎを済ませたら、すぐ来てくれ」と言われた。年末年始も、私はずっと会社に詰めていた。月曜、残業を終えて帰ろうとしていた千佳さんが、なぜか引き返してきた。「琴ちゃん、来てるわよ。……あなたの彼氏」冗談めかしてウィンクするその顔を見て、私は少し戸惑いながらエントランスへ。そこには、本当に湊真がいた。「まだ仕事終わってない?一緒に年越し、しようと思って」「ああ。そういえば昨日、元日だったね」カレンダーを見て、ようやく今日が何日か思い出した。ここ数日、忙しさで完全に感覚が麻痺していた。湊真は私のバッグを受け取り、無言でエレベーターのボタンを押した。「千佳さんから聞いたよ。名栗野支社に行くんだって?」「うん」私はあくまで淡々と答えた。彼の顔が、すっと曇る。「そんな大事なこと、どうして俺に相談しなかった?」「一昨日、電話したよ。でも出なかった」彼は眉をひそめ、無言で助手席のドアを開けてくれた。「今日は元日の代わり。あの田舎料理の店、行こう?前に君が「美味しい」
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