Share

第414話

Author: 青山米子
「紫苑、生きたければ、本当のことを話せ」

昨夜、最後の力を振り絞って休憩室に倒れ込んでから、言吾は完全に意識も記憶も失っていた。

だが、それでも、自分の感覚が間違うはずはないと信じている。

朦朧とする意識の中、確かに一葉の匂いを感じた。腕に抱いていたのは、紛れもなく一葉だったはずだ。

それが、どうして。どうして紫苑であるはずがある!

生きたい。紫苑は心の底からそう思った。言吾が自分に向けている強烈な殺意を、肌で感じていた。

だが──

生き延びたいと願えば願うほど、この筋書きを押し通すしかない。

紫苑の瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出した。「烈さん……何を話せばいいのか、わからないわ。昨夜、あなたはひどく酔っていて……私が部屋まで送ろうとしたら、私が何か企んでいると思ったのね」

「私を突き飛ばして、走って行ってしまって……あなたが最上階へ向かうのが見えたから、心配で、急いで追いかけたの。

でも、どこを探してもあなたは見つからなくて……

後でこのビルの構造を詳しく調べて、ようやく、あなたがここにいることを見つけたのよ。

中に入って、人を呼んで連れて帰ろうとした途端、あなたが私に覆い被さってきて……怖くて、本であなたの頭を殴ったりもしたわ。でも、あなたは……あなたは……

そう言って、紫苑はさらに激しく涙を流した。

自分こそが言吾に無理やり体を奪われた被害者だ、と印象づけるために。

彼女は、言吾がこの話を信じていないことを知っていた。

自分が「無理やりだった」という部分を、彼が信じるはずがない。

だが、紫苑が狙っているのはそこではない。彼女が言吾に信じさせたいのは、「自分と彼との間に何かがあった」という事実、ただ一点だ。

人は、ある事柄を信じられない時、無意識のうちに「真相は自分が考えている通りだ」と思い込もうとする。

今の言吾がまさにそれだ。彼は、紫苑が被害者であるなどとは到底信じられない。

ならば無意識下で、「この厚かましい女が、全てを画策しておきながら、被害者のふりをしている」と結論づけるはず。

つまり、彼は無意識に、「自分と彼女の間に本当に何かがあった」と認めてしまうことになる。

紫苑は用意周到だった。部屋に入るなり、床に落ちている本に気づいていた。

一葉と言吾の間の冷え切った関係を考えれば、一葉が言吾の頭を本で殴りつ
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 双子を産んで一ヶ月後、クズ元夫は涙に暮れた   第436話

    傍らに控える小瀬木に、淡々と命じる。「お前は……」その命令を聞き終えた小瀬木は、驚愕に目を見開いた。「し、慎也様……これは……」紫苑は、慎也様の命の恩人ではなかったのか?この提携案件は、彼女に利益を与え、谷川家での地位を盤石にするための、慎也様からの温情だったはずだ。それが今、この命令は……この提携案件そのものを、紫苑を破滅させるための巨大な罠へと変貌させろということに他ならない。小瀬木は、なぜ主人が紫苑を助ける気でいたはずが、一転して彼女を破滅させようとしているのか、その理由を知りたくてたまらなかったが、結局、その問いを口にすることはなかった。彼が長年この男の傍にいられるのは、能力が高いからだけではない。最も重要なのは、聞くべきではないことは、決して口にしてはならないと知っているからだ。そしてこれは、明らかに自分が踏み込んではならない領域の問題だった。小瀬木が退出した後、慎也はデスクの引き出しから一つのファイルを取り出した。その一番上には、一葉の鮮明な写真が貼られている。彼は、写真の中の彼女をじっと見つめた。海の中で助けられた時の、人生で唯一与えられた、あの温かい記憶を思い出す。その眼差しは、ますます深く、昏い色を帯びていく。胸の奥で、何かが激しく渦を巻き、今にも抑えきれなくなりそうだった。獅子堂家……言吾はますます重厚感を増し、仕事ぶりはめきめきと頭角を現していた。市場の動向、グループの未来予測、そのいずれにおいても、時に父親である宗厳の先見の明すら凌駕するほどだった。その姿に、宗厳は息子への満足感を日に日に深めていた。やはり、恋愛にうつつを抜かす悪癖を断ち切らせ、あの女への執着を捨てさせ、仕事に全身全霊を捧げさせたのは正解だった。これこそが、彼を飛躍的に成長させる何よりの良薬なのだ!オフィスでの執務を終えると、宗厳は歩み寄り、言吾の肩をぽん、と叩いた。「行くぞ、食事だ。お前の母さんも紫苑も待ちくたびれているだろう」言吾の返事を待たず、宗厳は立て続けに言葉を重ねる。「……紫苑との始まりがどうであったにせよ、今や彼女はお前の正真正銘の妻であり、お前の子らの母親なのだ。身重の体で、それも双子だ。さぞ骨が折れるだろう。お前も少しは労ってやらんとな。分かっているか?」言吾

  • 双子を産んで一ヶ月後、クズ元夫は涙に暮れた   第435話

    千陽の考えはわかる。けれど、今の自分にとって、恋愛や男性という存在は、もう本当に重要ではなかった。今はただ、無事にこの子たちを産み、学業を深め、研究の世界に身を投じることだけを考えていた。「子供たちのことと研究で、私は手一杯になるわ。哀れでもないし、寂しさを感じる時間なんてない」千陽が何かを言う前に、一葉は言葉を続けた。「それに、見てよ。最近はネットでも、選択的シングルマザーの話はよくあるじゃない。結婚している女性だって、『お金と時間があって、夫は家にいないのが最高』なんて言ってる時代なのよ」「小説だって、最近はヒロインが誰にも頼らず一人で輝くのが流行りなんだから!」千陽は、「……」と言葉に詰まった。確かに、その通りだった。「そんなに思い詰めないで。これは、いいことなのよ。だって考えてもみて?私が本当に試験管ベビーを選んでいたら、精子を提供した人がどんな人かなんて、わかりっこないでしょ?言吾は優花を溺愛してて、そのせいで周りが見えなくなるような人だけど、それでも総合的に見れば、容姿だって、ビジネスの才能だって……それに、自然に授かった方が、体への負担も少ないし。だから、言吾のことは、ただの精子ドナーだったって思えば、それだけのことよ!」千陽は一葉の言葉を頭の中で反芻してみた。確かに、そうだ。そう言われれば、試験管ベビーよりずっといい。一度で成功するかもわからないし、採卵だってすごく痛いと聞く。でも……千陽の胸に、新たな不安がよぎった。「万が一、言吾があなたの妊娠を知ったら……子供を奪おうとするんじゃないの?」千陽の懸念は、一葉もまた抱いているものだった。「だから、言吾にだけは、この子たちが彼の子だって知られちゃいけないの」「言吾と似た雰囲気の人を探して、その人と付き合ってるフリをしばらくするの。で、別れた後なら、妊娠して子供を産んでも不自然じゃないでしょ」そこまで考えている一葉を前に、千陽は何かを言いかけたが、かけるべき言葉が見つからなかった。確かに試験管ベビーよりはいいかもしれない。でも……千陽はいくら考えても、この子を産むことが、一葉のこれからの幸せの足枷になるのではないか、という思いを拭いきれなかった。だが、だからといって堕ろすのがいいわけでもない。一番の親友として、一葉に恋に

  • 双子を産んで一ヶ月後、クズ元夫は涙に暮れた   第434話

    一葉は言葉を失った。「小説だと、絶対そういう展開になるのに!」千陽は悪びれもせずに、そう言い切った。そのあまりに堂々とした物言いに、一葉も、隣にいた千陽の夫も、思わず笑ってしまった。二人とも、彼女が小説を読みすぎて、すっかり物語の世界に浸っているのだと思ったのだ。まさか、その突拍子もない空想が、寸分の狂いもない真実そのものであったとは、夢にも思わずに。物語という芸術は、時として現実から生まれるものなのだから。食事を終えると、お祝いだからと、千陽は二人をカラオケにまで引っ張り出した。一日中一緒に過ごすうちに、一葉は千陽の夫である真鍋和史(まなべ かずふみ)について、多くのことを知った。どうして、あれほど結婚に興味を示さず、恋愛だけでいいと言っていた千陽が、彼との結婚を強く望んだのか、その理由がわかった気がした。この損得勘定が当たり前の世の中で、彼ほど純粋で誠実な人間に出会うことは滅多にない。考古学の研究に没頭する彼は、まるで俗世に染まらない象牙の塔の住人のように、あまりにも純真だった。経済的な心配さえなければ、彼は最高の結婚相手と言えるだろう。そして、同じ研究所で働く二人は、どちらも高給取りで、金銭的な不安はない。誰もが羨むような、理想的な夫婦の形がそこにはあった。千陽は、夫の前では話しにくいことがあるだろうと察してくれたのだろう。夜、自宅に戻ると、彼女は和史を部屋に残し、一葉のベッドにもぐり込んできた。ベッドに横になると、千陽はふと思い出したように言った。先日、電話で一葉が「戻ってきたら、いい知らせがある」と言っていたことだ。「ねえ、あのいい知らせって、何?」一葉から妊娠したこと、それも双子だと告げられると、千陽は驚きのあまりベッドから飛び起きた。「いつの間に試験管ベビーを?」一葉が以前、精子バンクの利用を考えていると話していたため、千陽はてっきりそうだと思い込んだのだ。「試験管じゃないの。あれは……」一葉は、例の懇親会の夜、言吾との間に起こったアクシデントのことを、千陽に打ち明けた。お腹の子の父親が言吾だと知り、千陽は言葉を失い、何とも言えない複雑な表情を浮かべた。長い、長い沈黙の後……「一葉ちゃん……言吾は、あの紫苑との間に子供ができたんでしょ!」「わかってる。彼とは

  • 双子を産んで一ヶ月後、クズ元夫は涙に暮れた   第433話

    一葉が口を挟む間もなく、千陽が堰を切ったように話し始める。「そうなのよ!うちの一葉ちゃんがその人を助けた時なんて、まだ体調が万全じゃなかったのに、本当に命懸けだったんだから!」「必死にその人を砂浜まで引きずり上げて……それなのに、人を呼びに戻ってる間に、もういなくなっちゃってたのよ」千陽は恋愛小説が大好きだ。だから、慎也のような大物が、命の恩人だという優花を特別扱いするという、まるで物語のような展開を耳にした時から、一葉が助けた相手のことが気になって仕方がなかった。どうして一葉が助けた相手は、恩返しに来てくれる素敵な人ではなかったのか、と。そんなロマンチックな展開にならなかったことを、今でも残念に思っているのだ。そんな彼女の考えていることが手に取るようにわかって、一葉は思わず苦笑した。「もう過ぎたことよ。そんなに残念がらないで」千陽は唇を尖らせた。「だって、神様って不公平だわ」一葉の一番の親友である千陽は、誰よりも一葉の味方だった。かつて紫苑が一葉にしてきた仕打ちを知っているだけに、彼女への嫌悪感はことさら強い。「桐生さん、本当にあなたを助けたのって、あの女なんですか?どう見ても、親切心で海に飛び込むような人には思えないんだけどなあ」自分で言っておいてなんだが、それは偏見だし、人を外見で判断しているだけだと千陽自身もわかっている。だが、どうしても、あの紫苑という女が、善意で海に飛び込む人間だとは思えなかった。千陽の言葉に慎也は答えず、ただ、一葉を見つめるその眼差しに、一層の熱を帯びた。あの時、彼は意識を失ってはいたが、誰かが自分を抱え、砂浜の上の方へと運んでくれているのを、微かに感じ取っていた。もとより、自分を救ったのは一葉ではないかと疑っていたのだ。今の話で点と点が繋がり、その確信は一層強まった。その思いが、彼をいてもたってもいられなくさせたのだろう。慎也は逸る心を抑えきれないように尋ねた。「一葉、お前が人を助けたのはいつだ?相手は男か、女か?」一葉は、慎也がなぜそんなことに興味を示すのか分からなかったが、本能的に答えていた。「かなり大柄な男性でした。ただ、あまりに暗くて……顔まではよく見えなかったんです」一葉の口から語られた時間と場所に、慎也はもはや何の調査も必要としなかった。あれは間違いなく、

  • 双子を産んで一ヶ月後、クズ元夫は涙に暮れた   第432話

    諦めようとしても諦めきれない痛み。愛し続けようにも、もう愛せない苦しみ。その狭間で、心はずっと苛まれていた。今、ようやく、その苦しみから完全に抜け出せたのだ。この感覚は……まさに、身も心も解き放たれたような、心地よさそのものだった。一葉の苦悩をずっと隣で見てきた千陽だからこそ、その声が本物だとわかったのだろう。心からの安堵が伝わってくる。「ああ、本当によかった……!」「あなたの新しい人生が、やっと始まるのね!すぐ休暇取って、お祝いに駆けつけるから待ってて!」その弾んだ声に、一葉は微笑んだ。「うん、待ってる。戻ってきたら、もう一ついい知らせがあるの」そう言いながら、一葉はまだ平坦な自身の腹をそっと撫でた。もう、言吾と一緒になることはないだろう。それでも、このお腹の子たちは産むと決めていた。下手に再婚相手を探す気にはなれなかった一葉は、もともと精子バンクを利用して試験管ベビーを授かることさえ考えていた。それが今、自然に授かったのだ。その方が、きっと子供たちにとっても健やかなはずだ。あとは、言吾にだけ、この子たちが別の誰かの子だと思い込ませることができればいい。そうすれば、この子たちは完全に自分だけの子供になる。自分には十分な経済力も、申し分のない環境もある。最高の人生を与えてあげられる。自身の生い立ちや、世の中の多くの家庭を見てきて、一葉は痛感していた。不仲な両親や、我が子を愛せない親の元で育つくらいなら、片親であっても、溢れるほどの愛を注がれる方がずっといい。たくさんの愛情さえあれば、片親家庭で育った子だって、健やかで、素晴らしい人生を歩めるはずだ。そう考えれば考えるほど、一葉の胸には、未来への希望が明るく灯っていくのだった。千陽は昔から行動派だ。こちらに戻ってくると連絡があったかと思えば、本当にあっという間にやって来た。例の博士彼氏も一緒に連れて。いや、今はもう、「旦那さん」と呼ぶべきだろうか。千陽にとって今の彼が一番の存在なのはわかるが、一葉がその「旦那さん」と顔を合わせたのはまだ数えるほど。さすがに初対面に等しい彼の前で、妊娠という大事な話を切り出す気にはなれなかった。だから、ひとまずはそのことを胸に秘め、久しぶりに会えたことを祝して三人で食事に出かけることにした。食事の

  • 双子を産んで一ヶ月後、クズ元夫は涙に暮れた   第431話

    ドアまで歩き、一葉はふと振り返った。そして、言吾に向かって、ふわりと微笑みかける。「深水さん、さようなら」二人の始まりは、あんなに素敵だったのだから。最後も、美しく終わりたかった。自分たちの間に何があったとしても、どれほど深く傷ついたとしても、ただもう彼を愛したくないだけで……彼を愛したこと自体を後悔したことは、一度もない。彼と出会い、彼を愛したことは、これからもずっと、自分の人生で一番素敵な出来事だから。言吾もまた、一葉に微笑みかけた。彼女の記憶の中に、一番格好良くて、彼女が一番好きだった頃の自分の姿を焼き付けたいとでも言うように。「さようなら、一葉」「……元気でな」一葉は笑顔で彼に手を振った。「ええ、きっと」そう言うと、もう彼の言葉を待たずに、くるりと背を向け、部屋を出ていく。その足取りに、迷いや震えは微塵もなかった。もう、以前のように言吾を愛してはいないのだと、彼女ははっきりと自覚していた。心に残ったわずかな未練も、時の流れがいつか、完全に消し去ってくれるだろう。離婚を切り出された時も、彼女は「さようなら」と言った。あの頃の言吾は、胸が張り裂けそうになりながらも、まだ心のどこかに確信があった。いずれまた一緒になれる、と。あの「さようなら」は、ただの一時的な別れなのだと。彼女は必ず、自分の腕の中に戻ってくると。一時的に手放すのは、より強くその手で抱きしめるためなのだと信じていた。だが、今は。今回は違う。いかなる信念も確信も失った今、彼は悟っていた。今回の「さようなら」は、もう二度と会えないという意味なのだと。彼女は、もう二度と、自分のものにはならない。彼はただ、一葉を見ていた。彼女がゆっくりと、一歩、また一歩と、自分の人生から去っていくのを。やがてその姿が視界から、そして自分の世界から完全に消え去るまで。ようやく、彼は堪えきれずに、ごふっと鮮血を吐き出した。テーブルに手をついても、崩れ落ちそうになる体を支えきれない。全ては、自分のせいだ。当然の報いだ!あれほど幸せになれたはずの二人を、ここまで追い詰めたのは、他の誰でもない、この俺なのだ。込み上げる後悔が、痛みが、どうしようもなく彼を苛み、再び、びしゃりと音を立てて大量の血を吐き出した。……茶室

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status