夜が深まるほど、静けさは重たく部屋に沈んでいく。志乃は寝室のベッドに横たわり、天井を見上げていた。隣では須磨が、背中を向けて眠っている。いつからか、こうして夫の背中を見る夜が増えた。どちらが先にそうなったのか、はっきりと思い出せない。ただ、たしかに以前よりも言葉の数が減った。眠りにつく前のささやかな会話も、最近はお互いの「おやすみ」だけで終わってしまう。
須磨の呼吸は規則正しい。安心しきった眠りのリズム。志乃はその背中をじっと見つめた。肩甲骨の形、寝返りのときに浮かぶ僅かな筋肉の動き、すべてが知っているはずのものなのに、どこか遠い。自分だけが、その距離に取り残されているような、そんな感覚があった。
ほんの少し前までは、何の気なしに手を伸ばしていた。指先で肩に触れたり、そっと腰を引き寄せたり。眠る前の柔らかなやりとりが、もう何ヶ月も遠ざかっている。志乃はふいに、手を伸ばしかけて、そのまま拳を握りしめた。理由なんてわからない。ただ、触れたときに相手の体がこわばるかもしれないと思うと、その一歩を踏み出すことができなかった。
「…おやすみ」
静かに声をかけてみる。須磨は寝返りも打たず、ただ安らかな息を続けている。志乃の声が聞こえているのか、いないのか。それすら、今はわからない。
こんな夜が続いている。特に喧嘩もしていない。大きな変化もなかった。ただ、日常が静かにすり減っていく。会話も、触れ合いも、何もかもが少しずつ透明になっていく。志乃はその変化に、明確な名前をつけることができなかった。ただ、確かに「何かが足りない」とだけ思っている。
朝になると、須磨はいつも通りの顔で出勤の準備をする。志乃の作った朝食を食べ、軽い冗談を交わし、家を出ていく。その背中を見送るとき、志乃はなぜか胸がぎゅっと痛くなることがある。それでも、何も言えない。何も変わっていないふりをして、台所の窓を開ける。
「仕事部屋で集中したいから、帰り遅くなるかも」
そんな言葉を聞くのも、もう何度目だろう。理由もなく心がざわめく。だが、志乃は笑顔で「無理しないでね」と返すことしかできない。
一方、瑞希もまた、似たような夜を過ごしていた。塩屋は食事を終えると、すぐにノートパ
食事が終わると、リビングにはケーキの甘い香りと、ワインとシャンパンの残り香が混ざり合っていた。子どものようにはしゃいだ時間の後にふいに訪れる静けさ。志乃は手際よく食器を重ね、キッチンへと運ぶ。その後ろから須磨も皿を持って続いてきた。瑞希と塩屋はまだリビングに残り、ソファの上でなにげなくグラスを傾けていた。キッチンのシンクに食器を置きながら、志乃は須磨の横顔を盗み見る。彼は黙ったまま洗い物に手を伸ばし、淡々と作業を始める。いつもなら、ふたりきりになった時だけこぼれるような笑顔や親しみの言葉があるのに、今夜はどうにも間が持てない。その沈黙がやけに耳につく。志乃は洗剤を手に取りながら、思い切って切り出す。「さっきのキス、どういうつもりだったの?」自分の声が、思っていたより高く、そして途中でわずかに震えていた。須磨は洗いかけていたグラスの中に少しだけ力を込め、それから志乃のほうを見た。その瞳には一瞬だけ戸惑いが浮かぶ。だがすぐに、彼は肩をすくめてみせた。「冗談だよ。みんなノリでやってたし」そう言いながらも、須磨の視線は志乃の顔に真っ直ぐ落ちてこない。何かを探しているように宙をさまよい、すぐに食器のほうへと逸れていった。その不自然な間が、志乃の心に冷たい針を刺す。「…本当に、冗談?」「当たり前だろ。こんな場だし。心配しなくても、俺たち、友達だから」軽い調子を装っているのに、その声にはどこか硬さが混じっていた。志乃は、深く息を吸い、なるべく落ち着いたふりをしてグラスを水でゆすいだ。けれど、胸の奥ではさっきのキスの情景が繰り返しフラッシュバックする。須磨と塩屋の唇が触れた瞬間の、塩屋の濡れたまなざし。冗談のはずなのに、あの目の中には熱が宿っていた。ごまかしきれない、本当の気持ちが。「…でも、塩屋さんの顔、あのとき本当に…」志乃が言いかけると、須磨は少し強い口調で遮った。「そんなに深く考えなくていいって。大人同士の悪ノリだよ」「そうかもしれないけど…」言葉がそこで詰まった。水の流れる音が二人のあいだに落ちる。須磨はグラスを丁寧にタオ
リビングに音楽が流れ、テーブルの上のケーキやグラスがきらめく夜。ワインのボトルが空く頃、誰からともなく「ゲームでもしようか」という流れができた。瑞希が持ち出した小さな箱に手作りのくじが入れられ、子供じみたルールに大人たちが素直に従う。順番にくじを引き、引いた紙に書かれた指示を実行するだけのシンプルな遊びだった。「外れ!」と笑う声が響き、誰かが無難なお題でその場を盛り上げる。そんななか、ひときわ賑やかな声で瑞希が読み上げた。「あっ、これ“好きな人とキス”だって」志乃と瑞希は顔を見合わせて「はいはい、私たちならキスできるよねー」と、まるで十年来の親友らしく無邪気にふざける。ふたりが頬に軽く唇を寄せ合うと、周囲に小さな笑い声が広がる。「ほら、男同士もやってみたら?」と茶化す瑞希の声が空気を揺らす。須磨は笑顔のまま「じゃあ、いっちょやりますか」と冗談っぽく言い、塩屋も「えー、罰ゲームですよ、志乃さん」と苦笑してみせた。だがその声の奥には、ごく小さな揺らぎがあった。テーブルの向こう側で視線が合う。須磨は、誰にも見せない種類の微笑を浮かべる。グラスを置いた指がわずかに緊張しているのを、志乃は見逃さなかった。「いいよ、早く早く!」と志乃と瑞希がせかす。ワインのせいで頬を染めた塩屋が、須磨のほうに顔を向ける。その頬が赤くなっているのはアルコールのせいだけではなかった。塩屋の唇がほんのり震え、目元が濡れて見える。須磨が、いたずらっぽくウインクをする。テーブルの下で二人の膝が少しだけ触れ合う。「さあ、冗談キス、いってみようか」と声を上ずらせながら、須磨はゆっくりと塩屋に顔を近づけた。部屋に一瞬、妙な静けさが降りる。塩屋の睫毛がわずかに伏せられ、視線だけがまっすぐ須磨に向く。須磨は、その目の奥にどんな光があるか確かめるようにじっと覗き込んだ。そのまま、二人の唇がそっと触れ合う。長いキスではない。ほんの一秒、演技のような、軽いタッチ――けれど塩屋の目はその間、ずっと須磨を見ていた。その瞳の奥が濡れて光り、口元に震えが走る。誰かが「きゃー、本気?」と茶化し、すぐに笑いと拍手が湧き起こる。志乃と瑞希は口元を押さえて爆笑し、
リビングの窓の外には澄んだ冬の夜空が広がり、街路樹の先に小さな星がちらちらと瞬いていた。室内は暖かな灯りと、ところどころに飾られたオーナメントの反射でやさしい輝きに包まれている。壁際には小さなクリスマスツリーが置かれ、銀色のリボンとオレンジ色のイルミネーションが淡く光っていた。キッチンからはローストチキンと甘いワインの香りがただよい、どこを見ても「幸せな夜」の光景が整えられていた。志乃はエプロン姿で、最後のオーナメントをツリーに結びつける。その横では瑞希がプレゼント用の小箱をラッピングしていた。ふたりは時折目を合わせて微笑み、テーブルに並べる料理の配置について意見を交わす。ほんの短い沈黙が生まれても、それを楽しむ余裕を互いに装う。「クリスマスって、やっぱりちょっと浮かれるよね」志乃が明るく言うと、瑞希は「準備は毎年疲れるけど、こうして集まれるのが一番のプレゼントかも」と返す。言葉はやわらかく、けれどその笑顔には一瞬だけ翳りが走った。ほどなくして、須磨と塩屋がワインの瓶を抱えてリビングに現れる。須磨はネイビーのニット、塩屋は少し明るめのグレーのシャツを着ていて、二人とも普段より少しだけよそいきの顔をしていた。志乃がグラスを並べて「せっかくだから、乾杯しよう」と声をあげる。「メリークリスマス」と須磨が明るく言い、グラスを掲げる。塩屋もそれに続き、少しぎこちなく笑みを浮かべて乾杯の声を重ねる。グラスが静かに鳴り合う。その音はどこか頼りなく、冬の空気の中に吸い込まれていった。テーブルを囲んで食事が始まると、最初は賑やかな談笑が続いた。志乃が「今年は仕事も忙しかったし、こうして集まれてよかった」と言えば、瑞希も「うちは来月また確定申告だから、塩屋も戦々恐々だよね」と冗談めかす。須磨が「その点、うちは塩屋くんがいろいろ見てくれて助かってるよ」と笑い、塩屋は「おふたりとも家計がしっかりしてて、僕なんてほとんど出番ないですよ」と続ける。その場には穏やかな空気が流れているように見える。だが、会話の合間に微妙な沈黙が落ちることがあった。須磨はワイングラスの脚をやたらと指で弄んでいたし、塩屋の笑い声の後ろには、どこか緊張した響きがあった。瑞希の笑顔はよく見ると、端がわずかにひきつり、長く笑い続けられない
夜の雨は、窓ガラスを淡く打ち続けていた。外の世界がどれほど冷たく濡れているのか、部屋の中からはもうわからない。ただ、白いカーテン越しにぼやける街灯の光と、遠い車のタイヤが濡れたアスファルトを滑る音だけが、現実と非現実の境界を曖昧にしている。須磨の仕事部屋は、時計の針が夜の深い時刻を指してもなお、じっとりとした熱を残していた。ベッドのシーツはふたりの汗と体温で湿り、脱ぎ捨てられた服が無造作に足元で重なり合っている。ノートパソコンの画面だけが、仄かに青白く光っていたが、すぐに暗い闇へと溶けていった。塩屋は須磨の胸の上で、荒い息をつきながら腕を回していた。首筋にはうっすらと汗が滲み、頬が上気している。シーツの摩擦と肌の熱が、まだ全身を包んで離さない。唇を重ねたまま、須磨は塩屋の背に回した手に力を込めた。その指先が震えている。自分の体も呼吸も、すでに限界まで高ぶっていた。「…あ、あっ…」塩屋の吐息は乱れ、低い声が喉の奥からもれる。快楽の震えは、もはや理性を壊すような強さを持っている。だが、須磨の瞳に映るのは欲望だけではない。もっと深い、決して満たされることのない渇きと、塩屋への渇望――いや、依存に近い感情が、隠しようもなくあらわになっていた。唇と唇が重なる寸前、須磨は一瞬だけ躊躇う。だがすぐに、そのすべてを投げ出すように塩屋を強く抱き寄せる。唇が深く重なり、舌が絡まり合う。塩屋の背中が小さく反る。目を閉じた塩屋の頬を、ひとすじの涙が滑り落ちる。その涙の熱さも、もう自分のもののように感じるしかなかった。「…須磨さん…」震える声が、やっと絞り出された。須磨は唇を首筋に這わせ、耳たぶを甘く噛む。塩屋の手がシーツを掴み、喘ぎとすすり泣きが混じった声をあげる。「これが全部壊れる日が来てもいい、塩屋に会えてよかった」須磨の声は低く、苦しげにさえ響く。その言葉に塩屋は身体を強張らせ、しかし逃れようとはしない。ただ、今にも壊れそうな声で「俺はもう、誰にも戻れない」と囁く。涙が次々と溢れ、須磨の肩に落ちていく。ふたりの身体は、何度も何度も激しく重なり合う。官能の絶頂はもはや
夜の街は、すでに冬の気配を纏い始めていた。ガラス越しに漏れるカフェの灯りは、歩道の落ち葉を淡く照らしている。瑞希と志乃は窓際のテーブル席に向かい合って座り、グラスを指でゆっくり回していた。店内にはほかにも何組かの客がいたが、ふたりの周囲だけ、なぜか空気が張り詰めているような静けさがあった。「最近、夜は冷えるよね」瑞希がそう口にすると、志乃は微笑みを返す。「ほんと、急に寒くなったよね」と言いながらも、どこか遠い場所を見るような目だった。ふたりとも、互いの顔をじっくり見ることを避けていた。グラスの中の赤ワインが、テーブルの灯りを受けてゆるく揺れる。瑞希はその縁を爪でなぞるように撫でていた。ワインの香りがほのかに立ち上り、喉の奥をくすぐる。志乃もまた、手元のグラスをゆっくり傾けながら、その液面をぼんやり眺めている。「仕事のほうは?アトリエの展示、そろそろだったよね」「うん。来月が山場かな。最近は徹夜続きで、家にいる時間が減っちゃってる。塩屋も心配してるみたいだけど…」「須磨もそう。最近、家で仕事する日が少なくて、帰るのも遅い。夜中に帰ってきて、すぐにシャワー浴びて…あっという間に寝ちゃう。なんか、会話らしい会話をしたの、いつが最後だろうって思っちゃう」志乃の言葉に、瑞希は思わず目を伏せた。カウンターから流れてくるピアノのBGMが、ふたりの沈黙を余計に強調する。「夫婦って、こういうものなのかな…」瑞希がぽつりと呟く。志乃は苦笑して、「たぶん、そういう時期があるんだよ」と慰めるように言った。けれど、その声にはどこか空白が混じっていた。グラスを持つ志乃の指先が、かすかに震えている。まぶたがふっと下がり、すぐにまた持ち直す。瑞希はその様子に気づきながらも、何も言わなかった。自分のなかの不安が、言葉にならないまま膨らんでいく。「塩屋は、最近“疲れてる”って言うことが増えた。私も同じだから、無理に詮索しないようにしてるけど、本当は…たまにすごく寂しくなる」「須磨も似てる。優しいけど、どこか“触れちゃ
仕事部屋の窓には、秋の終わりを告げるような冷たい雨が静かに降りつづけている。外の音はほとんど届かず、白いカーテンの向こうに揺れる街灯だけが、夜が深まったことをさりげなく告げていた。ノートパソコンの画面は、半分閉じかけのままデスクに放置されている。その隣には乱雑に脱ぎ捨てられたシャツと、帳簿のファイル。誰がどう見ても、この部屋で「仕事」が行われていた痕跡など、どこにもなかった。ベッドの上では、塩屋が仰向けになり、荒い呼吸を何とか落ち着かせようと胸に手を当てていた。髪は汗でしっとりと額に張りつき、頬も赤い。須磨はその隣で片肘をつき、じっと塩屋を見下ろしている。枕元に落ちた塩屋の眼鏡が、白いシーツの上でひときわ無防備に転がっていた。塩屋はしばらく黙ったまま天井を見ていた。室内の静けさは、ふたりの呼吸だけを際立たせていた。シーツの間にこもる熱が、まだお互いの肌から離れていかない。須磨は、ゆっくりと手を伸ばし、塩屋の濡れた髪を指で梳いた。根元から毛先へ、ひと筋ずつ撫でるたび、塩屋の瞼が微かに震える。けれどその表情には、快楽のあとの満ち足りた余韻というより、何かを抑え込むような張りつめたものがあった。「こういうの……いつか、壊れますよね」塩屋がぽつりと呟く。声は低く、消え入りそうで、それでも耳の奥まで深く染み渡る。須磨はしばらく答えず、塩屋の髪を撫でる手だけを止めなかった。その動きはどこまでも緩慢で、まるで何かにすがるようだった。「俺、時々考えるんです」塩屋はそう続けて、須磨のほうを見た。潤んだ瞳は、もうすぐ涙をこぼす寸前のようだったが、それでも泣こうとはしない。堪えるような微笑を浮かべ、視線をそらす。「このまま何もかも無かったことにして、全部終わればいいのにって。でも……」須磨は塩屋の髪をそっとかきあげ、その額に唇を押し当てた。塩屋の体が、ほんのわずかに震える。そのまま、須磨の手がゆっくりと頬を撫で、もう片方の手が彼の肩を包む。「いつか全部失うことになっても、いいって思ってる」その言葉は、どこか静かな確信に満ちていた。須磨の声は低く、感情の色を押し殺している