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名前のない不安

Auteur: 中岡 始
last update Date de publication: 2025-07-13 16:29:29

夜の街は、すでに冬の気配を纏い始めていた。ガラス越しに漏れるカフェの灯りは、歩道の落ち葉を淡く照らしている。瑞希と志乃は窓際のテーブル席に向かい合って座り、グラスを指でゆっくり回していた。店内にはほかにも何組かの客がいたが、ふたりの周囲だけ、なぜか空気が張り詰めているような静けさがあった。

「最近、夜は冷えるよね」

瑞希がそう口にすると、志乃は微笑みを返す。「ほんと、急に寒くなったよね」と言いながらも、どこか遠い場所を見るような目だった。ふたりとも、互いの顔をじっくり見ることを避けていた。

グラスの中の赤ワインが、テーブルの灯りを受けてゆるく揺れる。瑞希はその縁を爪でなぞるように撫でていた。ワインの香りがほのかに立ち上り、喉の奥をくすぐる。志乃もまた、手元のグラスをゆっくり傾けながら、その液面をぼんやり眺めている。

「仕事のほうは?アトリエの展示、そろそろだったよね」

「うん。来月が山場かな。最近は徹夜続きで、家にいる時間が減っちゃってる。塩屋も心配してるみたいだけど…」

「須磨もそ

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  • 名前のない夜に溶けて~終わりからしか始まらなかった愛がある   朝焼けの誓い

    薄いカーテン越しに、春の朝日がゆっくりと室内に差し込む。海の向こうに夜明けの気配が満ちて、波音もやさしく遠ざかっていく。シーツの中、須磨は塩屋の体温を腕に感じながら、まどろみの底から静かに目を覚ました。頭上には、ぼんやりとした青白い天井。肩にかかる重さと、首元に感じる呼吸のぬくもり。すぐ隣で塩屋が眠っているのだと気づき、須磨はほんの少しだけ、身体を寄せた。塩屋も同じ頃に目を覚ましたのだろう。須磨の腕の中で、そっとまぶたを開き、まだ眠気の残る瞳で須磨を見つめ返す。互いの髪が額に触れ合い、その微かな刺激が、ふたりをさらに近づけた。言葉はなかった。ただ、静かで、やわらかな空気だけがそこにあった。塩屋は寝返りを打ち、須磨の胸に顔をうずめる。須磨はその後頭部に手を添え、指先でゆっくりと髪を梳いた。夜の間に何度も抱き合い、泣き、笑い、ようやくたどり着いた安堵の朝。何かを約束するわけではない。ただ、「今ここにいること」が、全てだった。しばらく、誰も動かない。須磨は塩屋の髪を梳き、耳の裏に唇を落とす。塩屋は小さく微笑んで、腕を須磨の腰に回す。そのまま、互いの鼓動を感じ合うように目を閉じた。外から差し込む朝焼けの光が、ふたりの肌をやさしく包み込んでいる。「なんだか夢みたいだね」と塩屋がぽつりとつぶやく。声はかすかに震えているが、もう不安はなかった。「夢じゃないよ」と須磨が答え、塩屋の頬に指を滑らせる。塩屋はその指に頬を寄せ、すこし照れたように目を伏せた。何もいらない。過去の痛みも喪失感も、ふたりの間に流れる静けさのなかで、もう特別な重さを持たなかった。いずれ、それも優しい思い出へと変わっていく。塩屋は須磨の髪をそっと撫で返す。光の中で、ふたりの微笑みが重なった。窓の外には、昨日までと同じ海と空が広がっている。だけど、今朝はすべてが違って見える。長い夜を超えて、ようやく手に入れた温もり。ふたりは何度も見つめ合い、何度も微笑んだ。塩屋が「ありがとう」と小さくささやき、須磨は無言でその手を握りしめる。もう、未来を誓う必要はなかった。ただ、今ここにいる――その実感だけが、胸いっぱいに広がる。朝の光の中で見つめ合うふたりの表情には

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  • 名前のない夜に溶けて~終わりからしか始まらなかった愛がある   その目が、すべてを語る

    食事が終わると、リビングにはケーキの甘い香りと、ワインとシャンパンの残り香が混ざり合っていた。子どものようにはしゃいだ時間の後にふいに訪れる静けさ。志乃は手際よく食器を重ね、キッチンへと運ぶ。その後ろから須磨も皿を持って続いてきた。瑞希と塩屋はまだリビングに残り、ソファの上でなにげなくグラスを傾けていた。キッチンのシンクに食器を置きながら、志乃は須磨の横顔を盗み見る。彼は黙ったまま洗い物に手を伸ばし、淡々と作業を始める。いつもなら、ふたりきりになった時だけこぼれるような笑顔や親しみの言葉があるのに、今夜はどうにも間が持てない。その沈黙がやけに耳につく。志乃

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