母の死を境に、高校生の拓海と若き義父・宏樹は、ひとつ屋根の下でふたりきりになった。 父子という仮面を被りながら、拓海は自分の“揺らぐ感情”に怯え、宏樹は“失われた愛”の影に囚われていた。 心の奥に潜む孤独と渇きを、互いに知られまいとするうちに、ふたりの距離はやがて“許されない一線”を越えていく。 逃れられない過去と向き合いながら、彼らは関係に名前を与えることをやめた。 “家族”という言葉では覆いきれない絆、誰にも理解されない愛。 傷つき、赦し合い、それでも隣にいることを選んだふたりが辿り着いたのは、ひとつの祈りのかたちだった。 静かに燃える感情と、切なさの果てに紡がれる、唯一無二のラブストーリー。
View More朝の光は柔らかく、カーテン越しに淡く差し込んでいた。まだ春の気配を引きずる風が、キッチンの窓を小さく震わせる。湯気をあげる味噌汁の鍋が、静かな空間の中でかすかな存在感を主張している。
拓海は淡々と手を動かしていた。卵を溶いて、火を弱め、フライパンの上で優しく転がす。焼き魚は昨夜の残りで、温め直すだけだった。そうやって、朝食はいつも通りに整っていく。誰のためとも言えないその手際が、まるで毎朝の儀式のようだった。
「…いただきます」
不意に後ろから聞こえた声に、拓海は振り返らなかった。聞き慣れた、けれどどこか間の抜けたような、眠たげな声。山科宏樹。母の再婚相手であり、拓海にとっては戸籍上の“父”になる男。
三十三歳。在宅の小説家。髪は無造作に伸びかけ、Tシャツの首元は少しだけよれている。だけど顔立ちは整っていて、街中で見かければ確実に二度見される。最近は目の下に少し隈があって、タバコの匂いをまとっていることが多い。
拓海は炊きたてのごはんをよそい、宏樹の席の前に置いた。会話はない。礼も、言わない。いや、宏樹は言っているのかもしれない。ただ、記憶に残らない程度の声で。
拓海も何も返さず、自分の分を皿に盛る。食卓に向かい合って座る。二人で暮らし始めてから、一年が経つ。
母が亡くなったのは、ちょうどその一年前。病気だった。倒れるのは突然だったけれど、思い返せば兆しはあった。疲れた表情、微熱、食欲の減退、病院の予約。拓海は、何も気づかなかったわけじゃない。でも、何も言えなかった。
そして、今。母のいない家に、拓海と宏樹だけが残されている。
宏樹は朝からぼんやりとしていた。茶碗を持ったまま視線を落とし、ごはんを口に運ぶだけ。何かを考えているふうでも、何かを感じているふうでもなかった。ただ、生きて、そこにいるというだけの姿だった。
「今日、学校?」
ようやく出た声は、思った以上に掠れていた。
「うん」
短く答えたが、目は合わせなかった。宏樹もそれ以上は何も言わない。どうでもいい会話ができないのは、近くにいるからだろうか。それとも、血がつながっていないからだろうか。
母がいた頃は、もっと賑やかだった。朝の食卓はパンの焼ける匂いがして、テレビがついていて、母の笑い声がしていた。小さなことで叱られて、文句を言って、でも最後には笑っていた。
今は、湯気の立つ味噌汁と、静かな咀嚼音だけがこの部屋を満たしている。
拓海は、箸を置いた。
「ごちそうさま」
それだけ言って、椅子を引いた。宏樹は軽く目を上げたようだったが、声はかけなかった。
流しに食器を持っていき、水を出す。温かさを持った水が手のひらを撫でる。でも、その温度すらも拓海には他人事のように思えた。
ふと、振り返ると、宏樹は煙草を取り出していた。口にくわえ、火を点ける仕草が妙に丁寧だった。
「…食事中はやめてって言ったろ」
声に刺を立てたつもりはなかった。でも、宏樹の手が一瞬止まり、煙草を外に持っていく気配もなく、口だけでこう言った。
「もう、食べ終わったじゃん」
拓海はそれ以上何も言わず、布巾で食器の水を拭いた。
宏樹の煙草の匂いは、初めてのときは嫌いだった。けれど最近は、どこか安心する。それがまた、気にくわなかった。母がいなくなっても、身体は何かの代わりを求めている。きっとその程度の存在なのだ、自分は。
「いってきます」
玄関に立ち、靴を履きながら小さく告げた声に、奥から返事はなかった。
拓海はドアを閉める直前、そっと振り返った。キッチンの奥、光の中に溶けるようにして宏樹が座っている。壁にかかった時計の針だけが、時間が進んでいることを告げていた。
閉じた扉の向こうに、音はなかった。春の空気が頬に触れても、何も感じなかった。
この家は、まだ母がいなくなったことを受け入れていない。いや、きっとどちらも、それを許していないのだ。
アスファルトの切れ間から、稲の波が風に揺れていた。拓海はゆっくりと足を止め、陽に灼けたあぜ道に立った。風鈴の音も蝉の声もない、ただ稲の葉がすれる、かすかな擦過音だけが耳に残る。東京では感じられなかった匂いが、足元から立ち上がってくる。土のにおい。水のにおい。陽に焼けた草のにおい。手にした水筒の冷たさが、指の間から伝わってきた。喉は乾いていたけれど、口に運ぶ気にはなれなかった。空は高く、青かった。絵に描いたような、雲ひとつない八月の午後。「どこまで続いてるんだろうな」誰に言うでもなく、ぽつりとつぶやいた。返事などあるはずもなく、風だけが髪を揺らした。拓海は道路脇に腰を下ろした。遠くで農機具の音が響いていた。軽トラックのエンジン音が過ぎ、また静けさが戻る。東京にいたときは、この静けさが怖かった。考えすぎて、呼吸が浅くなるような気がして。けれど今は、違っていた。「ここでも、あっちでも…俺は、どこにもいないみたいだな」そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ疼いた。宏樹の家では、“家族”という名前の仮面をつけていた。澄江の家では、“孫”という位置に戻された。どこかに自分が根を下ろせる場所があったはずなのに、それがいつからか消えていた。というより、最初からなかったのかもしれない。目を閉じてみる。耳に入ってくるのは風と、虫の鳴き声、そしてときどき葉が擦れる音だけ。都会のざわめきに埋もれていた自分の声が、ここでは浮かび上がってくる気がした。母のいない世界に、慣れたと思っていた。宏樹と暮らしながらも、それを受け入れたつもりでいた。でも、きっとあれは慣れたのではなく、ただ見ないようにしていただけだった。「…どうしたいんだろう、俺」言葉にした途端、胸がじんと熱くなった。家族ってなんだ。場所ってなんだ。誰かの横にいることでしか、そこにいられないのなら、それは本当に“自分の居場所&rdquo
障子の向こうで虫の声が細く鳴いていた。夜の気配は家の中にまで染み込んで、畳の上に置かれた蝋燭の小さな灯が、天井に揺れる影を描いている。拓海は正座したまま、澄江が差し出した包みを見つめていた。柔らかな手拭いで丁寧に巻かれたそれは、古びた紙の匂いとともに、時の重さを滲ませている。「これね、美幸が置いていったのよ。捨てられなかったの。…拓海に渡すかどうか、ずっと迷ってたけど」その声は、どこかためらいと祈りが混ざった響きを帯びていた。拓海は、手拭いの端にそっと指をかけた。布がほどける音が、やけに大きく耳に届いた。中から現れたのは、革表紙のノートと、数通の封筒。どれも日焼けし、角が丸まっていた。ノートを開いた瞬間、そこに流れ込んできたのは、確かに知っている母の筆跡だった。丸みのある、けれど癖の強い文字。ときどき、書き損じを線で消したあとがあり、行間には貼られたシールや、幼い拓海の絵がはさまっていた。「今日、拓海が初めて“ママ”って言った。泣きそうなくらい嬉しかった。あの子の声は、何よりもやさしい音だ」読みながら、拓海は息を吸うのを忘れていた。文字の中から、母の声が聞こえてくるようだった。記憶の中の母はいつも微笑んでいたが、ここには不安も戸惑いも、怒りや疲れさえも残されていた。「夜中に熱を出して、抱きしめながら祈った。“お願い、拓海を連れていかないで”って。小さな体が、壊れてしまいそうで…怖かった」蝋燭の炎がわずかに揺れ、母の文字に影を落とした。拓海はページをめくる手を止められずにいた。そこには、母の“生”があった。苦しみながら、それでも愛していた日々の証が、ここにあった。手紙の束に手を伸ばすと、宛名はどれも「拓海へ」と書かれていた。一枚目の封を開くと、静かな香水の香りが漂った。「あなたがこれを読む頃、私はもう隣にいないかもしれません。そう思いながら書くのは、本当に辛い。でも、伝えておきたいの。私はね、あなたを育てられて幸せでした」行を追うごとに、目の奥
庭先に射す午後の陽は、どこかやわらかく、暑さの輪郭をぼやかしていた。澄江の家は古く、小さな瓦屋根の下に、緩やかな時の流れが根を張っている。縁側の敷居に腰を下ろすと、目の前の風鈴が涼しげに鳴った。ガラスの音が風に混ざり、記憶の底に沈んでいた情景をゆっくりと掬い上げていく。拓海は、麦茶の入ったグラスを手にしたまま庭を見つめていた。背の低い百日紅(さるすべり)が濃いピンクの花を咲かせ、その根元には母がかつて植えたハーブが小さく香っていた。「水撒き、してくれてありがとね」後ろからかけられた祖母の声に、軽く頷いて返す。澄江は、濡れた手を前掛けで拭きながら、拓海の隣に座った。「この時間が、いちばん好きなのよ。暑さも少し落ち着いて、風が気持ちよくて」その言葉通り、そよいだ風が頬をなでていく。家の中からは煮物の湯気の香りが流れてきて、腹の底がじんわりと温まるような感覚がした。けれど、同時に胸の奥にひっかかる違和感もある。懐かしさに身を委ねきれないのは、ここに母の記憶が染みつきすぎているからだった。幼いころ、母と手をつないでこの縁側に座ったことがある。ハーブの名前を教えてもらい、風鈴の音を数え、縁側の木のささくれを指先でなぞった。今、自分がその位置に一人で座っていることが、どこか場違いのように感じられた。「美幸がね、この百日紅が好きだったのよ」祖母の言葉に、拓海の視線が自然と花の方へ向かう。「覚えてる。よく、一緒に水撒いてた」「ふふ。そうだったわね。『夏はこの花が似合う』って言って、何年も世話してくれてた」その声ににじむ懐かしさが、拓海の胸に染み込んでくる。けれど、そこにあるのは懐かしさだけではなかった。母を想うたび、胸の奥にはうまく形にできない苛立ちのようなものがわだかまる。なぜ、あの時、母は病気を隠していたのか。なぜ、もっと言葉にしてくれなかったのか。なぜ、突然いなくなったのか。けれど問いはどれも、どこにも届かない。答えを持つ人は、もうこの世にいない。「お茶、もう少し飲む?」祖母の問いかけに、小さく首を横に振った。喉は渇い
昼を過ぎても、キッチンは静まり返っていた。鍋の蓋が鳴る音も、まな板に包丁が当たる乾いた音も、今日はどこにも存在しない。宏樹はいつものようにコーヒーを淹れ、マグカップを手に仕事部屋へ戻ろうとしたが、ふと足が止まった。食卓の向こう、いつも拓海が座っていた椅子が、きちんと押し込まれたまま動いていない。そこにあるべき背中も、食器の音も、何もない。「…静かすぎるな」ぽつりと漏らした声が、自分の耳に滑稽に響いた。誰もいない家の中で、独り言がこんなにも生々しいとは思わなかった。マグカップの湯気が、天井に向かって消えていく。椅子を引いて座ると、机の上に昨日の新聞が置き去りにされていた。拓海がよく、無言で見出しを眺めていた姿を思い出す。読むというより、そこにある活字に触れることで、自分の中の何かを整えていたのだろう。宏樹はそれを思い返しながら、ひと口コーヒーをすする。苦味が舌に残り、妙に濃く感じた。冷蔵庫を開けても、作り置きの弁当も、洗って並べられた食器もない。拓海がいた時は、いつの間にか味噌汁の香りが漂い、白いご飯が湯気を立てていた。「別に、飯くらい一人でもどうとでもなる」独り言に、また苦笑が漏れる。午後になって、パソコンの前に座っても、キーボードの音は数分に一度しか鳴らなかった。画面上では書きかけの文章が点滅しているが、指が動かない。拓海が静かに原稿の束を整えたり、ページの隅を撫でるようにめくったりしていた日々が、どうしようもなく脳裏をかすめる。彼はただの“居候”だったはずだ。息子のようであり、他人のようでもあった。でも、いま自分の中に空いたこの感覚は、家族を失った喪失に近かった。時間はただ過ぎていく。カップの底が見えても、気温が下がっても、部屋の空気は変わらない。日が落ちていく。窓の外、洗濯物が干される隣家のベランダには、拓海がよく見とれていた風鈴が揺れている。「音がしないだけで、こんなにも息が詰まるんだな」そう呟いて、手元の原稿を閉じた。冷えた夕食を
朝の空気はまだ熱を含んでいて、濡れた洗濯物の匂いが風に混ざっていた。玄関のドアを開ける音が、思ったよりも大きく響いた。拓海は肩にかけたリュックの紐を握り直し、靴のつま先を揃えて立ったまま振り返った。宏樹は数歩離れた廊下に立っていた。シャツの袖は肘までまくり上げられており、髪はまだ寝癖が抜けきらない。手にはコーヒーのマグカップを持っていたが、口をつける気配はなかった。「行ってくる」そう言った自分の声が、どこか他人事のように聞こえた。宏樹は少しだけ頷いた。それだけだった。沈黙が玄関に広がって、蝉の声だけが背後から押し寄せてきた。「…鍵、ポストに入れておけばいい?」問いかけたのは、自分なのに思った以上に切羽詰まっていた。宏樹はわずかに眉を動かし、ようやく声を出した。「ああ。それでいい」玄関と居間を隔てるわずかな距離が、何故か今日は果てしなく遠く感じた。言葉を交わすたびに、何かが剥がれていくようで、視線を合わせることができなかった。「向こう、暑くないといいけど」宏樹が続けてそう言った。とってつけたような一言だった。思いやりにも、後悔にも、何にも触れない。拓海は乾いた笑みを浮かべた。「ばあちゃん家、山の方だから。涼しいと思う」視線の先、磨かれた玄関の床に自分のサンダルが静かに並んでいる。その横に、数ヶ月前に宏樹と一緒に買ったスニーカーが並んでいるのが、なぜか目に痛かった。「それじゃあ」拓海は言葉を締めくくり、ドアノブに手をかけた。けれど、開ける直前でふと足が止まった。振り返れば何かが変わるような気がした。でも、変わらないのだろうと、すぐに思い直した。宏樹は相変わらず黙ったまま、ただそこにいた。ドアを開けると、外の光が背中に降り注いだ。蝉の声が一層強くなる。拓海は靴を履き替え、もう一度だけ家の中を振り返った。「…じゃあね」ほんの少しの期待を込めて声をかけたが、宏樹は静かに頷いただけだった。ドアを閉めると、薄い音がし
食卓にカトラリーの音が響いた。カチャリ、という乾いた音だけが部屋に残る。テレビはつけていない。窓の外では風がわずかに木々を揺らし、カーテンの端がゆるやかに膨らんではしぼんだ。「編集部の岸本がさ、例の企画通ったって喜んでてさ。来月号に載せられそうだって」宏樹の声はいつもと変わらない。日常の延長線にある、静かな報告。けれど、耳に届いても何も残らなかった。拓海は黙ったままフォークを動かし、皿の上のサラダを転がすようにして眺めていた。咀嚼の音も立てず、ただ食べているふりをしていた。口の中に味はなかった。「…拓海?」宏樹が呼んだのは、確認のためだった。返事を求めるというより、自分の声が届いているかどうか確かめたような声色だった。それにも、拓海は返さなかった。もうずっと、胸の奥でくすぶっていた火種が、風に煽られて形を持ち始めていた。言葉にならない苛立ち。何度も飲み込んできた、名もない感情。宏樹がまた言葉を探すより早く、拓海は口を開いた。「母さんに…似てるからって、それでいいの?」フォークを皿に置いた音が、ひどく大きく響いた気がした。宏樹は、動きを止めた。それは一瞬の静止だった。けれど、ふたりの間の空気が凍りつくのに十分だった。「……どういう意味だ」宏樹の声は低かった。困惑と防御がにじむ、ぎこちない抑え方だった。拓海は立ち上がるでも、声を荒げるでもなく、ただ視線をまっすぐ向けたまま続けた。「俺を見てよ。母さんと顔が似てるからって…それだけで、隣に置かれてたんなら、そんなのいらない」食卓に置かれた手が、わずかに震えた。宏樹の手だった。拓海はそれを見ていた。怒りで責めたくて言ったわけじゃない。なのに、言葉は尖っていた。「ずっと…そう思ってたんだ。俺を見てる時の目。懐かしむような、失くしたものをなぞるような目」言いながら、喉の奥が詰まった。けれど止まるわけにはいかなかった。
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