ノラは少し考えてから、うなずいた。「そうですね、母さんって、ほんとに頑固なんです。何度も僕が父さんのことを聞いても、絶対に教えてくれなくて......まるで、その人をかばってるみたいでした。僕が大きくなってから探しに行かないようにって、そう思ってたのかもしれません。だから今でも、父さんが誰なのか知らないんです」肘をテーブルにつき、両手で頬を支えながら、ノラはぽつりとため息をついた。「......父さん、まだ生きてるんでしょうか」その言葉に、曜はすぐに反応した。「もし生きてたとしたら―もし君が、いつかその人が誰なのか知ったら、どうする?その人のこと、憎んでるかい?」「それは......僕にもわかりません」ノラの目には迷いが浮かんでいた。「昔は、本当に憎んでました。夜寝られないときなんか、いつも思ってたんです。もし会えたら、絶対に怒鳴ってやるって。殴ってやるって。でも......でも時々、ふと思うんです。もしその人が、僕の存在を知らなかっただけだったらって。もし、悪い人じゃなかったら......って。父親の愛情って、どんなものなんだろうって、僕も感じてみたいんです。だから、自分の気持ちが本当にわからなくて、すごく揺れてます」曜の胸は、言葉のたびに締め付けられるように痛んだ。―いま、この子に真実を話したい。自分が父親なんだって、伝えたい。それでも、喉まで出かかった言葉をどうしても口にできなかった。「桜井くん」そう呼びかけると、ノラは顔を上げた。目には涙がにじんでいた。「桜井くん......」曜は優しく続けた。「もし君がよかったら......俺のことを、父親だと思ってくれないか?」ノラは一瞬、耳を疑ったように目を見開いた。「藤沢おじさん、今の......本気で言ってますか?」「もちろん本気だよ」曜はすぐにノラの手を握りしめた。「俺にも子どもがいるからね、父親って、どれだけ大事な存在か知ってるつもりだ。君と初めて会ったときから、なんだか他人とは思えなかったんだ。もし君さえよければ......俺を『父さん』だと思ってくれないか?形だけでもいい、俺に君の『義父』をやらせてくれないか?」曜の感情が高ぶっているのを見て、ノラはきょとんとした表情を浮かべた。「藤沢おじさん......本気で言って
「藤沢おじさん!それはいくらなんでも悪いですよ。お金持ちだからって、そんなに気を遣われたら、なんだか僕が得してるみたいで......」 「気にしなくていい。得なんて思ってないよ。君は時間を割いてくれてる。それだけで十分なんだから、さ、座って」 ノラはリュックを隣の椅子に置いて、曜の隣に腰を下ろした。 曜の視線が彼に向けられたとき、その目に浮かぶ感情の複雑さにノラはすぐ気づいた。いろんな想いが絡み合ったような、深く重たいまなざしだった。 「おじさん、どうかしたんですか?何かあった?」 「いや......」曜はぎこちなく笑った。「ただ、君はいい子だなって。おじさん、すごく好きだよ、君のこと」 「そうなんですか?へへ......そんなふうに言ってもらえるの、久しぶりです。母さんが亡くなってから、こんなふうに優しくされたこと、なかったから」 その一言が曜の胸にぐさりと刺さった。 ノラ―そう、まさに彼の息子だ。心の奥底からこみあげてくる罪悪感に、曜は耐えられなかった。 「桜井くん、お母さんのこと、教えてくれないか?」 「えっ、うちの母さんのことを?」 「うん。君みたいな素敵な子を育てた女性が、どんな人だったのか、知りたくてね」 母の話題が出た瞬間、ノラの瞳がかすかに陰った。 「覚えてるのは十歳までですけど、母さんはすごく綺麗で、強い人でした。僕を育てるために、ずっと働きづめで」 「......ということは、生活はあまり楽じゃなかったんだね?」 曜は戸惑った。あのとき、ちゃんと金銭的支援をしていたはずだった―別れ際に手渡したあの小切手。里枝はそれを使っていなかったのか? 「僕たちは小さな町で暮らしてました。母さん、ずっとお金に余裕がなかったけど、それでも僕にはいつもちゃんとしたご飯と服を用意してくれた。少しも苦労させないようにって。でも、きっと無理してたんだと思う。僕の世話が大変で、それで体を壊しちゃって......もし僕がいなければ、母さんは死ななくてすんだのかもって、時々考えるんです」 その言葉を聞いて、曜の胸は締めつけられるように痛んだ。 心臓が暴れるみたいに、ドクンと強く鳴った。 どうしてこんなことに?......まさか、あのとき渡したお金、使わなかったのか? それに、彼女には家も一軒買って
二日後、曜のもとに、ついに検査結果が届いた。DNA鑑定の結果―桜井ノラは、彼の実の息子だった。その一文を見た瞬間、曜の足元から力が抜けた。椅子に崩れるように腰を下ろし、病院のロビーで呆然と座り込む。視界が揺れ、頭がぐらりと揺れた。額に手を当てて、背もたれに寄りかかる。まさか、本当に......あの子が、自分の息子だったなんて。里枝との間に生まれた、十九年前の子ども。よりによって、こんな形で再会するなんて―まったく想像してなかった。もし彼女が自分に妊娠のことを伝えてくれていたら、あの時はちょっと態度が悪かったかもしれない。でも、無理にでも言ってくれていたら、自分は絶対に知っていたはずだ。知らなければ逃げようもないし、放っておくような人間じゃないつもりだった。でも、あの頃の里枝の頑固な性格を思えば......きっと最後まで言わなかったんだろう。結果、自分は無責任なクズみたいに見えてる。いや、違う。そうじゃない。たしかに、クズだ。自分で蒔いた種なんだ。曜の胸の中はぐちゃぐちゃだった。でも、どう考えても、自分の責任だとしか言いようがない。どうすればいいんだろう。このこと、ノラに伝えるべきか?自分が父親だって......あの子が知ったら、受け止められるだろうか?それとも―長年放置されてたって、そう思われて、恨まれるだろうか?震える手で、曜はスマホを取り出した。連絡帳から、桜井ノラの名前を探し出す。電話をかけようとした。会って話をしたかった。けれど、鑑定結果を見つめたまま、どうしても発信ボタンを押すことができなかった。この事実をどう受け止めるか、まずは自分の中で整理しなきゃならない。ノラが自分の息子なら、放っておくなんてできない。会わなきゃいけない。それは決まってる。でも、どうやって会うか。どんな形で関係を築くか。いつ、どうやって伝えるか―そこは慎重にしなきゃならない。まさか突然、「俺が君の父親だ」なんて言うわけにはいかない。......まずは、少しずつ接していこう。十分以上も悩んだ末に、曜はついにノラの番号へ電話をかけた。二十秒ほどの沈黙のあと、電話の向こうがつながった。「もしもし、藤沢おじさん?」「桜井くん、今ちょっと忙しいかな?」「今は研究室にいるんだけど、なにかありました?」
若子は西也の方をじっと見つめた。なんだか少し痩せた気がする。視線に気づいたのか、西也がふと振り返って言った。「若子、そこで突っ立ってないで、こっち来てちょっと座れよ」その柔らかい口調を聞いて、若子の頭に二人が初めて出会った頃のことが浮かんだ。彼は本当に変わったんだろうか。あの頃みたいな彼に戻ったんだろうか。離婚して良かったのは、彼のほうかもしれない。一緒に座っていても、なんとなく気まずい空気。若子は少し笑って言った。「西也、ちょっとの間でいいから、子ども見ててくれる?私、台所で花の手伝いしてくる」そう言って、キッチンへ向かう。「花、手伝うよ」「どうしたの?お兄ちゃんと話してこないの?」花が若子の顔を覗き込むように聞いた。若子は肩をすくめて微笑む。「話すようなこともないし......離婚したばっかりだし、なんか居心地悪いんだよね。こっちにいさせて」「そっか」花もそれ以上は何も言わず、二人で料理に取りかかる。花はしばらく若子の様子を見ていたけど、ふいにそっと寄ってきて、小声で聞いた。「どうしたの?」若子は首を横に振った。「なんでもないよ。西也、最近元気にしてる?」「うん、まあ元気そうにはしてる。でも、やっぱり離婚したばっかだし、内心は......つらいんじゃないかな」彼らが従兄妹だってことを、若子はまだ知らない。もう離婚したんだし、わざわざ言うことでもない―そう花は思っていた。今さら本当のことを言っても、きっと混乱させるだけだろう。もし若子が西也が村崎家の人間だって知ったら......きっと受け入れられない。「花、もしあの人が情緒不安定になったり、何かあったら、ちゃんと教えてね」「やっぱり、お兄ちゃんのこと心配なんだね?」花が少し優しい声で聞いた。「うん......なんだかんだ言っても、私たち、友達だし。それに、たくさん助けてもらったし」その真剣な目を見て、花はそっとため息をついた。―もしこの二人が従兄妹じゃなかったら、って何度も思ってしまう。やがて夕飯ができて、みんなで食卓を囲むことに。西也はずっと暁を抱きかかえたままで、手放そうともしなかった。暁は西也に抱かれて、すごく嬉しそうだった。長い間面倒を見てもらってたこともあって、西也にはすっかり懐いてる。その腕
西也がここまで来てしまった以上、若子としても今さら追い返すわけにはいかなかった。本当は、彼に会いたくなかったわけじゃない。ただ、離婚して間もない今、どう接すればいいのか分からないだけ。ぎこちなさは、きっとお互いに残っている。もし、あの結婚がなかったら。ただの友達だったなら、今のような気まずさもなかったかもしれない。―だから若子は、できるだけ自然に。過去のことは置いておいて、「友達として」の距離感で接しようと心に決めた。中に入った二人は、買ってきた野菜や肉、果物をダイニングテーブルに広げた。「これ、すごい量だね......食べきれないよ」「大丈夫」西也は笑いながら言う。「冷蔵庫に入れておけばいい。ゆっくり食べてくれたら、それでいいから」若子は小さくうなずいた。「......西也、最近はどう?」「俺?元気だよ」西也は変わらぬ優しい笑みを浮かべる。「心配しなくていい......今は、俺たち友達だろ?」「うん、もちろん」若子も微笑み返す。「ならよかった。今日は事前に言わずに来てしまってごめん。でも、お前に会えてよかった」そう言う彼の声には、どこか安堵が滲んでいた。「いいの。二人とも、私の大切な友達だから。いつでも来ていいよ」若子がそう言ったとき―彼女の腕の中で、暁がふいに体を動かした。もしかして、彼の匂いを感じ取ったのだろうか。どこか落ち着かないように、じたばたと動く。「......抱っこ、してもいいかな?」西也が一歩踏み出し、真っ直ぐ若子を見つめながら聞いた。「もちろん」若子は穏やかな声で応じ、暁をそっと彼に渡した。西也は、丁寧に、優しく暁を抱き上げた。その腕には、ためらいも戸惑いもない。ゆっくりと揺らしながら、その小さな体を大切そうに包み込んでいた。―その姿を見て、若子はふと思い出す。西也がこの子をどれだけ大切にしてくれていたか。彼は、修を強く憎んでいる。けれど、この子に対しては、いつだってまっすぐだった。人は複雑なものだ。誰かを完全に「良い」とも「悪い」とも言い切れない。長く一緒にいれば、きっとぶつかることもある。完璧な人間なんていない。若子は思っていた。西也と一緒に過ごす中で、たしかに彼にはたくさ
電話が繋がり、ノラのスマホが振動する。曜が安心したように微笑んだ。「よし、ちゃんと繋がったな......これからも連絡取り合おうね」たとえ、この子が本当に自分の息子じゃなかったとしても―曜はノラという存在そのものに、強く惹かれていた。何よりも、彼は里枝の息子なのだ。その事実だけで、曜の中に湧き上がる想いは否定できなかった。―彼女に、俺は何もしてあげられなかった。死んでいた......それも、何年も前に。どこに眠っているのかすら、わからない。でも今日、初めて会ったばかりのノラにそれを聞くのは、あまりにも不自然すぎる。今はまだ、慎重に動くべきだ。「それじゃ、藤沢おじさん。僕、行きますね......バイバイ!」ノラは明るく手を振った。その屈託のない笑顔に、曜は静かに応えた。「......バイバイ」手を振り返し、ノラの背中を見送る。ノラが見えなくなるまで見届けたあと―曜は、深く小さく、ひとつ息をついた。指先には、あの一本の白髪。彼はそれを慎重に紙ナプキンで包み、ポケットに大事にしまい込んだ。絶対に失くせないものとして。すぐに携帯を取り出し、信頼している医師に電話をかける。「......山田先生、ちょっとお願いがあるんだけど......親子鑑定を一件、お願いしたい」......若子は、保育園から暁を迎えに行き、自宅へと戻っていた。玄関を閉め、靴を脱がせると、彼女は暁を抱き上げ、そのまましばらく抱きしめていた。腕の中にいるのは、彼女のすべて。でも、心の中には曜と光莉の関係がちらついていた。......そして、修と自分のことも。「ねぇ、暁」若子は優しく声をかける。「暁が大きくなったらね......どうか、おじいちゃんやお父さんみたいにはならないで」愛した女性を、大切にしてほしい。ひとりの人を、ちゃんと愛してほしい。「......もし、誰かを好きになったら、その人を全力で大事にして。気持ちが揺らいでからじゃ遅いんだから。結婚してから後悔するようなこと、しちゃだめだよ」声に、少しだけ苦い笑みが混ざる。「......まあ、それは暁がもう少し大きくなったらでいいか。とにかく、大切な人を傷つけないで......愛してくれる人を、裏切らないで」