社員たちの期待に満ちた視線、そして奥で俯く母と、どこか不敵な笑みを浮かべる凛の存在を感じながら俺はマイクを握り直した。
「えー、少し個人的な話になってしまうのですが……」
俺は言葉を選びながらゆっくりと話し始めた。会場は静まり返り、誰もが俺の次の言葉を待っている。
「先ほど社員から、私個人のことでいくつか温かいお言葉をいただきました。ありがとうございます。ただ、少し誤解があるようなのでこの場をお借りして訂正させてください。」
俺は一呼吸置いた。佳奈は会場の隅で微動だにせず俺を見つめている。凛の表情からは笑みが消え、母は顔を上げて不安げにこちらを見ていた。
「皆さんから『結婚』や『婚約者』の存在について祝福の言葉をもらいました。この場で言うつもりはなかったのですが……確かに、私には婚約者がいます。そして、彼女が今日、このパーティーの準備や企画を担当し多大なる協力をしてくれました。今日も関係者としてではなく会場運営のスタッフとして尽力してくれています。」
俺はマイクを持った手を掲げ会場の隅でスタッフとして立っていた佳奈の方を指差した。スポットライトがふいに佳奈を照らし出した。突然のことに、佳奈は少し戸惑ったように目を丸くしている。
会場からは驚きと祝福のざわめきが起こった。社員たちは、スタッフだと思っていた女性ががまさか俺の婚約者だったとは、と驚きを隠せない様子だ。
啓介は、沈黙したまま下を向いて俯いていた。その表情からは深い怒りと動揺が読み取れる。「……差し替えるように言われたDVDの中身、見た?」啓介が絞り出すような声で尋ねた。「うん……。啓介に報告する前に確認した方がいいと思って。」私は頷いた。あの映像を見た時の衝撃は今でも鮮明に覚えている。「今、あるかな? 俺も見たいんだ。」啓介の言葉に私は戸棚から例のDVDを取り出した。二人で並んでソファに座り恐る恐るDVDを再生機に入れた。画面に映し出されたのは、あの不気味な背景と音楽、そして切り貼りされた文字の羅列。高 柳 啓 介 は 坂 本 佳 奈 に 騙 さ れ て い る偽 装 結 婚 を 持 ち 掛 け ら れ 世 間 を 欺 く つ も り だ
パーティーから数日後。私たちは自宅で、記念に作成されたDVDを再び流していた。会場で見た時とは違い、ゆっくりと細部まで映像を確認できる。社員たちの笑顔、楽しそうな子供たちの声、そしてケータリングと出張シェフによる華やかな料理の数々。全てが成功の証しだった。映像がエンディングに差し掛かり、佐藤くんが撮影・編集してくれた創立からの歩みを振り返るパートが始まった。スタイリッシュなアニメーションと温かいメッセージ。完璧な仕上がりに私の心は満たされていた。その時、隣にいた啓介がふと疑問を口にした。「そういえばさ、パーティー当日に最初の数秒、変な画面と音楽が流れていたけれど、あれはなんだったの?映像側の問題?このDVDには入っていないよね。」啓介の問いに、私は一瞬戸惑った。あの時のことをどう話すべきか迷っていた。しかし、隠し通すことではない。それに啓介の母親に関わることだ。私は意を決し話し始めた。「実はね、あの日、啓介のお母さんが映像を流す直前でDVDを差し替えて欲しいって来たみたいなんだ。それで流したらあの映像が流れたらしくて……佐藤くんが咄嗟に別の映像に差し替えてくれたの。」私の言葉に、啓介の顔から血の気が引いた。「え…&he
「ある意味すごいよね……。でも、そんなの放っておけば良かったのに。」私は半ば呆れながらそう言った。どうせ一時的な誤解だ。啓介がわざわざ公衆の面前で訂正する必要はないと思っていた。しかし、啓介は首を横に振った。「なんか俺が嫌だった。佳奈以外を婚約者だと思われるのも、ずっと一緒に頑張っていた社員たちに誤解を生むようなことされたことも。」啓介の言葉に思わず顔を向けた。啓介は、私のため、そして社員のために、あの場で真実を告げる必要性を感じていたのだ。私に対する真剣な思いと、社員への責任感が、彼の行動を突き動かしたのだと理解できた。その真っ直ぐな気持ちが私の心を温かく包み込んだ。「婚約者って大々的に公表したけど、まだお母さんのこともあるんだし……」私は少しだけ不安を口にした。パーティーは成功したが、根本的な問題である啓介の母親、和美さんの問題は何も解決していない。むしろ、今回の件で和美さんの反発はより一層強まるだろう。「でも佳奈は、そんなに簡単に諦める女じゃないんでしょ? 朝、そう言ってくれたじゃん。」啓介は私の顔を覗き込みニヤリと笑った。朝の会話を彼は覚えていてくれたのだ。啓介は私にあの時の言葉通りの行動を求めている。「
ホテルのきらびやかな照明が遠ざかり冷たい夜風が火照った頬を撫でる。創立パーティーからの帰り道、パーティーの成功による高揚感と、予期せぬトラブルが引き起こした疲労感が入り混じり私たちの間には心地よい沈黙が流れていた。先に口を開いたのは啓介だった。声には心からの安堵と満足が滲んでいた。「今日は本当にありがとう。佳奈のおかげですごく素敵なパーティーになったよ。社員たちもすごく喜んでいたよ。」啓介の言葉に準備期間の苦労や、直前のトラブルも全て報われた気がして私は達成感でいっぱいだった。「良かった。でも、最後になんで私の名前を出したの?ビックリしちゃった。」私は照れ隠しをしながら尋ねた。壇上で突然、啓介が私のことを紹介したため当たるはずのなかったスポットライトを浴び、婚約者として紹介された時の心臓の音を思い出す。嬉しい反面、少しの戸惑いもあったのだ。「いや、社員がさ、勘違いしているようだったから誤解解きたくて。」啓介はそう言って少し不機嫌そうな顔をした。その言葉に私はすぐにピンときた。「ああ、凛さんね。」啓介の意図を瞬時に理解したことに、少し驚いたように目を見開きこちらを向いた。「&h
会場の片隅で、佐藤は全ての状況を目撃していた。佐藤が咄嗟に流した予備の映像が、あの不穏な空気を一瞬で払拭しパーティーを成功に導いた。そして、啓介が堂々と佳奈を婚約者として紹介した瞬間、佐藤は思わず口笛を吹いた。(へえ、社長もやるじゃん。あの坂本をここまで惚れさせるとはねぇ…)佐藤の視線の先には、啓介と佳奈が手を取り合う姿があった。そして、顔を真っ青にして会場を後にする凛の後ろ姿も見ていた。パーティーが終わり片付けが始まった頃、佐藤は飲み物を持って佳奈の元へ向かった。佳奈は、社員たちから祝福の言葉をかけられ笑顔で応対している。「坂本、お疲れさん。いやー、見事な手際だったな。それにしてもいいもの見させてもらったよ」「恥ずかしいからあんまりからかわないでよ」そう言いながらも坂本は、本当に嫌なわけではなく照れているように苦笑を浮かべていた。「…あと映像、ありがとう。とっさに切り替えてくれたおかげで変な雰囲気にならずにすんだわ。」「ああ、あれね。それにしても社長さんもお前も大変そうだな。まさか、あのパステルブルーのドレスの美人があんな映像用意するほど粘着質な女だったとはねえ。」「え?中身見たの?」
社員たちの温かい祝福の拍手と歓声が渦巻く中、私は完全に血の気が引いていた。目の前で啓介は佳奈を正式に婚約者として発表し、しかも佳奈の手腕を絶賛した私が仕掛けた「まだ家族ではない」という言葉は完全に裏目に出てしまった。啓介は、その言葉を逆手に取り、堂々と佳奈を紹介したのだ。(そんな、嘘でしょ……!?)私は、悔しさで唇を噛み締めていた。啓介が自分のもとから離れていくことが許せなかったが、それ以上に、自分が汚い手を使ってまで貶めようとした佳奈が、大勢の前で啓介に称賛されて祝福されている事実が何よりも耐え難かった。私はそこに立つことさえできなかった。全身から力が抜け落ちた。啓介は、佳奈の元へ駆け寄り手を差し出した。佳奈も戸惑いながらも遠慮がちに手を重ねて隣で微笑んでいる。二人は社員たちの温かい祝福の元でキラキラと輝いていた。それは、かつて自分が夢見た姿だった。啓介の隣に立ち、周りに祝福されながら零れんばかりの笑顔で微笑む私。それが、まさかほかの女性に奪われるとは。しかも、自分が貶めようとしたその場所で計画は崩れ、啓介に称賛され皆に祝福されている。その屈辱と言葉に出来ないほどの敗北感が全身を蝕んでいく。「まだ家族ではない」そう言って歩き回ってしまった。何人かの社員は、私