私は、前田凛。2年前、啓介と付き合っていた。知り合った時には啓介は社長として活躍しており、一目見てこの人に近付きたいと思った。そして結婚して社長の妻になることを夢見ていた。
啓介との出会いは、私が受付嬢として働いている会社に彼が取引先として訪れたことだった。私の職場は、都内の一等地にそびえ立つ高層ビルの中にあり、受付嬢という仕事は、会社の顔として来訪者を最初に迎え会社の印象を決定づける重要な役割を担う。だからこそ、誰でもなれるわけではなく一定以上の容姿やコミュニケーション能力が求められる。
私はこの仕事以外でも、容姿を活かせる職業、例えばテレビ局のアナウンサーや百貨店の受付嬢などの面接をいくつも受け、その中で今の会社を選んだ。
その日、いつものように受付カウンターで業務をこなしていると、エントランスに一人の男性が現れた。
ネイビーのスーツを完璧に着こなし、無駄のない洗練された立ち居振る舞い。整った顔立ちと綺麗にセットされている髪からは、知性と落ち着きが感じられる。そして、彼が持っていた上質な革の鞄やさりげなく光る腕時計が彼の経済的な成功を物語っている。それが啓介だった。
(只者じゃないな……)
私は、啓介の姿を一目見た瞬間そう確信した。彼の纏う雰囲気は他の来訪者とは明らかに違っていた。単なる「訪問者」ではなく、何か特別なオーラを放つ「成功者」のオーラだった。
「担当の方にお繋ぎしますので、名刺を頂けますでしょうか」
「もしもし、今週末って予定あるかな?内容は分かっていると思うけれど、話をしたいことがあるんだ。」息子の啓介から電話を受けた時、いつかはくると思っていたが私は背筋が凍るのを感じた。電話越しに聞こえる啓介の声は、普段の穏やかさとは異なり、どこか冷たく固い響きを持っていた。『内容は分かっていると思う』、そんな前置きをされたら思い浮かぶことは一つしかない。あの創立パーティーの時のDVDの件だろう。凛の話にのったとはいえ、あのDVDを裏方スタッフに渡した直後から、私は罪悪感でいっぱいだった。啓介と佳奈の結婚には反対だったが、大勢の社員やその家族の前で息子を晒し者にするような真似が本当に正しいことなのか私には分からなくなっていた。その方がインパクトもあり、啓介の目が覚めると思ったが、例え目が覚めたとしても、息子はその後も「騙された男」としてのレッテルを貼られるのではないか……。凛の用意した映像が流れなかったとき、私は心の中で少しだけホッとした自分がいたのも事実だった。あの瞬間、胸に広がる安堵感と失敗への悔しさが複雑に絡み合ったのを鮮明に覚えている。週末、啓介と佳奈が家にやってきた。リビングに通すと、空気はこれまでにないほど張り詰めていた。以前とは立場が逆転し、今回は啓介と佳奈は強い意志を持った表情でまっすぐに私を見つめている。私は今から明かされ
記念DVDを再生し終えた後、私たちの間に重い沈黙が流れた。あの悪意に満ちた映像は、啓介と私の心を深くえぐった。怒りと、そして何よりも信じられないという気持ちが私たちを支配していた。最初に私が口を開いた。「このDVDだけど、お母さん一人で考えて実行したことではないと思うの。」啓介は深く頷いた。啓介の顔にはまだ怒りの色が残っている。「ああ、俺もそう思う。母さんがここまでやるとは思えないし、そもそも映像を作れると思えない。」啓介の母・和美は、確かに私が啓介の婚約者となることに強く反対していたが、こんなにも陰湿で悪質な方法を用いるような人ではないはずだ。それに映像制作の知識などあるはずがない。「そうなると、やっぱり………」私たちは同時に目を見合わせた。きっと、同じ人物が互いの脳裏に思い浮かんでいるのだろう。あの日、パーティー会場に呼ばれてもいないのに自分が主役であるかのように振る舞い、私と啓介の結婚を快く思っていない人物……。その女性の顔が鮮明に浮かび上がった。「凛……だな。」「凛さんだよね。」
啓介は、沈黙したまま下を向いて俯いていた。その表情からは深い怒りと動揺が読み取れる。「……差し替えるように言われたDVDの中身、見た?」啓介が絞り出すような声で尋ねた。「うん……。啓介に報告する前に確認した方がいいと思って。」私は頷いた。あの映像を見た時の衝撃は今でも鮮明に覚えている。「今、あるかな? 俺も見たいんだ。」啓介の言葉に私は戸棚から例のDVDを取り出した。二人で並んでソファに座り恐る恐るDVDを再生機に入れた。画面に映し出されたのは、あの不気味な背景と音楽、そして切り貼りされた文字の羅列。高 柳 啓 介 は 坂 本 佳 奈 に 騙 さ れ て い る偽 装 結 婚 を 持 ち 掛 け ら れ 世 間 を 欺 く つ も り だ
パーティーから数日後。私たちは自宅で、記念に作成されたDVDを再び流していた。会場で見た時とは違い、ゆっくりと細部まで映像を確認できる。社員たちの笑顔、楽しそうな子供たちの声、そしてケータリングと出張シェフによる華やかな料理の数々。全てが成功の証しだった。映像がエンディングに差し掛かり、佐藤くんが撮影・編集してくれた創立からの歩みを振り返るパートが始まった。スタイリッシュなアニメーションと温かいメッセージ。完璧な仕上がりに私の心は満たされていた。その時、隣にいた啓介がふと疑問を口にした。「そういえばさ、パーティー当日に最初の数秒、変な画面と音楽が流れていたけれど、あれはなんだったの?映像側の問題?このDVDには入っていないよね。」啓介の問いに、私は一瞬戸惑った。あの時のことをどう話すべきか迷っていた。しかし、隠し通すことではない。それに啓介の母親に関わることだ。私は意を決し話し始めた。「実はね、あの日、啓介のお母さんが映像を流す直前でDVDを差し替えて欲しいって来たみたいなんだ。それで流したらあの映像が流れたらしくて……佐藤くんが咄嗟に別の映像に差し替えてくれたの。」私の言葉に、啓介の顔から血の気が引いた。「え…&he
「ある意味すごいよね……。でも、そんなの放っておけば良かったのに。」私は半ば呆れながらそう言った。どうせ一時的な誤解だ。啓介がわざわざ公衆の面前で訂正する必要はないと思っていた。しかし、啓介は首を横に振った。「なんか俺が嫌だった。佳奈以外を婚約者だと思われるのも、ずっと一緒に頑張っていた社員たちに誤解を生むようなことされたことも。」啓介の言葉に思わず顔を向けた。啓介は、私のため、そして社員のために、あの場で真実を告げる必要性を感じていたのだ。私に対する真剣な思いと、社員への責任感が、彼の行動を突き動かしたのだと理解できた。その真っ直ぐな気持ちが私の心を温かく包み込んだ。「婚約者って大々的に公表したけど、まだお母さんのこともあるんだし……」私は少しだけ不安を口にした。パーティーは成功したが、根本的な問題である啓介の母親、和美さんの問題は何も解決していない。むしろ、今回の件で和美さんの反発はより一層強まるだろう。「でも佳奈は、そんなに簡単に諦める女じゃないんでしょ? 朝、そう言ってくれたじゃん。」啓介は私の顔を覗き込みニヤリと笑った。朝の会話を彼は覚えていてくれたのだ。啓介は私にあの時の言葉通りの行動を求めている。「
ホテルのきらびやかな照明が遠ざかり冷たい夜風が火照った頬を撫でる。創立パーティーからの帰り道、パーティーの成功による高揚感と、予期せぬトラブルが引き起こした疲労感が入り混じり私たちの間には心地よい沈黙が流れていた。先に口を開いたのは啓介だった。声には心からの安堵と満足が滲んでいた。「今日は本当にありがとう。佳奈のおかげですごく素敵なパーティーになったよ。社員たちもすごく喜んでいたよ。」啓介の言葉に準備期間の苦労や、直前のトラブルも全て報われた気がして私は達成感でいっぱいだった。「良かった。でも、最後になんで私の名前を出したの?ビックリしちゃった。」私は照れ隠しをしながら尋ねた。壇上で突然、啓介が私のことを紹介したため当たるはずのなかったスポットライトを浴び、婚約者として紹介された時の心臓の音を思い出す。嬉しい反面、少しの戸惑いもあったのだ。「いや、社員がさ、勘違いしているようだったから誤解解きたくて。」啓介はそう言って少し不機嫌そうな顔をした。その言葉に私はすぐにピンときた。「ああ、凛さんね。」啓介の意図を瞬時に理解したことに、少し驚いたように目を見開きこちらを向いた。「&h