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第六十三話

Author: 麻木香豆
last update Last Updated: 2025-09-02 05:37:23

「お父さん、ありがとう」

演技審査は、ただその場で台詞を言うだけ――のはずだった。

いや、それだけでも十分難しい。

最初の受験者はタレント事務所に所属しているだけあって、立ち方や呼吸のリズム、目線の動かし方にまで計算を感じさせる。

その一方で、後に続く者たちは緊張のあまり声が震えたり、セリフをただ棒読みするだけで終わったりしてしまっていた。

審査員たちは何も言わず、無表情に見えるほど冷静だ。

だがその中で、ただ一人、舞台俳優・綾人だけが、ひときわ鋭く、真剣な眼差しを向けている。

何百人もの応募者を一日で見てきたのだろう。

少し疲れて見えるはずのその目には、それでも一瞬たりとも油断の色がない。

――この一言で、どれだけの背景を描けるか。

この「ありがとう」という言葉の裏に、どんな父娘の物語を滲ませるか。

まだ台本の全貌すら公開されていないこのオーディションは、まさに受験者一人ひとりの解釈力が試される場だった。

四人目の演技が終わると、ついに藍里の番が回ってきた。

張り詰めた静寂の中、彼女が一歩前に出ると、その場の空気が一段と重くなる。

時雨は、椅子の端で固唾を飲みながら見守っていた。

――目の前に、父がいる。

藍里は深く息を吸い、目を閉じる。

まぶたの裏には、幼い頃の記憶が甦った。

まだ若い綾人が、優しく微笑んでいる。舞台袖で膝を折り、小さな彼女に視線を合わせてくれたあの時の顔。

ゆっくりと目を開くと、そこにいる綾人の表情がわずかに揺れて見えた。

真剣そのものだった視線が、ほんの一瞬、柔らかさを帯びたのを藍里は見逃さなかった。

「お父さん……」

声に出した瞬間、その言葉は台本のセリフではなく、彼女の心からの呼びかけとなった。

綾人の肩がわずかに震える。俯いた顔を上げようとしない。

「お父さん」

もう一度、呼ぶ。だが彼は顔を上げない。

「あ……そうか、ずっとパパって呼んでたね。今さらパパって言うのも恥ずかしいから、お父さんって呼ぶね」

唐突な言葉に審査会場がざわつく。

隣の審査員が何か言いかけたが、綾人は小さく、しかしはっきりと呟いた。

「……続けてください」

藍里は、ゆっくり一歩、前へ出た。

「お父さん、あんまりテレビは見ないけど……昔より、ず
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