突然の婚約破棄、新しい恋人は社長令嬢、引越しと目まぐるしく変わっていく颯の日常、そして取り残された私――――
家に帰り、ベッドの中に入ったが眠ることが出来ず頭の中に何度も颯が出てくる。もっとも、今は憎しみと悲しみで楽しい気持ちにはなれなかった。
(何やっているんだろう。結局、颯は私より将来も社長の座が約束されている七條さんを相手に選んだってことか。恋愛より地位、愛よりお金を選んだんだよね)
普段なら気にならない、時計のチクチクチクチクと動く秒針の音がやけに大きく聞こえてくる。規則的で、そして機械的に動く音に、早く切り替えるように急かされているような気分になり胸がざわついた。
これからも同じ部門で彼のサポートをするかと思うと嫌気がさす。サポートした先にあるのは颯と璃子の将来、そして会社での新しい役職だ。
颯の仕事がうまく行くように、二人で残業して何度も打ち合わせを重ねた。颯が評価されるのが自分の事のように嬉しくて、仕事でもプライベートでも、付き合っていた四年間支え続けてきたつもりだ。
「佐奈っ、ありがとう。佐奈のおかげで頑張れる。好きだよ」
そう言って、私を抱きながら耳元で囁く颯を見て幸せな気持ちに包まれた。好きな人に好きと言われ、二人で同じ目標に向かい頑張っている時、そして成果として現れた時の達成感は格別でハイタッチをしてギュッと強く抱きしめあっていた。
(心が一つになったと感じる瞬間を今まで何度も味わってきたと思ったけれど、颯は違ったのかな。私のうぬぼれなのかな……)
電気を消して暗くなった天井を眺めながら、頭に浮かぶのは颯の事ばかりだった。この日も眠れずに長い長い夜を過ごした――――
颯と七條さんが付き合っているという噂が流れてから二週間が経った。この日、颯の席に七條さんがやってきた。社内で噂を十分に知れ渡っており、颯のところに業務で全く関りのない七條さんがやってきても驚く者は誰もいない。
「颯、ランチ一緒に食べない?」
「ごめん。今日は午後一から打ち合わせで外に行く時間はないんだ」
「えーつまらないの。いいや、また今度行こうね」
私は、聞こえないふりをしてパソコンのモニターに集中して文章を打ち続けていた。
「チッ―――――」
突然、舌打ちをした時の小さな音が背後から聞こえて動揺が隠せなかった。私の隣の席は、颯。そして座っている颯に話しかけているのは、七條さんだ。聞こえてくるほど近い距離で舌打ちが出来るのは、七條さんしかいない。
(え、今の何?完璧に舌打ちしたよね?こんな露骨に不満を表すなんて―――))
颯と七條さんの会話を聞こえないふりをして無視してたことだろうか?気になりながら、持ってきた弁当を食べて、メイク直しと歯磨きのため女子トイレに入ったときの事だった。
私の後を追うようにして七條さんも入ってきた。
「木村 佐奈さん、ですよね?総務部の七條です」
あからさまに作り笑顔で私に話しかけてくることを不気味に思いながらも無言でいると、彼女は私の反応には興味がないかのようにそのまま話を続けた。
「木村さんってバスケットボールが趣味なんですか?プロチームのロゴ入りのボールペンがデスクにありましたよね。」
その瞬間、彼女の目的が分かり背中に寒気が走った。そして、予想通りのセリフを口にする。
「私、松田さんとお付き合いしていて結婚する予定なんですけど、木村さんと同じチーム
のファンなんです。颯も同じペンを持っていて。でも、マイナーなチームで知名度も高くないのに一緒って珍しいですね。」
七條璃子は、獲物をしとめるかのような笑顔で私に問いかけてくる。きっと彼女は確信した上で敢えて私に話しかけてきている。
「松田さんとは同じ部門で仕事を手伝ったお礼に貰ったんです。私もバスケットが好きと話していたのを覚えていたようで。だから……」
「それならなんでバスケットやらなかったんですか?木村さんの趣味って楽器演奏ですよね?バスケットなんてプロフィールに書いてないじゃないですか。お礼にもらったということは、彼にとってあなたは仕事を手伝う『後輩』でしかなかったということですね」
璃子は、人事部で管理している社員名簿を見たのだろう。趣味が楽器演奏だなんて、名簿にしか書いていない。そして、言い逃れが出来ないように事前に私の情報を調べてから話しかける用意周到さにたじろいだ。私は、璃子に標的として定められたことを静かに悟った。
土曜日。社長に命じられたパーティーに璃子と参加した。会場である都内の高級ホテルの大宴会場はシャンデリアの光に満たされ、男性陣はみな仕立ての良いスーツで、女性はドレスや着物、フォーマルなワンピースなどで普段よりも遥かに着飾り、誰も彼もが眩しいほどに綺麗な格好をしている。初めて足を踏み入れた雰囲気に、俺は心臓の鼓動が早くなるのを感じ、緊張しきっていた。「颯、大丈夫?私が側にいるから安心して」璃子はそう言うと、俺の腕にそっと手を添えて微笑んでくる。璃子が隣にいてくれることが、今は頼もしかった。「あー松田君、璃子。もう来ていたんだね」会場に入り、社長に挨拶しに行くとにこやかに手を挙げて微笑んでいる。いつもより少しカジュアルなスーツで、胸元の桜色の淡いネクタイと胸元にブランドのロゴがデザインされたピンをさりげなくつけており、その装いは洗練されている。「今日は場の雰囲気に慣れるだけでいいから。楽しみなさい」社長はそう言って去って行ったが、その言葉は俺に対する配慮なのか、それともまだ璃子の婚約者として紹介するほどではないと釘を刺しているのか分からなかった。社長から与えられた立場は脆い。婚約してから今になっても、状況によってはすぐに切られる可能性もあることを俺は常に警戒をしていた。パ
颯side「松田君、璃子と参加して欲しいパーティーがある。璃子は何度か出席しているから詳細は璃子に聞いてくれ」「はい、承知しました」木曜日、社長室で仕事の資料の説明をした後に社長にそう言われた。璃子と婚約してから、仕事の合間に俺と二人きりになると璃子のことを聞いてきて、祖父の一面も見せるようになってきて、少しやりづらくなっていた。(璃子とパーティーか、この前の玲央のこともあって気乗りしないけれど仕方がない。仕事だ……)そう言い聞かせてから、目の前にある仕事に集中することにした。「ただいま―――」「おかえりなさい」璃子は、俺が帰ってくると必ず玄関まで迎えに来て抱き着いてくる。最初は戸惑っていたが、俺のことを大事にしてくれているのだと思う。リビングに入り、ネクタイを緩めながら璃子にパーティーの件を聞いた。「そう言えば、社長から璃子とパーティーに出席するように言われたんだけれど。詳細は璃子が知っているからって聞いていないんだ」璃子は、少し肩をビクンとさせたが、何事もなかったかのように微笑んだ。
佐奈side「佐奈、今度の土曜日は空けておきなさい。連れていきたいところがある。」「分かりました。準備しておきます」夕食後、リビングでくつろいでいた私に父が静かに言ってきた。私は嫌な予感がしたが。静かに返事をする。時代は令和だというのに、我が家では父の言うことは絶対だ。本当は一人暮らしも許されなかったけれど、大学の就活を頑張って名の知れた大手商社に採用されたことを理由に、父は渋々承諾をしてくれた。そして今、その大手商社を退職して実家に戻ったということは、再び父が絶対の世界になるということである。父のことは尊敬しているし、いずれは父のようになりたいと思っているので嫌いではない。だが、家に戻るのなら今回のような理由ではなく、歓迎されて戻ってきたかったというのが本音だった。(父が連れていきたいところなんて、どうせ決まっている。)気分転換にリビングの隅にあるグランドピアノに向かう。母はピアノの講師をしていて、小さい頃は、長い椅子に二人で座って連弾をしたものだ。大人になった今では一番端まで指が届くようになり、鍵盤が少し小さく感じながら、ショパンの幻想即興曲を奏でた。激しく、そして情熱的に鍵盤を叩くことで、心に溜まった鬱憤を吐き出す。新しい職場にはまだ
颯side「そうか、それならこれは何なんだ。」俺は、玲央から見せられた三か月前の写真を璃子に突きつけた。「俺たちが婚約している時期だよな?なんで二人のツーショット写真を本郷さんが持っているんだ?今年撮ったものだと分かるように、免許証まで証拠として見せられたよ。」玲央は名刺を渡してきた後に自分のスマホを操作して俺に見せてきた。画面を覗くと、玲央と璃子がケーキを二人で持って笑う写真だった。二人はとても幸せそうに微笑んでいて、ケーキの載ったお皿にはチョコペンで『Reo 27th Happy Birthday!』と描かれていた。璃子との婚約が公になったのは半年前だ。三か月前といえば、俺たちが一緒に暮らし始める直前の時期になる。「それは……。颯との婚約を伝えるために会った時のものよ」璃子は即座にそう答えたが、その声には以前のような自信に満ちた張りはなかった。「婚約を伝えるために会った?誕生日の日に?こんな笑顔でツーショット写真を撮って?もしそれが本当だったら、君はすごく残酷な女性なんだな。彼に同情するよ」俺の言葉に璃子の表情が一瞬で硬直する。しかし、すぐに璃子は開き直るように顔を真っ赤にして俺に言い返してきた。
颯side「お帰りなさい」家に入り玄関で靴を脱いでいると、既に風呂に入った璃子が少し濡れた髪のまま俺のところに来て抱き着いてきた。「今日は遅かったわね。帰ってくるの待っていたんだよ。」俺が何も知らないと思っているのか、上目づかいで見てくる璃子が今日、玲央と会ったことで妙に白々しく感じた。俺は何も言わずに身体を引き離し、リビングへと入っていった。「颯、どうしたの?何か会社で嫌なことでもあった?」璃子は、めげることなく俺の後ろから抱き着いてくる。その温かい熱が、かえって俺の心を冷やしていった。俺は大きくため息をつくと、先ほど玲央から貰った名刺をテーブルに静かに置いた。「俺のところに、本郷 玲央さんが俺と璃子の関係を知りたいと言って尋ねてきた。もちろん、何の事だか分かるよな?説明してくれ」玲央の名刺と俺の言葉を聞くと、璃子は俺から身を離し少しだけ後ずさりをした。その顔には、なんて答えるべきか迷っている動揺の色が濃くしっかりと見てとれる。「玲央が?それで颯はなんて答えたの?」「俺は何も言っていない。俺の口から話せることはないと言った。だけど彼は、『自分は璃子の婚約者』だと俺に言ってき
颯side「璃子、七條璃子の件です。あなたたちが結婚するのは本当ですか?あなたは璃子の婚約者なんですか?」(璃子?本郷の執行役員が璃子になんの用だ?それに何故、彼が俺たちの婚約を知っている。まだ社外には公表していない内容なのに……。)璃子との関係が公になってから周囲からの探りも増えた。しかし、あくまでも主導権は社長や璃子にあって、俺の口から言えることはなかった。社長から秘密にするよう厳命されていて、名刺を渡されたとはいえ初対面の相手には尚更、話せることなんてない。「……申し訳ないですが、初めてお会いしたあなたに私の口からは何も言えません。失礼ですが七條璃子さんとはどのようなご関係でしょうか?」玲央は俯いて小さく息を吐くと、意を決したように力強く宣言するように声を張って言った。その声には、個人的な感情の強さが滲んでいた。「私は、璃子さんの婚約者です―――――」あまりにも明確にハッキリという玲央の言葉を聞き間違えるはずがない。しかし、頭は混乱して彼の言っている意味が理解できずにいた。(璃子の婚約者?璃子は俺と交際する前に誰かと婚約していた?それとも、現在進行形で話は進んでいるのか?まさか、俺の知らないところで璃子は二股をかけていたのか)