Masuk仕事が終わり、颯のアパートに行ったがまだ帰ってきていないようで部屋の電気は点いていなかった。このままじゃ終われない。二人だけで会って颯の口からしっかりと話を聞きたかった。
仕方なくアパートが見える近くのカフェでコーヒーとサンドイッチを食べながら、颯の帰宅を待っていたが、いつまで経っても颯は姿をあらわさない。ホットコーヒーはすっかり冷めきってしまい、時計の針が二十二時を指そうとしていた時に、店員が閉店を告げに来て店から出されてしまった。
(もう仕事終わっているはずなのに、もしかして七條さんと一緒なのかな……)
朝、颯の腕に手を添えている七條さんの姿を思い出すと胸が切なくて苦しかった。緊張した様子で微笑んでいる颯は、付き合ったばかりの笑顔とそっくりだった。だけど、それは私がこの四年間二股を掛けられていたと認めたくないからそう見えるのかもしれない。
外に出ると辺りはすっかり暗くなり夜風が冷たい。颯のアパートをもう一度見て、諦めて家に帰ろうとした時のことだった。私服姿の颯がアパートに向かって歩いてきた。
「颯……。」
「佐奈?こんなところで何しているんだ。」
私がいるとは思っていなかった颯は驚いて後ずさりをしたが、すぐに表情を元に戻し昼間話しかけたような冷酷な顔になった。
「何って颯と話がしたくて。なんで私服なの?スーツは?会社帰りじゃないの?」
「もうここには住んでいない。それに昼間、璃子以外の女性とは仕事以外の話はしないって言ったのを忘れたのか。こういうことはもうやめてくれ」
颯は私の顔を見ようともせずに通り過ぎようとしたので、思わず腕を掴んで引き留めた。
「それならちゃんと話してよ。プロポーズされたのに突然別れを告げられて納得できると思うの?」
「気安く触るな。お前には飽きたんだよ。結婚しようだなんてどうかしていた。そう思ったからやめることにしたんだ。」
「何それ……最低」
「そうか。でも璃子はそんな事言わないぞ。璃子は、俺のことを愛してくれている。それに、将来も約束してあの会社の跡継ぎになって欲しいと言われて。何でも分け与えてくれるんだ。」
颯は、嘲笑うように乾いた声で「ふっ」と口元を緩めていた。
「ああ、そうだ。渡していた合鍵を返してもらえるか。もうこの部屋は引っ越して返却が必要なんだ。社長が今後の璃子との生活のためにマンションを用意してくれたから、そっちで暮らしているんだ。」
颯と一緒にご飯を食べたり一緒にテレビを見た思い出の場所が、いとも簡単になくなってしまったことへの悲しさで胸が苦しくなった。別れの現実味が一気に増して、ただただ大粒の涙が溢れてきて頬を濡らした。
(もうあの部屋に入ることはないんだ。しかも、もう七條さんと一緒に暮らしていると言うの?)
「あと会社で誤解を生むようなことはやめてくれよ。まあ変なことをしたところで危害が及ぶのは俺じゃなくてお前だけど」
目の前にいるのは、私の知っている颯じゃない。顔も声も一緒だけれど、颯はこんな冷酷な人間じゃない。これは何かの間違いだ―――――。
朝、噂を聞いた時から自分に言い聞かせていたが、颯が口を開けば開くほど、その幻想を残酷に切り裂いていく。
私が鞄からキーケースを取り出して颯の部屋の鍵だけを抜き取った。顔や手が裏切られた憎しみとこんな悲しい結末にぷるぷると震えている。
(最低な結末だけど、こんな表情や態度の颯と一緒にはいれない――――。屈辱的な別れだけど、これが颯の本性だったならこちらから願い下げよ)
手が触れ合わないように鍵を上から落として、私はすぐに背中を向けて夜の街へと駆けて行った。外の煌びやかな照明が涙で滲む。
受け入れることも完全に忘れることもすぐには出来ないけれど、この状況が何か変わるかもと願うだけの受け身ではいたくなかった。
佐奈side「佐奈さんと結婚させてください。お願いします―――――」両親への挨拶を済ませ、正式に婚約を交わしてから数か月が経った。窓から差し込む陽光は春の瑞々しさを通り越し、肌を焼くような夏の力強さを帯び始めている。街には入道雲が湧き上がり、太陽の熱がアスファルトを照り返し、人々はハンカチで汗を拭いながらも、夏祭りや休暇の計画に胸を躍らせ活気に満ちていた。私はMURAKIの次期リーダー候補として、夏の商戦に向けたプロジェクトの最終局面に追われていた。颯もまた自身が立ち上げに携わった新規事業の本格始動を目前に控え、以前にも増して多忙を極める毎日だ。「……よし、これで準備完了。あとは冷やすだけね」日曜日の午後。珍しく二人揃って休みが取れた私たちは、少し早めの夕食の支度をしていた。リビングの花瓶には、あの日に璃子からもらったブーケの代わりに、今はミニひまわりが太陽を映したような黄色い大輪を咲かせている。「佐奈、このところ残業続きで大変だったんじゃない?野菜を切るの代わろうか?」「大丈夫よ。颯こそ昨日は深夜までプレゼン資料を作って疲れているんじゃない? 椅子に座ってていいよ」「大丈夫だよ。それなら俺、お皿とか用意しておくから佐奈はサラダ
佐奈side「結婚おめでとう。無事にみんなに認められて、本当に良かったですね」「本当に、本当にありがとうございます。これもすべて松田さんのおかげです。松田さんがいてくれたから、僕たちは今日という日を迎えられました……」高砂へ行き、颯が二人に声を掛けると、玲央はすぐさま立ち上がって颯の手を強く握りしめた。その瞳はすでに潤んでおり、今にも大粒の涙がこぼれ落ちそうだ。「俺がやったのは、途中までだ。ここまで来れたのは、本郷さんの力があってこそですよ」「ちょっと、二人とも! 私を忘れないでよ。私だって頑張ったんだからね!」「……そうだな。二人で築き上げた努力の賜物だよ」璃子がわざとらしく頬を膨らませて颯を睨みつけると、颯は苦笑しながら言葉を訂正した。「みなさんいいですねーお写真撮らせてもらえますか? はい、並んでくださいー」式場のカメラマンが私たちの空気に気づいて声を掛けてくる。椅子に座る新郎新婦の後ろに私たちが立ち、四人で集合写真を撮った。新郎新婦と、新婦の元婚約者。そ
玲央side桜舞い散る季節、初めて璃子に会ったのは都内の料亭だった。「初めまして、七條璃子です」中学からずっと男子校という環境で育ってきた僕にとって、目の前に現れた璃子はあまりにも衝撃的だった。透き通るような肌に潤んだ瞳と唇。清楚な雰囲気を纏いながらも圧倒的美人のオーラを放つ璃子は、僕のこれまでの生活には存在し得ない異質の輝きを放っていた。その輝きに気圧されるあまり、嫌われないように、失礼のないようにと慎重に振る舞いすぎた結果、僕は彼女に「冷たく距離を置いている」という誤解を与えてしまった。「私がいない方が良かったんでしょ?」庭園を一緒に歩いていると、璃子がふてくされたように怒ったように尋ねてきた。距離感が分からずに困っていたと慌てて本音を吐露した次の瞬間だった。「……良かった」肩の力が抜けるようにそう呟き、ふわりと頬を緩ませた璃子を見たとき、僕の胸の中で恋の蕾が一気に花開いたような感覚に陥った。視界が急激に彩度を増し、世界が明るくなる。(ああ、この子の側にいたい。ずっと見ていたい)
璃子side「璃子、紹介するわ。私の大学の先輩の本郷さんよ。隣にいらっしゃるのは奥様の美幸さんと、息子の玲央君。玲央君は璃子と同い年で、春から同じ大学に進学するんですって。これからキャンパスで顔を合わせることも多くなるかもしれないわね」大学受験という長い戦いが終わって肩の荷が下りた三月の終わり。新生活への期待と不安が入り混じる中、私は初めて玲央と出会った。桜の蕾が今にも弾けそうな都内の老舗料亭で通された個室の畳の上で私を待っていたのは、透き通るような白い肌と長いまつ毛に縁取られた大きな瞳を持つ驚くほど綺麗な顔立ちの男の子だった。「初めまして、七條璃子です」「……初めまして、本郷玲央です」意気揚々と話をする私の母とは対照的に、玲央はどこか他人行儀で消え入りそうなほど小さな声で挨拶をした。その素っ気なさに私は、この場で「社交的で明るい優等生」を取り繕う必要はないのだと感じ、少しだけ心の毒が抜けるような解放感を覚えた。高校三年間、内申点と周囲の評価のために完璧な「いい子」を演じ続けてきた。受験から解放された今この瞬間だけは、誰のためでもない、ありのままの自分でいたかった。母の声がいつもより弾んで聞こえるのは、娘の受験が終わった喜びと久々の豪華な食事のせいだと思っていた。……高揚の裏に隠された真実を知ることになるのは、もっとずっと後のことだ。
佐奈side颯と再び付き合ってから、一年が過ぎた。「ただいま、佐奈。遅くなってごめん」「おかえりなさい。今日も遅くまでお疲れ様」土曜日の夜、鍵を開ける音とともに颯の声が聞こえてきた。キッチンで料理をしながら玄関へ向けて声を掛けると、少し疲れた顔をした颯が靴を脱いで部屋に入ってきた。一年前、颯にあってお互いへの気持ちを確かめ合い復縁したわけだが、現実は魔法のようにすべてが解決したわけではなかった。颯はベンチャー企業のプロジェクト責任者として、相変わらず寝る間も惜しんで働いている。一方の私は、この春より部下を持つ立場になった。お互いが自分の居場所を必死に作るために仕事に奮闘する日々だ。「ただいま。結局、こんな時間になっちゃったよ。せっかくの土曜の夜なのに、待たせてごめんな……」「大丈夫、気にしないで。それより仕事は片付いた? 明日は、本当に大丈夫なの?」「ああ、万全だよ。明日は、俺にとっても大事な日だからね。チームのメンバーにも、明日は大切な予定がある日だからって念押ししてきた」颯は、そう自信満々に言うと腰に手を回してからおでこにそっとキスをした。最初に付き合っていた時はあまりくっついたり、自分からキスをしてこなかったが長い破局を経た後は、以前よりも甘えてきた
颯side二人の結婚式の約一年前――――――。佐奈と再び付き合うことになり、俺は玲央と璃子に報告するために久々に三人で会いたいと連絡を入れた。その連絡をした時点で、鋭い二人は俺が何を話そうとしているのかを即座に察したのだろう。 玲央:日程は松田さんの都合のいい日に任せますが、三人でいいのですか? 璃子:玲央も私も、もう一人増えて四人でも構わないのよ?こんな返事が、ほとんど時間差なく送られてきた。スマホを並べて、ニヤニヤしながら返事を打つ二人の姿が容易に想像できる。「……ったく。この二人、俺を使って楽しんでるな。会ったら、二人は今どんな状況なのか、とことん問い詰めてやらないと」二人の恋を守るため、俺は想定よりも長い時間「婚約者」のふりをやらされることになった。多少の意地悪を言う権利は俺にもあるはずだ。佐奈にも声を掛けたが、彼女は「まだ璃子とのわだかまりが完全に解けていないし、三人の方が気兼ねなく話せるでしょ? 楽しんできて」と、あっさりと笑顔で見送られた。土曜日。玲央が予約してくれた隠れ家のような店を訪れると、既に二人は店に入っていた。一つのメニュー表を二人で覗き込み、肩を寄せ合いながら「これ美味しそうじゃない?」「璃子の好きなデザートがあるよ」なんて楽しそうに笑い







