どれほどその場に立ち尽くしていたのか分からないが、桃はようやく我に返った。彼女はそっと雅彦の首元に顔を近づけ、匂いを嗅いだ。すると、かすかに消毒液のような匂いに混じって、どこかよそよそしい香りが漂ってきた。桃は言葉にできないほどの吐き気に襲われた。本当は、彼を起こして一緒に帰ろうと思っていたのに、その匂いを嗅いだ瞬間、その気持ちはすっかり吹き飛んでしまった。騒ぎ立てるべき? けれど、桃はふと、自分がとても冷めた人間になったように感じた。まるで自分の魂が肉体から抜け出して、冷たい目でこの光景を見下ろしているような感覚。こんなことで騒いでも、結局はただの「嫉妬深い女」と思われるだけ。いったい何の意味があるのだろう。きっと雅彦は「莉子の看病をしていただけ」と言い、「たまたま髪の毛がついただけだ、変な想像はするな」とでも言うのだ。桃は無表情のまま立ち上がり、もう彼のことなど気にせず、そのまま早足で部屋を飛び出した。あの匂いが頭に焼きついて、ここにもう一秒でもいたら、吐きそうだった。彼女はそのまま会社を飛び出して、街を走り抜けた。歩道を進みながらも、桃の顔にはまだぼんやりとした表情が残っていた。信号を見ることもなく、車の往来のある道路をそのまま横切ってしまった。その瞬間、角を曲がってきたスポーツカーが猛スピードでこちらへ迫る。ぶつかる寸前、車は急ハンドルを切り、タイヤが地面をこする鋭い音を響かせながら、なんとか彼女を避けてガードレールに激突した。その音で桃はハッと正気に戻った。何をしていたのかをようやく理解し、彼女は慌ててその車のもとへ駆け寄り、窓を叩いた。「すみません!大丈夫ですか!」しばらくして、窓がゆっくり下がり、中にいた男性の顔が見えた。急ブレーキと衝突のせいか、顔には傷ができており、血が頬を伝っていた。桃は心の底から申し訳なく思った。自分がぼんやりしていたせいで、この人を巻き込んでしまったのだ。「大丈夫ですか?」彼女が問いかけると、男性は桃の顔をじっと見つめ、しばらく黙っていたが、やがて静かに言った。「……ちょっと、頭がふらつくような気がします」その言葉に桃は一層心配になった。どう考えても自分が原因なのだから、責任を取らないわけにはいかない。すぐに救急車を呼ぼうとしたが、男性は手を伸ばしてそれを止めた。
雅彦はさすがにすぐには眠れなかったが、桃のその優しい仕草に気づき、口元にうっすらと微笑みを浮かべた。やっぱり、彼女は自分のことを気にかけてくれている。今日の小さな言い合いなんて、もう忘れてもいいだろう。そんなことを思いながら、彼は静かに眠りに落ちていった。桃は、彼を起こさないように静かに席に戻り、再び仕事に取りかかる。不思議なことに、彼女の心の中にあった不安や苛立ちは、目の前で眠る雅彦の存在によって、少しずつ和らいでいった。少なくとも今この瞬間は、彼が莉子と何かある心配をする必要はない。そう思うと、気持ちが落ち着いてきて、作業にも自然と集中できるようになった。やがて、仕事が一段落し、退勤の時間が近づいてきた。桃は腕時計をちらりと見てから、眠っている雅彦に目を向けた。彼の肩から、いつの間にかブランケットが滑り落ちていて、ソファに横たわるその姿は、まるで無防備な子供のようだった。いつものように近寄りがたい雰囲気は微塵もなく、どこか別人のようだ。桃はふっと表情を和らげ、そっと腰をかがめてブランケットを拾おうとした。そのとき、ふと彼のシャツの襟元に目がとまる。そこに絡まっていたのは、一本の長い髪の毛だった。けれど、それは桃のものではなかった。彼女の髪は真っ黒なストレートヘア。ところがその髪は、明らかに栗色の巻き髪だった。見間違えるはずがない。その色も、カールの具合も、莉子とまったく同じだった。桃の心に、冷たい感情がじわじわと広がっていった。胸の奥から這い上がるように、じんわりと、そして確実に彼女の体を凍えさせるような冷気だった。彼女は、その場で固まってしまった。
「その目つき……もしかして俺を誘ってるつもりか?」雅彦は桃の軽蔑の眼差しを受け、それをわざと都合よく、いやらしい意味にすり替えた。桃は思わず呆れたような顔になり、黙って手元の設計図に視線を落とした。これ以上、この男の冗談に付き合う気はなかった。どうせ言い合いになったところで、こっちに勝ち目はないのだから。ただ、彼の冗談めかした一言で、さっきまでの怒りも少し収まった気がする。「もう怒ってないのか?」雅彦も、桃の気分が少し落ち着いたことに気づいた。桃は何も言わず、「最初から怒ってなんてない」とだけ返した。雅彦は思わず苦笑する。この女、ほんと強情だ。あんなに怒った顔してたくせに、まだそんなことを言い張るとは……。「怒ってないならよかった。もうふざけないよ、ちょっと横になる……」心配事が少し落ち着いたこともあり、雅彦も疲れを感じ始めていた。昨夜は一睡もせず、今日は休む間もなく走り回っていた。病院でも少し仮眠をとったつもりが、途中で起こされてしまい、全く休んだ気がしなかった。そう言って、雅彦はソファに横たわり、目を閉じて休息を取り始めた。彼の寝息がだんだん静かになるのを聞きながら、桃はふと視線を向ける。彼の目の下にくっきりと浮かぶクマを見た瞬間、胸が締めつけられるような気がした。でも次の瞬間、そんな自分にまたうんざりした。この人は、莉子の付き添いで夜通し看病してたから、こんなに疲れてるのよ?そんな人を心配するなんて、私ってバカじゃない?そう思いながらも、桃はそっと立ち上がり、いつもお昼寝用に使っているブランケットを手に取って、彼に掛けてあげた。
桃は、無理やり仕事モードに入ろうとしていた。そこへノックの音がして、すぐに「どうぞ」と声をかけた。扉を開けて入ってきたのは、雅彦だった。彼の姿を見た桃は、キーボードを打っていた手をふと止めた。空白だった画面に、乱れた文字列が表示されており、彼女の動揺が如実に現れていた。「……どうして戻ってきたの?」桃は視線を落とし、乱れた文字を削除した。だが、平静を装ってはいたものの、胸の内はまったく落ち着いていなかった。彼はずっとあの病院にいて、戻ってこないと思っていたのに。「俺が戻っちゃいけない理由でも?」雅彦は、もう莉子のことは持ち出すまいと決めていた。この件は、これ以上追及しても意味がないし、何より二人の関係を壊しかねない。「何か用?用がないなら、一人で静かに仕事させて」桃は冷たく言い放った。今はとにかく、彼と同じ空間にいたくなかった。せっかく落ち着かせた気持ちが、またかき乱されそうだった。その態度に、雅彦は少し眉をひそめた。以前の彼なら、腹を立ててすぐに出ていっただろう。いつだって傲慢な彼が、自分から下手に出ることなどなかった。でも、相手が桃となると、そうはいかない。彼は諦めずに歩み寄る。「ここは俺の会社だぞ。俺がどこに現れようと、筋は通ってるだろ?」「じゃあ、あなたの会社じゃ、社員にはプライバシーもないの?」桃も引かない。即座に言い返した。「俺たちって、ただの社長と社員って関係だったか?怒ったからって、夫婦の関係まで無視か?まさか、一生顔も見たくないってわけじゃないだろ?」そう言いながら、雅彦は桃の張り詰めた顔にそっと口づけた。桃は普段あまり化粧をしない。仕事のときも、口紅を引く程度のナチュラルメイク。けれど、彼女の肌は白く滑らかで、雅彦がどうしても触れたくなるような魅力を持っていた。「ちょっと、やめてよ……」思いがけないキスに、桃は驚いたものの、さっきまでの怒りはどこかに消えていた。手を伸ばして、彼のいたずらな顔をぐいっと押しのける。その目に先ほどのような冷たさがなくなったのを見て、雅彦はほっとした。「はぁ……世の中の夫婦は、ケンカしたらキスで仲直りって言うじゃないか。君はどう?まさか、ケンカはベッドで解決ってタイプか?」彼の視線が桃の背後――ソファに向けられる。彼女は仕事に没頭するタイプで、会社にい
「それは心配しなくていいわ。あなたにはまだ利用価値があるから、そう簡単に売ったりしない。それに、ちょうどいい替え玉がいるじゃない?」麗子の目に、陰湿な光が走った。桃にウイルスを注射した件は、成功したかどうかもまだ分からず、逃げられたことを悔しがっていた。だが今となっては、じわじわと苦しめて、世間に蔑まれ、周囲からも見捨てられ、絶望に沈んでいく姿を見届けるほうが、よほど痛快だった。「まさか……桃を?」莉子はその言葉を聞いて、目を輝かせた。今まさに、雅彦と桃の間にはひびが入っている。この隙をついて桃に何か起これば、彼女の心はようやく落ち着くだろう。「その件は、こっちで手を打つわ。必要があれば連絡する。あなたはとにかく身体を休めて。どうやって雅彦の心を掴むかを考えておくのが、今一番大事なことよ」麗子は詳細な計画を話すことはなかった。莉子は今怪我人で、動けないのだから、たいして役には立たない。莉子は、自分が利用されているのは薄々感じていた。それでも、今の彼女にとって、頼れるのはこの女だけだった。電話が切れた後、麗子は鼻で笑った。あの女、なんて愚かなの。たとえ本当に妻になったとしても、結局その雅彦の妻すら私の駒になるのよ。そうなれば、雅彦なんて簡単に手の中に転がせる。……雅彦は病院から慌ただしく会社へ戻った。海がすぐに、新しい入札案を見せにやってくる。「このプロジェクト、前は誰が担当してた?」雅彦が資料をめくる。社内情報が漏れたせいで、競合は価格を下げて悪質な競争に出た。本来なら確実だと思われていた案件が、予想外の展開を見せていた。ただし、菊池グループは実績も信頼もあり、最終判断はまだ下されていない。「前は……莉子です」海は包み隠さず答えるが、莉子を信じて疑わない。「莉子が裏切るなんてことは絶対にありません。私は信じてます」雅彦も頷いた。彼女の忠誠は疑う余地がなかった。もしそうでなければ、あの時、命を張って自分を守ったりはしなかったはずだ。「じゃあ、そのプロジェクトに関わった他の人間を調べてくれ。目立たないように、誰にも気づかれないようにな」「承知しました」海はすぐに行動に移る。彼が出ていったあと、雅彦は乱れたネクタイを直し、ふと視線を桃のオフィスに向けた。あいつ、俺が戻ってきたの、気づいてるはずなの
雅彦が出て行ったのを見届けると、莉子はすぐに雨織に外で見張るよう命じ、誰も部屋に入れないようにさせた。誰にも邪魔されないと確信すると、莉子はすぐさま麗子に連絡を取り、いったい何をしたのかと問いただした。電話を受けた麗子は、まったく動じる様子もなく、「どうしたの、うまくいってるんじゃないの?会社では私の方でも人を使って桃の噂を流したわよ。今の彼女、かなり肩身が狭いみたいね」と言った。「私が言いたいのはそのことじゃない。前にあなたが欲しがった資料、誰かに渡したんじゃないの?」莉子は焦りを隠せなかった。今のところ、雅彦はまだ自分に疑いを向けていないが、いずれバレるかもしれないという不安があった。それに、自分に私心があったとはいえ、菊池グループは両親が命を賭けて守った場所であり、彼女自身も菊池グループに忠誠を誓ってきた。そんな自分が裏切りなんて、心の中に引っかかりが残るのは当然だった。「まさか、私があの資料を欲しがったのは、ただ目を通すためだけだったとでも思ってるの?あなた、ちょっとお人好しすぎない?それとも、自分が菊池グループの利益を損なうようなことをしたって、まだ認めたくないだけ?」麗子にとって、今や菊池グループの命運などどうでもよかった。唯一の息子はすでに亡くなり、夫もどうしようもない状態で、薬漬けにならないと生きていけない。そんな彼女に、もはや菊池グループを手に入れる力など残っていなかった。ましてや、これ以上雅彦と張り合うことも不可能だった。だからこそ、菊池グループの機密を売って金に換えることが、彼女にとっては最も合理的な選択肢だった。どうせ手に入らないのなら、いっそ皆で一緒に沈むしかないと。「そんなことして、あなたに何の得があるの?あなたの今の贅沢な暮らしだって、結局……」「ふふ、贅沢?そんなもの何の意味があるの?私が今、生きてるのはただ、息子の仇を討つため、それだけよ!くだらないことは言わないで。もし私を裏切ろうとするなら、あなたがやったことの数々、全部雅彦にばらしてやるから。忘れないで、私たちはもう運命共同体なの。世間に責められたくないなら、おとなしく協力してちょうだい……」麗子はもう、莉子に取り繕う気などなかった。かつての彼女の態度がずっと気に食わなかった。今となっては、莉子の裏切りの証拠を握っている以上、逆らうこ