LOGIN若き極道の矜持を貫く京司。香港の闇に育てられた鈴華。 決して交わるはずのなかった二人の人生が、 古都、京都の裏社会で激しく衝突する。 互いの傷を埋めるように惹かれ合う二人を待つのは、過酷な決断だった。 逃れられない過去を抱え、彼らが最後に選ぶ「居場所」とは――。
View More黒塗りの最高級セダンが、会場前の静寂を切り裂くように滑り込んできた。タイヤが砂利を踏みしめるわずかな音さえ、周囲の緊張感を煽る。車が完全に停止するよりも早く、運転席から弾け飛ぶように降りた若衆が、最敬礼の姿勢で後部座席のドアに手をかけた。重厚なドアが開くと同時に、立ち並ぶ組員たちの背筋が一斉に伸びる。車内から姿を現した京司。仕立ての良い漆黒のスーツに身を包み、一切の無駄を削ぎ落としたその佇まいは、動かずとも周囲の空気を支配する圧倒的な圧を放っていた。京司がゆっくりと地面を踏みしめると、助手席から降りた若頭補佐の錨が、影のようにその斜め後ろにぴたりと付く。錨は鋭い視線で周囲を一度掃き、京司の歩みを邪魔するものが微塵もないことを瞬時に見極めた。「錨、粗相せんようにせなあかんで」京司の低く落ち着いた声が、冷たい空気の中に溶け込む。「承知しております」錨の短い返辞を受け、京司は表情一つ変えず、正面玄関へと歩を進めた。並み居る男たちが「お疲れ様です!」と地鳴りのような声を上げる中、彼はただ視線を一点に据えたまま、突如その動きを止めた。「……っ!?」京司の視界が、一点で釘付けになった。黒塗りの高級車から降りてきた宏一の背後に、影のように付き従う鈴華の姿。彼女の顔を見て、京司は戦慄した。青黒い内出血が、彼女の表情を無慈悲に奪っている。酷く腫れあがったその肌は、見るも無惨な暴虐の痕跡を物語っていた。顔の半分は、無機質な白い眼帯によって無残に占領されていて、その清潔すぎる白さが、はみ出した青紫の痣のどす黒さを、いっそう不気味に、鮮烈に浮かび上がらせている。鈴華の顔に刻まれた無残な痕跡。その出処が宏一であることに、疑いの余地などなかった。視界が爆ぜるような真紅に染まる。「貴様ぁ、何さらしとんじゃッ!!」コンクリートの静寂を暴力的に引き裂いて、野太い咆哮が駐車場内を震わせた。思考が介入する隙など微塵もない。言葉を吐き出すより早く、京司の右腕は宏一の喉元へと突き出されていた。肉が軋む音を立て、京司の拳が宏一の胸倉を無慈悲に掌握する。駐車場に満ちていたすべてが、ぷつりと糸が切れたように色を失い、静まり返った。事態の推移を呑み込めぬ京司の意識は、空白の数秒を彷徨う。その沈黙の渦中で、宏一だけが異物だった。驚きという感情を切り捨
鈴華が京司の前からその姿を消して、数日の刻が流れた。京司は組事務所の静寂の中にいた。身体を深く沈めた重厚な革椅子は、今の彼にはあまりに冷たく、そして空虚だ。指先に挟んだ煙草から立ち昇る紫煙は、出口のない悔恨のようにゆらゆらと宙をさ迷い、天井の闇に溶けていく。「守ると言うて…大風呂敷を広げたんやが、なんもできへんかったな」吐き出した言葉は、乾いた咳のように虚空に消えた。脳裏を支配するのは、あの日、ずぶ濡れで立ち尽くしていた鈴華の姿だ。濡れた睫毛の奥に湛えられた、断腸の思いを秘めた瞳。自分を射抜いたその哀しげな眼差しが、網膜に焼き付いたまま剥がれようとしない。差し伸べるべき手は、ただ無力に宙をかいた。守り切れなかったという苦い記憶が、今も京司の心臓をじわじわと締め付け続けていた。「――という段取りで、万事よろしいでしょうか、カシラ」錨の静かな声が、京司を思考の沼から強引に引き剥がした。意識が急速に現実へピントを合わせ、灰皿で燻る煙草の細い煙がようやく視界に入る。「…おう。何の話やったか、もう一遍言うてくれ」京司の呆けた問いに、錨の眉間に一瞬だけ微かな困惑の影が走った。だが、彼はすぐさま表情を殺し、淀みない口調で言葉を継いだ。「明日の結縁盃に伴う義理立ての件ですよ。親父が急な出張で動けなくなりまして、代わりにカシラが顔を出していただくということで、話を通しています。」※結縁盃…擬制の血縁関係を結ぶための儀式「ああ……そうやったな」京司は短く答えた。喉の奥に張り付いた言葉を、無理やり飲み込むような響き。窓の外の喧騒とは裏腹に、部屋の中には逃れようのない組織の論理が重く淀んでいた。「場所は、どこや?」「大阪です。」その地名が耳を打った瞬間、京司の指先で燻る煙草が意志に反してわずかに震えた。吐き出そうとした紫煙が喉の奥でつかえ、彼はそれを飲み込むようにして目を伏せる。「……どうかされましたか?」訝しむ声を振り払うように、京司は灰を落とした。「…いや。なんでもあらへん」言葉が否定の色を帯びれば帯びるほど、皮肉にも彼の意識は、消えた鈴華の残像によって塗り潰されていった。「錨…、お前、槇村宏一ちゅう男を聞いたことあらへんか?」京司の問いに、錨は煙草の煙を吐き出し、その灰色の向こう側を見つめた。「…大阪六穣会の若
張り詰めた沈黙の糸を断ち切るように、岸辺から鋭い一声が飛来した。「カシラ、あきまへんで!」対岸から響いたその切迫した叫びは、静かな川面を裂くように届いた。一人の男が、なりふり構わずこちらへ向かって駆けてくる。男は足元の危うい飛び石を、まるで獣のような躍動感で、それでいてひどく慌てた足取りで渡りきった。息を切らして現れたその男の眼光が、ふと川の中に佇む鈴華を捉える。「わぁっ1お嬢! どないしたんです、そのお姿!ずぶ濡れやないですか!」驚愕に染まった彼の声が、水飛沫の音をかき消して周囲に虚しく響き渡った。「どないな状況や、これ……」割り切れぬ思いを吐き捨てるように零しながらも、男の視線は鋭く三人との間を往復する。戸惑う鈴華を促すようにその手を取り、足場の危うい飛び石の上へと、優しく引き上げた。「カシラ、……京都で問題起こしたらあかんってオヤジにきつく言われてますやろ?」その諫言に、男は短く、苦い舌打ちを吐き出した。感情のさざなみを押し殺すように踵を返すと、彼は京司に背を向け、迷いのない足取りで飛び石を打ち鳴らす。湿った石の感触だけを残し、男の背中は遠ざかっていく。「……帰るぞ」吐き捨てられた言葉は、鴨川のせせらぎに溶けるように消えていった。。「待てや、話はまだ終わってへんで!」京司の怒号が、男の背中に叩きつけられた。だが、男は一度も振り返ろうとはしない。「すんまへん、名乗り遅れましたわ。自分六穣会で若頭補佐やらせてもらってます、早緑藤四郎ちゅうもんです。以後、よろしゅう頼んますわ。…ほんで、さっきの人ですけど、六穣会の若頭、槇村宏一…お嬢さんの兄貴ですわ」「……槇村、宏一」繰り返す声が微かに震える。その姓名が意味する圧倒的な力の奔流を、京司は肌で感じ取っていた。早緑は京司に素性を問う事なく言葉を続けた。「どなたさんかは知らへんけど、これ以上はご勘弁願いますわ。お嬢も、すっかり冷え込んでおいでやさかい」男は申し訳なさそうに、だが拒絶の意を込めて京司へと深く頭を下げた。震える鈴華の肩を抱き寄せるように支え、男はそのまま濁流の唸る対岸へと歩を進めていく。「君……っ」京司が縋るように声を絞り出す。鈴華がわずかに顔を上げ、京司の言葉を遮るようにその瞳を射抜いた。その眼差しは深い憂いを帯びていた。「……ごめん
男の口から漏れたのは、鉛のように重い嘲笑だった。「親父を放り出して男遊びか。いい御身分だな、鈴華」鈴華は反論しなかった。というより、できなかった。ずぶ濡れのまま立ち尽くす彼女の意識は、ただ一点、白くなるほど噛みしめた唇に集中していた。乱れた髪からこぼれ落ちる雫が、震える唇の上で絶えず虚しく弾け続けている。「組長付きなんぞ、さっさと辞めちまえ!」男が吐き捨てた言葉は、湿気を帯びた朝霧の中でひどく無機質に響いた。「おんどれ、さっきから聞いとれば……何様のつもりじゃ!」京司の咆哮が鴨川の静寂の中に響き渡る。瞳には怒りの焔が宿り、その切実な叫びは彼女の背負ってきた苦悶を代弁するかのようだった。地を這うような低い熱を帯び、その瞳に宿ったのは、激情というよりは、鋭利な刃物に近い殺気だった。「彼女がこの街でどないな思いをしてきたか…ほんまにただの遊びで、京都をふらふら歩いとったんやと思っとるんか!」「あぁ? なんだてめぇ。鈴華の男か? ――部外者は黙ってろ」男の嘲笑が消えぬうちに、京司は濡れた飛び石を蹴った。一足で間合いを潰し、迷わず男の胸ぐらを掴み上げる。雨に濡れそぼった京司の拳から、冷たい雫が男のシャツにじわりと滲み、どす黒い染みを作っていく。拳を握りしめる京司の指先は、怒りで白く強張っていた。「これは六穣会の…槇村家の問題だ。てめぇには関係ねぇ」「関係ないことあるかい!」「あぁ?……殺すぞ、こら」ドスの利いた低い声が、男の喉の奥から這い出す。その眼差しに宿るのは、比喩ではない本物の殺意だ。剥き出しの敵意が、暴力的な質量を持って京司の全身にのしかかる。だが、京司は一歩も引かなかった。むしろ、挑発を噛み砕くように口角を吊り上げる。「やれるもんなら、やってみぃや!」「やめて!」鈴華の悲鳴に近い叫びが響き渡る。しかし、昂ぶった二人の鼓膜には、もはや彼女の震える声など届いてはいない。視線が絡み合い、火花を散らす。均衡は、いまにも崩れようとしていた。指先がわずかでも動けば、すべてが崩壊する…。二人は獣のように、互いの喉元を食い破る瞬間だけを凝視し続けていた。