そんなことがあってから、一週間が経とうとしている。
時間を過ぎていくにつれ、『失恋』という二文字は徐々に、しかし確実に私の心に浸透していった。もう私の想いが通じることはないのだし、兄のことはスッパリと諦めよう。
そう決意したはいいけど、これまでずっと兄ひとすじだったわけだから、なにをしていても兄のことがチラついた。
それはもちろん、大学にいるときだって例外ではなく――
「――希、瑞希」
となりで必死に呼びかける亮介の声に、私はハッと顔を上げ、彼のほうに顔を向けた。
大学の中庭には随所にベンチが設置されていて、私たちはそのなかのひとつに腰を下ろしている。夏の近づく、暖かい陽の光に照らされた亮介の顔が、こちらを見つめていた。
「あ、なに?」
「今、完全に、どっかトんでただろ」
「ごめんごめん。ちょっと寝不足で」
半分呆れたような、けれども半分は心配しているような眼差しを受けて、私は敢えて明るく笑ってみせたけど、彼はすべてを見通したように首を横に振る。
「ごまかさなくていい。どうせ兄貴のことでも考えてたんだろ」
「あはは……さすが亮介だね」
超能力者みたいに言い当てられたものだから、つい笑ってしまう。
ずっと相談に乗ってもらっていた翠と亮介には、兄に拒絶されて完全に失恋したことをすでに報告済みだ。翠は「つらかったね」と言いながら優しくハグしてくれたので、また涙腺が緩みそうになった。
亮介はただ「これでよかったんだよ」とつぶやいただけだったけど、私を見つめる瞳は悲しそうで、彼なりに心配してくれているのが強く伝わってきた。
本当は勉強も課題も放り出して、自分の部屋に閉じこもっていたい気分だったけれど、ふたりのおかげでどうにか前を向くことができたのでありがたい。持つべきものは仲のいい友人なのだと、しみじみ思う。
「でもしっかりしろよな。そろそろ実習も始まるわけだし」「そうだね。気合い
言葉の内容にも、こちらを見つめるいつになく真剣な眼差しにもおどろいた。 ……ふたりがいいって、どういう意味? それに、今週の土曜って……わざわざ大学の授業がない日を指定してくるなんて。 私と会う時間を個別に作りたいって言ってるのと同じだ。「え、あ……」 私は言葉に詰まった。 お弁当のときみたいに「冗談だ」と言ってくれるのを期待したけれど、今回は違うみたいだった。 その証拠に、彼はちっとも笑っていない。 緊張感をまとった表情で、私の様子を窺っている。「ち、違ったらごめん。ふたりで行くって、その、そういう意味……?」 予防線を張ったのは、今まで亮介を異性として意識したことがなかったから。 私がそうだから、きっと亮介のほうも私を異性としては見ていないだろうという思いがあった。 「なにかの間違いでは?」と戸惑いながら慎重に訊ねると、亮介は迷うそぶりもなくこくんとうなずいた。 ……やっぱり、そうなんだ……!「……ごめん、ちょっとびっくりした。正直なところ……亮介を男の人として見たことがなくて」 少し考えたあと、私は姿勢を正して口を開いた。 まだ混乱しているけれど、男性としての亮介とふたりきりで出かけている自分の姿を上手く想像することができなかった。 それ以前に、まだ兄以外の男性に関心を向けられそうにないのもある。 亮介の反応を見ながらおずおずと伝えながら、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。 思えば、異性からいわゆる『告白』を受けたのはこれが初めて。 だから、そもそも恋愛対象ではなかったことを素直に告げてしまって、傷つけてしまったのでは――という不安に駆られる。
「この次があるから帰るわけにもいかないし、外で時間潰すって言っても周りになにもないし。駅から離れてるってもの厄介だね」 九十分というと長い時間のように思えて、実際なにかしようとするとそうでもなかったりする。 近隣にカフェやショッピングやレジャー関係の施設はないため、それらを求めると最寄り駅まで出る必要がある。 かといって、キャンパスから駅に出るまでバスを使って二十分はかかるので、バスの待ち時間を含めて往復で一時間は必要。 そうなると、実際に行動できる時間はたった三十分だ。中抜けするのはあまり現実的じゃない。 そのため行き場のない私たちは、こうして中庭で話しながら文字通り時間を潰しているのだ。「――そうだ。駅って言えばさ、駅ビルのなかのアートギャラリーで今度面白そうな催しがあるんだよね」 話しながら、ふと思い出して私が言う。「催し?」「うん。『夜明け』をテーマにした作品を集めた展覧会でね――」 通学中に見かけたポスターに書かれていた内容を、亮介に伝える。 中世から現代に至るまで、夜明けを題材に描かれた世界の絵画を展示する『夜明けの彩を探して』という催し。 「ふうん。瑞希、そういうの好きだもんな」「うん。せっかくだし、会期中に寄ろうと思ってる」 昔からアートには興味があって、美術館に足を運ぶことも多い。 同じ白いキャンバスが描き手によってさまざまな風景や様相に変わっていくのはとても面白いし、素敵だと感じる。 私自身は不器用なので絵を描いたりはできないため、もっぱら鑑賞専門だけれど。 今回の催しに惹かれた理由はもうひとつ。テーマに据えられている『夜明け』というフレーズだ。 心が弱っているときには、とにかくなにかに縋りたくなってしまうもの。 傷心中の私もその状態で、暗闇を押し上げて顔を覗かせる太陽のような明るい景色を欲していた。 自分の状況に題材を重ね合わせ、希望を抱きたかったのだ。 「あのさ、それ俺も一緒に行っていい?
そんなことがあってから、一週間が経とうとしている。 時間を過ぎていくにつれ、『失恋』という二文字は徐々に、しかし確実に私の心に浸透していった。 もう私の想いが通じることはないのだし、兄のことはスッパリと諦めよう。 そう決意したはいいけど、これまでずっと兄ひとすじだったわけだから、なにをしていても兄のことがチラついた。 それはもちろん、大学にいるときだって例外ではなく――「――希、瑞希」 となりで必死に呼びかける亮介の声に、私はハッと顔を上げ、彼のほうに顔を向けた。 大学の中庭には随所にベンチが設置されていて、私たちはそのなかのひとつに腰を下ろしている。 夏の近づく、暖かい陽の光に照らされた亮介の顔が、こちらを見つめていた。「あ、なに?」「今、完全に、どっかトんでただろ」「ごめんごめん。ちょっと寝不足で」 半分呆れたような、けれども半分は心配しているような眼差しを受けて、私は敢えて明るく笑ってみせたけど、彼はすべてを見通したように首を横に振る。「ごまかさなくていい。どうせ兄貴のことでも考えてたんだろ」「あはは……さすが亮介だね」 超能力者みたいに言い当てられたものだから、つい笑ってしまう。 ずっと相談に乗ってもらっていた翠と亮介には、兄に拒絶されて完全に失恋したことをすでに報告済みだ。 翠は「つらかったね」と言いながら優しくハグしてくれたので、また涙腺が緩みそうになった。 亮介はただ「これでよかったんだよ」とつぶやいただけだったけど、私を見つめる瞳は悲しそうで、彼なりに心配してくれているのが強く伝わってきた。 本当は勉強も課題も放り出して、自分の部屋に閉じこもっていたい気分だったけれど、ふたりのおかげでどうにか前を向くことができたのでありがたい。 持つべきものは仲のいい友人なのだと、しみじみ思う。 「でもしっかりしろよな。そろそろ実習も始まるわけだし」「そうだね。気合い
「…………」 懇願するような響きさえ籠った口調に、私はそれ以上なにも言えなくなった。 何度告白しても、兄の答えは変わらない。 残酷な事実を改めて突きつけられると、この場に留まり続けることができなくなって、逃げるようにリビング側の扉から飛び出した。 そのまま廊下を進み、階段を駆け上がって自分の部屋に駆け込む。 扉を閉めると、私はその場に力なくへたり込んでしまった。「っ……く、ぅうっ……」 胸の奥をぎゅっと掴まれたように苦しくなって、上手く呼吸ができない。 鼻の奥がツンと痛んで、目頭が熱くなる。 なんとなく予感はしていたものの、決定的な言葉を突きつけられると、心がどうにかなってしまいそうだった。 ――この気持ちは永遠に報われないんだ。 兄の妹として育てられたから。兄にとって私は家族だから。 この先なにがあっても、ひとりの女性としては見てもらえない。 やるせない思いが堰を切ったように溢れ出し、両目からぽろぽろとこぼれ落ちた。 もうすぐ夕食だから、早く泣き止まないといけないのに、涙はちっとも止まってくれない。 赤い目をしていたら、優しい母は「どうしたの?」と必ず訊ねてくれるだろうけれど、本当の理由は決して打ち明けられない。打ち明けてはいけない。 ――そろそろ現実を見なきゃ。 つらいけど、苦しいけど、いい加減、兄のことは諦めるべきなのだ。 兄が好きだからこそ、彼の幸せを願っているし、迷惑をかけたくない。 私は瞼が腫れないようにそっと涙を拭って、どうにか立ち上がる。 すぐには無理かもしれない。 ずっと兄だけを見てきたのだ。そう簡単に、好きな気持ちは薄れたりはしない。 それでもゆっくりと時間をかけて、家族になっていかなければ。それを
私はすっくと立ち上がると、ダイニングとリビングの境界線まで移動して、空間を遮るための引き戸を引いた。 家族全員、風通しのいい空間を好む傾向にあるから、この扉を使用することはめったにないけれど、仕切りを一枚設ければ、母に私たちの会話が届くことはない。「好きな人に冷たくされるのは苦しいよ。私のこと、きらいになった?」 気兼ねない言葉選びができるようになったのをいいことに、扉に寄りかかるようにして立った私が無遠慮に続ける。 核心に迫るのは少し怖かったけれど、ここ最近、ずっと確かめたくてたまらなかったことだ。この勢いでなら、訊ねられると思った。「瑞希は大事な妹だ。それは昔から変わらない。きらいになったりなんてしないよ」 鋭く切り込むように問いかける私に反して、兄はふっと表情を綻ばせて穏やかに答えた。 いかにもな模範解答を受け取りながら、受け入れてもらっているのに突き放されているような気分になるのはどうしてだろう、と胸が痛くなる。 ……私が訊きたいのは、そういうことじゃない。「妹って言うけど、私たち、血がつながってないんだよ。本当のきょうだいじゃない」「だとしても、本当のきょうだいみたいに育ってきたんだ。今さら、瑞希をそういう目では見られないし、見ちゃいけない。もう冗談はよしてくれ」 口調が優しく窘めるものであればあるほど、兄からの拒絶を感じた。 それだけに留まらず、私の気持ちが偽物であるかのような言葉まで。「冗談なんかじゃない!」 思いのほか強い口調になってしまったことに、自分でも驚きながら彼をまっすぐに見据える。「――私はずっと本気だよ。お兄ちゃんが好き。こんな気持ちになれるのは、お兄ちゃんだけなの。どうしてわかってくれないの?」 少なくとも、私の想いが真剣であるのはとっくに理解してくれているものだと思っていた。 だからこそ兄は、私を距離を置こうとしているのだと。 でもそうじゃなかった。 二回も気持ちを伝えてな
「当直明けだったから、午後には帰って来てたんだ」 兄はスマホに視線を注いだまま、声だけで淡々と返事をする。「そうだったんだ。お疲れさま」 兄がこの時間帯に家にいる理由は、だいたい当直明けか有休を取得したかのどちらかだ。 キッチンで話を盗み聞きしたときに予測はついていたけれど、今知ったという体でうなずいてみせる。「――さっきここでお母さんと話してたの、お兄ちゃんだったんだね」 兄の存在を意識していたと思われたくなくて、私は兄が在宅していたことに気が付かなかったふりをした。「ああ」「もしかして、また縁談?」「そんなところ」 からかうように訊ねると、兄は声の調子を変えずに肯定する。「今回はどうするの? 受けるの?」 知りたくない気持ちと同じくらい、どうするのか確かめたい気持ちが急激に高まり、衝動的に訊ねてしまったのを、自分自身でも驚く。「まさか」「じゃあ、断ったんだ」 わかりやすく声のトーンが明るくなってしまったに違いない。そうであってほしいと願っていたから。「今はな。当たり前だ」「……そっか」 端的な返答を得て、ホッとしたのは一瞬だけ。すぐに胸にモヤモヤしたものが広がる。 『今は』って言い方をするのは、そのうち受けるかもしれないから? それとも、よろこんでしまった私に期待を持たせないようにするため? いずれにしても、心底安心できるような答えではなさそうだ。 兄はずっと、手元のスマホを見つめていて、私には目もくれない。 あのときからずっとそうだ。 兄へ改めて想いを伝えたあの春の夜からずっと、彼は私と面と向かうのを避けるみたいに、私の視線に気が付かないふりをする。 まるでそれが、揺るぎない自分の答えであると主張するように。 ――すっかり警戒されちゃってるな。 わかりやすい拒絶に傷つくけれど、自分