兄はそれを聞いてどう思うのだろうと気を揉んだけれど、彼は涼しい顔をしてうなずいていた。
まるで、自分にはまったく関係のないことであると示すみたいに。 「初めてのデートってそういうものよね。漣、わかってると思うけどお父さんには内緒よ」 「はいはい、わかってる――俺はもう出るから」 母が自身の唇の前で人差し指を立てて笑うと、兄は何度か適当にうなずきながら席を立った。 そして、となりの椅子に置いていたバッグを手に取り、サッサと玄関へと向かってしまった。 「行ってらっしゃい」 「お兄ちゃん、気を付けて」 母と私とがその場から声をかけるけれど、兄は「うん」と返事をしただけで、さきほどの話題に言及してくることはなく、家を出た。 「……お、お母さんっ、なんでお兄ちゃんに言ったりするの?」 玄関の扉が閉まった音が聞こえるや否や、再び母を咎める。 「ごめんごめん、いやだった? でも心配しなくて大丈夫よ。漣は口がカタいから、お父さんに話したりしないでしょ」 ……そういうことじゃないんだけど。 心のなかで、音にはできない思いをつぶやきつつ、やはりまったく悪びれない様子の母は、後片付けのためにキッチンへ戻ってしまった。 残された私は少しずつフレンチトーストを口に運びながら、今しがたのできごとを反芻した。 ――お兄ちゃん、私が男の人とデートするって知って、どう思ったかな。 あれだけ熱烈に好きだって訴えてたくせに、もう心変わりしたんだって呆れてる? それか、ホッとしてる? 私の興味がほかの男性に移ったほうが、兄にとっては好都合だろうから。 いずれにしても、あまり関心がなさそうに見えたのは悲しかったな。そもそも、兄にとってはさほど気にならないことなのかも。 ……当たり前か。お兄ちゃんにとって私はただの妹なんだもん。 わかってるけど、現実として突きつけられるのはやっぱりつらいな……。 いや「お兄ちゃんっ……ん、ぅんっ……」 唇を割り侵入してくる、兄の熱くぬめった舌に追い縋る。 十分前には想像すらしていなかった恍惚に翻弄されながら、私は小さく喘いだ。 興奮に満ちているのに、頭の片隅はひどく冷静で、「自分の声なのに初めて聞く声だ」と思う。 こんなに媚びた声を出せるなんて、ちっとも知らなかった。「っはぁっ……はぁっ……」「ごめん、苦しい?」 男性とキスをするのが初めてな私にとって、キスしながら呼吸をするのはとても難しい。 ふと兄の唇が離れたタイミングで激しく胸を上下させてしまうと、至近距離で私の様子を窺う兄が、申し訳なさそうに眉を下げる。「ううん、大丈夫っ……私こそごめん、その、慣れてなくて」 兄の背中に回した腕をそっと解いて謝る。 二十歳も過ぎれば、これくらいの経験はあっていいものなのに。 自分から誘うような真似をしておきながら、興がさめてしまったのではと、情けない気持ちになる。「……いや、そのほうがいい」「え?」 私の心配をよそに、兄は小さく首を横に振った。「瑞希に他の男が触れていたらと思うと、嫉妬でおかしくなりそうだ」 兄が口元を綻ばせる。台詞通り、私が不慣れであってホッとした、とでも言いたげに。「そんな風に思ってくれてたの? ……知らなかった。お兄ちゃんには、嫌われてると思ってたから」「嫌う? そんなわけないだろ」 嫉妬というフレーズにうれしくなって、自然と声のトーンが上がってしまう。それを聞いた兄が、ふっとおかしそうに笑った。「だって、フラれてるのに何度も迫ってくるような妹、嫌いを通り過ぎて、もはや怖いよ。自覚あるもん。かかわりたくなくなるのもわかる」「だから、そんなことないって」
鼻先が触れそうな距離に兄の顔がある。 どうして――そう問う前に、兄の唇が重なった。 おどろきのあまり身じろぎすら叶わない。 目を閉じることもできず、兄の舌が私の口腔内をゆっくりと這い回る。「っ、んぅっ……ふ、ぅっ……」 舌先の感触に、ぞくぞくとした甘い快感が弾ける。 状況を理解するのに少し時間がかかった。 私、お兄ちゃんとキスしてる……? いったいどうして? お兄ちゃんは、ずっと、私を拒んでいたはずなのに―― ひとしきり口内を搔き混ぜられたあと、兄が私の唇を解放する。「……ごめん、瑞希」 それから、ひどく苦しげに眉根を寄せて、掠れた声で謝罪の言葉を口にする。「このまま、瑞希が遠ざかっていってしまうと思うと……触れずにはいられなかったんだと思う」 呆然と、まるで別の誰かのことを話すみたいな物言い 兄も自分自身の行動におどろいているみたいだ。「瑞希を傷つけたのに、こんなことをしてる俺は残酷なんだろうな」 兄の親指が、彼の唾液で濡れた私の唇をそっとなぞる。 私を傷つけたと言いながら、兄の方がずっと傷ついたような顔をしている。「っ、そんなことないっ……」 反射的に首を横に振った。「――わかっちゃった。私、やっぱりお兄ちゃん以外の人を好きになったりできない。今だって、こんなにドキドキしてるのに」 びっくりしたけど、キスされた瞬間、かつてない幸福感を覚えた。 触れ合った唇が熱く、甘く蕩けていきそう。 心臓が壊れてしまうかと思うほど激しく脈打っていた――今も、そう。 それで、わかった。私はまだ、兄のことを諦められそうにな
だから父の節目の誕生日には、できる限りのことをしてお祝いをして、少しでも恩返ししたいのだ。 兄は私の言葉を聞くと、うれしそうに瞳を細めた。「それ当日、本人に直接言ってあげて。なによりもよろこぶから」「うん」 だといいな。そう思ってうなずく。 ……あ、今、自然に話せてる。 気まずさもあって、ここ数日はぎこちない空気が流れてしまいがちだった。 けれど、こういう、きょうだいとしての会話や時間をまた少しずつ重ねていければ、そのうち恋心も薄れていくのかな……。 安堵したような、でも寂しいような複雑な気持ちでいたとき。「……お兄ちゃん?」 兄が、膝に置いている私の指先をじっと見つめていた。「爪、珍しいな」 普段、ネイルを塗らない私だからすぐに気付いたのだろう。意外そうに兄がつぶやく。「……あ、えっと、たまにはね」 兄は私が明日、ほかの男の子と出かけることを知っているはず。 だとしても、そのための準備であることを伝える気持ちにはなれなかった。 ごまかすように笑うと、今度は兄の視線が、扉の前にかけられた青いワンピースに向けられているのに気づく。「…………」 兄のまなざしが再びこちらへ向けられた。 その目が、さきほどと同じく「珍しいな」と語っている。「……友達に勧められて。私、あんまり色味の強い服って持ってないから。派手かな?」「いや、そんなことない」 やはり服に着られている感じになってしまうだろうか。そんな不安を抱きながら訊ねると、兄はすぐさま否定をした。
「あ、うんっ、大丈夫」「入るよ?」「うん」 思わずその場に立ち上がって返事をすると、兄は念入りに確認してからそっと扉を開けた。 きょうだいといえど異性だから、プライベートな領域に足を踏み入れるときは、最大限に気を使ってくれているらしい。兄はいつもそうだ。 扉の向こう側に見えた兄は、シャワーのあとなので、ボタンダウンのパジャマを着ている。 色はネイビーで、袖や襟の縁が白く、細く縁どられている大人っぽいデザインだ。 美形でスタイルのいい兄は、こんな格好でも絵になる。 そういえば、生活リズムの関係で、兄の寛いだ格好を見るのは久しぶりかもしれない。肩の力が抜けた雰囲気も素敵だ。「ごめん、少し話したいことがあって。父さんのお祝いなんだけど」「あっ、そうだね。秋にはもう還暦だもんね。……座って」 見惚れてぼーっとしてしまった。私は小さく首を横に振ってから、自分のとなりに兄を促した。 あいにくこの部屋で座れる場所といえば、デスクのチェアか、ベッドしかない。 兄はこちらに座ろうと一歩踏み出したけれど、部屋の隅のデスクに目を留めてそちらへ方向転換した。そこからチェアを引き寄せると、私の正面においてそこに腰を下ろす。 見えない境界線を引かれた気持ちになるのは、これで何回目だろう。 何度経験しても勝手に傷ついてしまうのをやめたいのに、できないのがもどかしい。「家族で食事するところまでは決めたよな。で、俺と瑞希でなにか形に残るものをプレゼントしたいなって思ってる」「いいね」 さっそく本題を切り出す兄に、私は自分の感情をごまかすみたいに笑顔を作った。「お金は大丈夫だよ。あまり高価なものでなければ」 長期休みに入るたびに、その期間だけ限定的にアルバイトをしている。キャンペーンスタッ
彼女からのアドバイスは三点。 一点目は、洋服を新調すること。 私は普段、黒やグレーなどの地味めな色味の服を選ぶことが多いけど、翠と訪れたお店で「もっと華やかなものがいい!」と熱弁され、ブルーのワンピースを推された。 Aラインの、大人っぽさとかわいらしさが同居するデザインが素敵で、思い切って購入することに。 今、そのワンピースは扉に吊るしたハンガーフックにかけられている。 自分には華やかすぎるのではと一度は躊躇したけれど、こうして眺めているとやっぱりかわいい。 これを明日着ていくのだと思うと、気持ちが引き締まる。 二点目は、メイクやネイルを整えること。 大学へ行くときのメイクは必要最低限で、ファンデーションにアイブロウ、リップ程度のもの。 翠に「男はデートに対する気合いを服やメイクで測ってるんだからね!」と熱弁されたので、慣れないフルメイクで臨むことに。 動画投稿サイトには、簡単にこなれた風に見せられるテクニックを披露している配信者がたくさんいて、勉強になる。 実は今日、帰宅してからずっとメイクの研究をしていたのは。誰にも内緒だ。 デスクのほうに視線を向けると、先ほど自身で並べたメイク道具が目に入る。明日、ちゃんと研究の成果を出せますように。 ネイルに関しても、普段は爪を保護するためにネイルオイルを塗るくらいで済ませてしまっているけれど、さっきお風呂上がりに、翠おすすめの偏光パールのネイルポリッシュを塗ったところだ。 色味は上品なベージュ。私のように不器用な場合、マットよりも偏光パールの質感のものを選べば、アラが目立ちにくいらしい。 当日に塗ったほうがよりきれいさを保てるかと思いつつ、失敗してやり直しとなる未来も思い浮かんでしまったので、前日のうちに済ませておくことにした。 そして最後、三点目。頭のなかを空っぽにして楽しむこと。 翠としては、これがいち
私がちょうど夕食を食べ始めようかというころ、母から、大事には至らなかった旨の電話が来た。 伯母は独り身で近くに頼れる親戚もいない。そのため母もあちらでの諸々の対応に追われていて、なかなか連絡を入れるタイミングがなかったらしい。「俺も退勤後に電話で話して、安心したところだったよ。……伯母さん、そそっかしいところがあるから」 兄が困った風に眉を下げる。 彼の言う通り伯母は少し気早なところがあるものの、にこにことした笑顔が印象的で、家族とともに里子の私が訪ねてもいつも歓待してくれる素敵な女性だ。 私も授業終わりに手伝えることがあればと申し出てみた。けれど、母は気を使ってくれたのか「留守番をよろしくね」と言うだけだった。 明日は土曜日。そう、亮介とのデート当日が迫っているからだろう。「お父さんとも合流して、今夜は遅いから向こうに泊まるって、明日のお昼ごろ帰ってくるみたい」「そっか」 母からのもうひとつの伝達事項を告げると、兄は小さくうなずいた。 今夜、この家には私と兄のふたりきり。 ようやく気まずさが少しずつ抜けてきたというのに――普段、両親がそろって丸々一夜空けることは稀なので、言いながら妙に緊張してきてしまう。「あっ、夕飯は食べた? まだならなにか作るよ」「いや、外で済ませたからいい。シャワー浴びてくる」 変に意識しないように明るく声をかけてみたけれど、兄も少なからず私とふたりという状況を警戒しているのかもしれない。 やや食い気味に答えると、入浴の準備をするためかすぐに二階の自分の部屋へと向かった。「…………」 再びひとりになったリビングが、やけに寂しく感じる。 兄が帰宅する前と、なにひとつ変わらない風景なのに、違って見えるのは言外にまた兄から距離を置かれ