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第368話

Author: 風羽
「お前、独身だろう?なら、そういう遠慮はないはずだ」

彼の手の甲がかすかに瑠璃の腕に触れた。

一瞬だけ、甘い温度を帯びたが、すぐに離れる。

瑠璃は一日中の疲れを抱えていた。

これ以上、輝とやり合う気力はない。

だが、今この場で感情を乱すわけにもいかない。

「私が独身かどうかなんて関係ありません。この二年間、一度も食事をご一緒していません——周防さん、通してください」

「周防さん、ね」

輝はその四文字を反芻し、口元に笑みを浮かべた。

だが、その笑みは目に届かず、鋭い男の気配だけが漂う。

次の瞬間、それも引っ込められた。

階下から高いヒールの音、そして柔らかな女声が響いたからだ。

「輝、台所から食事の用意が整ったそうよ」

女はまるでこの家の女主人のような立ち居振る舞いで現れ、瑠璃の足場を一層狭める。

——その場を去るときの足取りは、わずかに早まっていた。

車に乗り込んでようやく息をつくと、ダッシュボードに置いたスマートフォンが震えた。

画面には「周防輝」の名前。

開くと、一行だけ——【久しぶりだな】

力が抜けるような感覚が全身を覆う。

——輝が、帰ってきた。

この二年、直接の連絡はなかった。

けれど、彼のことを伝える人はいた。

英国で手がけた新エネルギー事業が成功したとか、栄光グループの取締役を辞し、全株を周防京介に譲って新会社を準備しているとか——

それが、こんなに早く、彼の姿を目にすることになるとは。

瑠璃はシートにもたれ、窓の外に暮色が滲むのをただ見つめていた。

もう動く気力もなく、車内で待つことにする。

空腹が余計に自分の立場の痛みを際立たせる。

やがて、前方に二つの影が浮かび上がった。

一人は輝、もう一人は茉莉。

瑠璃は身を起こし、車を降りて後部座席を開け、娘を抱き上げてチャイルドシートに座らせる。

茉莉は紙袋を差し出した。

「おばあちゃんから!エビとサラダだよ。太らないって」

「ありがとう……次に会ったら、お礼を言っておいてね」

瑠璃は紙袋を受け取り、娘の髪を撫でる。

「パパ、またね!私、デッサン教室に行くから」

茉莉が手を振ると、輝は身をかがめ、小さな頭に軽く口づけた。

「二日後に迎えに行くよ」

その声に、茉莉は嬉しそうに笑った。

後部座席のドアを閉め、瑠璃は夜の中で輝を見つめた。
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