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第369話

Author: 風羽
輝は、車が門を抜けていくのをじっと見送っていた。

その瞳は深く、暗く、底なしの色を湛えている。

やがて、右の掌をそっと持ち上げる。

——そこは、さきほど瑠璃に触れた場所。

その瞬間の感触は、まだ生々しく残っていた。

可笑しい。

自分を拒んだ女に、まだ反応しているなんて——

その事実が、彼にはひどく癪だった。

……

二階のバルコニーでは、京介と舞が、静かにその様子を見下ろしていた。

舞は夫の肩に身を預け、囁く。

「輝、明らかに瑠璃を忘れられないのに、どうしてあの絵里香を連れて帰ってきたの?瑠璃が離れてしまうとは思わないのかしら」

京介は視線を妻に落とし、穏やかに微笑んだ。

この二年で、彼はさらに落ち着きと風格を増していた。

深秋の夜、薄手のウールのスリーピースを纏い、引き締まった長身を際立たせている。

どこへ行っても注目を集めるが、彼は決して愛想を振りまかず、若い女性が気軽に近づける雰囲気はない。

さらに、左手の薬指には常に結婚指輪。

名分はなくても、結婚指輪を盾に堂々と寄り添う。

それが、京介の言う「既婚者の自律」だった。

舞は思わず小さく息を漏らす。

京介は視線をバルコニーの下から外し、妻に向けて微笑んだ。

「忘れたいんだろうな」

京介はよく知っている。

——英国へ発った時点で、輝はこの恋を終わらせたつもりだった。

まさか、その後で瑠璃と岸本の関係が破綻するとは思わずに。

話題を変えるように、京介が目を細める。

「そういえば、先日新しく採用したアシスタントを家に連れてきたとき、お前……何度も見てなかったか?まさか年下好みになった?」

舞は手を弄びながら、さらりと言う。

「背が高くて、黒シャツがよく似合ってたわ。あなたが若い頃の雰囲気に少し似てた……でも、ねえ周防社長。中年になると、どんなに頑張っても、ほんの少しだけ、あの頃の味わいは薄れるのよ」

京介の瞳がきらりと光る。

その声音は驚くほど優しかった。

「俺が女の部下を一瞥しただけで、あれだけ拗ねたのは誰だったかな?」

舞は彼の肩に片手を置き、にやりと笑う。

「真っ白なワンピース……あれ、周防社長の好みだったんじゃない?」

視線が絡む。

次の瞬間、京介は彼女を腰から抱き上げた。

「これから、その好みを教えてやる」

朝霞川の川辺、白いワンピース
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