彼はアルバムを一枚一枚めくりながら、写真を見るたびに胸が締めつけられるような痛みを感じていた。一つは、息子の成長の記録を見るたびに込み上げる思い。もう一つは、佳奈と佑くんがどれほど親密かを見せつけられること。そのどちらもが、彼の心を容赦なく刺してきた。佑くんはにこにこと笑いながら、彼の大きな手をポンポンと叩いて言った。「おじさん、先に見てて。ぼく、キッチンでママの様子見てくるね」そう言って、小さな足でトコトコとキッチンへ駆けていき、小さな踏み台を持ってきて佳奈の隣に座ると、頬杖をついてじーっと佳奈の顔を見つめた。その視線に、佳奈の心は思わずとろけてしまい、つい口ずさむように童謡を歌ってしまう。キッチンの中は、二人の楽しげな笑い声で満ちていた。俊介は一人、リビングのソファで微笑みながらそれを聞いていた。引き出しを開け、アルバムを元の場所に戻そうとしたとき、ふと中にある薬の瓶が目に入った。パロキセチン。うつ病の治療薬だった。……まさか、佳奈のうつ病が再発したのか?その可能性が頭をよぎった瞬間、俊介の心は深い痛みに包まれた。目頭が熱くなる。もっと早く気づくべきだった。あれだけ大切なものを失った佳奈が、無傷でいられるはずがない。拳をぎゅっと握りしめ、喉が何度か上下に動く。薬の瓶にそっと手を添えて、低く、かすれた声でつぶやいた。「佳奈……ごめん……」謝ることしかできなかった。佳奈のすべての苦しみは、自分が与えたものだった。今の気持ちをどう表現すればいいのか、言葉が見つからない。俊介はすぐに気持ちを整理し、キッチンへ向かい、佳奈の料理を手伝い始めた。三人で食卓に着いた。テーブルには四品とスープ、さらに果物が並べられていた。佑くんは二人の間に座って、両方からしっかり可愛がられていた。まるで本当の家族のような、温かく幸せな時間。その空気に、佳奈も思わず心を溶かされてしまう。夕食を終えた後、佳奈は佑くんを寝かしつけた。二つの絵本を読み聞かせると、小さな腕で首にしがみついて、すやすやと眠りについた。眠る直前、佳奈の首に抱きついたまま、佑くんは小さな声でささやいた。「ママ、だいすきだよ……」そして目を閉じ、静かに眠りについた。その可愛らしい寝顔を見つめな
佑くんは話しながら、小さな手で佳奈の頬をそっと包み込んだ。その真剣な姿に、佳奈はついに堪えきれなくなった。涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。「本当に……君を私の赤ちゃんって思っていいの?」嗚咽まじりにそう尋ねると、佑くんは力強くうなずいた。「もちろんいいよ。おばちゃん、綾乃ママも怒らないって言ってたし、むしろ喜んでくれてるんだ」その一言で、佳奈の胸にあった全ての迷いが吹き飛び、彼女は思わず佑くんをぎゅっと抱きしめた。「もう一回……呼んでくれる?」声は震え、傷ついた心の奥から絞り出すようだった。佑くんは佳奈の耳元で、優しい声でそっと囁いた。「ママ」その一言を聞いた瞬間、佳奈の心の堤防が完全に決壊した。それは、彼女が何度も夢で見た光景だった。赤ちゃんが「ママ」と呼んでくれる夢を、彼女は毎晩のように見ていた。でも目が覚めると、枕はいつも濡れていて、赤ちゃんの姿はどこにもなかった。佳奈は佑くんをしっかりと抱きしめ、苦しげにうなずいた。「ママは……君のこと、大好きよ」そんな二人の姿を見て、俊介の目にはうっすらと赤みがさした。彼は静かにその場に立ち、抱き合う母子を見守っていた。もし自分があの時、自分のせいじゃなければ――佳奈がこんなにも深く子どもを失う痛みを味わうことはなかった。そう思うと、俊介の胸は締めつけられるように痛んだ。気づけば、彼は二人のそばに歩み寄り、そっと二人を腕の中に包み込んでいた。それは、彼がずっと夢に見ていた光景だった。けれど、それを手に入れるまでに二年という時間がかかり、しかも自分ではない別の存在としてしか関われない。俊介の胸は張り裂けそうだった。彼は大きな手で佳奈の頭を優しく撫でながら、かすれた声で言った。「もう、泣かなくていい……俺が、買い物に連れてってやるよ」佳奈はようやく我に返り、俊介という『部外者』が近くにいることを思い出した。すぐに感情を収め、涙が残る目で俊介を見つめる。「今日は田森坊ちゃんの時間を一日もらっちゃって……これ以上ご迷惑かけられない。私たちだけで行くから、お仕事に戻ってください」俊介は佳奈の頬に残る涙を見て、思わず手を伸ばしたくなった。けれど、それがあまりにも親密すぎる行動になることを恐れ、思いとどまった。
佑くん、こんなに小さいのに佳奈の気持ちがわかるなんて……やっぱり親子の絆ってやつかな?俊介は佑くんを抱っこしてそちらへ歩きながら言った。「言ったこと、ちゃんと覚えておけよ。これはおばちゃんのために買ったんだから、こっそり食べたらダメだからな」「わかってるってば」佳奈は綾乃と並んで座りながらおしゃべりしていたが、ふと視線を上げると、俊介が佑くんを抱え、手にピンクの綿あめを持って近づいてくるのが見えた。彼の顔には今日の陽だまりのような穏やかな笑みが浮かんでいて、それだけで佳奈の心の奥まであたたかく包み込まれるようだった。俊介は落ち着いた声で言った。「佳奈、これ、君に」佳奈は綿あめを受け取り、ふわりと笑った。「どうして私がこれ好きってわかったの?」佑くんがにっこりと笑いながら言った。「それは僕が教えたからだよ。おばちゃん、綿あめ見たらきっと喜ぶって思ったんだ。だから約束してね、もう悲しまないって。もしお兄ちゃんのことが恋しくなったら、僕のことをお兄ちゃんだと思ってくれていいよ。僕、お兄ちゃんみたいにおばちゃんのこと、大好きだから」その言葉に、その場にいた全員の目が潤んだ。特に雅浩と綾乃は、その裏にある事情を知っているからこそ、余計に胸を打たれた。綾乃はすぐに目元の感情を隠し、笑顔で言った。「今日一日バタバタでヘトヘトなのよ。夜は雅浩も仕事があるし、佳奈、今夜だけ佑くん預かってもらえない? 毎晩あの子たち三人をお風呂に入れるの、本当に死にそうなのよ」それを聞いた佑くんが真っ先に手を叩いて喜んだ。「やったー!おばちゃんと一緒に寝る!おばちゃんに絵本を読んでほしい!」佳奈はもちろん喜んで引き受けた。C市に遊びに行くたびに、佑くんはいつも彼女と寝たがった。彼を抱いていると、自分に赤ちゃんがいた頃を思い出すようで、胸がじんわりと温かくなるのだった。彼女は微笑みながら頷いた。「明日は週末だし、綾乃姉さんが忙しかったら、ずっと佑くん見ててもいいよ」綾乃は大げさに喜んでみせた。「やったー!やっとうちの小さな怪獣が一人減る!じゃあ、この後陽くんと悠人をおばあちゃんの家に預けて、久しぶりの二人きりタイムだ〜」それを聞いて、佑くんはニヤニヤしながら言った。「ママ、パパとチューしたいんで
俊介がさっき言った言葉、どうしてあの時の智哉と全く同じなんだろう。佳奈はよく覚えている。智哉は毎日、お腹に顔をくっつけて、赤ちゃんに話しかけていた。嫁さんをずっと独り占めしてたから、生まれたらまずお尻をペチンと叩くんだって。でも、佑くんがお姉ちゃんのお腹にいた頃には、俊介なんて人とは全然知り合いじゃなかった。疑問が一気に佳奈の胸に押し寄せてくる。まるで目に何かが覆いかぶさってるみたいに、真実が見えない気がした。佳奈は俊介のそばに歩み寄り、そっと尋ねた。「綾乃姉さんと、前に会ったことあるの?」俊介はちょうど佑くんと夢中で遊んでいたが、その言葉を聞いた瞬間、動きがピタリと止まった。さっきまで浮かんでいた笑顔も、そのまま固まる。子どもを喜ばせることに夢中で、口が滑ったのかもしれない。俊介は少し笑ってみせた。「うちの方では、子どもを叱る時にそういう言い方するんだよ。大人が子どもにムッとした時によく言うんだ」佳奈は半信半疑で彼を見つめた。そういう言い回しがあるのかもしれない。でも、そうじゃなきゃ俊介のあの言葉には説明がつかない。その時、雅浩が悠人と陽くんを連れてやってきた。お兄ちゃんが高い高いされてるのを見て、陽くんも駆け寄ってきた。小さな顔を上げて言う。「イケメンおじさん、僕もやって!」俊介は佑くんを下ろして、陽くんの鼻をつまんで笑った。「いいよ。その代わり、あとでおじさんにケーキをもう一切れくれる?」「いいよー!」庭には子どもたちの笑い声が響き、俊介の心からの笑い声も混じっていた。雅浩は佳奈のそばに来て、声を潜めて尋ねた。「佳奈、田森坊ちゃんと付き合ってるのか?」佳奈は首を振った。「ただの仕事のパートナーよ」雅浩は少し心配そうな顔をした。「まさか、彼を利用してヨーロッパ財閥のことを調べようとしてるんじゃ……それ、危険すぎるだろ?」「ちゃんと気をつけてるよ、先輩は心配しないで」「でも、浩之にバレたら、また命を狙われかねないぞ」佳奈はうっすらと笑った。「だから俊介と偽装カップルを演じてる。浩之には、私が智哉のことを忘れたと思わせたいのと、この立場なら本当の目的を隠せるから。浩之への恨みは忘れてない。あいつは私の子どもを殺して、父を今も昏睡状態
「でも、どうしていつも私より先に来てるの?まるで私に知られたくないみたいに。綾乃姉さんにも聞いたけど、その人が先輩だなんて一言も言ってなかったよ?赤ちゃんに会いに来てくれるのは嬉しいけど、なんでそんなにこそこそしてるの?」佳奈の鋭い指摘に、雅浩は気を抜けなかった。彼は口元に薄く笑みを浮かべた。「ただな、君に余計なこと考えさせたくなかっただけだよ。だって、智哉とあんなふうに揉めたばかりだろ?そんな時に俺があいつのために動いてるって知ったら、君が俺のことまで嫌いになるんじゃないかって……それが心配だったんだ」そう言われても、佳奈の胸の中には納得しきれない何かが残っていた。先輩と綾乃姉さん、きっと何か隠してる――そんな予感がぬぐえない。でも、それ以上は追及しなかった。ただ静かにうなずいた。「私、そこまで器小さくないよ。あの人とだって、まだ完全に憎しみ合ってるわけじゃないし」そう言いながら、ゆっくりとしゃがみ込み、手に持っていた花とケーキを墓前に供えた。そして、震える声で語りかけた。「赤ちゃん……ママ、また会いに来たよ。そっちで元気にしてるかな……もう二年だね。ママ、あなたが恋しくてたまらないよ……」その言葉を終えた瞬間、佳奈の頬を一筋の涙がつたって落ちた。雅浩はそっと彼女の肩に手を置き、優しく言った。「佳奈、赤ちゃんはきっと幸せにしてる。心配いらないよ。佑くんが家で待ってるから、気をしっかり持って」佳奈はすぐに涙を拭き、もう少しだけ墓前に佇んだ。その後、二人は静かにその場を離れた。少し離れた場所からそれを見守っていた俊介は、思わず目頭を赤くした。無意識に拳をぎゅっと握りしめる。この二年間、佳奈がどれだけの痛みを一人で抱えてきたのか、自分には想像もつかない。きっと、誰もいない夜、赤ちゃんのことを思い出しては、こうして静かに涙を流していたんだろう。その光景を思い浮かべるだけで、俊介の胸は針で突かれたように痛んだ。「佳奈……もう少しだけ、時間をくれ。必ず、君と佑くんを迎えに行くから」そう小さく呟いた時、佳奈がこちらに歩いてくるのが見えた。俊介は急いでサングラスをかけ、さりげなくティッシュを差し出した。「全部が終わったら、きっと赤ちゃんも帰ってくる。だから、あまり泣かないで」佳
この言葉にはどこか情熱と曖昧さが混ざっていて、佳奈は一瞬、目の前のこの人が智哉なのではないかと錯覚してしまった。だが、男の顔をはっきりと見た瞬間、その思いは跡形もなく消えた。ちょうどその時、佳奈のスマホが鳴った。画面に「佑くん」の名前が表示されると、彼女はすぐに通話ボタンを押した。それまでの冷ややかな表情が一変し、ふんわりと優しい笑顔が浮かぶ。声も自然と柔らかくなる。「佑くん」その呼びかけを聞いた佑くんは、ベッドの上で短い足をバタつかせながら大はしゃぎ。口を大きく開けて言った。「おばちゃん、明日が僕の誕生日なの忘れてないよね?僕、一番におばちゃんにお祝いしてもらいたい!」佳奈は微笑んで返した。「おばちゃん、ちゃんと覚えてるよ。明日の朝一番に行くから。何が欲しい?」佑くんの黒くてキラキラした目がくるくると動き、少し考えてから言った。「あのカッコいいおじさんも一緒に来てほしいな、いい?」佳奈はすぐに俊介の方へ視線を向けた。「どの人のこと?」「この前、病院で見たカッコいいおじさんだよ。あの人、すごいんだよ。孫悟空みたいに顔が変わるんだよ!」佳奈は佑くんの言葉をあまり気にせず、ただの子供の冗談だと思った。笑いながら答える。「聞いてみるね。もし時間があったら一緒に行くよ」すると、佑くんはニヤリと悪戯っぽく笑った。「おばちゃんが連れて来たいって思えば、絶対時間あるって!あのおじさん、おばちゃんのこと狙ってるの、わかんないの?」その一言に、佳奈は苦笑い。最近の子供って、こんなに鋭いの?こんなことまで見抜けるの?その時だった。不意に俊介が佳奈の手からスマホを取って、優しく落ち着いた声で話し始めた。「今すぐ電話を切って、おばちゃんに俺とちゃんとご飯食べさせてくれたら、明日一緒に行くよ」その声を聞いた瞬間、佑くんはベッドから飛び起きた。興奮してベッドの上で跳ねながら言った。「ほんとに?ウソついたら、鼻が伸びちゃうんだからね!」俊介は笑いながら答えた。「誕生日会に行くだけじゃなくて、遊園地にも連れてってやるよ。おばちゃんも一緒にな」「やったー!今すぐママに言って、カッコよくしてもらう!おばちゃんの気を引くには、負けてられないもん!」俊介は笑いながら軽く毒づい