私は龍太郎の家でメイドとして働くことを考えただけで、頭がいっぱいになった。 ……どんな家に住んでいるんだろう……。家ではどんな過ごし方をしているんだろう。ドラマとか見るのかな? 朝はパン派? ご飯派? ただひとつ、ずっと気になっていることがある。 「りゅ、龍太郎は、か、彼女とか、そういうひといないの? 私なんかが家に行って、だ大丈夫なの?」 思い切って聞いた。おそらくいないから、私を家に呼ぶのだろうが、はっきりこの耳で聞くまでは安心できない。 「……残念ながらいないな。だから大丈夫だ」 予想したとおりの、あっさりした返事だった。 「そ、そうなんだ」 私の中に舞い上がる気持ちが湧き出てくる。 「おれさ、あんまりひとを好きになったことなくてさ、別にそのひとが誰といようが、あまり興味が湧かないっつーか……」 ……え? 私の中に墨汁のような、真っ黒いものが広がった。 『あんまりひとを好きになったことがなくてさ——』 今、自分もその中に入っている。 わかってはいるよ、龍太郎が自分なんか好きにはならないって……。 「それより昼飯、食べに行かねぇ? 朝からなんにも食べてないんだけど……」 龍太郎が麦茶を飲みながら言った。 「じゃあまた、あのお寿司屋さん行こうよ⁉︎」 私は努めて明るく言葉にした。キャラじゃないが、今はこうして、自分の中に湧いた真っ黒の感情をごまかしたい。 「……おまえ、またあの回転寿司かよ。ふっ、まじで子供だな。しかたねぇな」 龍太郎が鼻で笑った後、屈託のない笑みを浮かべた。 「なに~、その言い方。美味しくて安いなら最高でしょ」 自分は龍太郎の好きなひとの中に入っていなくても、今は一緒にいられるから、それでいい。 それに恋愛は今は怖い……。このまま片思いでいい。 いつか賞味期限がくる『交際』はいらない。 *** 龍太郎と食べるお寿司はとても美味しかった。幸せだった。 この時がずっと続けばいいのにって、思った。 一皿に乗っている二貫のお寿司を龍太郎と二人で分ける。 『半分こ』は格別に美味しく感じた。 午後二時前。お寿司を食べた帰りに龍太郎にお願いして、トイレットペーパーを買うため、薬局に寄ってもらった。 龍太郎と薬局の中を歩いた。目立つのか、主婦のひとや、店のひ
「懐かしいな。この古い土壁も……。畳の匂いも……」 龍太郎はなにやら昔を思い出しているようだった。あちこち手で触っている。 私はリビングのテーブルの前に座って、沸かした麦茶を飲んでいる。 龍太郎にもお茶を勧めたが、彼はこの家に夢中だ。 「龍太郎、ねぇ、ほんとにこんなところに住んでたの?」 私は信じられなくて尋ねた。龍太郎はどう見ても貴公子だ。気品に満ち溢れている。 「……ああ、おれん家、高校まで母子家庭だったからな」 さらりと話す龍太郎。 「……そうなんだ」 返答に困る内容だ。しかし龍太郎が母子家庭で、ここと似たようなところで育ったなんて、とても信じられない。 「おれん家さ、ものすごい貧乏で、母さんが仕事をいくつもかけもちして夜遅くまで働いてて、おれは当時、友達が持ってるおもちゃとか、なにも持ってなかったから、仲間に入れてもらえなくてさ、しかたなく家で勉強ばっかりしてたな……」 窓際に腰掛けながら、龍太郎が静かな口調で話す。その目はどこか遠くを見ている。 窓の外には住宅街が広がっているだけで、ベランダもない。 「ここ、いいところじゃん」 龍太郎がなにげなく言ったひと言が、私の心に明かりを灯した。 「ねぇ、龍太郎……」 私はずっと言いたかったことを彼に伝える。 「龍太郎のプライベートにまで口出ししてごめんね。龍太郎が誰と、どんな恋愛しようが自由だよね……」 自分で言ってて悲しいが、この間は距離を詰めすぎた。 龍太郎にとって、もしかしたらその恋は特別なのかもしれない。 真剣なものなのかもしれない。 たとえ、世間がなんと言おうと……。 龍太郎が私の方を向いた。その目は呆れているようだった。 「おまえ、マジであれ、傷ついたからな」 「ほ、本当にごめんなさい……」 「おまえがどう思ってんのか知らねぇけど、あれさ、いとこのねぇちゃんたちなんだよ。……言いにくいんだけどさ、おれ一人で飯食うの苦手で、それで誘ってくれてるわけ。昔っから、よく面倒見てもらってんの」 「え? いとこのねぇちゃんたち??」 私は素っ頓狂な声を出した。 「そう、双子なの。二人いるからメールも多い時は多いわけ。ちなみにどちらも既婚者。だからおれ、不倫とかしてねぇから」 龍太郎はまっすぐな目で私
「ふぅ……」 丸三日かかって、やっと片付けが終わった。 転居ともなう手続きも、ようやく終わりそうだ。 時刻は午前十時……。 「あぁ、もうお金ないや。信じらんない。物価高って本当ヤダヤダ。すぐにお金がなくなる! はぁ、出かけるの面倒くさいけど、郵便局だと土曜日も手数料|無料《タダ》か」 私の財布には千円しか入っていない。|心許無《こころもとな》さすぎる。 ゴロンと畳に寝転んで、部屋の中を見る。初めての一人暮らし。 部屋のカーテンはリビングが黄色、寝室が水色。至ってシンプルなカーテンだ。量販店の安物だが、私は気に入っている。 女の子らしい部屋なんて、作り方がわからない……。雑誌に載っているような可愛い部屋は私には作れない。 まず、ピンクが似合わないから無理無理。 新しい家電に囲まれ、新生活が始まった。それだけでもワクワクする。大型家電を買ったのは初めてだ。 私はスマホを取り出した。 親に連絡するのはもう少し落ち着いてからにしよう……。 私はライムのアプリを見た。 ……連絡なし、か……。 龍太郎にライムメッセージを送ったが、既読スルーされて三日目。 既読がついて、彼が健在なのはわかったが、新しい職場でどんな顔をして会えばいいんだろう……。 まだ、怒ってるかな……。でもあれは不可抗力だったと思うんだけど……。 それでも|他人《ひと》の色恋沙汰に口出しした、自分が悪い……。 気分転換に今から出かけるか……。 私は重い腰を上げ、自転車に|跨《またが》った。 スーパーまでは自転車で五分程度。新しい職場までは十分程度。 今日は天気でよかったなァ……。 私は黒いヘルメットをかぶり、自転車を漕ぎ出す。 駅前の郵便局でお金を必要なぶんだけ引き出す。とりあえず、二万でいいか……。 その足で駅前のスーパーに寄る。中に花屋さんもあって、薬局まである便利なスーパーだ。 この間、お米は買ったから、おかずだけ買えばいいか……。 私は今日は黒のロンTに、下はジーンズだ。青いスニーカーに黒のバックを斜めがけしている。 スーパーの独特な匂いがする中を歩き、私は物色する。 玉子を買い物カゴにいれ、惣菜のサラダと煮物もカゴに入れた。 今日の特売品は……しめじと、大葉か……。それにナスと鶏ミン
それからの私は、寮の片付けとアパート探しに、車の売却などなど、諸々に追われる日々を送っていた。 「二十一万⁉︎ うわぁ、高いなぁ……。1LDKでこの値段……? いったいどんな物件だよ……なるほど、高級マンションか」 不動産を何軒か回りながら、新しい職場に近い物件を探す。ここ数日そんな日々が続いている。 駅近はとてつもなく高いなぁ……。 自分にもっと稼ぎがあればな……。 どうしようもなくても、考えずにはいられない。 車を売却するので、少しでも便利な場所に住まないと暮らしが大変だ。 「最低条件は駅まで徒歩十分……お風呂とトイレが別で……、エアコンもないと夏場、間違いなく死ぬな……」 光太郎からは始めはロングパートから始まり、そのままなにも問題がなければ、半年後に正社員登用するといわれた。 ロングパートの時は時給制だ。 計算してみたが、手取りでだいたい十六万ぐらいだろう。頑張らないと。 何軒か物件を見て決めたのは、駅から徒歩十分の古ぼけたアパートだった。 なにが決め手になったかというと、6畳二間の2DKなのだ。 寮は1DKだったので、もう少し広さが欲しかった。 部屋干ししたりする広さや、リビングと寝室を分けたいとは前々から思っていた。 そして家賃。なんと管理費込みの五万だった。建物は古いが、この金額なら払っていける。 お風呂もトイレも古いが、キッチンには小窓が付いていて気に入った。そしてなんと新品同様のエアコンも付いていた。 これはラッキーだった。 部屋は203号室。一番奥の部屋だ。もともとが小さい建物で六部屋しかないようだ。 私は慌ただしい毎日の中で家電も買い、新居に運んだ。大きいものは配達してもらう。 冷蔵庫に、洗濯機、テレビにガスコンロ。 今まで使っていた家電は寮の備え付けのもので、自分で買わなければならないものは山ほどあった。 お金はかなり使うけど、新しい生活に私は少しワクワクしていた。 思い切って車は売却した。思った通り、少し赤字だった。仕方ないので差額分を一括で支払う。 だけどこれで、やれ車検だの、税金だの、オイル交換だの、車に関する様々なことから解放され、気持ちは楽になった。 これからの私の移動手段は、|自転車《ママチャリ》だ。色は赤にした。 自分が好きな
「と、友達でいいのなら……、こちらこそ、よろしくお願いします」 私はなんとか返事をしたが、正直かなり戸惑っている。 ここまで真剣に丁寧に、告白してくれたひとは初めてだった。 「鈴山さん、ありがとう。嬉しいよ。僕は先日、君と剣堂先生を見た時に諦めようか、と悩んだんだ。とても仲が良さそうだったし……。あんなかっこいい男性に勝てる気がしなくてね……」 「……龍太郎先生とはそんなんじゃないですよ。あのひとが私を|揶揄《からか》って、遊んでいるだけです」 「そうかな……? 僕にはそうは見えなかったけど……」 「そんな仲じゃないです……」 そう思わないと苦しい。すごく好きになる前で良かった。 ん? でも来月からは龍太郎と職場で会うんだよなぁ、うわぁ、気まずい。 「龍太郎先生か……。彼をそう呼ぶなら、僕のことも名前で呼んでほしいな、『|隼司《しゅんじ》』って」 係長が口元に曲線を描きながら、私の目を見てくる。 心なしか、先ほどより顔が近い気がする!! うぅっ! その距離、およそ三十五センチといったところか⁉︎ それにちょっぴり楽しんでいるように見えるのは、私の目がおかしいんですか⁉︎ 「え、いやそれは、おいおいで……」 いきなりの名前呼びは、龍太郎だけでもう十分です。 「なんで? 剣堂さんは下の名前呼びなのに?」 うぉ~! このひとは言葉の攻めがすぎるぞぉ!! しかもそのやたらめったら、白くて吹き出物ひとつない美肌をこれ以上、ち、近づけないでください! こちとら耐性がないんですって! 「え~、もう、係長のキャラじゃないですよ、こんなの」 いきなり異性を名前呼びはキツい。男友達すら、ろくにいなかった私には拷問でしかない。やめてくれ。 「僕のキャラってなに? マジメでつまらない会話しかしなさそう?」 「いえ、誰もそこまでは……」 「僕が君を笑わせたら、じゃあ雪音さんは、僕を名前呼びにしてくれる?」 雪音さんと呼ばれて、私は心臓が跳ねるのを感じた。 「……なんですか、もぅ。……いいですよ、絶対に笑いませんから」 笑ったら負けだ。 「布団が吹っ飛んだ。馬が埋まった」 「……ふっ、そんなことでは笑いませんよ」 「…………」 しばらく黙っていた係長は観念したように、大きなため息をついた。そして自分の
数えきれないほど通勤した山道を、係長の車が通って行く。 「あ、もう会社ですね。意外と入院先から近かったんですね」 よく知ってる建物、事務所と白い工場が見えてきて、私はハンドルを握る係長に声をかけた。 係長の車の中は至ってシンプルだった。 匂いのキツくない石鹸の香りの芳香剤と、ティッシュが置いてあるだけだった。 奇麗に掃除されている車内、それは係長の性格を表すようだった。 「…………早いね。まだ二時半過ぎだし、もうちょっと、このあたりをドライブしたいな。ダメかな?」 係長がちらと私の顔を見てきた。その瞳は少し熱を帯びているようにも見えた。 「え、い、いや、でも係長、お仕事は?」 私は係長の大人の笑みにドギマギした。 突然、そんなことを言われて驚いたのもある。 「今日は休み取ったんだよ。なんで好きな子が退院するって時まで、仕事しなくちゃいけないわけ?」 うっ! このひとは|言葉責め《ワードアタッカー》? タイプだ(意味不明) 「……か、係長。どうかしてますよ。なんで私なんて……」 私は自分の毛玉が付いたトレーナーを見る。あらためて見ると、龍太郎が言ってた意味がわからなくもない。 ダサい……、ダサすぎる。女子力ゼロだ……。恥ずかしい……。 「なんで? 鈴山さんは笑わないところがすごく可愛い」 係長が目を細めて微笑む。 「は? 笑わないところがですか?」 私は真顔で係長に聞き返す。なんだ、それ? 「そう、簡単に笑わないところがいい。無愛想なところがすごくいい」 くしゃくしゃの笑顔で言う係長。 「なんですか、もぅ! それぜんぜん褒めてませんよ⁉︎」 私はくすくすっと笑った。あれれ? 係長ってこんなひとだったんだ。 「そう……。君って本当に楽しい時にしか笑わないから……。裏表がないっていうか……、安心できる」 係長の横顔は少し遠くを見ているようにも見えた。 係長が山道の路肩にいきなり車を停めた。え? なに? 誰かに連絡でもするの? 「どうしました?」 私は不思議に思って、係長の顔を確認する? 「いや、鈴山さんを笑わせたいなって、さっきみたいに……」 「……み、見てたんですか⁉︎」 え? さっきのくすくすって笑いだよね? 「見てるよ。でも事故りそうだったから、ちょっとしか見れ