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109回目のフライトで、さようなら
109回目のフライトで、さようなら
作者: 涼木

第1話

作者: 涼木
午前4時。空港に降り立った直後、スマホに夫・富沢千広(とみさわ ちひろ)のSNS投稿が通知された。

画像は、スーツケースを引く湯上日菜(ゆがみ ひな)の美しい後ろ姿。

添えられた文章はこうだ。

【37回目の空港迎え。無事に家まで送り届けた】

投稿時刻は午前3時30分。

その時、私・富沢唯(とみさわ ゆい)は上空3万フィートにいた。機体が突然の激しい乱気流に巻き込まれ、頭の上から酸素マスクが勢いよく落ちてきた。

シートベルトを必死に握りしめ、震える手では満足な遺書すら書けず、ただ心の中で何度も何度も願いを繰り返していた。

もし生きて降り立つことができたら、もし千広が私を迎えに来てくれていたら、海外赴任を断って、彼のそばに残ろう、と。

だが、無事に着陸し、スマホを開いても、着信履歴もメッセージも一切なかった。

彼は、日菜を迎えに行っていたのだ。

結婚して4年。彼が空港へ足を運んだ37回のうち、私を迎えに来てくれたのは一度もなかった。

そこまで愛する人が他にいるのなら、私は身を引こう。

海外赴任の申請はすでに承認されており、離婚届の準備も整っている。

これが、私が彼のもとへ降り立つ最後のフライトだ。

……

静まり返った手荷物受取所で、ターンテーブルだけが虚しく私のスーツケースを載せて回り続けている。

自嘲気味の笑みがこぼれた。

あらかじめ便名も、午前4時の到着予定時刻も伝えてあったというのに。

千広は日菜のフライト時刻ならすべて記憶しているが、私のことになると何ひとつ覚えていないのだ。

これまでに109回のフライトに乗り、109回タクシーを拾って一人で帰った。

中でも一番鮮明に覚えているのは、土砂降りの日のこと。

タクシー乗り場には長い行列ができており、もともと少し風邪気味だった私は、何時間も寒さに震えながら待っていた。

熱が出てふらふらし始めたとき、ようやく順番が回ってきた。

運転手さんが荷物をトランクに積み込みながら尋ねてきた。

「こんな夜遅くにご家族のお迎えはありませんか?」

私は苦笑いをした。

「遅い時間ですし、気を遣わせるのも悪いですから」

そう、もう二度と気を遣わせることも、迷惑をかけることもない。

「富沢様、こんばんは。旦那様は30分ほど前にお戻りになったばかりですよ。今夜はお二人とも大変でしたね」

家は24時間フロントサービス付きのマンション。受付のスタッフが話しかけてくれた。

エレベーターで12階へ上がり、鍵を差してドアを開けようとしたとき。

内側からドアが開いた。

玄関には千広が立っている。手にコップを持ち、髪は寝返りを打った直後のように乱れている。

「お帰り。エレベーターの音が聞こえたから」

「ただいま」

「何時に着いたんだ?」

「4時」

「そんなに早く?」

彼はぽかんとした。

「明日着くのかと思ってた」

私はじっと彼を見つめた。

1週間前、ラインで彼に便名と到着時刻を送ったが、既読すらついていなかった。

「メッセージ、送っておいたよ。便名も時間もちゃんと書いてある」

「そうだったっけ?」

彼は眉をひそめた。

「最近慌ただしくて、よく見てなかったんだ」

「何がそんなに忙しかったの?」

「日菜が担当してるプロジェクトでちょっとトラブルがあってさ。気持ちが落ち込んでたから、しばらくそばに寄り添って話を聞いてたんだ」

彼は私のスーツケースを受け取り、壁際に寄せると、リビングへと向かった。

「どうして迎えに来てって言わなかったんだ?言ってくれれば、行ったのに」

「湯上さんを迎えに行ってたんでしょ?」

「唯と彼女は違うだろ」

彼は水を一口含み、さも当然のような口調で言った。

「日菜は女の子だ。夜中に一人じゃ危険だろう。送り届けた後、そのまま帰ってきただけさ。唯が一言言ってくれれば、迎えに行けたのに」

違う、か。

日菜が一人だと危険で、私が一人なら安全だというのだろうか。

「出張、順調だった?」

千広が尋ねた。

帰りのフライトで機体は墜落寸前で、酸素マスクが落ちてきたときには客室全体に悲鳴が響き渡っていたのだ。

でもそんなことを教えても無駄だろう。

「……まあ、普通」

洗面台に向かい、手を洗おうとすると、そこに一本のリップが置かれているのに気づいた。

カラーはダスティピンク。私が使っているものではない。

その隣には、未開封のコットンと旅行用のクレンジングオイル。

「千広、洗面台にあるこのリップは誰の?」

「日菜のだ。この前うちに飯食いに来た時に忘れていったんだ」

「そんなに頻繁に来てるの?」

「頻繁ってほどでもないだろう。週に2、3回だけだ。唯が出張のとき、家の中の片付けとか飯を作りに来てくれてたんだ」

週に2、3回。

私が一度の出張で家を空けるのは、5日から7日ほどだ。つまり、私が不在の間、日菜はほぼ毎日のようにここへ来ていたのだ。

「湯上さん、うちの合鍵持ってるの?」

「ああ、一本渡してある」

千広はドア枠に身を寄せかけた。

「唯がいないときに万が一何かあったら、誰かが代わりに入れるようにしておかないといけないだろう」

私に何の相談もなく、彼は日菜に我が家の鍵を渡していた。

「どうして言ってくれなかったの?」

「わざわざ言うほどのことか?日菜は他人じゃないんだから」

彼は日菜のことを「他人じゃない」と言った。

じゃあ、私は何なのだろう。

手を拭いてリビングへ戻ると、テーブルの上で千広のスマホが振動した。

彼がスマホを手に取り、画面を確認した。

「日菜からだ。来週、人間ドックに付き添ってほしいって。採血が怖いらしい」

「行ってあげたら?」

「気にしないのか?」

「どうして気にしなきゃいけないの?」

「なら良かった」

彼は微笑みを浮かべた。

「物分りが良くて助かる。日菜もいつも言ってるんだ。唯は本当に優しくて、絶対俺に当たったりしないって」

当たらないのではない。

当たったところで意味がないので、諦めているのだ。

私が騒げば、千広は私の性格が悪いと責め、日菜はただの友人だと主張し、思いやりがないと嫌味を言うだろう。

揉めたところで、最後に悪者にされるのはいつだって私なのだから。

「千広、ラインで湯上さんの表示名、なんて登録してるの?」

思いがけない質問だったのか、彼は一瞬言葉に詰まった。

「……日菜だけど、どうした?」

「じゃあ、私のは?」

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