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第2話

Penulis: あめちゃん大好き
真奈美は、直樹との家・澄波ヶ丘には戻らなかった。

あの家の空気には、偽りの幸せを演じ続けてきた虚しさが、どこまでもまとわりついている気がして。

タクシーを降りた先は、古びたホテルだった。

帰国してすぐ、彼女が住んでいた場所。

かつての真奈美は希望に満ち溢れ、愛という名の魔法が、人生のすべてを救ってくれると信じて疑わなかった。

結婚してからも、気分転換で泊まりに来ることもあった。

フロントの女性が真奈美に気づいて声をかけてきた。「木村さん、久しぶりですね」

「お久しぶりです」宿帳に記入しながら、真奈美は掠れた声で言った。「ダブルを一室、お願いします」

顔色の悪い真奈美と、彼女の後ろの誰もいない夜道を見比べ、フロントの女性は何も聞かずにルームキーを渡した。

「302号室、南向きで陽当たりがいいですから」

彼女は少し考え、カウンターの下から使い捨てカイロを一つ取り出して差し出した。「寒いから、使ってください」

真奈美は鼻の奥がツンとした。

他人からのささやかな優しさが、直樹の3年間の中途半端な優しさよりも心に染みて、涙が出そうだった。

部屋に入って扉を閉め、その場に崩れ落ちた。

下腹部の痛みが襲いかかり、誰かにぐいぐいと引っ張られるようだ。

震える手で痛み止めを取り出し、水なしで飲み込んだ。

薬の効き目よりも早く、激痛が走り抜ける。

カーペットの上で身を丸めると、視界が真っ暗になった。

朦朧とした意識の中で、3年前の雨の夜を思い出していた。

国際的な賞を受賞し、トロフィーを抱えて直樹を驚かそうと帰宅したあの夜。

リビングで、直樹が絢香の涙を優しく拭っているのを見てしまった。

「直樹、父が私を海外へ嫁がせようとするの……」絢香が泣きじゃくりながら縋り付いている。「嫌よ、あなたと一緒にいたいの」

直樹は彼女を静かに宥めていた。「大丈夫、俺がついている」

玄関の影に立った真奈美は、誰かのラブストーリーに入り込んでしまった邪魔者のように感じた。

結局、絢香は国外へ去った。

直樹はそれから3ヶ月間、抜け殻のようになった。

その間、真奈美は彼に一口でも食べてもらおうと、毎日献立に趣向を凝らし、酒に付き合い、彼が語る絢香との思い出話を幾度となく聞かされた。

彼は言った。「真奈美、お前がいてくれて本当によかった」

あれが、愛の始まりだと信じていたのに。

今ならわかる。それはただ、彼が妥協の末に選んだ「妥協案」に過ぎなかったのだと。

スマホが突然震え出した。

真奈美は目を開け、「直樹」という表示が点滅する画面を、着信音が止むまでじっと眺めていた。

次の瞬間、メッセージが立て続けに届いた。

【真奈美、どこにいるんだ?家に戻ったけど、お前がいない】

【生理の時は無理するなよ。お前の好きなホットココアを淹れておいたから】

【電話に出てくれ、心配してるんだ】

心配?

真奈美は口角を歪め、直樹のインスタを開いた。

案の定、数分前に更新されていた。

空港で撮った写真。彼の傍らで、絢香が幸せそうに微笑んでいる。

投稿には一言。

【再会】

インスタを閉じ、電源を切ろうとした時、もう一通届いた。

絢香からのメッセージ。

キッチンで背を向ける直樹の写真。

エプロンをして、鍋を一生懸命かき混ぜている。

【真奈美さん、直樹は私のためにスープを作ってくれています。10時間も飛行機に乗って頭痛がしないようにって……】

【彼のお世話をしてくれてありがとうございます。これからは、私がちゃんと『引き継ぎ』ますから】

メッセージを見つめていた真奈美は、不意に笑い出した。

そして、ゆっくりと文字を打つ。【どういたしまして。でも白石さん、私のお下がりの使い心地はいかが?】

送信。

電源オフ。

迷いのない一連の動作だった。

その後、シャワーを浴び、バスローブに身を包んでベッドに寝転がってスマホを弄る。

連絡先を長くスクロールして、ある名前に手が止まった。「千佳」

上田千佳(うえだ ちか)は真奈美の大学時代からの親友で、唯一、直樹と結婚した彼女に、「恋しか頭にないのか?」と怒り続けてくれた存在だ。

直樹の「完璧な夫」というイメージを守るため、真奈美はこの3年間、全ての友人を疎遠にしてきた。

けれど、千佳だけは違った。真奈美がどれほど恩知らずな真似をしても、彼女だけは変わらぬ場所で、親友が目を覚ますのをずっと待ち続けてくれていたのだ。

【千佳、私、離婚するよ】

即座に返信がきた。

【場所を送って。今すぐ行く】

文字を目にした瞬間、真奈美は涙が溢れた。

スマホを抱えて隅で丸くなり、迷子のように声を殺して泣いた。

20分後、ドアがノックされた。

扉を開けると同時に、相手は彼女を力強く抱きしめた。

「泣くんじゃないわよ!」千佳の声も震えている。「あんなクズ男のために、あなたが泣く必要なんてないんだから!」

真奈美は胸の中で首を横に振る。涙は止まらなかった。

「よしよし、もういいよ。別れて正解だって。いい男なんて腐るほどいるんだから!次はもっと良い人見つけよう」

冗談混じりの励ましに、真奈美は思わず吹き出し、それから声を震わせて泣き出した。

千佳は彼女を離し、バッグから茶封筒を取り出して手渡した。「離婚祝いを持ってきてやったよ」

真奈美が開いて見て、息を飲んだ。

そこには、F国のトップクラスのデザインスタジオからの就職招待状があった。チーフデザイナーとして。

「前から持っていたんだよ」千佳は言った。「あなたがバカから目を覚ますのを待ってたの。

このスタジオの創始者は私が留学してた頃の恩師なの。あなたの大学時代の作品集を見せて、ずっと会いたがってた。『つまらない男に捕まって、才能を無駄にしてる』って伝えたら、先生、本気で怒っちゃって」

真奈美は招待状を握りしめ、指先が震える。

「でも……3年間もデザインから離れてて。うまくできるか不安で……」

「何言ってるの!」千佳が言い切る。「あなたは真奈美よ?

当時のF国を震撼させた天才少女だよ!この前、真奈美の昔のデッサンを見返したけど、今少し手直しして世に出すだけで、そこらへんの新人デザイナーなんて一捻りよ。

もう二度とバカな真似はしないこと!仕事に打ち込んで。男なんてどうでもいいでしょ!」

そうか。

本当に愚かだった。

愛がすべてだと信じ込み、たった一本の朽ち果てた木のために、目の前に広がる豊かな森を捨ててしまった。

「そうだ」千佳が航空券をテーブルに叩きつけた。「予約もとっといた。5日後、F国行き。行くか行かないかは、自分で決めてね」

真奈美はその航空券を見つめ、黙り込んだ。

行くことは、直樹も、3年間の結婚生活とも完全に別れるということ。

そして、失った自分を取り戻すための出発点になる。

「行く」

その声は迷いがなく、断固としていた。

千佳は笑みを浮かべたものの、その目の縁を赤く染めている。「これが私の知っている真奈美だよ」

その夜、二人の女性はホテルのベッドに身を寄せ、大学時代のように徹夜で語り合った。

千佳が持ってきたワインと、コンビニのおつまみだけで、グラスが何度も空になった。

「知ってる?」真奈美は千佳の肩に寄りかかり、うつろな目で呟いた。「一番悲しいのは、愛されなかったことじゃない。

彼のために、自分を捨てたことなの」

千佳は真奈美を抱き締め、静かに答えた。「今から取り戻せばいい。まだ間に合う」

朝5時、空が白み始めていた。

真奈美は窓辺に立ち、カーテンを引いた。

静まり返った室内で、再びスマホが低く振動した。直樹からのメッセージだ。

【真奈美、ホテルの下にいる。一度会ってほしい。一度だけでいい】

下を見下ろすと、見慣れたあのあの漆黒のファントムが路肩に停まっていた。

車に背を預けてタバコを吹かす直樹。足元には吸い殻が散らばっている。

彼は5階の窓を見上げた。

朝霧の中、二人の目は合った。

真奈美は淡々とカーテンを閉めた。

ベッドに戻り、F国行きの航空券を手に取ると、そっと指先でなぞった。

これからは、自分自身のために生きる。
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