Mag-log in八雲が愛しているのは葵であって、私じゃない。だからこそ、私はもう気持ちを断ち切って、離れると決めたのだ。今さら彼とよりを戻すなんて、あり得ない。私は颯也に向かって、静かに微笑んだ。「ありがとうございます、夏目先生。でも……ごめんなさい、その気持ちは受け取れません。私は紀戸先生とよりを戻すつもりはないし、戻す必要もありませんから」「『ごめんなさい』なんて言わないでくれよ。優月が彼とよりを戻さないっていうなら、俺はむしろ嬉しいくらいだ」颯也は、ほっとしたように息をついた。そのまま口元を上げて、ぱっと明るい笑顔を見せる。さっきまでのわずかな陰りが、一瞬で晴れたようだった。まるで、曇り空が一気に晴れたみたいに。「……じゃあ、さっきのは?」私は思わず聞き返す。「わざとだよ。優月の中に、まだ紀戸さんがいるかどうか確かめたかった」彼はあっさりと、自分の意図を認めた。「正直、最初は藤原さんだけがライバルだと思ってた。でも後で知ったんだ、紀戸さんが優月の元カレだって。だから気になった。あいつがよりを戻したがってる可能性も、優月がそう思ってる可能性も」そこで、少しだけ悪戯っぽく笑う。「――でもさ、たとえ優月がそうしたがっても、俺は止めるよ。絶対に、やめさせる。紀戸さんの代わりに、俺が優月の中に入り込むから」「……夏目先生……」颯也が直球なのは分かっていたけれど、ここまでとは思わなかった。あっさりと自分の本音を認めてしまうなんて――それってもう、完全に手の内をさらしているのと同じだ。むしろ、そのせいで私は完全に言葉を失ってしまった。彼の顔を見つめる。妖しく艶めいた笑みを浮かべたその顔。細く長い狐のような目は弧を描き、眩しいほどに輝いている。どう返せばいいのか、分からない。「俺は自信あるよ。紀戸さんより、俺のほうがいい男だ」颯也はわずかに顎を上げた。さっきまで妖しく笑っていたその目が、今はまっすぐで真剣な光を宿している。「優月みたいな子は、大事にされるべきだ。俺ならちゃんと大事にする。絶対に、悲しませたりしない」その想いは、まるで花が咲き誇るみたいに、まっすぐ私の前に差し出されていた。――彼らしい。どこまでもストレートで、どこまでも熱い。一切の遠回しもない。だからこそ、私は余計にどうしていいか分からなくなる。思
「サポーター、なんで外した?」車に乗ってから、颯也は私の手元に気づき、さらに問いかけてきた。「優月、それ、誰にもらったんだ?まさか藤原さんじゃないよな?」「違います」私は反射的に首を振り、少し間を置いてから付け加えた。「……たぶん、母がくれたんだと思います」――きっと、そうに違いない。あの夜、病室に来てくれたのも母だったのだろう。浩賢のはずがない。もし彼なら、あのとき「八雲がくれたものなのか」なんて聞くはずがない。もちろん、八雲でもない。あの頃の彼はずっと葵に付き添っていて、私のことなど気にも留めていなかった。そんな八雲が、サポーターを用意してくれるはずがない。……なのに、私はわざわざ確かめようとしてしまった。完全に諦めるために。このサポーターは、おそらく母がくれたものだ。母はいつだって口はきついのに、本当は優しい。あの数日、私たちは言い争って気まずくなっていたけれど、きっと直接会う代わりに、こうしてこっそり気遣ってくれていたのだろう。「お母さん、さすがだな。ちゃんと細かいところまで気が回る」颯也が感心したように言う。「……そうですね」私はぎこちなく笑った。少し迷ってから、口を開く。「ごめんなさい、夏目先生。今日は一緒に食事できそうにありません。急に食欲がなくなって……ちょっと疲れちゃって」嘘ではない。本当は、ついさっきまで楽しみにしていた。颯也と食べるご飯は、いつも美味しくて、心地よい時間だから。でも、今はどうしても、その気分になれなかった。「分かった。じゃあ送るよ。今日は早く休め」颯也の顔に一瞬だけ落胆がよぎったが、すぐにいつもの調子に戻る。何も言わずにハンドルを切り、私をマンションへ送り届けてくれた。私が気分を落としているのを察したのか、道中はずっと静かだった。私はシートに身を預け、窓の外をぼんやり眺める。薄暗い空。オレンジ色の街灯が、ひとつ、またひとつと後ろへ流れていく。心の中の光も、それに合わせるように、少しずつ消えていった。マンションの前に着き、私は車を降りて手を振った。そのとき――「優月」颯也が、私を呼び止めた。「まだ、紀戸さんのこと……忘れられないのか?」「……え?」あまりにも直球すぎる問いに、思わず言葉が詰まる。「さっきから見てると、気分も食
八雲が帰ってきたとき、私は必死に焦げた鍋をこすっていた。彼の姿を見た瞬間、胸が詰まって、涙がこぼれてしまった。「ごめんなさい……サプライズにしようと思ったのに、こんなことになって……」しゃくりあげながら謝る私に、八雲はふっと笑って、両手で私の顔を包み込んだ。優しく涙を拭いながら、軽くからかうように言う。「こんなことで泣く必要ある?ほら、顔ぐちゃぐちゃだぞ。まるで子猫だな」私は涙を拭きながらも、まだしょんぼりしていた。「でも、どうしよう……食材も無駄にしちゃったし、夕飯も遅くなっちゃった。簡単にラーメンでも作ろうか?」「そんな顔でまだ料理する気か?こんなに落ち込んでる優月を、これ以上働かせるわけないだろ」八雲は首を振って、私のエプロンを外し、コートを着せてくる。そう言うと、有無を言わせず私の手を引いて外へ連れ出した。「行こう、外で食べよう」「じゃあ、何食べるの?」車に乗せられながら聞いたけれど、彼は答えなかった。そして、到着した先で、私は思わず声を上げた。雑炊専門の店だった。「優月、これ食べたかったんだろ?今日はこれにしよう」八雲はそう言って、私の手を引いて席に座らせた。小さな店だった。テーブルも数えるほどしかなく、ほとんどが相席。私たちも隅の席に腰を下ろし、周囲の賑やかな声に包まれながら、その一杯を食べた。あれは、今までで一番美味しい雑炊だった。もちろん、あのスキンヘッドの店主の腕が確かなのもある。でも、それだけじゃない。食べ終えたあと、八雲は私の手を引いて、入り組んだ細い路地をゆっくり歩いた。星が瞬き、冬の風は冷たく頬を刺す。それでも、お腹の中には温かい雑炊が残っていて、隣には心から好きな人がいる。ただそれだけで、世界は驚くほど優しくて、温かく感じられた。そして今、颯也がその店の話をした。八雲も、きっと思い出したはずだ。あの夜のことを。私と一緒に歩いた、あの帰り道を。けれど、その瞬間、八雲の視線はすっと引かれた。私の手にある保温サポーターから。私が八雲を見たときには、彼はすでにその表情は淡々としていて、何事もなかったかのように西岡先生と話を続けている。それ以上、視線を向けることはなかった。ほんの一瞬の目配せすら、なかった。やがてエレベーターは地下二階の駐車場に到着し
八雲は、颯也に言葉に気をつけろと言った。私はてっきり、葵を庇って、彼女の面目を取り戻すために割って入ったのだと思った。だが、違った。八雲が指摘したのは、颯也が浩賢をそんなふうに話すことだった。葵のためではなく、浩賢のために口を開いたのだ。……それって、どういうこと?私だけでなく、葵も明らかに驚いていた。彼女はぽかんとしたまま八雲を見つめ、小さく呟く。「八雲先輩……」「はいはい、分かった分かった。同僚だもんな、もうあいつのことは言わないよ」颯也は一瞬だけ意外そうにしたあと、すぐに立て直した。眉を軽く上げ、舌打ち混じりに笑いながら、狐のような目に光を宿す。「まあ、あいつも別に本当に人を見る目がないわけじゃないしな。な?」一応は譲歩したように聞こえるが、実際には、相変わらず葵を遠回しに刺している。ただ、さっきほど露骨ではないだけだ。葵の顔は、みるみるうちに青ざめていく。そのまま颯也を睨みつけ、怒りを押し殺しているのが分かる。「まあまあ、みんな同僚なんですから、仲良くしましょう……そうだ、紀戸先生。今年も院内の年間表彰、そろそろ始まる時期ですよね?今年も神経外科が有力でしょう?」空気を変えようと、西岡先生が慌てて話題を切り替えた。「それは分かりませんよ。整形外科も西岡先生のもとでかなりレベルが上がっていますし。今年は整形外科が取る可能性も十分あります」八雲も、その流れに自然に乗る。二人はそのまま業務の話へと移り、さっきのやり取りは完全に流された。言いかけた言葉をすべて飲み込まされ、葵の顔色はみるみる悪くなっていった。そのまま颯也をじっと睨みつけ、隠しきれない怒りが目に浮かんでいる。一方で、颯也の口元の笑みは、むしろ深くなる。気だるく、どこか勝ち誇ったような笑み。そして、ふと私に顔を向けた。「優月、夕食は雑炊にしない?いい店知ってるんだ。鶏と野菜の雑炊が絶品でさ。ピリ辛料理はまた今度にしよう。最近、胃腸の調子は良くないんだろ?刺激物は控えたほうがいい」「いいですね」私は頷いた。その瞬間、ふと視線を感じた。この感覚は、間違いなく八雲だ。八雲はまだ西岡先生と年度評価の話をしているはずなのに、意識の一部は確実にこちらへ向いている。私は心の中で、静かに息を整えた。そして、ゆっくりとあのリストサポー
「本当に偶然ですね、また水辺先輩と会うなんて」エレベーターの中で、葵は私を見た瞬間、目の奥に一瞬だけ驚きと、はっきりとした憎しみを浮かべた。だがそれもすぐに、作り物のような笑顔に塗り替えられる。確かに、よく会うものだ。まさに腐れ縁。私は口元をわずかに引き上げただけで、何も答えず、そのまま彼女の隣にいる八雲へ視線を移した。ちょうどそのとき、八雲の視線もこちらに向いていた。正確には、私の手にあるリストサポーターに。だが、次の瞬間には何事もなかったかのように視線を外す。まるで、最初からそれに気づいていなかったかのように。「奇遇だね。松島先生の検査も終わったのか?」先に口を開いたのは西岡先生だった。そのままエレベーターに乗り込み、私たちにも声をかける。「大丈夫、まだ余裕があるよ。水辺先生も夏目先生もどうぞ」「空気、あんまり良くないみたいですし、次を待ちましょうか」私の顔色を一瞥した颯也が、すぐにそう言った。さっきの一件を踏まえて、私の気持ちを気遣い、同乗を避けようとしてくれている。だが颯也が言い終える前に、私は西岡先生に答えていた。「いえ、大丈夫です。乗ります」颯也は一瞬、意外そうに私を見たが、何も言わず、そのまま一緒に乗り込んできた。エレベーターの扉が閉まる。狭い空間に、妙に張り詰めた静けさが満ちる。私は颯也の隣に立ったまま、向かいにいる八雲を静かに見つめた。何か手がかりが欲しくて。けれど八雲は終始視線を落としたまま、顔色一つ変えない。私のことも、私の手にあるサポーターのことも、まったく見ようとしない。そのとき、葵が八雲の腕に絡みつき、大きな瞳をこちらに向けてきた。「え?夏目先生だけがナイト役なんですか?藤原先生は?いないってことは……水辺先輩、最終的に夏目先生を選んだんですね?藤原先生、もう落選ですか。かわいそうに」私は視線をわずかに動かし、彼女を一瞥する。「そんなに残念なら、あとで藤原先生に伝えておくよ。松島先生を口説いたらどうかって」私がこのエレベーターに乗ったのは、彼女を許したからでも、診療科同士の関係を気にしたからでもない。確かめたいことがあったからだ。なのに、彼女はまたしても挑発してくる。完全に、私を「扱いやすい相手」だとでも思っているらしい。そんなに八雲の前で好き勝手なこ
浩賢が去ったあと、颯也は私を連れて残りの検査を一通り済ませてくれた。「結果は明日になりますので、また取りに来てください」いくつかの診療科の同僚たちは、口を揃えてそう言った。もともと、その日のうちにすべての結果が出るとは思っていなかった。たとえ一部が先に出たとしても、今さら外来の先生方に改めて検査結果について聞きに行くつもりはない。これ以上手間をかけさせるわけにはいかなかった。颯也と一緒に階下へ降り、帰ろうとエレベーターホールに向かうと、そこでまた西岡先生にばったり会った。「お、ちょうどいい。水辺先生、レントゲン写真、ちょっと見せて」西岡先生はやけに乗り気で、今この場で診ようとする。断るわけにもいかず、私は撮影したレントゲン写真を取り出して手渡した。彼はそれを受け取って、エレベーターの明かりにかざしてざっと目を通し、しばらくしてから頷いた。「全体的には問題なし。ただ、しばらくはしっかり養生しないとね。手首は普段からよく使う関節だから、回復には『使わないこと』が一番大事だ」そう言うと、にこやかに颯也の方へ顔を向ける。「ちょうど上司がいるじゃないか。仕事、少し減らしてもらいなさい」「分かってます。こちらで調整します。水辺先生の手首が早く良くなるように」颯也はそう答え、私を見る。その目には、心配と、わずかな後悔が滲んでいた。「優月、ごめん。さっきは俺の配慮が足りなかった」颯也が言っていたのは、さっきの手首を引っ張り合った件だ。「大丈夫ですよ。痛いってほどでもなかったし、そんなに気にしないでください」私は軽く笑って首を振った。けれど、颯也の表情からはまだ罪悪感が消えない。だから私は、少し冗談めかして続けた。「それに、夏目先生がくれたリストサポーターのおかげで、こんなに早く回復してるんですし。むしろお礼を言うべきですね」本心だった。さっきのことを私は本気で気にしていない。二人とも私にとって大切な友人で、普段から本当に良くしてくれている。ただ、あのときは感情が高ぶって、つい私への配慮が抜けただけだ。それに、あの二人が顔を合わせれば揉めるのは、今に始まったことじゃない。実際に怪我をしたわけでもないし、強い痛みも感じていない。だからこそ、颯也にこれ以上引け目を感じてほしくなかった。何より、彼がくれたあの保温機能付
一晩のうちに冷たい空気が東市全体を包み込み、気温は氷点下十一度まで急降下した。厚手のダウンコートに身を包み、東市協和病院に到着した時には、空は鉛色に曇り、小雨がしとしとと降っていた。凍えるような冷たさだ。麻酔科に入ると、桜井さんと同僚たちが「どこですき焼きを食べようか」と話していた。私が入っていくと、すぐに声をかけられた。「水辺先生、昨日院長に褒められたって聞きましたよ。これはもう、みんなでご馳走してもらわないと!」こんなに早く噂が広まるとは思わなかった。視線を掲示板にやると、昨日まで貼ってあったあの反省文はもう消えていた。「みんな知らないでしょ、院長が優月さん
――「病院に全ての責任を私に回してもらえませんか」その一言で、電話のこちら側の私は言葉を失った。この医療トラブルがどれほど大きな影響を及ぼすか、誰もが知っている。下手をすれば「医療ミス」として断定され、関係者全員の経歴に傷がつく。その中で、葵のあの言葉は、自分の将来を犠牲にしてまで八雲を守ろうという覚悟の表れだった。彼女がどうやって玉恵と連絡を取ったのかは分からない。けれど、あの誠意ある一言は、きっと紀戸家の人たちの印象を一変させただろう。今まさに会議室で調査を受けている八雲が、このことを知ったなら――きっと深く胸を打たれるに違いない。ただ、私にはどうしても理解でき
彼の視線を追っていくと、思いがけず私の左後方に二人の警備員が立っているのに気づいた。私服を着ている。以前に顔を合わせたことがあったので、かろうじて見覚えがある程度。もし私の勘が外れていなければ、先ほど八雲が言ったあの一言は、わざとそう言ったに違いない。彼は良辰の注意を、あの極端な方法で逸らそうとしているのだ。なにしろ、良辰の手の中でライターが揺れている。少しでも油断すれば、彼の足元に広がるガソリンの量を考えると、協和病院に甚大な被害をもたらすことは必至で、その結果は想像に絶する。良辰もまた、この挑発に感情を支配されたようで、うわごとのように言った。「お前に何が分かる?愛
言葉が口を突いて出た瞬間、自分の声が震えていることに気づいた。これまでも私は紀戸家での自分の立場を嫌というほど自覚してきたが、八雲が事件に遭った今、義父母が我が子の体面とキャリアを守るために、私を犠牲にすることを躊躇いもなく選ぶとは思わなかった。迷いは一切ない。私が八雲の名目上の妻であるというだけで、夫のために苦労を分かち合うべきだ――そう考えるのだ。義父母のその発想は、ある意味では理解できなくもない。というのも、私と八雲が交わした婚前契約の中身は彼らに知られておらず、彼らは私が「この結婚で得をした」と思っているのだろう。だが、八雲はどうだ?八雲は全ての寵愛と確信を葵に