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第2話

Author: 森と島と夏
颯真は振り返りもしなかった。

「明日の朝9時までに、サイン済みの契約書を見せろ」

翌朝9時、私は契約書を颯真の前に置いた。けれど、サインはしていなかった。

彼は空欄を一瞥した。

「まだ騒ぎ足りないのか?」

銀色のボールペンでサイン欄を軽く叩いた。

そのペンは、私が通訳会社に入ったばかりの頃、彼が贈ってくれたものだった。

その後、私は彼のために仕事を辞め、そのペンも彼の書斎に置きっぱなしにしていた。

今、その軸には茜の名前が刻まれている。

私は手を伸ばして、ペンを持ち上げた。

颯真が眉をひそめた。

「触るな。茜が使い慣れてる」

「これは私のもの」

「ただのペンだろ」

彼は引き出しからブラックカードを一枚取り出し、私の前へ滑らせた。

「昨夜の点数はなしだ。これで好きなものでも買え」

私は受け取らなかった。

「彼女の名前を刻んだのも、彼女のほうがふさわしいから?」

茜がコーヒーを持って入ってきたところで、足を止めた。

「茉里ちゃん、ごめんね。颯真には会社の備品だって言われてて、茉里ちゃんにとって特別なものだなんて知らなかったの」

颯真が彼女をなだめるように言った。

「議事録はいつもそれで書いてるだろ。替える必要はない」

そして私を見た。

「茉里、前はこんなに心が狭くなかっただろ」

私はゆっくり手を離した。

7年前、彼は通訳会社の前で、私を4時間待っていた。

あの日はひどい雨が降っていた。彼は私にそのボールペンを差し出した。

「ステージ上に立ってる茉里は、誰よりも輝いて見えた」

その後、妻がしょっちゅう出張するのは体裁が悪いと言われ、私は仕事を辞めた。

今の彼は、茜がどのペンを使い慣れているかは覚えているのに、なぜそのペンが私のものなのかは忘れてしまった。

秘書がノックして入ってきた。

「社長、ドイツからのクライアントがお見えです」

颯真は立ち上がり、袖口を整えた。

「茉里、一緒に会議室へ。茜は引き継いだばかりで通訳に慣れてないから、茉里がフォローしろ」

私は動かなかった。

「どういう立場で参加するの?」

「俺の妻として」

「でも、周年記念パーティーでは、私がプロジェクトに関わってないって言ったよね」

彼は苛立たしげに時間を確かめた。

「それでも、家族として協力すべきだろう」

会議が始まると、茜は重要な数字を三つ続けて訳し間違えた。

相手の顔色はどんどん険しくなり、ついにはドイツ語で、茜が正確に通訳できるかどうかを問いただしてきた。

茜は書類を握りしめ、助けを求めるように私を見た。

颯真が淡々と告げた。

「茉里、通訳しろ」

「これは彼女のプロジェクトでしょ」

「今は意地を張ってる場合じゃない」

「昨日、彼女のほうが私より向いてるって言ったよね」

会議室はしんと静まり返っている。

颯真が声を潜めた。

「彼女のために契約をまとめろ。そうすれば、茉里の採点も89点まで戻してやる」

私はしばらく彼を見つめた後、書類を受け取った。

点数のためじゃない。

その契約には、30人以上の同僚が半年かけて積み上げてきた成果が詰まっていた。

会議が終わると、相手の代表が自ら私に握手を求めてきた。

「私たちはずっと、このプロジェクトを担当しているのは茉里さんだと思っていました」

私が答えようとした瞬間、颯真が言葉を遮った。

「今回に限っては、彼女に手伝ってもらっただけです」

茜は笑顔で続けた。

「茉里さんは専業主婦なので、長い間仕事をしていません。たまに外に出て、勘を取り戻しているのです」

ドイツ側の代表は驚いた表情を浮かべた。

「茉里さんほどの実力がある方が専業主婦をするのは、もったいないことです」

颯真の顔から笑みが消えた。

「彼女は激務に向いていません」

彼は皆の前で私の手から契約書を奪い取り、茜に渡した。

「今日はご苦労だった」

その「ご苦労だった」は、私に向けられた言葉ではない。

昼食の席で、茜がグラスを掲げた。

「茉里ちゃん、お礼を言わせて。茉里ちゃんがいなかったら、契約をまとめられなかったもの」

私はグラスに手を伸ばさなかった。

「飲まない」

颯真がこちらを見た。

「向こうが歩み寄ってるんだ。無下にするな」

「最近、お酒が飲めなくなったの」

茜がぱちりと瞬きをした。

「まさか、妊娠したの?」

私の指がぎゅっと縮こまった。

けれど颯真は、ふっと笑った。

「自分の感情すら抑えられないんだ。今は母親になるには向いてない」

そして、グラスを私の前へ押しやった。

「飲み切れ。昨日のことは、それで終わりだ」

私はグラスの中で揺れる赤ワインを見つめ、胃の奥から一気に吐き気が込み上げてきた。

「もし本当に妊娠してたら?」

「まずは検査だ。体調も、精神状態も、遺伝子も、すべて90点に達してから、残すかどうか考える」

私は彼を見つめた。目の前にいる人が、急にひどく遠い存在に思えた。

茜が場を和ませるように笑った。

「颯真は基準が高いだけで、それも子どものためでしょ。茉里ちゃん、気にしないで」

私はグラスを手に取った。

颯真の険しかった表情が少しだけ緩んだ、その瞬間。私はワインを隣の空いたバケツへ流し込んだ。

「飲まないし、譲渡契約書にもサインしない」

彼の表情からは、完全に温もりが消え失せている。

「茉里、わがままの代償は払ってもらう」

彼は秘書に命じて、私名義のサブカードをすべて止め、車の鍵も取り上げた。

食事が終わる頃には、外は雨が降っていた。

彼は傘を差して茜を守るように車へ乗せ、私には一言も残さなかった。

私は階段の上に立ったまま、元上司の山下優奈(やました ゆな)に電話をかけた。

「以前お話しされていた復職の件について、今からお返事してもよろしいでしょうか?」

電話の向こうで、しばらく沈黙が続いた。

「茉里さん自身が言ってきたのでしょう。体もメンタルも仕事に向いていないから、もう二度と連絡しないでほしいと」

私は呆然とした。

「そんなことは言っていません」

優奈はすぐに一通のメールを転送してきた。

差出人は、私自身のメールアドレス。

末尾には、颯真の名前が記されていた。

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