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例のアレ3

Author: 相沢蒼依
last update publish date: 2026-02-28 08:41:17

「甲乙つけがたいって、欲張りだなぁ」

「陽さんが演じてる時点で、どっちも選べないですって。優男教官の一人称は、普段は聞き慣れないものだから新鮮ですし、『宮本くんのモノで、僕の中をぐちゃぐちゃにしてください』と頼まれたら、それだけで暴走しちゃいます」

笑いながら告げると、目の前にある橋本の口元が不自然に歪んだ。

「あのときハンドル握りながら、そんな卑猥なことを考えていたのか。どうりで、デレた顔になっていたわけだ」

「卑猥なことばかりじゃないですよ。俺を翻弄させようと、ブラックな一面を垣間見せるところも、きちんと妄想しました」

「ブラック、ねぇ」

「それとですね、俺様教官の振り回す感じも嫌いじゃないですよ。『よそ見してる暇があるなら、俺を感じさせてみろよ』なぁんて言われたりしたら、ビビりの俺は恐るおそる手を出すでしょ。それを見て『なってないぞ、宮本!』とか窘められたら、喜んでがっついちゃいます」

それぞれを演じる橋本を思い出しながら、当時を振り返ると、難しい表情をありありと浮かべて、宮本の手を握りしめたまま、こつんと額に押し当てた。

「言葉数の多さで、どっちがいいか判定しようかと思っ
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  • BL小説短編集   第五章:再起の音3

    *** 拍手が、しんとした静寂のあとに落ちてきた。 司が椅子に腰を下ろし、ゆっくりとピアノに手を添える。黒い鍵盤の冷たさや、白い鍵盤の無機質な感じに、もう惑わされることはない。迷いを脱ぎ捨てた指が、静かに鍵盤へと降りてゆく。 その瞬間、会場の空気がピアノの前に座るその男に、一斉に吸い寄せられた。 第一音――それはまるで、呼吸のようだった。低く、静かに、けれど確かに“生きている”と告げる音。軽やかな旋律ではない。技巧を誇示するような煌めきでもない。だがその音には、すべてがあった。 キズを負ったことの絶望、祈り、孤独、そして──愛。 胸の奥に、あの夜の言葉が甦る。 「――もし君の調律が、この部屋に僕を呼び戻してくれてるとしたら、君は“音”以上の存在かもしれない」 いま、九条司の音は確かに生きていた。鍵盤を這うように、叫ぶように、泣くように、そして最後には、やさしく微笑むように。 聴衆は息を呑んだまま、耳を澄ます。魂の深くに触れられた者だけが知る、静かな痛みとやさしさに包まれながら。 ──そして最後の一音が、そっとホールに降りた。 ……沈黙。 長く、深い、祈るような沈黙と独特な余韻。 その“間”は、いまの彼が表現できる音楽。すべての音が、そこへ向かって奏でられていたのだと、誰もが理解した。以前とは明らかに違う、体温を兼ね備えた司の音に、人々はそろって歓喜する。 やがて、ひとつ、またひとつと拍手が広がり──割れるような喝采が、ホールを包み込む。

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    *** 重たい照明が落ちた舞台袖。黒いカーテンの向こうには満席のホールと、静かすぎるほどの期待の空気が張り詰めていた。「九条先生、五分前です」 スタッフが告げると、司は静かに頷いた。白いシャツの袖口を整える仕草は一見落ち着いているようで、指先の僅かな震えが目に留まった。「司、緊張してるようには見えませんね」 俺がからかうように指摘すると、司はふっと息を抜くように微笑む。彼と出逢ったときには見ることのできなかった、とても自然でやわらかい笑み。それにつられるように笑いかけた。「してるよ。君が思ってるより、ずっと。でも今日は逃げない。ようやく、それを選べる気がする」 その横顔には、もう仮面はなかった。ただ、音楽と向き合うひとりの演奏家として。そして、俺の前に立つひとりの男として。 舞台へと歩を進めようとする背中に、そっと声をかける。「音が呼んでます。俺が調律したピアノが待ってますよ」 司の足が一瞬だけ止まり、けれど振り向くことなく低く、しかしはっきりと返す。「……君の音も、そこにあるって信じてる」 その言葉が、俺の胸の奥に静かに響いた。 そして彼は舞台の中央へ、堂々と歩み出ていく。無数の光を浴びながら、音をその身に纏うように。 再び奏でられる旋律が、すべての沈黙を祝福に変えることを、俺は知っていた。

  • BL小説短編集   第五章:再起の音

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