INICIAR SESIÓN第一章 本読み
都内某所、大手映画配給会社の第一リハーサル室。
張り詰めた空気の中、空調の低い駆動音だけが響いている。
長机の中央に座っているのは、今、日本で最もチケットが取れないと言われる国民的俳優、
三〇歳という男盛りの年齢に加え、彫刻のように整った顔立ちと、スクリーンを圧倒する演技力。「歩く芸術品」と称される彼は、台本に視線を落としたまま、微動だにしない。
その対面に座る
二二歳。かつては「天才子役」と持て囃されたが、成長ととも青年らしい外見になり、それにともなって仕事が激減し、今は崖っぷちの状態だ。今回の映画『硝子の檻』の準主役に抜擢されたのは、奇跡に近い。
「……違う」
九条の低く、冷たい声が静寂を切り裂いた。
遥の肩がビクリと跳ねる。
「く、九条さん……?」
「今のセリフ。君は『ユウ』として俺を愛している設定だ。だが、今の君の声には体温がない。ただ台本をなぞっているだけだ」
九条がゆっくりと顔を上げた。切れ長の瞳が、射抜くように遥を捉える。
その視線の強さに、遥は息を呑んだ。憧れの人と共演できる喜びは、クランクイン前の読み合わせの段階で、畏怖へと変わっていた。
「す、すみません。もう一度……」
「何度やっても同じだ。……休憩にしよう。他の皆は外へ。瀬戸君、君だけ残ってくれ」
九条の指示に、監督やスタッフたちが気まずそうに部屋を出ていく。
広いリハーサル室に、二人きり。
逃げ場のない閉鎖空間で、九条が立ち上がり、遥の元へ歩み寄ってくる。高級なレザーシューズが床を叩く音が、遥の心拍数とシンクロして早まる。
「九条さん、あの、僕は……」
「立って」
短く命じられ、遥は反射的に立ち上がった。
身長一八五センチの九条に対し、遥は一七二センチ。見下ろされる圧迫感に足がすくむ。
九条の手が伸び、遥の顎を強引に上向かせた。
「君は、俺演じる殺人鬼『リョウ』に、全てを捧げる役だ。命も、身体も、魂もだ。……経験は?」
「え?」
「
あまりに直截的な問いに、遥の顔が沸騰したように赤くなる。
「し、知りません! そんな……」
「だろうな。君の演技は綺麗だが、渇いている。欲望の匂いがしない」
九条の親指が、遥の唇を無遠慮に擦った。
ザラリとした指の感触。微かに香る、スパイシーなコロンの香り。
遥の脳内で、憧れの俳優としての九条と、目の前の雄としての九条が混ざり合い、混乱を招く。
「教えてやる。……
九条の顔が近づく。
唇が触れるか触れないかの距離で、九条が囁いた。
「俺を見ろ。俺に溺れろ。カメラが回っていない時でも、俺のことだけを考えろ」
それは演技指導という名目を借りた、悪魔の契約だった。
その日から、遥の日常は九条蓮一色に染め上げられていくことになる。
第二章 没入
撮影は順調に進んでいた――いや、狂気を孕んだ熱を帯び始めていた。
映画『硝子の檻』は、逃亡中の殺人鬼と、彼を匿う孤独な青年の、破滅的な愛の物語だ。
撮影現場の倉庫街は、常に湿った空気に包まれている。
「カット! OK!」
監督の声がかかっても、遥はすぐには現実に戻れなくなっていた。
肩で息をする遥の背中に、誰かがブランケットをかける。九条だ。
「……大丈夫か、遥」
撮影中は役名の「ユウ」と呼ぶ彼が、カットがかかると「遥」と呼ぶ。
その使い分けが、遥の精神を揺さぶる。
九条は遥を人目につかない機材裏の暗がりへと連れ出した。
「手が冷たい。……まだ震えているな」
九条が遥の両手を包み込み、自身のコートのポケットに引き入れた。中にある九条の体温が、冷え切った遥の指先を溶かしていく。
「九条さん……僕、怖いです。自分が自分でなくなっていくみたいで……」
「それでいい。役者は、役という器に魂を注ぎ込む仕事だ。……それとも、俺に触れられるのが嫌か?」
九条がポケットの中で、遥の指を絡め取った。恋人繋ぎ。
嫌なはずがない。
憧れの俳優。雲の上の存在。その人が、今は自分だけを見つめ、自分だけに触れている。
だが、これは「役作り」の一環だ。九条はプロフェッショナルとして、遥の演技を引き出すために、疑似的な恋愛関係を演じてくれているに過ぎない。
そう自分に言い聞かせても、心臓の鼓動は止められない。
「……嫌じゃ、ないです。もっと、教えてください」
遥が潤んだ瞳で見上げると、九条の瞳孔がわずかに開いたのが分かった。
普段の冷静沈着な九条ではない。獲物を見つけた肉食獣の目。
「いい子だ」
九条が遥の耳元に唇を寄せ、甘く噛んだ。
脊髄を電流が走る。
現場のスタッフが行き交う足音がすぐそこにある。見つかればスキャンダルだ。その背徳感が、遥の感覚を鋭敏にさせる。
「次のシーンは、リョウがユウの忠誠を試す場面だ。……分かるな? 俺が欲しいのは、演技じゃない。お前の本能だ」
九条の手が、コート越しに遥の腰を撫で上げる。
遥は声を押し殺し、九条の胸に額を押し付けた。
もう、どこまでが演技で、どこからが現実なのか分からない。
ただ確かなのは、この人のためなら、壊れてもいいという「ユウ」と同じ感情が、遥の中にも芽生えているという事実だけだった。
第三章 即興
クランクアップまであと三日。
物語のクライマックスである、ラブシーンの撮影日を迎えた。
セットは、雨漏りのする薄暗いアパートの一室。
リハーサルは必要最低限で終わっていた。「感情の流れに任せる」という九条の提案だ。
「本番、よーい、スタート!」
カチンコが鳴り、世界が切り替わる。
薄汚れたマットレスの上で、遥(ユウ)は九条(リョウ)を見上げていた。
明日には警察が来るかもしれない。これが最後の夜になるかもしれない。
台本では、静かに抱き合い、短いキスをして暗転することになっている。
「……リョウ、行かないで」
遥の口から、台本にはない言葉が零れた。
それは演技プランではなく、魂の叫びだった。撮影が終われば、この関係も終わってしまう。九条蓮は、遠い国民的スターに戻ってしまう。
その絶望が、ユウの絶望と完全にリンクした。
九条の表情が変わった。
憐憫と、激情がない交ぜになった凄絶な色気が、その顔に浮かぶ。
「……離さない。お前は俺のものだ」
九条が覆いかぶさる。
予定されていた淡白なキスではなかった。
唇を食むように塞ぎ、舌が深く侵入してくる。遥の口内を蹂躙し、唾液と吐息を貪る濃厚な接吻。
(んっ、ぁ……っ!)
遥の喉から、甘い音が漏れる。
マイクが衣擦れの音と、水音を拾う。あまりに生々しい音に、モニターを見ていたスタッフたちが息を呑む気配が伝わってくる。
だが、監督の「カット」はかからない。
九条の手が、遥のシャツのボタンを引きちぎる勢いで外していく。
露わになった鎖骨に、九条が顔を埋め、痛いほどの
「九条、さん……っ、あとが、残る……ッ」
「残ればいい。お前が誰のものか、世界中に知らしめてやる」
それはセリフなのか。それとも九条蓮の本音なのか。
熱い。
セットの照明よりも、九条の体温の方が遥かに熱い。
遥は九条の背中に爪を立て、しがみついた。
カメラの存在など、もう意識の外だった。ここにあるのは、互いを求め合う二つの魂と、摩擦熱だけ。
九条の瞳が、至近距離で遥を射抜く。そこには、慈愛と独占欲が、隠しようもなく溢れていた。
数分にも及ぶ長い口づけの後、九条が遥の濡れた瞳を指で拭う。
その美しさは、映画のワンシーンを超え、神話のようだった。
「……カット! OK!」
監督の震えるような声が響いた。
だが、九条はすぐに身を離そうとはしなかった。
遥の耳元で、「よくやった」と囁き、名残惜しそうに唇をもう一度啄んでから、ようやく身体を起こした。
遥は放心状態で、天井を見上げていた。
身体の芯が痺れて、動けない。
完全に、堕ちていた。
第四章 素顔
クランクアップから一週間後。
都内の一流ホテルで、映画の完成記念パーティーが開かれていた。
華やかな会場の隅で、遥はシャンパングラスを片手に縮こまっていた。
撮影が終わってから、九条との連絡は途絶えていた。「役作り」が終わったのだから当然だ。あの熱狂は、すべてフィルムの中に閉じ込められた幻だったのだ。
「……少し、顔色が悪いな」
背後から声をかけられ、遥は心臓が止まりそうになった。
タキシード姿の九条が立っていた。撮影現場での粗野な衣装とは違う、洗練された「国民的スター」のオーラ。
あまりの眩しさに、遥は一歩後ずさる。
「く、九条さん。お疲れ様です」
「ここじゃ目立つ。……来い」
九条は有無を言わせず、遥の腕を引いた。
連れて行かれたのは、上層階のスイートルームだった。九条が手配していた部屋なのだろう。
ドアが閉まった瞬間、静寂が戻る。
「九条さん、ここは……」
「遥。お前、俺からの連絡を待っていたか?」
単刀直入な問い。
遥は俯き、唇を噛んだ。
「……待ってません。撮影は終わりましたから。僕はもう、役から抜けました」
「嘘をつけ。お前の演技は見抜けると言ったはずだ」
九条が遥を壁に追い詰める。
あの時と同じ。リハーサル室での威圧感。だが、今はそこに甘い温度が含まれている。
「俺は、抜けていない」
「え?」
「あの映画のラストシーン。俺は演技をしていなかった。……
遥が驚いて顔を上げる。
九条は、困ったように眉を下げ、苦笑した。その表情は、メディアでは決して見せない、一人の男としての「素顔」だった。
「知らなかっただろうが、俺はずっと前からお前のファンだったんだ。子役時代、小さな身体で必死に演じるお前を見て……いつか必ず手に入れると決めていた」
「えっ、そ、そんな……まさか」
「今回のキャスティングも、俺が指名した。……演技指導にかこつけて、随分と役得なことをしたと反省はしているが」
九条の手が、遥の頬を優しく包む。
その手つきは、撮影中の激しさとは違う、壊れ物を扱うような慎重さだった。
「俺は、お前の才能も、その臆病なところも、熱くなると色気を零すところも、全て愛している。……映画の中だけの関係で終わらせるつもりはない」
九条が、ポケットから一枚の鍵を取り出した。
このホテルの鍵ではない。もっと重みのある、生活の鍵。
「俺の合鍵だ。……受け取ってくれるか?」
それは、次回作のオファーよりも、どんな賞よりも価値のある提案だった。
遥の目から、涙が溢れ出した。
役としての涙ではない。瀬戸遥としての、歓喜の涙。
「……はい。僕で、僕なんかでよければ……!」
遥が頷くと同時に、九条が唇を重ねた。
カメラも照明もない。監督の「カット」もかからない。
永遠に続く、二人だけの熱い夜が、今まさに始まろうとしていた。
窓の外には東京の夜景。
しかし、二人の瞳に映っているのは、互いの姿だけだった。
カーテンコールはまだ早い。
彼らの本当のラブストーリーは、微熱のあとで、ようやく幕を開けたのだから。
(了)
第一章 新入りへの洗礼 絶海の孤島にそびえ立つ、第九重犯罪者収容所「タルタロス」。 灰色の空と、荒れ狂う波に閉ざされたこの要塞は、生きて出ることは不可能と言われる地獄の釜の底だ。 重厚な鉄扉が開き、一人の男が看守たちに引きずられてきた。 イグニール。かつて国家転覆を企てた革命軍のリーダーであり、「紅蓮の獅子」と恐れられた男だ。 手足には重い鎖、首には爆破機能付きの黒い首輪(チョーカー)。鍛え抜かれた肉体は傷だらけだが、その瞳だけは決して消えない炎のように燃えている。「……ここが、俺の墓場か」 イグニールが独りごちると、コツ、コツ、と硬質な靴音が響いた。 コンクリートの冷気の中、一人の男が現れる。 軍服を思わせる黒い制服に、革のロングブーツ。腰には警棒と拳銃。そして片目には銀縁のモノクル(片眼鏡)をかけた、氷のように美しい男。 この監獄の絶対支配者、典獄クラウスだ。「ようこそ、タルタロスへ。……随分と威勢の良い目だ、305番」 クラウスは番号で呼び、イグニールの前に立った。 身長はイグニールの方が高いが、クラウスが放つ圧倒的な威圧感(オーラ)は、巨人のそれをも凌駕していた。「俺の名はイグニールだ。番号で呼ぶな」「ここでは名前など無意味だ。お前はただの家畜、管理されるだけの肉塊に過ぎない」 クラウスは冷たく言い放つと、看守たちに顎で指示した。 イグニールは台の上に押し付けられ、囚人服を無理やり剥ぎ取られた。 全裸にされ、屈辱的な姿勢で拘束される。「入所手続きだ。……身体検査を行う」 クラウスが黒い革手袋の上から、さらに医療用のゴム手袋を装着する。 パチン、とゴムが弾ける音が、広く無機質な部屋に反響した。「革命軍のリーダーともあろう者が、体内に危険物を隠し持っている可能性は否定できんからな」「ッ……ふざけるな、俺は何も……!」 イグニールの抗議は、クラウスの指によって遮られた。 無造作に口腔内へ指がねじ込まれる。歯茎、舌の裏、喉の奥まで、執拗に探られる。 ゴムの無機質な味と、クラウスの冷たい体温。 イグニールが睨みつけると、クラウスは薄く笑った。「いい表情だ。……だが、検査は上だけではないぞ」 クラウスの手が下へと滑る。 鍛え上げられた腹筋、古傷の走る太腿を愛撫するように撫で、そして最も無防備な場所へ。 医療
第一章 鬼哭の生贄 平安の都から遠く離れた、丹波国・大江山。 鬼が住まうとされるその魔の山へ、霧深い夜、一人の男が登っていた。 男の名は十蔵(じゅうぞう)。山寺の僧兵であるが、その風体は僧侶というよりは岩の巨木であった。 身長は六尺三寸(約一九〇センチ)を超え、僧衣の上からでも分かる丸太のような腕と、樽のような胸板。生まれつき常人離れした巨体と怪力を持つ彼は、幼い頃から「鬼子」と恐れられ、寺でも持て余される厄介者だった。(……これでいい。俺のような化け物は、鬼の腹に収まるのがお似合いだ) 十蔵は自嘲気味に笑った。 最近、里で鬼の被害が相次ぎ、その怒りを鎮めるための「生贄」として、彼が選ばれたのだ。 誰もが彼を恐れ、厄介払いしたがっていた。十蔵自身も、自分の巨体を持て余す孤独な人生に疲れていた。 山頂付近。巨大な岩屋の奥に、朱塗りの御殿がそびえていた。 十蔵が足を踏み入れると、地響きのような声が轟いた。「ほう。今宵の膳は、随分と骨太な獲物が来たな」 御簾(みす)が上がり、現れたのは、十蔵さえも見上げるほどの巨躯を持つ「鬼」だった。 大江山の王、酒天(しゅてん)。 身長は七尺(約二メートル十センチ)あろうか。燃えるような赤銅色の肌、額から生えた二本の鋭い角。はだけた着物から覗く筋肉は、鋼鉄を練り上げたように隆起している。 酒天は玉座から立ち上がり、十蔵の周りをゆっくりと回った。 その金色の瞳が、十蔵の分厚い胸板や、太い太腿をねっとりと値踏みする。「食うには筋が多すぎる。だが……」 酒天の大きな手が、十蔵の尻を鷲掴みにした。 万力のような力。十蔵は反射的に身構えたが、動けなかった。「悪くない。……これほど頑丈な器(からだ)なら、あるいは壊れずに耐えられるかもしれん」「……何の話だ。食うならひと思いに食らえ」「食らうさ。だが、口で食うとは言っていない」 酒天は獰猛に笑い、十蔵の帯を一息に引きちぎった。第二章 規格外の求愛 十蔵は抵抗する気力を失い、されるがままに奥座敷へと連れ込まれた。 しかし、すぐに殺されるわけではなかった。 酒天は大きな盃に酒を並々と注ぎ、十蔵に勧めてきたのだ。「飲め。……死ぬ前に、俺の愚痴を聞け」 酒天は自らも酒をあおり、忌々しそうに股間を叩いた。「俺は、強すぎた。力も、魔力も、そして……こ
第一章 予選の衝突(Red Zone) モナコ、モンテカルロ市街地コース。 地中海の青い海と豪華なカジノを背景に、世界最高峰のモータースポーツ、F1グランプリの予選が行われていた。 ガードレールに反響するV6ハイブリッドターボの咆哮が、街全体を震わせている。 ピットレーンのガレージ奥、無数のモニターに囲まれた場所で、チーフエンジニアの高城慧(たかしろけい)は、凍り付いたような表情でデータを凝視していた。 黒髪に銀縁の眼鏡。その瞳には、秒単位で変化するテレメトリーデータが滝のように流れている。『レオ、タイヤの温度が限界だ。このラップは捨てろ。ピットインしろ』 慧は無線(ラジオ)のスイッチを押し、冷静に指示を飛ばした。 だが、ノイズ混じりの返答は、彼の論理を嘲笑うものだった。『断る! 今の俺は誰よりも速い! このままポールを獲る!』 モニターの中、深紅のマシンが加速する。 ドライバーは、レオ・バスケス。二十三歳。「サーキットの野獣」と呼ばれる天才だ。 彼は慧の指示を無視し、最終コーナーへ突っ込んだ。壁まで数ミリのギリギリのライン取り。タイヤが悲鳴を上げ、白煙を上げる。 コンマ〇〇一秒の短縮。 トップタイム更新。ポールポジション獲得。 ガレージが歓声に包まれる中、慧だけがヘッドセットを乱暴に叩きつけた。 予選終了後のモーターホーム(控え室)。 扉が開いた瞬間、慧は入ってきたレオの胸倉を掴み、ロッカーに叩きつけた。 ガンッ! と金属音が響く。「……死にたいなら一人で死ね、レオ!」 普段は冷静な慧の、激情の露呈。 レオは驚いたように目を丸くしたが、すぐに不敵な笑みを浮かべた。汗とアドレナリンの匂いが、慧の鼻腔を刺激する。「怒るなよ、ケイ。ポールを獲ったんだぜ? 結果オーライだろ」「結果論だ! あのタイヤであの突っ込み方をすれば、サスペンションが砕けて死んでいた可能性が四十パーセントもあった! 私の計算した最高傑作(マシン)を、君の賭けの道具にするな!」 慧の瞳の奥にあるのは、怒りだけではない。喪失への恐怖だ。 レオはそれに気づき、慧の手首を掴んで引き寄せた。「……心配してくれたのか? 愛されてるなぁ、俺は」「ふざけるな」「あんたの計算は完璧だ。だが、最後にハンドルを握るのは俺だ。……俺の感覚(センス)を信じろよ」 レ
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第一章 共鳴する魂 王立魔導研究所の第十三研究室。 深夜二時を回っても、そこには怒号と魔力の火花が散っていた。「だから! 君の計算式は美しくないと言っているんだ、ノア!」 冷徹な声が響く。声の主は、ルシウス・ヴァン・アスター。名門貴族出身のエリートα(アルファ)であり、若くして魔導工学の権威となった天才だ。 銀色の長髪に、氷のように冷たい灰色の瞳。その全身からは、「ビターチョコレートと冷たい雪」を混ぜたような、理知的で威圧的なフェロモンが漂っている。 対するノアは、白衣の裾を握りしめ、食い下がった。「美しさなんて関係ありません! この術式なら、Ω(オメガ)の魔力供給量でも安定します。ルシウス室長は、αのスペックを基準にしすぎです!」 ノアは平民出身の劣性Ω。蜂蜜色の髪と榛(はしばみ)色の瞳を持つ、どこにでもいる平凡な研究員だ。 だが、その優秀さと頑固さだけは、ルシウスが唯一認める点でもあった。「Ωの基準になど合わせる必要はない。……そもそも、君たちがすぐに体調を崩し、発情期(ヒート)などという非効率な生理現象に振り回されるのが悪い」「っ……! それは、どうしようもない体質です! あなたがたαには、一生分からないでしょうけど!」 ノアが叫ぶと、ルシウスは鼻で笑った。「分かる必要もない。精神力が足りないから、本能ごときに支配されるんだ。……いいから、その『共鳴石』を貸せ。私が調整する」 ルシウスが強引に、実験台の上にあった巨大な魔石に手を伸ばした。 ノアも負けじと石を掴む。「待ってください! 今触れると、魔力波形が……!」「離せ!」 二人の魔力が同時に石へと流れ込んだ。 αの強大な覇気と、Ωの繊細な魔力。 相反する二つの波長が、共鳴石の中で予期せぬ化学反応(バグ)を引き起こした。 カッ――!! 視界が真っ白に染まるほどの閃光。 鼓膜を破るような轟音と共に、二人の意識は吹き飛ばされた。 ***「……う、ぐ……」 どれくらいの時間が経ったのか。 ノアは、ひどい頭痛と共に目を覚ました。 視界が高い。 いつも見上げている実験棚の上が見える。それに、身体が鉛のように重く、そして妙に熱い力が漲っている。 ノアはふらりと立ち上がった。手を見ると、そこには自分のものではない、大きく骨ばった手があった。「え……?」 ノアが