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満席の観客席からは途切れなく歓声が上がり、まるで巨大な生き物が呼吸しているかのようだ。
時折、波のように拍手が広がり、その度に熱量が会場全体を揺らす。
巨大なスクリーンには、麻雀卓の上で繰り広げられる静かな戦いが映し出されている。
一枚一枚の牌が静かに置かれ、回転し、流れていく様子を、観客たちは固唾を飲んで見守っていた。
その一手一手に歓声が上がり、ため息が漏れ、熱狂が波のように押し寄せては引いていく。
だが、そんな熱狂の中心にいながら、篠宮リリィだけは、冷たい汗をぬぐいながら、控室の扉を閉めた。
外の喧騒が遠い幻のように感じられるほど、彼女の胸の中には重く冷たい何かが沈んでいた。
外の熱気とは対照的に、そこは異様な緊張と孤独が充満していた。
「……リリィ、今のあれはどういうことだ?」
四十代半ばのベテラン雀士、田所信介の声は震えていた。
彼は長年チームの柱としてリリィを支え、時に兄のように、時に厳しい師匠のように接してきた。
だが今、その目は怒りと、そして深い戸惑いに燃えている。
「わざと振り込んだのか?」
問いかけは冷たく、鋭く、リリィの心を刺した。
彼女は俯くしかなかった。言葉が喉に詰まり、答えが見つからない。
信じたくなかった。こんなことが自分の身に降りかかるとは。だが、現実はそれを許さなかった。
「そんなこと、絶対にしていません!」
声が震えていることを、彼女自身が一番自覚していた。
必死に否定の言葉を口にしながらも、心は波立ち、不安と罪悪感に飲み込まれていた。
「じゃあ、あの東一局の放銃はどう説明する? 誰が見ても不自然だったぞ。お前なら、あの牌は絶対に切らないはずだ」
田所の言葉は重い。
彼はリリィのプレイスタイルを知り尽くしていた。
彼女は「守り」に徹するタイプではないが、決して無謀な放銃はしない。
何かが違う、しかし理由が見つからないまま、彼の長年の信頼が音を立てて揺らぎ始めていた。
リリィの心臓が痛いほど脈打つ。
信頼する師匠の顔に浮かんだ裏切られたような表情が、彼女の心をさらに深く抉った。
その時、控室の扉が軽やかに開き、香坂蓮が入ってきた。
彼はチームの最大のスポンサーである大企業の御曹司で、どこか影を帯びた存在だ。
笑顔を浮かべてはいるが、その目は氷のように冷たく、リリィをじっと見据えていた。
その視線が、リリィの喉をさらに締め付けた。
「まあまあ、田所さん。そんなに追い詰めてもしょうがないっすよ」
彼の声は軽く、しかしその裏には強烈な圧力が隠されていた。
「リリィちゃん、そんなに落ち込まないでよ。まだまだこれからだろ? プロとして、勝敗には色々な事情があるんだからさ」
笑顔の裏の冷たさに、リリィは背筋を凍らせた。まるで、すべてを見透かされ、支配されているような感覚。
「蓮さん、あなたは……」
「俺はただ、チームのことを考えているだけさ」
そう言い放ち、静かにドアを閉めた。
ドアが閉まる音は、まるで彼女を外界から遮断する鉄の扉が閉まるような、重い響きだった。
田所はリリィに向き直った。
「話すなら今だ。隠し事はなしだぞ。お前が何か抱え込んでいるのは分かっている。それがチームを、ひいてはお前自身を傷つけることになると分かっているのか?」
リリィは深く息を吸い込み、過去の記憶を呼び起こそうとした。
喉の奥に張り付いた異物を吐き出すように、彼女はゆっくりと口を開いた。
「数時間前、楽屋でのことを話させてください」
リリィは震える声で、すべてを打ち明け始めた。
「試合前、楽屋で蓮さんに……『東一局で振り込んでくれ』と頼まれたんです。 断ろうとしました。 でも、蓮さんは美桜さんの借金の話を持ち出して、彼女を救えるのは私しかいないって……。 最前列で泣きながら祈る美桜さんの姿が見えて、私、どうしても放り出せなくて……!」 田所は絶句した。その言葉を信じられないというように、固く拳を握りしめる。 数時間前、楽屋は静寂に包まれていた。外の騒音とは打って変わって、ここは冷房の効いた静かな空間だった。
リリィは椅子に腰掛け、少し緊張した面持ちで蓮の言葉を待っていた。
プロ雀士として、人生を賭けた大一番の直前。
精神を研ぎ澄まさなければならないはずなのに、リリィの心は落ち着かなかった。
「リリィちゃん、今日も頼むよ」
蓮は差し出したコーヒーを彼女に手渡した。
その手は、冷たく硬かった。
リリィは受け取りながら、小さく微笑んだ。
「ありがとう。でも、勝敗は手牌次第よ。私はただ、最善を尽くすだけです」
彼女のその言葉は、どこか強がりだった。
プロとしてのプライドと、不穏な空気を察知する本能が彼女を強張らせていた。
蓮は一歩近づき、耳元に低く囁いた。
その声は、蛇のように滑らかだった。
「東一局のあの一局だけ、振り込んでくれ」
言葉は静かだが、その重みは凄まじかった。
リリィは心臓を鷲掴みにされたかのように凍りついた。
胸の鼓動が激しくなり、思わず顔を背けそうになる。
彼女の麻雀人生における最大のタブーを、今、この男は平然と口にしたのだ。
「そんなの、絶対に無理です! 麻雀は正々堂々やるって決めてる。それが私の、プロとしての矜持です!」
彼女の声は震えていたが、揺るぎない意志が込められていた。
幼い頃から麻雀に人生を捧げてきた彼女にとって、それは決して譲れない唯一の道だった。
蓮は視線を逸らさずに言った。
その目は、感情の欠片も見せず、ただ冷徹に目的を見つめている。
「わかってる。でも、そうしないと助からない奴がいるんだ」
リリィの目が揺れた。
蓮の視線の先に目を向けると、そこには泣きじゃくる少女の姿があった。
細い肩が震え、手を合わせて必死に何かを祈っている。
その姿は、痛々しいほどに弱々しかった。
「それは……美桜さん?」
美桜は、蓮の異母妹で、チームの若手雀士だった。
プロになってまだ日が浅く、リリィを姉のように慕っていた。
「そうだ。俺の妹だ。美桜は、借金取りに追われている。父親が残した莫大な借金を肩代わりするために、違法な賭け麻雀に手を出してしまった。もし、このまま僕が負ければ、彼女の人生は終わりだ」
静かな空気が楽屋を支配した。
リリィの胸は締めつけられ、言葉が出なかった。
麻雀の闇。
幼い頃に両親から聞かされた言葉が、生々しい現実として目の前に突きつけられた。
リリィの幼少期の記憶がふと蘇る。
両親は麻雀を愛しながらも、その闇も知っていた。
父はプロ雀士として活躍し、多くの勝利を収めていたが、ある日、多額の借金を抱え姿を消した。
母はそれでも懸命に家計を支え、時折言った。
「麻雀は楽しい。でも、正しい気持ちで打たなければ、人を傷つけることもある。牌には、人の人生を狂わせる力があるの」
その言葉をリリィは胸に刻み、真っ直ぐに麻雀に向き合い続けてきた。
誠実で、公平な麻雀を。
自分の麻雀が誰かを不幸にすることは絶対にないと信じて。
「でも私は……」
「犠牲は避けられないんだ」
蓮の声は、冷酷なまでに静かだった。
彼はリリィの心の弱みにつけ込み、彼女の「仲間を守りたい」という優しい気持ちを、巧みに利用しようとしていた。
リリィは沈黙した。
心の中は波のように揺れていた。
罪悪感、恐怖、そして美桜を守りたいという強い思いが入り混じる。
美桜の泣き顔が頭から離れない。
彼女の未来を、自分の一打が左右する。
もし自分がこの一局を犠牲にすれば、美桜は救われる。
でも、それは麻雀を愛する者としての、プロとしての魂を売ることになる。
「……分かった、約束する」
その言葉は、小さく呟いたようだった。
しかし、その一言は、彼女の麻雀人生を根本から覆す、重い決断だった。
蓮は満足げに微笑み、彼女の肩を軽く叩いた。
その手は、冷たいはずなのに、まるで熱い烙印を押されたかのように感じられた。
卓に着くと、観客の視線が一斉にリリィに刺さった。
彼女はいつもの笑顔を貼り付けようとするが、うまくいかない。胸の奥が凍りついている。
「冷静に、冷静に」
自分に言い聞かせ、東一局の局面が訪れた。
蓮がリーチをかけ、リリィは危険牌を掴む。
東。
それは、蓮の当たり牌だった。
普段なら絶対に切らない牌。
絶対に。
しかし、最前列で涙を流し祈る美桜の姿が目に入った。
震える手で、彼女は「ごめんなさい」と口パクで伝えている。
その姿を見て、リリィは決意した。
「……もうやめて」
息を殺し、震える指先で、牌を切った。
場内にざわめきが走り、蓮が和了を宣言した。
歓声が湧き上がったが、リリィの胸には冷たい氷のような感覚が広がっていた。
それは、彼女の麻雀魂が、ゆっくりと砕け散っていく音だった。
翌日。リリィは規律委員会室に呼び出された。
冷たい空調が肌を刺す。
委員長木島は、老眼鏡の奥でリリィを値踏みするように見つめ、冷たく告げた。
「八百長の証拠は揃っている」
テーブルに置かれたタブレットには、編集された映像が映し出されていた。
東一局の、リリィの不自然な放銃ばかりが抜き出され、まるで彼女が故意に負けたかのように巧妙に編集されている。
「違います! 私はそんなことは……!」
必死に訴えるが、木島の声は冷酷だった。
「黙りなさい。スポンサーからも苦情が来ている。チーム香坂は、君を八百長で訴えると言っている。君は即日、プロ資格を剥奪し、リーグから追放だ」
スポンサーからも?
チーム香坂が?
蓮は、彼女を助けるどころか、すべての罪を彼女になすりつけたのだ。
美桜を救うためだと、仲間を守るためだと信じた彼女の気持ちは、最初から彼の手のひらの上で踊らされていたに過ぎなかった。
声は冷酷で、リリィの言葉は届かなかった。
絶望が、彼女の心を覆い尽くした。
夜。
東京湾の高架橋に腰掛けるリリィ。
眼下には、静かに波が打ち寄せる。
冷たい缶コーヒーを握りしめ、静かな波の音に耳を傾けた。
手のひらに伝わる冷たさが、今の彼女の心そのものだった。
スマホの画面は「八百長女」「裏切り者」「プロの恥」といった誹謗中傷の言葉で埋め尽くされていた。
知らない人からの罵詈雑言、信じていたファンからの失望の声。すべてが、彼女の心を蝕んでいく。
母からの留守電を再生する。
『……リリィ、どうしてあんなことを……でも信じてる、あなたのことを……』
震える声。
信じてくれた言葉。
しかし、その言葉は、今の彼女には重すぎた。
父のように、麻雀の闇に飲み込まれ、大切な人を悲しませてしまった。
罪悪感と後悔が、涙となって溢れ出し、止まらなかった。
その時、周囲の空気が変わった。
夜の潮風が、不思議な光の粒子を運んでくる。
水面が淡く光り、無数の光の粒が宙に舞う。
それはまるで、小さな麻雀牌が空中を漂うようだ。
「なに、これ……?」
足元のアスファルトが透け、深く光る海が広がった。
その海は、宇宙のように星々が輝き、リリィを吸い込もうとしている。
耳元に、不思議な声が響く。
まるで、遠い昔に聞いた母の言葉のようであり、しかし全く異なる、神々しい響きだった。
『麻雀でしか救えぬ国がある。そなたの魂は、まだ、光を失っていない』
身体が浮き上がり、視界が白に染まっていく。
最後に聞こえたのは、波の音か、牌を打つ音か。
リリィは光の中に消えた。
彼女の魂は、麻雀の闇から解き放たれ、新たな世界へと導かれていく。
雀荘の奥、薄暗い休憩室。 リリィは木製の椅子に腰掛け、窓の外の庭園をぼんやりと見つめていた。 色とりどりの花々が風に揺れ、空に向かって鮮やかに咲き誇る。 その中心には、麻雀牌の形をした巨大な噴水が水を吹き上げ、太陽の光を受けて煌めいていた。 だが、リリィの胸の内はその美しさとは裏腹に、重苦しい暗闇に包まれていた。「牌を握らずに、ただ雑用として生きる……こんなはずじゃなかった。あの時、自分で決めたことだけど」 彼女は低く呟いた。 リリィの心は過去の失敗と罪の影に縛られ、自由を奪われていた。 八百長ですべてを失った、あの日の出来事が、彼女の心を常に締め付けていた。「本当にこれでいいのか、私……」そんな時、不意に軽やかな声が休憩室に響いた。「ねえ、あなた。雑用係のリリィさんでしょ?」 声の主は、薄汚れた服をまとった少女だった。 しかし、その瞳には生き生きとした輝きが宿り、決して屈しない強い意志を感じさせた。 リリィは驚き、警戒心を強くした。 王宮の人間や、この雀荘の客たちとは明らかに違う雰囲気を、その少女から感じ取ったのだ。「はい、そうですが……何か?」 少女は物怖じせずに笑みを浮かべた。「私、ミミ。貧民街からここに来た見習い雀士。どうしてもあなたに会いたくて来たの」 リリィは戸惑いの表情を隠せなかった。 貧民街の人間が、どうして自分のことを知っているのだろう。「なぜ、私に?」 ミミは真剣な眼差しで答えた。「噂を聞いたのよ。『牌を握らない姫』だって。みんなからは色々言われてるけど、私は違うと思う。あなたには誰にも負けない強さがある。だって、こんなに麻雀が盛んな王都で、牌を打たないなんて、並大抵のことじゃないでしょ?」 リリィはその言葉に胸がざわついた。(強さ……私に?)「だから、弟子にしてください」 ミミの声は真摯で、決して諦めない決意が込められていた。 リリィはその目を見つめ返しながら、自分の心の扉がゆっくりと開かれていくのを感じた。「弟子……?」「はい。私はまだまだ未熟。もっと強くなりたい。あなたの経験や技術を学ばせてほしい。あなたのように麻雀を知り尽くした人が、どうして牌を握らなくなったのか、その理由を知りたいんです」 ミミの瞳は熱を帯び、まるで炎のように揺らめいていた。 リリィは沈黙した。「私が教
雀荘の扉が開くと、熱気と煙草の匂いが一気に襲ってきた。 豪華な王宮の清らかな空気とはまるで違う、雑多で粗野な空気に、リリィは思わず顔をしかめる。 しかし、すぐに深呼吸し、背筋を伸ばして内部に足を踏み入れた。麻雀卓が所狭しと並び、麻雀牌がぶつかり合う小気味よい音、高揚した男たちの怒声、そして勝利の雄叫びが空間を満たしている。 王宮では聞くことのない、剥き出しの感情が渦巻く場所に、リリィは少しだけ恐怖を覚えた。貴族A「リーチだ! これで終わりだ!」リリィは配膳をしながら卓を見てしまう。一瞬だけ表情が変わる。リリィ「……」その打牌を見た瞬間、思わず口が動いた。リリィ「その一打は危険です」卓が静まり返る。貴族B「……は?」貴族A「何だと?」リリィは慌てて頭を下げる。リリィ「も、申し訳ありません……出過ぎたことを……」しかし貴族Aは立ち上がった。貴族A「雑用係風情が、私に麻雀を教えるつもりか?」周囲の客も笑い始める。「聞いたか?」「牌も握れない雑用係が助言だってよ!」「王宮を追い出された娘らしいぞ」笑い声が広がる。リリィは唇を噛み締めた。リリィ「……失礼しました」彼女はその場を離れようとする。その瞬間――貴族B「ロン」貴族A「……え?」貴族B「倍満だ」場内が静まり返る。貴族A「な……」手牌を見る。リリィが危険と言った牌こそが、放銃牌だった。貴族B「その牌さえ切らなければ、君の勝ちだったな」貴族A「そ、そんな馬鹿な……」周囲もざわつき始める。「あの雑用係……」「当てたのか?」「偶然じゃないのか?」しかし貴族Aは顔を真っ赤にして怒鳴った。「まぐれだ!」「たまたま当たっただけだ!」「二度と口を挟むな!」リリィ「……はい」頭を下げて去るリリィ。しかし、その後ろ姿を見ながら、一人の常連客が小さく呟く。「いや……あれはまぐれじゃない。」「一瞬見ただけで危険牌を見抜いた。」「もし本当に実力者なら……」「面白い娘が来たな。」 休憩時間。 リリィは一人、窓際で目を閉じていた。 喧騒から離れたこの場所でも、彼女の心は休まらなかった。 貴族たちの冷たい視線と、客たちの軽蔑の目が、瞼の裏に焼き付いている。「リリィさん、あまり無理すんなよ」 年配
王宮の夜は静かに更けていた。 豪華なシャンデリアの光が大理石の廊下を淡く照らし出し、窓の外からは涼しい夜風とともに遠くの噴水のせせらぎが微かに聞こえてくる。 しかし、その美しい光景の中にあっても、リリィの心は一向に安らぐことはなかった。 彼女の背中を押す重圧は日に日に増し、王宮の冷たい視線が刺さり続けていた。「また、あの子が廊下を通ったわね」 「相変わらず、まるで幽霊のように静かに……」 「まるで牌を握ることを拒否するかのように……あの“牌を握らない姫”って噂は本当らしいわ」 「外の世界から来たというだけで、何の才覚もない娘に王子の|寵愛《ちょうあい》を注がれるなんて、我々の面子はどうなるのやら」 貴族たちの囁きは、夜の闇に溶け込むと同時に、リリィの心中を深くえぐり続けた。 麻雀が絶対的な価値を持つこの世界で、牌を握ることを拒否する彼女は、異端でしかなかった。 その孤独を紛らわせるために、彼女はいつも夜の回廊を一人で歩いていた。 その足音が途絶えると、代わりに貴族たちの軽薄な笑い声が響き、彼女の心をさらに凍てつかせるのだった。そんな中で、彼女を見守り続ける人物がいた。 第一王子セディリオ。 言わずもがな、王宮で数少ないリリィの理解者であった。 彼は権威を振りかざすことなく、誰に対しても分け隔てなく接する穏やかな青年だった。 王子の|庇護《ひご》のもとにあっても、リリィにとってこの世界は決して優しい場所ではなかった。 しかし、セディリオは彼女の痛みを誰よりも知り、静かに支え続けていた。 ある晩、リリィはまたひとり、王宮の長い回廊を歩いていた。 大理石の床に反響する自分の足音が、彼女の孤独をいっそう深める。 その足音に混じって、もう一つの足音が近づいてくることに、彼女は気づかなかった。「……リリィ」 呼び止められた声は、セディリオだった。 彼の声は静かだが、確かな温もりが宿っている。リリィは振り返り、はっと目を見開いた。「セディリオ様……こんな時間に、何をしているのですか?」「それはこちらの台詞だ。この時間まで起きて、何をしていたんだ?」 セディリオは彼女の隣に並び、静かに歩き始めた。「散歩です。……考え事をしていました」「考え事、か。この宮殿は、夜になると
豪華絢爛な王宮の回廊に、リリィの足音だけが静かに響いていた。磨き上げられた大理石の床は、彼女の姿を鏡のように映し出す。窓の外に広がる庭園は、色鮮やかな花々が咲き乱れ、陽光を浴びて煌めいていた。その中心には、麻雀牌の形をした巨大な噴水が清らかな水を吹き上げている。この世界では、麻雀こそがすべてを司っていた。政治も文化も、日常の細部に至るまで。麻雀牌は単なるゲームの駒ではなく、力の象徴であり、運命の鍵だった。しかし、その美しさの裏に潜む残酷な現実が、リリィの胸を締め付ける。「リリィ、気をつけろ」背後から聞こえた低い声に、リリィは一瞬立ち止まった。声の主は、王宮警備隊の若い兵士だった。「貴女に近づく者は多い。王子様の庇護があっても、敵はいる。警戒を怠るな」リリィは小さく頷いた。「ありがとう。でも、私はもう怖くない。少しずつ慣れていくしかない」その言葉に兵士は静かに頷き、彼女の後ろから離れていった。王宮での生活は、一見華やかで恵まれていた。清潔な部屋、規則正しい食事、着るものに不自由はなかった。だが、その実態は凍てつくように冷たかった。貴族や他の臣下たちは、リリィを「役立たず」と嘲笑い、陰で|蔑《さげす》んでいた。「あら、噂の『牌を握らない姫』ね」広間の一角で、貴婦人たちのささやき声が耳に入った。「雀士としての才能が全てのこの国で、牌も握れないなんて、王子様のお気に入りだとはいえ、本当に情けない話よね」「外の世界から来たって話だけど、八百長で追放されたって噂もあるわ。そんな人間が、この聖なる王宮にいるなんて信じられない」「ねえ、知ってる? あの子が王子様の庇護を受けてるから、私たちも黙ってるけど、本当は誰も歓迎してないんだって」リリィは何も言い返さず、ただ俯いて通り過ぎた。反論しても無駄だ。ここでは麻雀の強さこそが絶対の価値であり、彼女のような「牌を握らない者」は不必要な存在にすぎなかった。王宮の廊下を歩く度に、冷たい視線や|囁《ささや》きが刺さる。彼女は心の中で何度も繰り返していた。(私に価値はないのか……?)だが、それでもどこかで、ほんの少しだけ自分を信じたい気持ちがあった。ある日の夕暮れ、リリィの部屋の扉がノックされた。「リリィ、少し話がある」その声は、まぎれもなくセディリオ王子のものだった。彼は優
東京湾の波の音が遠のき、視界が白に染まる感覚が全身を包んだ。 それは、深い海に沈んでいくような、あるいは無重力空間に放り出されたかのような、不思議で、どこか心地よい感覚だった。 全身の力が抜け、意識が遠のきそうになったその時、唐突に足元に硬い感触が戻ってきた。気がつくと、リリィは見知らぬ場所に立っていた。 先ほどまでの絶望と孤独が、嘘のように遠い記憶に感じられる。 眼前に広がるのは、果てしなく続く緑の大地と、幾重にも重なる山並み。 空は深い藍色で、地球では見たこともないような、巨大で鮮やかな月が浮かんでいる。 見慣れた東京の灰色のビル群とはまるで違う、息をのむような美しい光景だった。しかし何よりも異様だったのは、空中に浮かぶ無数の麻雀牌の彫刻群だった。東、南、西、北、白、發、中……。 無数の牌が、まるで意思を持ったかのように、星のように煌めきながら空中を漂っている。 一つ一つが手のひらサイズの宝石のように輝き、時にはゆったりと、時には速く、秩序を持って回っている。 まるで天球のように、その牌はこの世界の中心で永遠に回っているかのようだった。 その荘厳な光景に、リリィはただ立ち尽くすしかなかった。「ここは……どこ?」リリィは思わず声をあげた。 身体は軽く、宙に浮いているような感覚があったが、足元の草はしっかりと踏みしめられた。 夢か幻か、あるいは死後の世界なのだろうか。「お目覚めかな」背後から声がした。 振り返ると、そこには華麗な白い鎧を身にまとった若い男性が立っていた。 長い銀髪が風になびき、その顔立ちは整い、澄んだ青い瞳はどこか遠くを見つめているようだった。 まるで絵画から抜け出してきたかのような、現実離れした美しさがあった。「あなたは……?」リリィは警戒しながらも問いかけた。 あまりにも現実離れした状況に、まだ心を落ち着かせることができない。「私はセディリオ・ヴェルデンハルト、この国の第一王子だ」彼は静かに頭を下げ、その表情には傲慢さの欠片もなかった。「異世界マージャンディアへようこそ。ここは、麻雀こそがすべてを司る世界だ」セディリオの言葉に、リリィは混乱した。「麻雀が支配する世界……?」「そうだ。この国のあらゆる政治、経済、社会は、麻雀の勝敗によって決まる。勝者は”ジャンスター”と呼ばれ、法律を
東京ドームは、声援と熱気で溢れかえっていた。満席の観客席からは途切れなく歓声が上がり、まるで巨大な生き物が呼吸しているかのようだ。時折、波のように拍手が広がり、その度に熱量が会場全体を揺らす。巨大なスクリーンには、麻雀卓の上で繰り広げられる静かな戦いが映し出されている。一枚一枚の牌が静かに置かれ、回転し、流れていく様子を、観客たちは固唾を飲んで見守っていた。その一手一手に歓声が上がり、ため息が漏れ、熱狂が波のように押し寄せては引いていく。だが、そんな熱狂の中心にいながら、篠宮リリィだけは、冷たい汗をぬぐいながら、控室の扉を閉めた。外の喧騒が遠い幻のように感じられるほど、彼女の胸の中には重く冷たい何かが沈んでいた。外の熱気とは対照的に、そこは異様な緊張と孤独が充満していた。「……リリィ、今のあれはどういうことだ?」四十代半ばのベテラン雀士、田所信介の声は震えていた。彼は長年チームの柱としてリリィを支え、時に兄のように、時に厳しい師匠のように接してきた。だが今、その目は怒りと、そして深い戸惑いに燃えている。「わざと振り込んだのか?」問いかけは冷たく、鋭く、リリィの心を刺した。彼女は俯くしかなかった。言葉が喉に詰まり、答えが見つからない。信じたくなかった。こんなことが自分の身に降りかかるとは。だが、現実はそれを許さなかった。「そんなこと、絶対にしていません!」声が震えていることを、彼女自身が一番自覚していた。必死に否定の言葉を口にしながらも、心は波立ち、不安と罪悪感に飲み込まれていた。「じゃあ、あの東一局の放銃はどう説明する? 誰が見ても不自然だったぞ。お前なら、あの牌は絶対に切らないはずだ」田所の言葉は重い。彼はリリィのプレイスタイルを知り尽くしていた。彼女は「守り」に徹するタイプではないが、決して無謀な放銃はしない。何かが違う、しかし理由が見つからないまま、彼の長年の信頼が音を立てて揺らぎ始めていた。リリィの心臓が痛いほど脈打つ。信頼する師匠の顔に浮かんだ裏切られたような表情が、彼女の心をさらに深く抉った。その時、控室の扉が軽やかに開き、香坂蓮が入ってきた。彼はチームの最大のスポンサーである大企業の御曹司で、どこか影を帯びた存在だ。笑顔を浮かべてはいるが、その目は氷のように冷たく、リリィをじっと見据えていた







