LOGIN車は資材搬入用に敷かれた凹凸の激しい山道を上った先の、開けた場所で停車した。
風に乗って、町のほうから音質の悪い、ガサついた『七つの子』が聞こえてくる。
音楽につられるようにそちらに目を向けた政秀に男が説明した。「子どもたちに帰宅を促す音楽です。毎日5時に町役場が流していて、なんでも70年の歴史があるそうですよ。お昼時には、また別の曲を流しているんだとか。
まだこんなことをしている所があったんですね」古くさい田舎の伝統だと言わんばかりの、小ばかにした物言いだった。
「まあ、今が何時か知るのには便利だと思いますが。
さて、降りましょうか。廃校舎はここから少し上がった所になります」シートベルトを外して運転席から出ようとする男を政秀が制止する。
「降りなくていい」
「案内が必要でしょう」 「不要だ。2時間もあればすむ。2時間後に迎えに来てくれ」 「しかし――」とっさに反論を口にしかけ、男は思い直したように作り笑顔で言い直した。「分かりました。では、ここでお待ちしていますよ」道が開通後ならまだしも、こんな田舎で夜2時間も時間をつぶせる場所などあるわけがない。また、外灯のない夜の山道を往復するよりもここで待って、戻ってきた政秀を乗せて帰るほうがいくらか時間を節約できるし、政秀にとってもここで車が来るのを待たなくていいのだから得になる話だと考えての提案だったが。
男に通じてないと知った政秀は小さくため息をつき、「ここに1人でいないほうがいい」と付け加えた。
「70年たっているんだろう? 十分ここもやつのテリトリーだ」
その声、口調。男を怖がらせるためにそう言っているわけでないのは明らかだった。
背筋に冷たい震えが走った直後、はっと正気付く。一瞬でも怖じけたことをごまかすように、男は上着のポケットを探った。「では、これをお持ちください」政秀に向けて放った、それはスマホだった。「私のスマホの番号が入っています。それで連絡をいただければ、すぐ――」
「いらん」即座に投げ返されてきたそれを男はとっさに受け取れず、お手玉してしまう。
「2時間後だ」
念を押すように言い置いて外に出た政秀の、出会って以来徹頭徹尾変わらぬ横柄な態度に、ついに男はぷちっとこめかみ辺りで何かが切れるのを感じた。
「いいから持って行ってください!」
ドアをたたき付けるように閉めて外へ出た男は、つかつかと歩み寄り、腕をつかんでスマホを手にねじ込む。
「この際だから言わせてもらいますがね、あなたと連絡をとるのにわたしがどれだけ苦労したことか! 今日も、こんな遅い時間になってしまって。本当なら昼に来る予定だったのに! おかげでわたしの午後の予定が全てキャンセルになったんですよ! それも全て、あなたがスマホを持たないからです!
スマホを持つか、あるいは他の連絡手段……たとえば助手を雇うとかしたらどうですか? できるでしょう!」
政秀は初めて見た男の剣幕に面食らったか。黙り込み、手の上でスマホを転がす。
「助手ならいた。口の達者なやつだったからつなぎ役に使えるかと思ったが、調子のいいうそばかりつきだしたので、先月クビにした」
それに、と政秀は片方の口角を少し上げ、皮肉げな笑みをつくる。
「知らないようだから教えてやるが、電子機器と霊能力は相性が悪い。ああいった機械が出す電磁波と霊力波はよく干渉しあって、互いに誤作動を起こす。
おまえも見たことがあるだろう? 映画やドラマなどで霊が現れたり霊的現象が起きるとき、必ずといっていいほど直前にカメラやテレビといった機器が壊れたり異常が起きる」男がはっとした表情になり、
「あれは、本当のことだったんですね!」
と意気込んだ直後。
「冗談だ」
政秀はあっさり先の言葉を否定した。
「……は?」
「そんなこと、あるわけないだろう」男の顔の高さに持ち上げた左手首の時計のガラス蓋を爪でコツコツとたたく。
先の話が事実なら、時計は真っ先に影響を受けて使い物にならなくなるはずだろう、と。「信じたのか?」
「…………っ……」赤面して、言葉もなく肩を震わせている男の前、後部座席から荷物を下ろした政秀は「2時間後だ」と再度言う。
男は車を急発進させると砂煙を上げながら走り去って行った。◆◆◆
くどくどしい男がいなくなり、せいせいした、と政秀は車が坂で見えなくなる前に背を向けた。
ここは資材置き場として使用するために急きょ切り開かれたのに違いない。掘り崩された真新しい斜面からのぞく木の根、あちらこちらに切り株や掘り返した土の山が残る中、隅のほうに小型重機数台と小型冷凍庫ほどの大きさの道具入れがあり、そして建設資材が人の背丈を超える高さで幾つも積み上げられていた。そのどれもに雨よけのブルーシートがかぶせられ、太いワイヤーロープでしっかり止められている。簡単に外れそうにないのは一見して分かった。
もっとも、当時は雑なことをしていて緩み、事故後にきっちり止めるようになったのかもしれないが。
ワイヤーロープ止めから視線を外し、木々の間から見える廃校を仰ぎ見たときだ。――あの人、1人だけ? あの車、戻ってこない?
――そうみたい。この前のことがあったから、もう来ないと思ったんだけど。そんなひそひそ声が風に乗ってかすかに聞こえてきた。
車は資材搬入用に敷かれた凹凸の激しい山道を上った先の、開けた場所で停車した。 風に乗って、町のほうから音質の悪い、ガサついた『七つの子』が聞こえてくる。 音楽につられるようにそちらに目を向けた政秀に男が説明した。「子どもたちに帰宅を促す音楽です。毎日5時に町役場が流していて、なんでも70年の歴史があるそうですよ。お昼時には、また別の曲を流しているんだとか。 まだこんなことをしている所があったんですね」 古くさい田舎の伝統だと言わんばかりの、小ばかにした物言いだった。「まあ、今が何時か知るのには便利だと思いますが。 さて、降りましょうか。廃校舎はここから少し上がった所になります」 シートベルトを外して運転席から出ようとする男を政秀が制止する。「降りなくていい」「案内が必要でしょう」「不要だ。2時間もあればすむ。2時間後に迎えに来てくれ」「しかし――」とっさに反論を口にしかけ、男は思い直したように作り笑顔で言い直した。「分かりました。では、ここでお待ちしていますよ」 道が開通後ならまだしも、こんな田舎で夜2時間も時間をつぶせる場所などあるわけがない。また、外灯のない夜の山道を往復するよりもここで待って、戻ってきた政秀を乗せて帰るほうがいくらか時間を節約できるし、政秀にとってもここで車が来るのを待たなくていいのだから得になる話だと考えての提案だったが。 男に通じてないと知った政秀は小さくため息をつき、「ここに1人でいないほうがいい」と付け加えた。「70年たっているんだろう? 十分ここもやつのテリトリーだ」 その声、口調。男を怖がらせるためにそう言っているわけでないのは明らかだった。 背筋に冷たい震えが走った直後、はっと正気付く。一瞬でも怖じけたことをごまかすように、男は上着のポケットを探った。「では、これをお持ちください」政秀に向けて放った、それはスマホだった。「私のスマホの番号が入っています。それで連絡をいただければ、すぐ――」「いらん」 即座に投げ返されてきたそれを男はとっさに
●2024/08/25 幹線道路を1台の車が走っていた。 山沿いの道はなだらかな上り坂になっている。見晴らしはよく、信号機はほとんどない。対向車もめったにない。要は田舎道だ。 そういった場所であるならついついスピードを出しがちになるものだが、車は法定速度を遵守し、きっちり60キロで走行している。 黒のセダン。とりたてて特筆すべき特徴のない車だ。そしてその車のハンドルを握っているのもこれまたとりたてて述べるほどのものがない男で、それでもあえて挙げるとするならば、一見しただけで高級品と分かるオーダーメイドスーツと、縁なしの眼鏡をかけていることだろうか。それと、額に一房だけかかった前髪。しかしこれも本人が気付いていないだけで、気付けばすぐ後ろになでつけられるのだろう。男についての印象を聞かれたなら、品のいい、家庭訪問のセールスマンではないかと、10人が10人そう答えるに違いない。 徹底している。 助手席に座った政秀は、そう結論づけると、ふらりと外の景色に目を戻した。運転席側は山腹を土砂対策のコンクリートブロックが覆った味も素っ気もないものだが、左は打って変わった絶景だ。 この道路も山肌を切り開いて造られており、ガードレールを挟んだ向こうは崖で、その先は密集した甍と庭木が広がっている。そしてその甍の波を越えた先には海が広がっていた。 現在時刻は午後4時半。日の入りまで残すところあと1時間といったところか。黄色がかった朱赤のたそがれ色の空と落ちかけた夕日に染まった海。沖の水面では白波がまぶしく輝いている。全開した窓から入る風からは、かすかに潮の香がしていた。 美しいが、それだけだ。 5分で見飽きる景色だが、助手席に座っているだけでは、他に見るものもなかった。 互いに無言のまま、数分が経過したころ。赤信号で停車させた男が、ぽつりつぶやいた。「読まれないのですか」 男が言っているのは、政秀が膝に置いたままの封筒についてだろう。『向こうに着くまで2時間はかかります。その間に車内で目を通されるといいでしょう』 迎えに来た車
「やっぱり行くのはやめて、もう帰ろうよ……」 英一はこの1時間で何度目かになる言葉をまたもや口にした。 あたしは前をふさぐ草をかき分けていた手を止めて振り返り、うんざりした顔を英一へと向ける。「帰らないって、何度言ったら分かるの! まだ目的地にも着いてないのよ!」 怒気をはらんだ言葉か、それとも一見して分かるあたしの機嫌の悪さにか。英一はびくっと身をはねさせて、あわてて下を向く。それきり何も言わなくなった英一に、あたしは再び前進を始めたが、数分とたてずにまたもや英一が「でも……」と納得しきれない様子でぐちぐちとこぼし始めた。「英一! 目的の廃校までたった30分よ? たったの30分でも、その口を閉じていられないの?」「でも……30分前にも、お姉ちゃん、同じこと言ったよ……。それに……ほら。風が、変なふうに吹きだしてるよ。雨が降るかも……」「今日はずっと晴れ! 夜も晴れ! 天気予報は確認済みだから!」 あ、と思ったときにはもう遅い。 ぴしゃりと言葉をたたきつけられた英一は、ついに涙をにじませた。「……だって……」 やめて、泣きだしたりしないで、これ以上は勘弁して――そう思ったときだ。「大丈夫よ、英ちゃん。わたしもいるから」 それまで黙々と一番後ろを歩いていた幼なじみで親友の加奈子が、山に入って以来初めて口を開いた。 英一の横について、うつむいた顔をのぞき込む。「怖いなら、手つないで歩こっか?」 ぎゅっと口を引き結んで目をこすりだした英一の姿を見ていられなくてすぐ背を向けたから、加奈子の提案を英一が受け入れたかどうかは分からない。でもきっと、手をつないでいるに決まってる。 あたしは自他ともに認める癇癪持ち。一言多いってよく言われるし、言葉がきついから、決してわざとじゃないけど弟の英一を泣かせてしまうのもしょっちゅうだ。 英一は優しい加奈子が大好きで「かなちゃんが本当のお姉ちゃんだったらいいのに」とこれまでに何度も口にしたことがあるくらいだから、加奈子と手をつなげるのはうれしいだろう。それか、恥ずかしがって断るか。どっちにしても、とにかく英一の泣き言は以後ぴたっと止まった。やれやれだ。 泣かせそうになってしまった後ろ暗い気持ちと相まって、あたしは胸の中で加奈子に感謝して、再び歩き出した。 正直なところを言うと、実はあたしもすでに何