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Nox.II 『歴史秘書のお仕事』I

Author: 皐月紫音
last update Last Updated: 2025-07-15 04:01:14

◆◇◆◇

 ヴァルメール学院では、国内の他の学校には存在しない特殊な制度がある。

 それが〝秘書制度〟だ。

 各学年、各クラスから教科ごとに〝秘書〟と呼ばれる生徒が選ばれる。

 彼らは担当教師のサポート、及びクラスの生徒との橋渡し役を担う。

 将来的に国を背負って立つ優秀な人材を育成する学院において、秘書が担う責任は重く、その生徒の評価も自然と高まっていく。

 自分の意思とは無関係に、押し付けられた仕事ではあるが、今となってはレイフはこの仕事に、わずかながらの楽しみも見出しはじめていた。

 静寂が支配する学院の廊下に、革靴がコツコツと、床を叩くリズミカルな音が響き渡る。

 左右に学院の創立に関わった国の有力者たちの肖像画や石像が並ぶ道――レイフはゆっくりと歩を進めてゆく。

 月白色の伝統ある学院の制服も、彼が着ているのでは夜の世界の住人が身に纏う仕事着にしか見えない。

 深紅のネクタイを外した黒のシャツは、第三ボタンまでが開け放たれ、襟を立てて着る彼の好む|着こなし《スタイル》。

 |鈴《ベル》を象った|首飾り《ペンダント》が胸元に揺れ、袖や指先には銀製の|腕飾り《ブレスレット》や|指輪《リング》が、窓から差し込む陽光を受けて輝く。

 窓には、すべて濃紺のカーテンが掛けられ、わずかな陽の光が、その合間を縫うように射し込んでいた。

 以前ならば、その先には、広大な|並木道《アベニュー》の庭園が広がっていた。

 庭園の中央にはエテルヴォワ神話に登場する『霧』の神ブリュメアル、『湖』の精霊ナイサリーヌの石像が印象的な噴水が設置されている。

 ここに好きな人を呼び出して告白すれば、恋が実ると女子生徒の間では有名な告白スポットだが、残念ながらレイフはまだ呼ばれたことはない。

 左右には均等に馬を象ったトピアリーと、|象牙色《アイボリー》、アプリコット、|深紅《ワインレッド》、レモンイエローと言った様々な色の薔薇を植えた花壇が並ぶ。

 これは王国において、伝統的に好まれている|左右対称《アシンメトリー》の庭園だ。

 学院の観光名所ともなっている、この見事な庭園が虚構の夜空に隠され、廊下が幽霊屋敷を彷彿させるような雰囲気を放っているのには理由があった。

 そう、すべての諸悪の根源は、この先の部屋の|主人《あるじ》だ。

 レイフの視線の先に|臙脂色《バーガンディ》の大扉が見えてくる。

 扉には、白いプレートが掛けられており、〝働いているわ〟と、雑な文字で書かれていた。

 子供でさえ、もう少し丁寧な文字で書くだろう。

 扉を数度、ノックするも反応は返ってこない。

 ここまではレイフの予想どおりだ。

 形だけでも、再度ノックした|後《のち》、レイフは乱暴に扉を開いた。

 ――バシュッ!!

 部屋へと入った彼を待ち受けていたのは、無慈悲な殺意の洗礼だった。

 踊り狂う|独楽《こま》の如く、風の軌跡を描き、それは狙い違わずにレイフの額へと飛んでゆく。

「〝本〟で遊ぶんじゃねぇよ」

 整髪料で綺麗に整えられた髪をかきながら、嘆息するレイフは動じる様子を見せることもなく、飛んできた〝本〟を受け止めた。

 飛んできたのは文庫本などではなく、小柄な女性の胴体くらいはあるであろう外国の植物辞典だ。

 犯人が、〝殺る〟気だったのは疑いようがない。

「やっぱり貴方、ムカつくわ」

「何が仕事中だ、このニート教師」

 レイフの視線の先には、撤去された机の代わりに部屋の中央へと設置された天蓋付きのベッドで、優雅に寝そべるヴィオレタが居た。

◆◇◆◇

 ベッドには、主人の血をすべて吸い出したかのような緋色のカーテンが掛けられていた。

 アーチ型の窓にも同色のカーテンが掛けられ、それが白とウォールナットを基調とした部屋のアクセントとなっている。

 部屋の左右には天井まで伸びたウォールナットの本棚が立ち並び、古今東西の貴重な資料が保管されていた。

 しかし、棚の本が飛び道具以外の用途として使われているのを、レイフは未だかつて見た事がない。

 ベッドのカーテンの先では黒い|寝巻き《ネグリジェ》から惜しげもなく、雪のように白く、艶かしい肌を|曝《さら》け出した女性が、ムスッとした表情でレイフを|睨《にら》みつけている。

 彼女こそが、他ならぬこの部屋の|主人《あるじ》で、ヴァルメール学院の歴史教師であるヴィオレタ・ウルバノヴァだ。

 この部屋は、彼女へと仕事のために与えられたものだが、今ではすっかりと寝室へと姿を変えてしまっている。

「教師に向かって、ずいぶんと生意気な口の聞き方ね……」

「そっちこそ、わざわざ迎えに来てやった生徒に向かって、ずいぶんな扱いだな」

「ふっ、いい大人に過保護なものね……。私もナメられたものだわ……」

「あのなぁ……」

 反省の色など皆無。

 当然かのように開き直ってみせる彼女の態度に、レイフの額にピクピクと青筋が浮かぶ。

「あら、どうしたのかしら? ただでさえ凶悪な人相が見るに堪えないことになっているわよ。犯すの……?」

「犯さねぇよ! ってか、もう授業とっくに始まってんだよ! 早く来いっ!!」

 レイフの怒りも仕方ないだろう。

 既に授業の開始時間を20分以上過ぎている。

 教師の出迎えなど、本来は秘書の業務外だ。

 だが、放っておけば一日中、ここで寝ている彼女が相手ではそれも例外だ。

「はぁ、待ちなさい……。|淑女《レディ》の準備には時間がかかるのよ」

「誰が淑女だ、あと着替えなら、ここに用意してある」

 そういうレイフの両手にはシワ一つない黒のスーツ、そしてアイロンが丁寧にかけられた白いシャツが、いつの間にか用意されていた。

「髪も移動しながら整えれば、まぁ形にはなるだろ。外、出てるから早く着替えてこい。二度寝はすんなよ」

 ヴィオレタにほとんど押しつけるように服を渡すと、レイフは部屋を出てゆく。

「できるわね、あいつ……」

◆◇◆◇

 レイフとヴィオレタは、窓から微かな陽光が射し込む廊下を歩いてゆく。

 いかにも寝起きというように、目をしょぼしょぼとさせた気怠げな雰囲気の美女と、彼女の髪を|櫛《くし》で丁寧に整えていく柄の悪い少年。

 他人から見れば、少々|滑稽《こっけい》に見えるかもしれない図だ。

 納得はいかなくても、このような扱いも彼女が着任してから二週間以上経った今となっては、すっかりと慣れてしまった。

「なぁ、ここの灯りやカーテン、もう少しなんとかしろよ。吸血鬼の屋敷じゃんねぇんだから」

「ふっ、これだから素人は困るのよ」

「何の素人だよ……」

「いい、よく聞きなさい。

 睡眠の基本の基といえることだけど、人体 は明るい光を感じることで、睡眠を促すメラトニンの分泌が抑制されて、活動状態になるのよ」

 ヴィオレタは、ふふんと小馬鹿にしたような笑みをレイフへと向けてくる。

 実際には、ほとんど無表情に近いのだが、それなりの付き合いになってきたせいか、彼女のわずかな表情や感情の変化も、わかるようになってしまった。

「この廊下から寝室へと移動するわずかな間であっても、光に当たれば、ベストな状態で睡眠に|臨《のぞ》むことはできないわ……。

 それは狩人が武器の手入れを怠って狩りに挑むようなもの。三流のやることよ」

 他のことには何も興味を示さない彼女も、どうやら睡眠のことになると饒舌になるようだ。

 その熱意を歴史の授業にも発揮してくれれば、レイフが今のように苦労することもないだろう。

「睡眠にどんな覚悟求めてんだ。あと、あそこはそもそも寝室じゃねぇ」

「不敬な男ね。眠りの神様への信仰心はないのかしら……。

 今すぐ、ベッドに跪いて神の足に口付けしながら謝罪すべきだわ」

「誰だ、その傲慢なようなゆるいような神様は」

「私よ」

「お前か」

 最早、恒例となったやり取りをしながら、レイフとヴィオレタは教室へと歩を進めてゆくのだった。

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