一先ず、晴翔が渋々ながら承諾してくれたので、折笠に話をしに行くことになった。
真野のように突然押しかけて愛人と睦み合っている場面に出くわしては事なので、事前にアポを取った。
折笠の返事は案外早くフランクで、水曜の午後なら何時でもいいと返信が来た。
「僕も水曜の午後なら何時でもいいけど……」
「二時が良いです。俺的に午後なら二時が良いです」
ちらりと晴翔を見上げる。
明らかに不機嫌な顔が理玖のスマホを見下ろしていた。
「じゃぁ、明後日の二時で返事しておくよ。あ、國好さんの都合も聞かないと、かな」
立ち上がろうとした理玖の肩を掴んで晴翔が椅子に押し戻した。
「俺が確認しておきます。それより、どうして学内メールじゃないんですか。個人のメッセなんですか。何で連絡先、交換しているんですか」
掴んだ理玖の肩を晴翔が揺する。
ガックンガックンして眼鏡が飛びそうになる。
「折笠先生とは付き合いが長いし、学会とか論文とか、同じ界隈の学者は地味に連絡事項が多いんだよ。教えないと余計にしつこいっていうのも、あるけど」
理研にいた頃、個人の連絡先を聞かれて一カ月くらいスルーしていたら、毎日のように研究室に通われた。
うんざりして個人messageのアカウントを教えた。
「毎日、折笠先生が研究室に来るの、嫌でしょ?」
理玖の言葉と視線に、晴翔の動きがピタリと止まった。
「嫌です。理玖さんと同じ空気を吸わせたくない」
晴翔の目が本気だ。
折笠が理玖を口説いている事実を知ってから、晴翔の折笠嫌悪が明らかに悪化した。
(前は好きじゃな
「俺、秋風音也っていうんだけどさ。宿木サークルのサークル長なんだけど、顧問の臥龍岡先生も、向井先生と話したいって言ってたんだ。WO相談会やりたいんだってさ」 臥龍岡という名とWOという単語を聞いて、満流は思わず前のめりになった。「WO相談会? 宿木サークルって、何をするサークルなんだ?」 秋風が考えるような仕草をした。「あー、色々? 好きな本の話とか、悩み相談とか、雑談とか。サークルとか入ってない奴らの溜り場みたいな感じだよ。顧問が臥龍岡先生だから文学の話多めかな。あと、臥龍岡先生が自分がonlyって公表しているから、WOの話も多いぜ」 臥龍岡叶大といえば、文学部の准教授でありながら純文学の作家でもある。甘いマスクと穏やかな語り口、何よりonlyと公表している話題性で、メディアにもしばしば引っ張られている人気者だ。 つくづく慶愛大学は売り文句が付く学者や教授が好きだなと呆れる。「なるほどね、そりゃ、話聞きてぇわな。WO専攻って、学内に折笠先生と向井先生だけだもんね。けど、臥龍岡先生は折笠先生と昔から仲良しじゃん。よく遊びに来るし、それはもう長居してるぜ。折笠先生に相談すればいーんじゃねぇの?」 特に用事もなく、茶飲み友達風に折笠の研究室に居座っている。 古い関係と折笠が意味深な言い方をしていたから、昔から愛人なんだろう。 さりげなく用事を頼まれて研究室を追い出されることも多い。察して部屋を出るが、戻ったタイミングでまだヤっていたりする。いい加減、愛人とは外で遊んでほしいと思う。(鈴木の時は俺を追い出さないで始めちゃったけどなぁ。視られるスリルが好きなんだろうな) 視感プレイというか、羞恥プレイというのか。 どんなプレイが好きでも構わないが、巻き込まないで欲しいと思う。 otherの満流は、他人
「あ、でも冴鳥先生は忘れ物したんだろ? 探さなくていいの?」 秋風に話を振らせて、冴鳥が頷いた。「秋風君の友人が心配だから、一緒に行こう。ただ……」 冴鳥が満流に向き直った。「デニム地のペンケースを見付けたら、持っておいてもらえますか? 向井先生の講義の前が俺の講義で、その時に忘れたようなので。大事なUSBが入っているから、保管しておいてほしいんです」 満流は周囲を見回した。 それらしいものは、見える範囲にはなさそうだ。「向井先生の荷物に紛れているかもしれないんで、探しておきますよ。見付けたらお届けします」「ありがとうございます」 秋風と共に積木の体を支えて講堂を出ようとした冴鳥が、突然立ち止まった。 積木の体ごと引っ張られて、秋風が軽くよろめいた。「片付けを頼まれるくらい、佐藤さんは向井先生と仲が良いのですか?」 問われて、言葉に困る。 どう考えても仲良しではない。むしろ理玖にとっては性敵だろう。「折笠先生と向井先生が仲良しなんでね。その繋がりで仕事のお手伝いは、時々しますよ」 手伝いなど一度もしたことがないが。 むしろ理玖は折笠が嫌いだから仲良しでもない。 共通点はWO専攻の学者で教員である点と、理研という古巣だけだ。「そうですか。その……、向井先生は、人見知りなど、しない人、でしょうか?」 突然、ナナメな質問が飛んできて、満流は首を傾げた。「そりゃ、冴鳥先生の方だろ。人見知りしまくり。今日はいっぱい話せたよな」「秋風君が一緒だからね。君がい
「ありがとうございます。後で色々聞かせてください。……佐藤先生」 講堂を走り出した向井理玖から、懐かしい呼び名が飛び出した。 満流の脳裏に十四年前が過ぎった。 飛び抜けて頭が良かった神童は、同世代の子供たちからは浮いていた。IQが80以上違うのだから無理もない。教師の満流ですら理玖との会話には気後れした。 内気で人見知り、物静かな少年は窓際の後ろの席で読書に耽るばかりだ。だから積極的に話しかけた。 話す機会が増えて、素直な質を知り、笑顔が可愛いと知った。 控えめな笑顔の奥に小さな恋慕が見え隠れした瞬間から、記憶が無い。 きっかけは些細な会話だったと思う。 気が付いたら涙でぐちゃぐちゃの理玖の顔を押さえ付けて、突っ込んでいた。 たまたま通りかかったPTAの会長と教頭に取り押さえられた。 あの時、満流の人生は終わった。(そうだ、終わったんだ。俺はもう、教師じゃない) 話すことなど何も無い。 惰性のような人生を、ただ漫然と生きてきただけだ。「色々? 嫌だよ」 笑みを含んだ満流の声が理玖に届いたか、わからない。届かなくて良かった。 満流は、床に転がる積木大和を見下ろした。 周囲を確認する。 教壇の近くに医療用の細い注射器が落ちていた。中には白い薬液が満たされている。「プロポフォールか? 呼吸止まったら、どーすんのかね」 理玖を眠らせて誘拐でもするつもりだったのだろうか。 少なくとも殺す目的では無いだろう。 世界的ダンサーの死因になり一般にも薬剤名が知れ渡った麻酔薬は、鎮静鎮痛作用がある。麻酔導
「とはいえ、WOを虐げるnormalは他にもいる。にも関わらず、折笠先生がターゲットになったからには、もっと直接的な理由がありますよね。やっぱり、かくれんぼサークルやDoll関係ですか?」 理玖の問いかけに、國好と栗花落が同時に口を結んだ。 栗花落が國好に目を向けた。 國好が決意したように、理玖と晴翔に向き合った。「犯人が殺したかったのは、Dollの折笠です。折笠の件で発見された、Dollの集会参加者リストと|愛人《ペット》購入者・|セフレ《レンタル》利用者リストには、この大学の教授や准教授の名前が多数、ありました。それだけでも収穫ですが、まだ足りない」 折笠の自殺未遂は当初、自殺他殺の両面から捜査されていた。その経過でかくれんぼサークルの乱交集会の証拠品が押収されるのは不思議ではない。「興奮剤の種類や入手ルートとかですか?」 理玖は首を傾げた。「それについても、データと現物を押収しています。かくれんぼサークルの乱交集会では、やはり興奮剤が使われていました。only用、other用は独自のルートから海外の医薬品を取り寄せていたようです。normal用には一般の薬剤やサプリメントを|混合《ブレンド》して使用していました。ブレンドは折笠が自身で行っていたようです」 理玖は真野の話を思い出していた。 真野がしきりに飲まされたという水は、折笠がブレンドした独自の興奮剤だったのだろう。(折笠先生なら海外からWO用の興奮剤を取り寄せるのは簡単だ。理研のルートを使えばいい。normal用の薬の入手は、もっと簡単か) 売春防止法に照らし合わせれば、売春買春した人間は基本、罪に問われない。罰せられるのは、斡旋し場所を提供した折笠だろう。 興奮剤についても携わっていたのが折笠なら、違法薬物所持の罪は折笠にある。&
理玖の推論を静かに聞いていた國好が、小さく息を吐いた。「やはり、鈴木圭ですか……」 國好が険しい顔で呟いた。「鈴木君には殺す気などなく、ただ折笠先生を独占したいが故に、主犯の言葉に乗せられたのではないかと考えますが」 言葉を切って、理玖はもう一度、頭の中を整理した。「そうなると、僕らが来訪する予定の午後二時に狙って折笠先生の心臓を止めるのは難しいだろうという矛盾が生じるので、あのタイミングでの心停止は偶然の可能性が高くなります」 鈴木圭の恋心を利用して興奮剤を盛っていたのなら、明確な日時までは狙えなかった筈だ。偶然に期待するなら、PC画面に表示された『贖罪と懺悔』の意味が薄まる。(僕らじゃない誰かが、いつ発見したとしても、あのPC画面が見つかれば自殺の可能性を煽るから、それで良かったのかもしれないけど)「偶然であり必然ともいえます。折笠は毎日定時に服用する強壮剤のサプリがあって、その内服時刻が午後一時だったそうです。カフェイン含有量から見て、心停止の直接の原因はそれだろうと、主治医が話していました」 なるほどと、理玖は納得した。 不定期にも定期的にも興奮剤を使用する折笠のカフェインの血中濃度は高かった。加えて平素からコーヒーを愛飲し、健康系のサプリまで定期摂取していれば、心停止の率は上がる。(あの時、折笠先生が持っていたカップから零れていたのもコーヒーだった) 午後一時に飲んだサプリが消化吸収されるには三十分から一時間程度を要する。時間的にはピッタリだ。「サプリが|直接の原因《トリガー》になった要因として。恐らく前日までの直近に、普段より強い興奮剤を使用するなどして、血中濃度が平素より上がった為で
部屋の中に入ったら、何もなかった。 家具から本棚、机まで撤去されている状況に、唖然とする。「え? あれ? 部屋、間違えた?」 晴翔も理解できない顔で國好を振り返っていた。「では、移動しましょう」 國好が部屋を出ていく。 栗花落に腕を引かれて、理玖と晴翔は二つ隣の201号室に入った。 二部屋隣とは言っても、第一研究棟の二階は、二部屋を繋げたリノベーションがされている。本来、六部屋あったフロアには、三部屋しかない。 理玖が使っていた203号室も、仮眠室がある204号室と繋がっていた。 國好が201号室の扉を開ける。 中に入ると、先週までの理玖の203号室が、そのまま再現されていた。「週末の内に、僕も引っ越ししたんですか?」 状況が理解できなくて、國好に問う。 ソファに促されたので素直に座った。 勝手知ったる顔で、栗花落がコーヒーを淹れてくれた。「結論から申し上げると、引っ越しました。大学と相談の上での引っ越しです。ご本人への許可なく、事後報告になり、申し訳ありません」 國好が丁寧に頭を下げる。 テーブルの上に、電源タップを三つ、置いた。「向井先生の部屋に仕掛けられていた盗聴器です。向井先生に起きた一連の事件の話を聞いて、もしやと調べたら案の定でした。折笠の件に追われて対応が遅れたことも、お詫び申し上げます」 隣にかけた栗花落と共に國好が再度、深く頭を下げる。 理玖に起きた事件の話をしたのは、先週の水曜日、折笠の所に行く直前だったから、遅い対応ではないのだろうが。 あまりの話に、咄嗟に返事が出来なかった。