ログイン数日後、澪は再び綾人のアトリエを訪れていた。
アトリエに入ると、いつものように花の香りが優しく迎えてくれる。
けれど今日は、どこか空気が違った。
作業台の上には、花ばさみや剣山、数種類の花器、それから水差しなど、生け花で使う道具一式が置かれている。
澪は思わず息を呑んだ。
いよいよ、自分が花を生ける日が来たのだと実感する。
緊張で胸がいつもより早く鳴っている。
澪はそれを落ち着かせるように、自分の胸元のお守りにそっと触れた。
「始めていいぞ」
綾人がテーブルに手をついて、澪を見る。
澪は、「えっ」と声を裏返らせた。そして、慌てて首を振る。
「で、でも……私、まだ何も教えてもらっていません」
「……好きにやれ」
「えっ、でも、先日は『分からないことは教える』って……」
「ああ、確かに言っ
会議室には、静かな空気が流れていた。 林田がプロジェクターのリモコンを手に取り、ゆっくりと画面を切り替える。『花のある暮らしプロジェクト』 大きく表示されたその文字の下には、いくつもの資料が並んでいた。「それでは、改めてご説明させていただきます」 林田は穏やかな笑みを浮かべながら口を開く。「近年、ご自宅へ花を飾る方は年々減少しています」 画面にはグラフが映し出される。「ですが一方で、『飾りたい気持ちはある』という回答も非常に多いことがアンケートで分かりました」 次のスライドへ切り替わる。『花は好き』『でも難しそう』『すぐ枯らしてしまいそう』『何を選べばいいか分からない』 そんなアンケート結果が並んでいた。 澪は思わず見入ってしまう。「私たちは、この『あと一歩』を後押ししたいと考えています」 林田の隣に立っていた若い男性社員が説明を引き継ぐ。「こちらをご覧ください」 画面が変わる。 一輪挿し。 コンパクトな花器。 季節ごとの花を届ける定期便。 初心者向けのリーフレット。 子ども向けの花育キット。 忙しい人でも手軽に飾れる小さなアレンジ。「これらを一つのブランドとして展開したいと考えております」 説明はさらに続く。「SNSでは飾り方を配信し、花屋さんとも連携して、季節ごとのイベントも企画しております」 資料はどれも丁寧に作られていた。(すごい……) 澪はページをめくりながら、小さく息を呑む。 こんなにも多くの人が、本気で花のことを考えている。 その事実だけで胸が温かくなった。 ◇ 一通り説明が終わる。 静かな空気の中、林田が微笑んだ。「白石先生」「はい」「率直なご感想を、お聞かせいただけますか?」「えっ……私ですか?」 突然話を振られ、澪は慌てて姿勢を正した。 資料へもう一度目を落とす。 どれも魅力的だった。 どれも素敵な企画だった。 だからこそ、なかなか言葉が出てこない。「ゆっくりで大丈夫ですよ」 林田が優しく微笑む。 澪は小さく深呼吸をした。「あの……」 社員たちの視線が集まる。「私は、この企画、とても素敵だと思います」 その言葉に、企画担当者たちの表情が少し和らぐ。「でも、このアンケートの結果にもありますように、初めてお花を買う方って、一輪だけでも
数日後の朝。神宮寺家のリビングには、いつもより少しだけ慌ただしい空気が流れていた。「澪さま、とてもお似合いです」 芹香が優しく微笑みながら、澪のジャケットの襟元を整える。 淡いベージュのセットアップ。 華やかすぎず、それでいて柔らかな印象を与える装いだった。「ほ、本当に大丈夫でしょうか……」 澪は鏡に映る自分を見つめながら、小さく肩をすくめる。「こんな風に会社へ行くなんて初めてで……」 すると、後ろから元気な声が響いた。「澪さまなら大丈夫です!」 ひまわりだった。「だって、ワークショップも個展も大成功だったじゃないですか!」 桜も澪の髪型を整えながら小さく頷く。「き、企業の方も……澪さまを見て、お声を掛けてくださったんですから……」「また始まったな」 静かな声が聞こえた。 振り返ると、綾人がリビングへと入ってくる。 澪は思わず苦笑する。「すみません……」「謝るな」 綾人は短く答えると、澪の姿を一度だけ見つめた。「いい服だな」 綾人のいつもの愛想ひとつないその一言だけで澪の肩から少し力が抜けた。「澪さまに一番似合うものをご用意いたしましたので。ありがとうございます」 佐伯も穏やかに微笑み続ける。「皆で澪さまのお帰りをお待ちしております」「はい」 澪は小さく頷くと、綾人とともに屋敷をあとにした。 ◇ 車の中。 窓の外を流れる景色を眺めながら、澪は何度も膝の上の資料を見つめていた。 そこには、『株式会社キアーロ』と印字されている。 何度見ても実感が湧かない。「……緊張します」 ぽつりと呟く。 運転席では相良が静かにハンドルを握っていた。 後部座席で隣に座る綾人は、小さく頷く。「ああ」「何を話したらいいのかも分からなくて……」「全部答えようとするな」 澪は隣を見る。「え?」「まず相手の話を聞け。それから、自分の答えられることだけ答えたらいい。分からないことは分からないと素直に言え」 綾人は窓の外へ視線を向けたまま続けた。「作品も同じだ」「……」「最初に花を見て、それから考える」 静かな声だった。「人も同じだ。相手が何を求めているのか見ろ。それから、お前の言葉で答えればいい」 澪はその言葉を胸の中でゆっくり繰り返した。「はい」 少しだけ、不安が小さくなった気が
壊れた作品を生け直し、個展は予定どおり最後まで開かれた。 帰り際、多くの来場者が口々に言う。「また先生の作品を見に来たいです」「今日は本当に素敵な時間でした」「花を飾ってみたくなりました」 その言葉の一つひとつが、澪の胸へ静かに積み重なっていく。 ◇ 閉館後。夜の帳が下りた外とは対照的に、ギャラリーには柔らかな明かりが灯っていた。「白石先生」 オーナーが温かい紅茶をテーブルへ並べながら微笑む。「本当に、お疲れさまでした」「こちらこそ、ありがとうございました」 澪は深く頭を下げた。「途中、あんなことになってしまって……」 申し訳なさそうに俯く澪へ、オーナーは首を横へ振る。「いいえ」「今日一日で、私は確信しました」「……え?」「この個展をお願いして、本当に良かったと」 澪は驚いたように目を瞬かせる。オーナーは一枚の名刺を取り出した。「実は今日、お客様の中に、ある企業の方がいらっしゃっていたんです」「企業の……方?」「はい」 その言葉と同時に、ギャラリーの扉が静かに開いた。「失礼いたします」 入ってきたのは、四十代半ばほどの女性だった。 ネイビーのスーツを上品に着こなし、どこか柔らかな雰囲気をまとっている。「申し遅れました」 女性は丁寧に名刺を差し出した。「株式会社キアーロで、ライフスタイル事業部の商品企画を担当しております、林田と申します」 澪は慌てて両手で名刺を受け取る。「は、初めまして……白石澪です」 林田は優しく微笑んだ。「本日は作品を拝見させていただきました」「ありがとうございます」「白石先生。今回、私が一番心を動かされたのは、作品ではありませんでした」 澪は驚いて顔を上げる。「先生が、お客様とお話しされる姿です」「……私、ですか?」 このギャラリーのオーナーが澪にオファーをくれたときと同じ言葉。澪は瞳を丸くさせる。「ええ」 林田は穏やかに頷いた。「お花をご説明されるときも、お子さんへ話しかけるときも、ご年配の方へ寄り添われるときも……」 林田は言葉を続けながら、微笑む。「皆さん、とても幸せそうなお顔をされていました」 澪は思わず、隣に座る綾人を見る。 綾人は何も言わず、静かにその話へ耳を傾けていた。「実は弊社では現在、新しいライフスタイルブランドの立ち上げ
ギャラリーには、重苦しい静寂が流れていた。 誰も口を開けない。 美羽は床へ座り込んだまま、唇を震わせている。「ち……違うんです」 涙を零しながら首を横へ振る。「私、本当に、お姉ちゃんに押されて……っ」 しかし、その言葉に返事をする者はいなかった。 綾人は拾い上げた花を静かに花器の横へ置く。 折れた茎を見つめ、小さく息を吐いた。「……残念だな」 その一言だけだった。 怒りでもない。 失望でもない。 ただ静かに落とされた言葉。 それが美羽の胸へ重くのしかかる。「……綾人さん」 美羽は縋るようにその名を呼んだ。 綾人は視線すら向けない。代わりに、ギャラリーのオーナーへ静かに一礼した。「申し訳ありません。大切な個展を……。お騒がせしました」 オーナーはゆっくりと首を横へ振る。「いいえ」 そう答えると、オーナーは美羽の前へ歩み寄った。 その穏やかな表情は変わらない。けれど、その瞳だけは真っ直ぐだった。「白石先生の、妹さんでいらっしゃいましたよね」 美羽はゆっくり顔を上げる。「申し訳ございませんが、本日はお引き取りください」 静かで、穏やかな口調が、ハッキリとそう告げた。美羽は、眉根を寄せるように「え?」とその表情を歪めた。「ほかのお客様も、不安になってしまいます」「そ、そんな……っ、どうして!? 私、本当にお姉ちゃんに突き飛ばされたんです!」「本日の個展は、白石先生の大切な日です」 オーナーは優しく微笑む。「その時間を守ることも、私の務めです」 美羽の表情が固まった。周囲の来場者たちの視線が突き刺さる。「そ、そうね」「今日は個展を見に来たんだもの」「先生、お怪我はありませんか?」 そして、ぽつり、ぽつりと聞こえる声。 美羽は初めて、自分へ向けられる視線の変化を感じた。 そのときだった。「澪先生」 小さな手が、そっと澪の服の裾を掴む。先ほど泣いていた女の子だった。「うん? どうしたの?」 澪はゆっくりしゃがみ込み、視線を合わせた。 女の子は涙を拭きながら、小さく首を振った。「先生、泣かないで」 その一言に、澪ははっと目を見開く。 自分では気付いていなかった。いつの間にか、自分の頬を涙が伝っていたことに。「先生のお花、また作れるよ」 女の子は崩れた作品を見て、それから澪を見る。「
ギャラリーは、静まり返っていた。 誰も言葉を発することができない。 床には割れた花器と散った花びらや折れた枝。 そして、震えるように座り込む美羽。「ご、ごめんなさい……」 美羽は涙を浮かべながら肩を震わせていた。「私が、お姉ちゃんを怒らせちゃったから……」 か細い声が静かな空間へ落ちる。 来場者たちは困惑したように顔を見合わせていた。「白石先生が……?」「まさか……」 小さなざわめきが広がる。 その中で、綾人だけが静かだった。 彼はゆっくりとしゃがみ込み、床へ落ちた花を拾い上げる。 折れた茎へ、そっと指を添えた。それから、視線を床へ落とす。 割れた花器。 飛び散った破片と、倒れ込む花たち。 何も言わず、ただ、静かにそのひとつひとつを見つめていた。「綾人さん……」 美羽が涙声で、綾人を呼ぶ。「私、お姉ちゃんに押されてぇ……」 その言葉に澪の肩が跳ねる。「違う」と言いたかったけれど、狭まった喉はうまく言葉を紡いでくれなくて、ただ震える手を握りしめた。 綾人は答えない。美羽のほうを見ることもなかった。 その代わりに、床へ落ちていた花ばさみを拾い、静かに閉じた。 カチリと、小さな音だけが響く。 その仕草に、ギャラリーは再び静寂へ包まれた。 しばらくして、綾人は立ち上がる。「相良」「はい」「こっちに来い」 相良はすぐに歩み寄った。 綾人は割れた花器を指差す。「どう見える」 突然の問いだった。相良はしゃがみ込み、破片を静かに見渡す。 しばらくして、小さく目を細めた。「……妙ですね」 その声に、美羽の肩がぴくりと震える。「花器は本来、ぶつかっただけではこちらに倒れないはずです」 その一言に、周囲が息を呑んだ。 綾人は何も言わない。 相良が続ける。「他の作品を見ていただければ分かると思うのですが……」 そう言って、他の作品へと視線を向けた。周りの人たちも、同じように視線を巡らせる。「私たちはこういう風に誰かがぶつかってしまうことも想定して、奥側に倒れてもいいように展示することを心がけております」 澪は、その言葉に「あっ」と声を上げた。 初めての展覧会のとき、展示台の少し奥側に置くようにと綾人に指示されたのを思い出した。 決して通路側に花器が落ちてしまうことがないように、と。 今回も、そ
個展が始まって三十分ほどが過ぎる。ギャラリーには、穏やかな時間が流れていた。「先生、この作品、とても優しい気持ちになりますね」「ありがとうございます」 澪は来場者一人ひとりと言葉を交わしながら、静かに作品への想いを伝えていた。「この『ありがとう』は、どなたへの想いなんですか?」 年配の女性が、一つの作品の前で尋ねる。澪は少し照れくさそうに笑った。「一人だけではないんです」「え?」「ここまで出会ってきた皆さんへ。そして……花へ」 その言葉に、女性は優しく微笑んだ。「素敵ですね」 柔らかな空気が、ギャラリーいっぱいに広がっていた。 そのとき、入口のベルが、小さく鳴った。 澪は反射的に入口を見る。そこに立っていた人物を見た瞬間、その笑顔が止まった。「……美羽」 白いワンピースに柔らかなカーディガン。 長い髪を揺らしながら、美羽はいつも通り可愛らしく笑っていた。「こんにちはぁ」 まるで、何事もなかったかのような笑顔。 少し離れた場所にいた相良が、一歩だけ前へ出る。 そのときだった。「相良」 綾人の低い声が静かに響く。 相良は足を止めた。 綾人は美羽から目を離さないまま、小さく告げる。「今日は澪の個展だ」「……承知いたしました」 相良は静かに一礼し、それ以上動かなかった。 美羽はその様子を見て、小さく口元を緩める。(やっぱり、私のこと、ここでは追い出せないんだ) 心の中だけで笑う。 今日は澪の晴れ舞台。大勢のお客さんがいる。 騒ぎにはできない。 それを、美羽は分かっていた。「お姉ちゃん」 美羽は花を眺めながら、ゆっくり近付く。「個展、おめでとう」 その声に、近くにいた来場者が振り返る。「あら? 妹さんですか?」 美羽は照れたように笑った。「はい。小さい頃から、お姉ちゃんにはいっぱいお世話になってるんです。だから、今日はどうしても来たくて」 美羽の柔らかい笑顔に、周りの雰囲気も明るくなる。「まぁ。仲の良い姉妹なんですね」 そんな声があちこちから聞こえる。「……ありがとう」 澪は、その場で何かを否定するわけにもいかず、ただ小さく微笑んだ。「先生!」 不意に、元気な声がギャラリー内に響く。扉を開けて入ってきたのは、ワークショップに参加してくれた小さな女の子だった。「白石先生、来ちゃい
車のドアが静かに閉まる。外の雨音が遠くなった。 澪は膝の上で手を握る。 隣には、先程出会ったばかりの男性が、窓際に頬杖をついて流れる景色を見ている。 車内は驚くほど静かだった。 隣に座っているだけなのに緊張する。 けれど……なぜだろう。不思議と怖くはない。 むしろ……どこか居心地の良ささえ感じてしまっているような――。「……寒くないか」 不意に掛けられた言葉に、澪の肩がびくりと跳ねた。「は、はいっ」 思わず声が裏返る。「全然、寒くないです」「それならいい」 「じ……神宮寺さんは、」 寒くないですか、と言いかけた言葉は、「綾人」 と短い声に遮られた。「え?」
「……澪?」 聞き慣れた声だった。 その瞬間、澪の体は強張る。 振り返った先には、息を切らせた拓真が立っていた。 雨に濡れた髪。 乱れた呼吸。 まるで必死に追いかけてきたみたいだった。「澪……!」 澪の姿を見て、安堵したように表情を緩めた拓真が、一歩近づいてくる。 けれど澪は思わず一歩足を後ろに引いた。 その仕草に、拓真の顔が傷付いたように歪む。「待ってくれ。話を聞いてほしい」「……」「誤解なんだ」 その言葉に、澪は思わず顔を上げた。 誤解。 その言葉が胸に刺さる。 だって澪は見たのだ。確実に。この目で。 ホテルの前で。 拓真が美羽に口づける姿を。「誤
温かかった。 冷え切っていた体が、じんわりと熱を取り戻していく。 雨の音が遠い。 白石澪は、抱き締められていることに気付いてからも、しばらく動けなかった。「……あの」 震える声が漏れる。 すると、男――神宮寺綾人は、ようやく我に返ったように目を伏せた。「……すまない」 けれどその腕は、なかなか離れない。 まるで、離したら消えてしまうものを抱えているみたいに。「あ、あの……」 澪がもう一度そう口を開くと、綾人はようやくゆっくりその腕を離した。 黒い手袋越しの指先が、最後まで名残惜しそうに澪のブラウスの袖に触れていたことに、澪は気付かない。「怪我
白石澪は、二十六年間の人生の中で、自分が『誰かに選ばれる人間』だと思ったことがない。「ごめんね、お姉ちゃん。私、ほんとダメでぇ……」 ソファに座った妹の美羽が、困ったように眉を下げる。 ふわふわに巻いたグレージュの髪。淡いピンクのネイル。思わず守ってあげたくなるような可愛らしい顔。「バイト先でも失敗ばっかりで……」「ううん。気にしないで。それよりも、美羽は早く休んで? 体に障るわ」 澪は笑った。美羽の代わりにノートパソコンの前に座って、大学の課題のレポートに向き合う。 澪が働く花屋は、比較的穏やかな客が多い、しかし今日は珍しくクレーム対応をして、頭







