INICIAR SESIÓN華道展から数日後。
白石家には、以前とは違う空気が流れていた。
「もう、本当に嫌になるわ」
朝から母親のため息がリビングへ響く。
洗濯物を畳みながら、大きく肩を落とした。
「なんで私がこんなことまでしなきゃいけないの」
ソファへ寝転がっていた美羽は、スマートフォンからゆっくり顔を上げた。
「どうしたの? お母さん」
「どうしたもこうしたもないでしょ」
母親は不機嫌そうに顔をしかめる。
「掃除も洗濯も、買い物も、ご飯の支度も……全部私じゃない」
そう言って流し台を見る。
朝食で使った食器が、そのまま残っていた。
「澪がいた頃は、こんなこと全部やってくれてたのに」
そう言いながらも、母は渋々、洗濯物を畳み、掃除機を取り出し、昼ご飯の献立を考え始めた。
以前なら、そんな姿を見ることはほとんどなかった。
全部、澪がやっ
数日後の昼下がり。 神宮寺家。澪の部屋では、穏やかな午後の陽射しが大きな窓から差し込んでいた。 澪はソファへ腰掛け、ブランド『花日和』の資料を読み返している。「澪さま」 控えめなノック音のあと、相良が入って来た。「お届け物でございます」「私にですか?」 澪は不思議そうに立ち上がる。 相良が両手で抱えていたのは、少し大きめの段ボール箱だった。 箱の側面には、小さく印字された文字。『株式会社キアーロ』「あっ! もしかして……!」 澪の表情がぱっと明るくなる。 相良も穏やかに頷いた。「試作品が完成したそうです」「試作品……!」 その言葉を聞いたひまわりが、勢いよく飛び込んできた。「えぇぇっ!? 本当ですか!?」「ひまわり、落ち着いて」 その後ろで佐伯が苦笑している。「だってだって! 気になりますー!」 芹香も桜も自然と集まり、箱を囲んだ。 まるで子どもたちがプレゼントを待つような空気に、澪は思わず笑ってしまう。 ◇「開けてもよろしいですか?」 澪は箱へそっと手を添え、相良を見た。「もちろんでございます」 相良が微笑む。 澪は慎重にテープを剥がし、ゆっくり蓋を開いた。「……わぁ」 思わず、小さな声が漏れる。 中には、白い薄紙に丁寧に包まれた小さな箱がふたつ並んでいた。 まず、一つ取り出す。 箱の中央には、柔らかな筆文字で書かれたブランドロゴ。『花日和』 その文字を見た瞬間、澪は思わず両手で箱を抱きしめた。「本当に、できたんだ」 胸の奥がじんわりと熱くなる。 震える指先で、ゆっくり蓋を開ける。 中には、小さなガラスの一輪挿し。 手のひらに収まるほどの可愛らしい大きさだった。「かわいい」 自然と笑みがこぼれる。 さらに箱の中には、小さな冊子が添えられていた。『今日のお花』 優しい色合いのイラストとともに、一輪の花の飾り方や、水替えの目安が分かりやすく書かれている。 その下には、小さなカード。『ようこそ、花のある暮らしへ』 そして、最後に一文。『まずは一輪から始めてみませんか』 澪はその言葉を何度も読み返した。「……素敵」 胸の奥がいっぱいになる。「私たちが話していたことが、ちゃんと形になってる」 ◇「澪さま」 佐伯が箱を覗き込みながら優しく微笑む。
会議を終えた黒い車は、夕暮れの街を静かに走っていた。 窓の外では、オレンジ色の陽射しがビルのガラスを優しく照らしている。「本日は、お疲れさまでございました」 運転席から、相良が穏やかな声を掛けた。「ありがとうございます」 澪はほっと息をつきながら、小さく微笑む。「終わってみると、すごく緊張していたんだなって思いました」 膝の上へ置いた資料へそっと手を重ねる。 商品企画。 ブランドづくり。 初めて触れる世界だった。「私、本当に役に立てたでしょうか……」 ぽつりと漏らしたその言葉に、相良はバックミラー越しに優しく微笑んだ。「ええ。皆さま、とても熱心にメモを取られておりましたよ」「そう、でしたか?」 澪は目を丸くする。「お気付きではなかったのですか?」「全然……自分のことで精一杯で……」 少し照れたように笑う澪を見て、相良も小さく笑った。「皆さまが見ていらっしゃったのは、商品ではなく、澪さまのお話でございました」 その言葉に、澪は少しだけ俯く。 胸の奥が、じんわりと温かくなった。 アンジェリケで出会ったお客さんたち。 ワークショップで出会った人たち。 個展へ来てくれた子どもたち。 何気なく重ねてきた時間が、今日へ繋がっていたのだと思うと、不思議な気持ちになる。「……嬉しいです」 その一言だけを、小さく呟いた。 ◇ 三十分後。 車は神宮寺家の門をゆっくりとくぐった。 玄関前へ停まると、扉が開く。 その瞬間。「澪さまーっ!」 元気いっぱいの声が響いた。 玄関から飛び出してきたのは、ひまわりだった。「お帰りなさいませ!」「ひまわり」 後ろから佐伯が少し困ったように笑う。「落ち着きなさい」「えへへ、つい嬉しくて!」 澪は思わず吹き出した。「ただいま」 自然に出た、その一言に佐伯は優しく目を細める。「お帰りなさいませ」 その穏やかな声に、澪の胸がふわりと温かくなる。 ◇ リビングへ入ると、芹香がお茶を用意してくれていた。「お疲れでしょう。どうぞ」「ありがとうございます」 席へ着くと、桜が焼き菓子の皿をそっと置く。「きょ、今日は……レモンのパウンドケーキです……」「わぁ、美味しそう」 澪が笑うと、桜も少しだけ嬉しそうに笑った。 そこへ、ひまわりが身を乗り出す
会議室のテーブルには、いくつもの試作品が並べられていた。 透明なガラスの一輪挿し。 陶器の小さな花器。 木製のフラワースタンド。 どれも温かみのあるデザインで、「花日和」の世界観を感じさせるものばかりだった。「こちらが、現在候補に挙がっている商品です」 林田が一つひとつ説明していく。「初心者の方にも手に取っていただきやすいよう、小ぶりなサイズを中心に考えています」 澪は試作品を手に取り、ゆっくり眺めた。「どれも素敵ですね」 素直な感想だった。 ガラス越しに差し込む光が、小さな花器をきらりと輝かせる。「ありがとうございます」 企画担当の女性社員が嬉しそうに微笑んだ。「特に、この一輪挿しには力を入れているんです」 テーブル中央に置かれた試作品を指差す。「花を始めるなら、まずはこちらを購入していただけたら、と考えています」 澪は頷きながら話を聞いていた。 そして、少しだけ考えるように視線を落とす。「白石先生」 林田が優しく声を掛けた。「何かお気付きのことがございましたら、ぜひ教えてください」「えっ……」 澪は少しだけ慌てた。「いえ、すごく素敵だと思います」 社員たちもほっとしたように笑う。 けれど澪は、少し困ったように微笑みながら続けた。「ただ……ワークショップで、お客様とお話したときのことを思い出していて……」 その一言で、会議室が静かになった。 澪は言葉を選ぶようにゆっくり話し始める。「『家に花瓶がないんです』って、おっしゃる方が意外と多かったんです」「花瓶が……」 一人の社員が小さく呟く。 澪は頷いた。「はい。『ペットボトルに飾っています』っていう方も、結構いらっしゃいました」「ペットボトルですか?」 驚いた声が上がる。「はい。花を続けられるか分からないからって仰っていました」 澪はゆっくりと言葉を続けていく。「花も決して安いものではありませんし、そこで『花瓶も』と考えると、一歩引いてしまうのかもしれません」 社員たちは顔を見合わせる。「でも私は、ペットボトルでもとても素敵だと思いますし、花を飾ろうと思ってくださったこと自体が、とても嬉しくて」 澪はふわっとその表情を綻ばせた。「だから私は……」 テーブルの上に置かれた一輪挿しへと、そっと視線を向けた。「最初の定期便だけ、小さ
ブランド『花日和』の商品企画会議が開かれる日。 神宮寺家の朝は、いつもより少しだけ慌ただしかった。 食卓では佐伯が朝食を並べ、芹香がお茶を淹れている。 澪は落ち着かない様子で、何度も時計を見ていた。「……緊張します」 ぽつりと呟く。 今日はいよいよ、ブランドの商品について話し合う日。 自分の意見が、本当に役に立つのだろうか。 そんな不安が胸の中を行ったり来たりしていた。 そのとき。「おはよう」 綾人が部屋の中へと入ってくる。「お、おはようございます」 澪は慌てて立ち上がった。「今日も、ご一緒ですよね? ご相談したいことがあって――」 そう尋ねると、綾人は静かに首を横へ振る。「俺は今日、別件がある」「え……?」 少しだけ表情が曇る。綾人は展示会へ出展する大作の生け込みがあり、一日現場を離れられないらしい。「そう、なんですね……」 澪は小さく笑ってみせたものの、不安は隠しきれなかった。「……一人で大丈夫かな」 その声を聞いた綾人は、澪の前まで歩いてくる。 そして、澪の肩に優しく手を置いた。「大丈夫だ」 綾人の柔らかな体温が伝わって来る。不思議と胸の奥が少し軽くなる。 澪は綾人を見上げ、小さく笑った。「……はい」 綾人は頷くと、そのまま続けた。「今日は相良を同行させる」「相良さんを? 私に、ですか?」「何か困ったら、あいつに聞け」 さらりと言ってから、「一応、花のことも分かる」 と付け加えた。 すると、「本日はよろしくお願いいたします」 相良がいつもの穏やかな笑顔で一礼した。 澪は少し驚いたように首を傾げる。「相良さん、お花にも詳しいんですか?」 相良は少しだけ照れたように微笑んだ。「私も一応、神宮寺流の門下生ですので」「……え?」 澪は一瞬、固まる。「ええぇぇぇぇっ!?」 そして、その言葉を咀嚼し終わったあと、大きな声が出た。 その反応に、佐伯がくすりと笑う。「実は私も」「えっ?」 次に、ひまわりが元気よく手を挙げた。「もちろん私もですー!」 芹香もその隣で穏やかに頷く。「私も少々嗜んでおります」 桜も、おずおずと小さく手を上げた。「わ、私も……です」 澪は目をぱちぱちさせながら、一人ひとりを見る。「み、みんな!?」 全員が笑顔で頷いた。 澪は思わず頭
数日後の株式会社キアーロの会議室。今日も和やかな空気が流れていた。 壁一面のホワイトボードには、たくさんの文字が並んでいる。『Bloom Life』『Flora Days』『花と暮らす』『季節の花便り』『Daily Flower』「……たくさんありますね」 澪は思わず目を丸くした。何の言葉か分からず首を傾げる澪に、林田がくすりと笑った。「今日はブランド名を決める打ち合わせをします」「ブランド名……ですか?」「はい。このブランドの『顔』を決める感じですね」 まわりの社員たちも真剣な表情で頷いていた。「私たちも色々考えてきたのですが……」 一人の社員がホワイトボードを見上げながら口を開く。「どれも悪くはないんです。でも、決め手がなくって」 別の女性社員もその隣で苦笑した。「少し、おしゃれすぎる気もして。もっと親しみやすいほうがいいのかなぁ、とか」 会議室には、どこか行き詰まった空気が漂う。 そこで林田が澪へと視線を向けた。「白石先生なら、どんな名前を付けますか?」「えっ」 澪は思わず自分を指差した。「わ、私ですか?」「はい」 社員たちも一斉に澪を見る。突然のことに、澪は困ったように笑った。「そんな、私は全然、こういうセンスはないので……」「ぜひ、お聞きしたいんです」 林田は優しく頷き、澪の心をほぐすように言う。「先生が届けたい花のある暮らしを、一番よく知っているのは先生ですから」 その言葉に、澪はゆっくりホワイトボードへ目を向けた。 並ぶ名前は、どれも素敵だった。 でも、どこか違う気がする。 しばらく考え込み、小さく息を吐く。(私らしい言葉でいい) そう自分へ言い聞かせるように、胸元のお守りをぎゅっと握った。 そして、ゆっくりと口を開く。「あの……私は、難しい名前じゃなくてもいいのかなって思います」 社員たちは静かに耳を傾ける。「お花って、特別な日に飾るものだけじゃないと思うんです」 澪はゆっくり言葉を選んだ。「誕生日とか、お祝いの日ももちろん素敵です」「でも」と続けて、少しだけ微笑む。「今日は頑張ったなぁって、自分を褒めたい日とか、誰かに『ありがとう』って伝えたい日とか。何でもない日なのに、なんだかお花を飾りたくなる日もあります」 社員たちの表情が少しずつ柔らかくなる。「そん
会議室には、静かな空気が流れていた。 林田がプロジェクターのリモコンを手に取り、ゆっくりと画面を切り替える。『花のある暮らしプロジェクト』 大きく表示されたその文字の下には、いくつもの資料が並んでいた。「それでは、改めてご説明させていただきます」 林田は穏やかな笑みを浮かべながら口を開く。「近年、ご自宅へ花を飾る方は年々減少しています」 画面にはグラフが映し出される。「ですが一方で、『飾りたい気持ちはある』という回答も非常に多いことがアンケートで分かりました」 次のスライドへ切り替わる。『花は好き』『でも難しそう』『すぐ枯らしてしまいそう』『何を選べばいいか分からない』 そんなアンケート結果が並んでいた。 澪は思わず見入ってしまう。「私たちは、この『あと一歩』を後押ししたいと考えています」 林田の隣に立っていた若い男性社員が説明を引き継ぐ。「こちらをご覧ください」 画面が変わる。 一輪挿し。 コンパクトな花器。 季節ごとの花を届ける定期便。 初心者向けのリーフレット。 子ども向けの花育キット。 忙しい人でも手軽に飾れる小さなアレンジ。「これらを一つのブランドとして展開したいと考えております」 説明はさらに続く。「SNSでは飾り方を配信し、花屋さんとも連携して、季節ごとのイベントも企画しております」 資料はどれも丁寧に作られていた。(すごい……) 澪はページをめくりながら、小さく息を呑む。 こんなにも多くの人が、本気で花のことを考えている。 その事実だけで胸が温かくなった。 ◇ 一通り説明が終わる。 静かな空気の中、林田が微笑んだ。「白石先生」「はい」「率直なご感想を、お聞かせいただけますか?」「えっ……私ですか?」 突然話を振られ、澪は慌てて姿勢を正した。 資料へもう一度目を落とす。 どれも魅力的だった。 どれも素敵な企画だった。 だからこそ、なかなか言葉が出てこない。「ゆっくりで大丈夫ですよ」 林田が優しく微笑む。 澪は小さく深呼吸をした。「あの……」 社員たちの視線が集まる。「私は、この企画、とても素敵だと思います」 その言葉に、企画担当者たちの表情が少し和らぐ。「でも、このアンケートの結果にもありますように、初めてお花を買う方って、一輪だけでも
温かかった。 冷え切っていた体が、じんわりと熱を取り戻していく。 雨の音が遠い。 白石澪は、抱き締められていることに気付いてからも、しばらく動けなかった。「……あの」 震える声が漏れる。 すると、男――神宮寺綾人は、ようやく我に返ったように目を伏せた。「……すまない」 けれどその腕は、なかなか離れない。 まるで、離したら消えてしまうものを抱えているみたいに。「あ、あの……」 澪がもう一度そう口を開くと、綾人はようやくゆっくりその腕を離した。 黒い手袋越しの指先が、最後まで名残惜しそうに澪のブラウスの袖に触れていたことに、澪は気付かない。「怪我
白石澪は、二十六年間の人生の中で、自分が『誰かに選ばれる人間』だと思ったことがない。「ごめんね、お姉ちゃん。私、ほんとダメでぇ……」 ソファに座った妹の美羽が、困ったように眉を下げる。 ふわふわに巻いたグレージュの髪。淡いピンクのネイル。思わず守ってあげたくなるような可愛らしい顔。「バイト先でも失敗ばっかりで……」「ううん。気にしないで。それよりも、美羽は早く休んで? 体に障るわ」 澪は笑った。美羽の代わりにノートパソコンの前に座って、大学の課題のレポートに向き合う。 澪が働く花屋は、比較的穏やかな客が多い、しかし今日は珍しくクレーム対応をして、頭
初対面の人の……しかも、男性の家に泊まるなんて……。と、澪は使用人たちが布団を整えてくれる様子を部屋の隅で眺めながら考えていた。 けれど、自宅に帰れば美羽と顔を合わせなければいけなくなる。 美羽のことは今でも大切に思っている。だからこそ、自分の婚約者である拓真と唇を重ねていたあの光景に、澪の心はぐしゃぐしゃにかき乱されていた。(家には帰りにくいと思っていたから……ありがたいかも) いつもの自分であれば絶対にしない選択だ。結婚を約束した恋人だっている身。 けれど、今夜だけは――。 そう、澪は少し目を伏せて、小さく溜息を吐いた。 布団の中に入っても、澪はしばらく眠れなかった。
「こちらへどうぞ」 年配の女性に案内されながら、澪は何度も周囲を見回していた。 広い。とにかく広い。これを『普通の家』を称した綾人のことを思い出して、澪は苦笑いを浮かべるしかなかった。一体どんな風に生きていたら、これが『普通』という認識になるのだろうか。 磨き上げられた廊下はまるで旅館のようだ。屋敷のあちこちに飾られている生け花はどれも芸術作品のように美しかった。「すごい……」 居間として使われている部屋だろうか。その前を通りかかったとき、一際上品で、一際色鮮やかな花で彩られた生け花に、思わず声が漏れる。「ありがとうございます」 女性は嬉しそうに微笑んだ。「お花はどれも、綾人







