今世ー
美月は夫に離婚を突き付けたその足で彼らの家に戻り、2階の夫婦の部屋を片付け始めた。
とりあえず身の回りの服や必要な日用品をスーツケースに詰め込み、携帯でタクシーを呼んだ。
そして荷物を持って下に降りると、家政婦の花田に言った。
「しばらく家を出ます。希純が帰ってきたら連絡をください」
「かしこまりました。あの、どちらへ?」
花田は美月の手にしたスーツケースをちらりと見て、不安になった。
まさか、出て行かれるのだろうか…。
そんなこと、絶対に駄目っ。旦那様がお知りになったら、どれだけ叱責されるかわからない!
花田は想像するだけで恐ろしくて身体が震えた。
すると美月はニコリと微笑み、優しく告げた。
「希純に、なるべく早く離婚協議書を作ってもらうよう伝えておいてくださいね」
「え…」
「じゃあ、お願いします」
そう言って、美月は軽やかに出て行った。
花田はしばらく呆然と佇んでいたが、やがてハッとして急いで希純の秘書、中津に連絡をした。
『もしもし、花田さん、どうされましたか?』
呑気な口調に少し苛立った。
「奥様が出て行かれました!どうしたらー」
『ち、ちょっと…ちょっと待ってくださいっ。え?なんですか?奥様が出て行った!?なんでそんなことに!?』
花田の剣幕に中津は驚いたが、それ以上に内容に驚きすぎて思わず立ち上がり、叫んでしまった。
「私が聞きたいです!そちらで何かあったのではないんですか!?」
『ないですよ!!』
2人共、我を失っていた。
だが周りの目に気が付いた中津がいち早く落ち着きを取り戻し、すぐにその場を移動すると小声で問い質した。
「奥様は?何か仰っていましたか?」
『いいえ…あ、旦那様に…』
「社長に?なんですか?」
言い淀む雰囲気に悪い予感がして、益々神妙に中津が尋ねた。
『あの…旦那様に、なるべく早く離婚協議書を作るようにと…』
「え!?」
それを聞いた途端、中津の思考は完全に固まってしまった。だがー
『中津さん?中津さん!私はどうしたら…っ』
耳元で再び焦り始めた彼女に中津はかえって冷静になり、コホンッと咳をして落ち着くよう指示した。
「とりあえず、社長には私から伝えます。花田さんは落ち着いて、いつも通りにしていてください。いいですか?」
『でも、奥様は…』
「それも私がなんとかします。奥様は車で出られましたか?」
『いえ、タクシーを使われたようです。いつもの…』
「あぁ…わかりました。では、後のことは私にお任せください」
そう言われて、花田はホッと胸を撫で下ろした。
コンコン
中津は特別室のドアをノックして開けた。
中にあるソファに、希純は頭を抱え込んで座っていた。
「社長ー」
声をかけると彼はゆっくりと振り返り、何かを期待するように中津の後ろを見た。
だがそこには何もなく、「何か用か?」とつまらなそうに聞いてきた。
絶対何かあった…。
中津は確信を得たが、何も知らないよう装って口を開いた。
「たった今、ご自宅から連絡が入りまして…。奥様が、出て行かれたそうです」
「は?」
希純の目が驚愕に見開かれた。
「ですからー」
「聞こえてる!何故だ!?」
いや、知らないよ…。
中津は心の中で呟いたが、顔には困惑の色を浮かべた。
「奥様との間で何かありましたか?」
「何もない!」
そんなわけないだろ…。
心の呟きを優先してしまった。
黙った中津に、希純も彼の言いたいことが分かったのか、言い訳するかのようにペラペラと話しだした。
「本当に何もない!何があるってんだ?あるわけない!ただ静かに彼女のピアノを聞いてただけだっ。なのに突然!突然…離婚しようって…」
そこまで言った時、彼は見るも哀れにシュンと俯いた。
あぁ…落ち込んじゃった…。無理もない。社長、奥様大好きだもんな…。
そう思いながら、中津はため息を一つついた。
「思い当たることはない、ということですね?」
「ない…と思う」
うーん、これマズいな…。
自覚がないのも困りもので、中津はどう説明しようか頭を悩ませた。
中津にはなんとなく美月の気持ちがわかる気がするのだ。
誰だって愛する人に冷たくされるのは辛い。
彼から見たら2人は相思相愛の美男美女で、正しく理想のカップルだった。
だが美月はその愛情をきちんと表し誠心誠意夫に尽くすタイプで、希純はそうじゃなかった。
彼は所謂ツンデレ…ではなく、ツンツン(デレ)なので、非常に分かりにくい愛情表現をするタイプだった。
この特別室にしても、実際は彼が妻を片時も離したくなくていつでも彼女に会えるよう造ったものだったが、表向きの理由は、彼がピアノを聴きたくなった時にいつでも聴けるよう造った、というものだった。
部屋の中を見回せば彼女が快適に過ごせるよう整えられていることは明白だったが、彼は「偶然だ」の一言で片付け、しかも照れ隠しなのか「自惚れるな」という要らない一言まで付け加えたので、当時、この部屋を見た美月の表情が輝くような笑顔から落胆に変わったことを中津は思い出した。
面倒くさいなぁ…。
仕事に集中したい中津は、まるで恋愛初心者のような社長の世話をいっそ誰かに代わってほしいと思って、また深くため息をついた。
とりあえず、各部署のリーダーには何か重要な案件があれば連絡するように伝え、携帯をしまった。
「社長。社長は奥様を愛していらっしゃいますよね?」
「なんだ、急に?当たり前のことを聞くな」
「ですよね。でも社長、それ、誰も知りませんよ?」
「…それの何が問題だ?」
首を捻る希純に中津は苦笑いを浮かべた。
「大問題ですよ。ちなみに、奥様もご存知ありません」
「バカな!!」
本気で驚く顔を見て、その前途多難さに中津はげんなりした。
「社長。きちんと奥様に愛情表現をなさっていますか?」
「必要ない」
いや、あるよ…。
重症だ…。
中津はため息をつくと、きっぱりと言った。
「社長は素晴らしい経営者でありますが、男として、夫としては最低の部類に入ります」
「お前…」
希純の額に青筋が浮かぶのを見たが、中津はそれ以上に呆れ、腹を立てていた。なので、遠慮はしない。
「いいですか?心の中でいくら愛を囁いても意味がありませんっ。口にしてこそ伝わるのです!」
「お前はわかってるじゃないか!お前が彼女に伝えてくれたらー」
「私は翻訳機ではありません」
「……」
ぐっと言葉に詰まった希純が拳を握りしめる。
それを冷めた目で見つめて、中津はまた口を開いた。
「一説によると、恋愛感情というのは3年でリセットされるそうです。いいですか?リセット、つまり0(ゼロ)になるということです。ですから、常に更新しなければいけません」
「リセット…更新…」
自分の言葉をブツブツと繰り返している希純は、まるで出来の悪い生徒のようだった。
「要するに、愛情を注ぎ続ける必要があるということですっ。奥様を失いたくないならー」
「わかった…。よし、子供を作ろうっ」
「……」
全て理解したとでもいうように頷いて言った希純に、中津はもう何も答えなかった。
奥様、申し訳ありません…。
おそらくこの先多大なる迷惑をかけることになる美月に、中津ができるのは謝ることと、できるだけのフォローを約束することだけだった。
「社長」静まりかえるオフィスで明日の会議で使う資料に目を通していた希純は、秘書の中津の呼ぶ声に顔を上げた。「美月は見つかったか?」「はい」ようやく期待通りの答えが得られて、希純は無言で続きを促した。「奥さまは精華ホテルにご滞在されてます」「精華ホテル?」自分の答えに眉根を寄せて首を傾げる希純に、中津は苦笑した。わかりますよ〜。うちのホテルがあるのになんで?て思ってるんですよね〜。中津は積極的に美月を連れ戻そうとは思っていなかった。なぜなら今ー「希純兄さん」「!」「奈月…」この娘はなんで勝手に入って来るんだよっ。つい先ほど希純を訪ねて現れた彼女に、中津は確かにロビーで待つよう言ったはずだった。それがなんで最上階にある社長のオフィスに?そんな気軽に入れませんよ、ここは!?「奈ー」「出て行ってください」「え…?」中津の冷たい言葉に、奈月の笑顔がピシリと固まった。「ロビーでお待ち下さいとお伝えしたはずです。なぜここに?」「え…と……」問い詰められて奈月はちらりと希純を窺い見た。「おいー」「なんでしょう?」彼女に頼られて口を挟もうとしてきた希純を、中津は気にせずに問い返した。「ここには重要書類や機密書類等いろいろあります。そんな所へ部外者を簡単に入れてはいけません!」「……」正論を断固とした口調で告げられて、希純も二の句が継げなかった。そんな彼を見て奈月も自分の不利を知り、おずおずと口を開いた。「ごめんなさい。私はただー」「何ですか?また遅くなったから送ってほしくて、ついでに食事でもしませんか?とでも仰るつもりですか?生憎ですが、社長はそんなに暇ではありませんっ」「……」まさに中津の言った通りの事を言おうとしていた奈月は呆気にとられ、口をポカンと開けた。え?なんなの、この人?ちょっと前まですごく丁寧な人だと思ってたのに…。「おい、さすがに言いすぎだ」「…」はい!?正気か、この人っ。ほんの数時間前に起こった事を何も覚えてないかのように奈月を庇う彼の姿に、中津は呆れてしまった。アウトだな。もう手の施しようがない。間違いなくクズだ、この男は。中津は腹の底からはぁぁぁ…と息を吐き出し、「失礼します」と言い捨ててその場を後にした。「おい!!」背中から希純の怒声が聞こえたが、もう振り返りたくなかった。
美月は眠気を散らすためにシャワーを浴びに行った親友の為に、夕飯を作ろうとキッチンに入って冷蔵庫を開けた。「へぇ~、結構揃ってるのね」確か前回ここへ来た時、この中には水とチーズ、それからなぜか化粧水が入ってるだけだった。誰か料理上手な彼でもできたのかしら?そう思いながら丁寧に中を見ていると、下ごしらえ済の食材がある事に気が付いた。あぁ、これは…。美月が一つの考えに行き着いた時、ピンポーン!と玄関チャイムが鳴り響いた。「は~い」パタパタとスリッパの音を鳴らしながら玄関に行き、ガチャリとドアを開けた瞬間、目の前にバッと突き出された花束に思わず美月は仰け反ってしまった。「校了おめでとう!」その声と一緒に彼女はふわりと抱き締められ、慌ててその腕の中から逃れようと厚い胸板を押した。「ち、ちょっと…っ」美月の声に相手の男が「ん?」と僅かに身体を離した。そしてそこにある見知らぬ顔にびっくりしたのか、そのまま固まってしまった。「あの…」固まるのはいいが、まわした腕を離してほしい…。美月が困っていると「ダーリン、人違いよ」と彼女の親友が笑いながら近づいて来た。お風呂上がりの彼女は仄かにピンク色の頬をして、まだ乾いていない髪の毛は湿って白いバスローブの襟元に散っていた。「尚…」ふわりと漂ってきたボディソープの香りに男は美月からそっと離れ、尚の手を取った。「ごめん…」「ふふ…。次はないわよ?」尚はいたずらっぽくそう言って、男の頬を軽く抓った。「美月、ごめんなさいね」「すみません……」気不味そうに頭を下げる男に、美月は微笑って言った。「大丈夫。私こそ、サプライズの邪魔をしてしまって、ごめんなさい?」「いえ……」男は美月の言葉に照れくさそうに笑い、改めて尚に花束を渡した。「校了おめでとう」男の瞳には恋人への愛情が溢れんばかりに宿っていた。彼女はそれを受け止め、綺麗に微笑った。「美月、紹介するわ。彼、真田聖人(さなだまさと)よ」「佐倉美月です」2人は握手を交わし、連れ立ってリビングに入って行った。「美月、ごめん。聖人にもお茶お願いしていい?私、着替えてくるわ」「いいよ。任せて」そう言って尚を部屋に戻すと、美月は早速キッチンで紅茶を淹れた。2人はさして話題もなかったが特に気にすることもなく、やがてカップを置いた。「さ
久しぶりの別荘。美月は実は楽しみにしていた。結婚当初に贈られて、でもすぐに会社の方の部屋を使うように言われてから、もうずっと訪れていなかった。相変わらずの綺麗な景色とそれにマッチした建物。希純が彼女の為にデザイナーと一緒にデザインし、内装も何もかも彼女好みに設えられて、実に住み心地の良い、愛情溢れる場所だった。そのはずだったのに…。「どういうこと?」タクシーから降り立ち、玄関を開けた所で驚いた使用人から誰何され、美月は一気に不機嫌になった。「あなたは?」「わ、私はこちらの家政婦です。あなた様こそどちら様ですか!?」「……」その質問に、美月は黙って身分証を掲げた。「ここの持ち主よ。誰の許可を得てここにいるの?」「え…」目に見えて狼狽える使用人に、とりあえず美月は中へと歩を進めた。そしてその内装の変わりように、驚いて立ち竦んだ。「誰?」後ろをついて来た使用人を振り返り、静かに問うた。「誰が内装を変えたの?希純?」「い、いえ…奈月様…です……」徐々に小さくなっていく声に、美月の目が眇められた。そして徐ろに携帯を取り出すと、希純の番号を呼び出してタップした。『はい。奥様ー』出たのは彼の秘書を務める中津で、彼女は彼が悪いわけではないことを知りつつも怒りが抑えきれず、冷たい声音で応じた。「中津さん、S市の別荘のこと、説明して?」『……しばらくお待ちください』そう言われて待っていると、やがて向こうから希純と中津2人の会話が聞こえてきた。美月はそれを聞きながらリビングのソファに座り、ただ一点を見つめていた。『奈月さんを追い出しますか?それとも奥様を?』『決まってるだろう。先ずは美月だ!ー』そこまで聞けば十分だった。美月の瞳は冷たく部屋の中を見回し、そしてまたスーツケースを持って玄関へ向かった。「どちらへー」見知らぬ家政婦に、美月は静かに告げた。「出て行くわ。お邪魔しました」「……」呆然とする家政婦にはもう見向きもしなかった。外に出てもう一度タクシーを呼び出し、待っている間に希純に離婚協議書を請求した。あんな人、もういらないわ。到着したいつもとは違う会社のタクシーに乗り込み、美月はとある住所を告げた。ピンポーン!呼び鈴を押して待つこと数十秒。「は~い、どなた?」ガチャリと玄関扉を開けて出て来たのは、美
「美月の居場所、わかったか?」自分の中で、今回の妻の家出対策に納得した希純はオフィスに戻ると深く息を吐き、美月が何処へ行ったのか尋ねた。「はい。S市にある別荘に行かれたようです」「S市?」あそこは……。結婚して3年と少し。当初、希純は妻の為に景色の綺麗なS市に広大な土地を買い、そこに別荘を建て、音響設備を充実させたホールを造った。そこには美月がずっと使ってきたピアノが据えられ、いつでも好きな時に思い切り弾く事ができるよう手配していた。だがそうした環境は2人の時間を奪う結果となり、それに不満を覚えた希純が今度は社内に特別室を造って、ほぼ強制的に美月を自分の側に置けるようにしたのだった。別荘を気に入っていた美月は初め少しだけ不満気だったが、後で秘書の中津から、その部屋は夫が自分との時間を持ちたいが為にわざわざ造ったのだと聞いてその機嫌も直し、それ以来S市には足が遠退いていた。だが…。「おい、あそこはマズいんじゃないのか?」「ですね」「ですね、じゃないだろうっ。奈月と行き合ったらどうすんだ!」「……」希純の今更な言葉に、中津は明らかに白い目を向けた。「社長、ご存知なかったのですか?現在、奈月さんは別荘に住んでいらっしゃいます。ですから"行き合ったら"ではなく、確実に鉢合わせます。」「は…?住んでる?誰が許可した!?」「社長です」「……」ポンコツかっ。内心で罵ることを忘れない中津だった。奥様、可哀想すぎる…。希純は秘書の冷たい視線に戸惑いながら、それでも「そんな覚えはない」と言った。実際、そんな風に言ったことはなかった。中津も憶えてる。でも「まぁ、拡大解釈されたんでしょうね。社長、別荘の鍵を渡しながら"使っていい"と仰いましたから」「それはピアノの話だ!」希純はダンッと机に拳を叩きつけた。えぇ、えぇ、わかってますとも。でもあの女にそれは通用しない。中津は一つため息をついて言った。「ですから私は申し上げましたよ。鍵を渡しては駄目だ、と」「もっと強く言えよっ」理不尽!中津はもう何も言いたくなかった。仕事はできるが私生活はポンコツな男。端から見たらある種の輩からは「可愛い〜」とか言われるのかもしれないが、実際部下の立場から言わせてもらえば「しっかりしてくれ!」て感じだ。「で、どうしますか?」「なにが」え
今世ー美月は夫に離婚を突き付けたその足で彼らの家に戻り、2階の夫婦の部屋を片付け始めた。とりあえず身の回りの服や必要な日用品をスーツケースに詰め込み、携帯でタクシーを呼んだ。そして荷物を持って下に降りると、家政婦の花田に言った。「しばらく家を出ます。希純が帰ってきたら連絡をください」「かしこまりました。あの、どちらへ?」花田は美月の手にしたスーツケースをちらりと見て、不安になった。まさか、出て行かれるのだろうか…。そんなこと、絶対に駄目っ。旦那様がお知りになったら、どれだけ叱責されるかわからない!花田は想像するだけで恐ろしくて身体が震えた。すると美月はニコリと微笑み、優しく告げた。「希純に、なるべく早く離婚協議書を作ってもらうよう伝えておいてくださいね」「え…」「じゃあ、お願いします」そう言って、美月は軽やかに出て行った。花田はしばらく呆然と佇んでいたが、やがてハッとして急いで希純の秘書、中津に連絡をした。『もしもし、花田さん、どうされましたか?』呑気な口調に少し苛立った。「奥様が出て行かれました!どうしたらー」『ち、ちょっと…ちょっと待ってくださいっ。え?なんですか?奥様が出て行った!?なんでそんなことに!?』花田の剣幕に中津は驚いたが、それ以上に内容に驚きすぎて思わず立ち上がり、叫んでしまった。「私が聞きたいです!そちらで何かあったのではないんですか!?」『ないですよ!!』2人共、我を失っていた。だが周りの目に気が付いた中津がいち早く落ち着きを取り戻し、すぐにその場を移動すると小声で問い質した。「奥様は?何か仰っていましたか?」『いいえ…あ、旦那様に…』「社長に?なんですか?」言い淀む雰囲気に悪い予感がして、益々神妙に中津が尋ねた。『あの…旦那様に、なるべく早く離婚協議書を作るようにと…』「え!?」それを聞いた途端、中津の思考は完全に固まってしまった。だがー『中津さん?中津さん!私はどうしたら…っ』耳元で再び焦り始めた彼女に中津はかえって冷静になり、コホンッと咳をして落ち着くよう指示した。「とりあえず、社長には私から伝えます。花田さんは落ち着いて、いつも通りにしていてください。いいですか?」『でも、奥様は…』「それも私がなんとかします。奥様は車で出られましたか?」『いえ、タクシーを使われ
中津は知っていた。3日前といえば、各部署のリーダーを集めランチミーティングという名の交流会をした日だ。この日奥様は午前中から社長が造った特別室に来て、ずっとピアノの練習をしていたはずだ。ミーティングを終えて社長が奥様の様子を見に向かわれて、その時に何かあったのか、いつの間にか来ていた奥様の妹の奈月さんを社長が抱きかかえて急いで出て行くところを見かけた。中津は不満だった。またあの女はなんの演技をしたんだ?いつもいつも社長にひっついて、慎みってものを知らないのか?社長も社長だ!なんであんなわざとらしいぶりっ子に気が付かないのか、不思議でしょうがない。デレデレして、みっともない!中津は憤慨していたが、彼は奈月の企みを見抜いていたので、この日たまたまランチミーティングに出ていた沢山の社員たちに彼らを目撃させない為急いで後を追い、社長専用のエレベーターから直接地下駐車場へと2人を案内し、無事、誰の目にも触れさせずに車を出させることに成功した。もちろん病院にも連絡して、誰にも見られないよう裏口から入れるように手配した。希純は彼の働きに満足そうだったが、奈月には睨まれた。ふんっ、お前の思い通りになどさせるものか!中津は美月の味方だった。彼女は美しく、控えめで性格も穏やかで優しい。人を身分で判断せず、奈月のように下品でもない。夫に対しての献身ぶりも素晴らしく、それを見た人らから希純はよく羨ましがられていた。だが希純はそれを当たり前のように享受していたので、中津はいつも美月が焦れったくて仕方なかった。美月。彼女は本当に亡くなったのだろうか…。中津は彼女の儚げな微笑みを思い浮かべて泣きたくなった。奈月のせいだ。そうに違いない。彼女がまた何かしたから社長は美月からの着信を無視したのだろうし、他のいろんな人からの電話も取らなかったのだ!自分も彼らを人目に晒さないよう努力するのに気を取られて、その時きっと一人残されていただろう彼女を気遣うことができなかった…。なんてことだ。結局怪我もなにもなくて、医者に大げさだと呆れられた奈月の面倒をみる羽目になっていたなんて!中津は未だにどこか事態を飲み込めていないような顔つきの希純に、恐る恐る尋ねた。「奥様のご実家にお知らせいたしますか?」「いや…。まず病院に行ってみよう…」覇気のない迷いのある声音に、希