LOGIN「来る必要はないわ」私は雇用契約書をカメラに向けて掲げた。「任期は5年。途中で放り出せるような軽いポストじゃないの。長期滞在の申請も、もう承認されてる。私は戻らない」誠司は長いこと契約書を見つめていた。指輪のケースが、その手からこぼれ落ちる。「最初から、全部計画してたのか?」「ええ」「じゃあ、俺を脅すためにやったんじゃなかったってことか?」「一度もね」私は通話を切り、それきり彼のメッセージには返信しなかった。1か月後、ファンドは再開発地区の買収を完了させた。最後の書類には、ファンドを代表して私が署名した。同じ日、港南ハーバーレジデンスの工事が止まった。古い基礎を掘り返したところ、地中から大量の産業廃棄物が見つかったのだ。行政から、ただちに工事停止を命じられた。銀行は融資条項を盾に、繰り上げ返済を迫った。すでに手付金を払っていた購入者たちは、相次いで契約解除や損害賠償を求めた。そのリスクはどれも、私の最初の報告書にしっかりと記してあったものだった。玲奈はその警告を削除し、環境上問題がないことを示す証明書まで偽造していたのだ。事が明るみに出ると、彼女は会社の資金18億円を横領し、高飛びしようとした。そして空港で、警察に身柄を確保された。取締役会は、誠司を社長の座から解任した。彼は家と持ち株の大半を売り払っても、損害の一部を埋めるのがやっとだった。上場を目前に控えていた桐生開発は、一夜にしてほとんどすべてを失った。元同僚からその顛末を聞かされたとき、私はただ一言だけ答えた。「知ってるわ」もう、私には関わりのないことだった。再開発地区の調印式が終わると、ホテルのロビーには記者たちが詰めかけていた。隆一はその場で、ファンドが広域で手がける都市再開発プロジェクトの全権を、私に委ねると正式に発表した。レセプション会場を後にすると、廊下の突き当たりに誠司の姿があった。ずいぶんと痩せていて、仕立てのいいスーツも着ていない。その手首から、玲奈の腕時計は消えていた。「桐生開発を救ってくれと頼みに来たわけじゃない」彼は言った。「あの会社は、もう俺のものじゃないんだ」私が足を止めると、誠司は書類を取り出した。「離婚協議書への異議申し立てを取り下げた。
国際不動産投資の最前線への復帰は、拍子抜けするほどスムーズだった。桐生開発にいた3年間も、私は市場の研究を1日たりとも怠ってこなかったからだ。再開発地区の買収会議で、私は売り手側が2億円もの税務上の潜在債務を抱えていることに気づいた。もしその日に契約を結んでいたら、ファンドがその負債をすべて背負い込むところだった。私は契約を差し止め、交渉をやり直した。3日後、買収額を1億円引き下げることに成功した。取締役会は、新たな契約を満場一致で承認した。皆の前で、隆一は言った。「おかえり、恵理奈。やはりこのポストは、最初から君の指定席だったな」会議のあと、誠司から何通かメッセージが届いた。【玲奈は開発部長から外した】【家のスマートロックの権限も消した。あいつが俺たちの家に入ることは二度とない】【お前のオフィスはそのままにしてある。戻ってこい。そうすれば全部元どおりだ】まるで、最後のチャンスを恵んでやるとでも言わんばかりの文面だった。続いて、玲奈から長々とした謝罪文が届いた。若すぎて、公私のけじめがついていませんでした。恵理奈さんのご主人も、お仕事も、奪うつもりなんて全くありませんでした、と。そんなことが綴られている。数秒後、彼女はうっかり1件のボイスメッセージを送ってきた。「平気よ。あの女、海外じゃ1か月ももたないわ。どうせ追い出されて戻ってくるんだから。そしたら誠司さんは、また私の味方をしてくれるわ」彼女は慌てて送信を取り消した。けれど私は、削除される前にそのボイスメッセージを保存していた。そして、もう1通。【恵理奈さん、誠司さんとお幸せになってくださいね】私はふたりともブロックした。これでようやく終わった。そう思っていた。1週間後、誠司が知らない番号からビデオ通話をかけてきたのだ。画面に映った彼の顔は無精ひげが伸び放題で、目の下にはどす黒い隈が張り付いていた。「気は済んだか?」口調は相変わらずだった。まるで、自分から連絡してやったことに感謝しろとでも言いたげに。「俺たち、まだやり直せる。離婚手続きだって撤回できる」「撤回なんてしないわ」誠司は黙り込んだ。「わかってる。お前が会社に尽くしてくれたことを、俺が一度も公に認めてこなかったから、怒ってるんだ
私は言い返さなかった。スマホを取り出し、110番に通報した。「警察ですか。オフィスに監禁されて……出られないんです。住所は……」誠司の顔色が変わった。彼はすぐさまドアノブから手を離す。「恵理奈、正気か!?」「正気よ。夫が妻を無理やり監禁する権利なんてあるのか、警察に聞いてみるだけよ」誠司が私のスマホを奪おうと手を伸ばしてくる。私は一歩下がり、スピーカーに切り替えた。通信指令員の声が、はっきりと部屋に響く。「今、安全な状況ですか?相手は刃物など、何か凶器を持っていますか?」誠司の手が、ぴたりと止まった。それ以上、私に触れようとはしなかった。「安全です」彼はスマホに向かって言った。「ただの夫婦喧嘩の延長ですから」「だったら、そこをどいて」私は彼をまっすぐに見据えた。一瞬の沈黙のあと、ようやく誠司が脇へ退いた。私は、もう身の危険はなくなったと通信指令員に伝え、指示に従って通話を終えた。誠司は怒りで顔を強張らせていた。「俺を屈服させるためだけに、警察まで呼んだっていうのか?」「あなたが帰してくれなかったからでしょう」彼は怒りを押し殺すと、急に声を和らげた。「……わかったよ。最近、俺がお前を蔑ろにしていたのは認めるよ。明日からは、玲奈とふたりきりでは会わない。今夜のうちに、家のスマートロックからあいつの登録も消しておく。それでいいだろう?」誠司はスマホを取り出し、予約済みの旅程表を開いて見せた。「新婚旅行の話も嘘じゃない。もうホテルにもプライベートジェットの会社にも連絡してあるんだ」行き先は南の島の高級リゾートだった。ワイナリー、クルーザー、プライベートビーチ。どれも最近、玲奈がSNSで保存していたものばかりだ。私は船酔いしやすいし、ワインも飲まない。画面をスクロールすると、誠司と旅行コンサルタントのやり取りが出てきた。【玲奈いわく、女性なら誰もが喜ぶ鉄板のプランらしい。彼女が選んだものは全部押さえてくれ】私への埋め合わせであるはずの新婚旅行さえ、選んだのは玲奈だったのだ。「今夜の便で発つの」私はスマホを彼に返した。「この旅行は、本当に行きたがってる人のために取っておいてあげて」私はドアを開けた。玲奈が、弾かれたように後ず
誠司は離婚協議書を見つめたまま絶句し、全身を強張らせていた。玲奈の目に、一瞬だけ歓喜の色が走った。彼女はすぐにうつむいたけれど、私は見逃さなかった。「恵理奈さん、早まっちゃダメよ」玲奈はしおらしく言った。「3年も連れ添ってきたんでしょう?ちょっとした誤解くらいで、それを全部捨てるなんて……」「出ていけ」誠司が凄んだ。玲奈が凍りついた。「誠司さん、私はただ心配で……」「出ていけと言ったんだ」声を荒らげたわけではない。けれどその冷たさは、彼女を黙らせるには十分だった。玲奈は唇を噛んだ。「わかったわ。ふたりで落ち着いて話し合って。私のせいで傷つけ合ったりしないでね」そう言うと、隠しきれない笑みを口元に浮かべて出ていった。ドアが閉まった瞬間、誠司は離婚協議書をひったくった。「何が望みだ?」書面に目を走らせながら、彼は問い詰めた。「元のポストか?金か?それとも、玲奈を港南ハーバーレジデンスから外してほしいのか?」「何もいらないわ」「とぼけるな!」彼は離婚協議書をデスクに叩きつけた。「この1週間おとなしくしてたのは、離婚をちらつかせて、俺と駆け引きするつもりだったんだろう?恵理奈、海外にも連れていくと約束した。管理職にも戻すと言ったんだ。これ以上、どうすればお前は満足するんだ?」この期に及んで、彼はまだこれを私からの駆け引きだと勘違いしているのだ。私は取締役会からのメールの画面を彼に突き出した。「退職届は正式に受理されたわ。今夜を最後に、私はもう桐生開発の人間じゃない」メールにちらりと目を走らせた誠司の顔が、険しく曇った。「俺は認めない」「取締役会に出したの。あなたの承認はいらないわ」「俺はこの会社の社長だぞ!」「だから何?」誠司は言葉に詰まった。私は離婚協議書を手に取った。「家も車も、あなたが持ってる桐生開発の株も、全部放棄する。財産分与も求めないって、そこにちゃんと書いてあるわ」誠司はすぐさま、離婚協議書にある財産分与の項目を開いた。私が何ひとつ求めていないと知って、ようやく彼の表情が変わった。「……桐生の株も放棄するっていうのか?」「ええ」桐生開発を立ち上げたとき、私は貯金をすべてつぎ込み、会社の命運を左右する大きな商
「誠司さんったら、もう怒らないで」玲奈は一歩近づき、彼の腕にそっと手を添えた。「恵理奈さんは、誠司さんのことが大事だから、私に嫉妬してるだけなのよ」それから、私のほうに目を向けた。「ネックレスの留め具が外れちゃって、誠司さんに直してもらってただけなの。今夜は投資家の方とお会いするから、みっともない格好で行くわけにいかないでしょ?」その声が、駄々をこねる子どもをあやすような、甘ったるい声に変わる。「だから誤解しないでね、恵理奈さん。私たち、仕事をしてただけ。本当にそれだけなの」私の夫との一線を越えておきながら、今度はそれにどう反応すべきか、私に説いている。私は黙っていた。誠司は、その沈黙を後ろめたさの表れと受け取った。「会社には会社のルールがある」彼は言った。「許可なく社長室の前に現れ、中を覗き見た。今月の賞与は全額カット、給料も半額にする」玲奈が越えたどんな一線にも目をつぶってきた男が、今さら規則を振りかざすなんて。理沙が思わず口を挟んだ。「社長、でも彼女はもう……」誠司の冷たい一瞥が、その言葉を封じた。「つべこべ言わず、俺の指示に従え」理沙は口をつぐみ、部屋を出ていった。私はドアのほうへ向き直った。「待て」誠司の怒りは、もう収まっていた。私が素直に従ったのが気に入ったらしい。「恵理奈、別にお前をいじめたくてやってるわけじゃない。規則はきちんと守らせなきゃならないんだ。でないと示しがつかない」すかさず玲奈が割って入った。「今度何かあったら、まず私に聞いてくれればいいわ。誠司さんが忙しいときは、私が話す時間を調整してあげるから」夫の秘書が、妻である私に、夫と話す時間を取ってあげると言っているのだ。誠司は満足げに頷いた。「玲奈はいつも会社のことを第一に考えてくれる。お前は公私混同も甚だしい。少しは彼女を見習ったらどうだ」見習う?何を?他人のプロジェクトを横取りして、自分のミスの尻拭いを他人に押し付けるやり方を?妻の留守に上がり込み、その夫まで奪っておきながら、無垢な被害者を演じるやり方を?私は短く笑った。誠司は、それさえも取り違えた。ようやく私が従順になったのだと思ったのだ。彼は一歩近づき、私の髪を撫でた。付き合い始めたころ、よくそ
私はスマートロックの履歴を誠司に突きつけた。すると彼は、防犯カメラの映像をいくつか再生して見せた。どの映像にも、プロジェクトの資料を胸に抱えた玲奈が自宅に入っていく姿が映っていた。「この家は職場から近いからな。打ち合わせには都合がいいんだよ」「せめて一言教えてくれればいいのに!」「ここは俺の家でもあるんだ。仕事で部下を連れてくるのに、いちいちお前の許可はいらないだろう」そして、スマートロックの履歴を監視し、冷蔵庫を漁り、被害妄想をこじらせていくお前のほうこそ異常だ、と私を責め立てた。それ以来、誠司はますます頻繁に玲奈を家へ連れてくるようになった。私を安心させようとしたのではない。わざと一線を越えてみせているのだ。私が文句を言えば、また罰を与えられるように。そう挑発するかのように。実のところ、ふたりが不倫関係にあるという決定的な証拠は、まだ何一つ掴めていなかった。家に来るときには、必ず仕事の資料がある。夜遅くなるときには、決まってもっともらしい仕事の口実があった。一時期、私は自分の感覚さえ疑った。ふたりが親密に見えたのは、私の思い過ごしだったのかもしれない。悪いのは、本当に私のほうなのかもしれない、と。ふたりのことをあれこれ考えるのに費やした労力の半分でも自分のキャリアに注いでいれば、今ごろもっと多くのことを成し遂げられていただろうに。翌朝、誠司は玲奈の開発部長への昇格を正式に発表した。私は下の階の文書管理課へ異動になった。誰もが、私が食ってかかるものと思っていた。けれど私は、自分の入館証と、仕上げた港南ハーバーレジデンスの資料一式を、玲奈のデスクの上に置いただけだった。その様子を見ていた誠司は、満足げに頷いた。ついに私の抵抗をへし折ったと思ったのだろう。ふたりが玲奈の昇格を祝って立食パーティーで談笑している間に、私は航空券を予約した。ふたりが投資家とゴルフコースを回っている間に、荷造りを終えた。ふたりが港南ハーバーレジデンスで笑顔で広報用の写真に収まっている間に、最後の引き継ぎを完了させた。ふたりの祝賀ムードは、これから始まる。私のここでの生活は、もうすぐ終わる。2日後、桐生開発での最終出社日を迎えた。退職手続きを終えたところで、人事部長の福田理沙(ふくだ