LOGIN桐生誠司(きりゅう せいじ)が私と口をきかなくなってから3日が経った。私たちが経営する会社の社長でもある彼は、秘書の皆川玲奈(みながわ れな)が持ち込んだ不動産投資案件を、あっさりと決裁した。 どう試算しても赤字にしかならない案件だった。 私、桐生恵理奈(きりゅう えりな)が社長室に怒鳴り込み、決裁を取り消せと詰め寄る。誠司はそう高を括っていたのだろう。 けれど、私は動かなかった。 1週間後。出張から戻った誠司は、私が文句ひとつ言わず騒ぎも起こさなかったと知ると、ここ数か月見せたことのない満足げな眼差しを私に向けた。 そしてあろうことか、私を役職から外し、その座に玲奈を据えたのだ。 今度こそ私が怒りを爆発させる。そう踏んだに違いない。 それでも、私は何も言わなかった。 担当していた案件の資料をひとつ残らず整理し、玲奈の新しいデスクに整然と並べて置いた。 すると誠司は、私が書き上げた企画書の責任者欄から私の名を消し、玲奈の名前に差し替えた。彼女にボーナスを受け取らせる、ただそれだけのために。 それに対してすら、私は抗わなかった。 玲奈は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、誠司の耳元で囁いた。 「ね、私の言った通りでしょ?恵理奈さんとは正面からぶつかっちゃ駄目なのよ。しばらく冷たくあしらい続ければ、勝手に折れてくるんだから。あなたを失うのが怖くて仕方ないのよ。だからやっと大人しくなったってわけ」 誠司はその言葉を、微塵も疑うことなく真に受けた。 それどころか、人の心理をよく分かっていると玲奈を褒めた。 その夜、誠司は私を社長室に呼び出した。昇給と元の役職への復帰、それに3年も先延ばしにしてきた海外への新婚旅行を約束すると言い出したのだ。 彼が私にこれほど優しい言葉をかけたのは、本当に久しぶりのことだった。 私が感極まって涙を流して喜ぶとでも思っていたのだろう。 でも、私は泣かなかった。 7日前、玲奈が持ち込んだ、破綻するのが目に見えていた案件を、ろくに確認もせず急いで決裁していたあの時。誠司は、私が書類の山に紛れ込ませておいた離婚協議書にも、中身を確かめることなく署名を済ませていたのだから。 そのことを、彼はまだ知らない。
View More「来る必要はないわ」私は雇用契約書をカメラに向けて掲げた。「任期は5年。途中で放り出せるような軽いポストじゃないの。長期滞在の申請も、もう承認されてる。私は戻らない」誠司は長いこと契約書を見つめていた。指輪のケースが、その手からこぼれ落ちる。「最初から、全部計画してたのか?」「ええ」「じゃあ、俺を脅すためにやったんじゃなかったってことか?」「一度もね」私は通話を切り、それきり彼のメッセージには返信しなかった。1か月後、ファンドは再開発地区の買収を完了させた。最後の書類には、ファンドを代表して私が署名した。同じ日、港南ハーバーレジデンスの工事が止まった。古い基礎を掘り返したところ、地中から大量の産業廃棄物が見つかったのだ。行政から、ただちに工事停止を命じられた。銀行は融資条項を盾に、繰り上げ返済を迫った。すでに手付金を払っていた購入者たちは、相次いで契約解除や損害賠償を求めた。そのリスクはどれも、私の最初の報告書にしっかりと記してあったものだった。玲奈はその警告を削除し、環境上問題がないことを示す証明書まで偽造していたのだ。事が明るみに出ると、彼女は会社の資金18億円を横領し、高飛びしようとした。そして空港で、警察に身柄を確保された。取締役会は、誠司を社長の座から解任した。彼は家と持ち株の大半を売り払っても、損害の一部を埋めるのがやっとだった。上場を目前に控えていた桐生開発は、一夜にしてほとんどすべてを失った。元同僚からその顛末を聞かされたとき、私はただ一言だけ答えた。「知ってるわ」もう、私には関わりのないことだった。再開発地区の調印式が終わると、ホテルのロビーには記者たちが詰めかけていた。隆一はその場で、ファンドが広域で手がける都市再開発プロジェクトの全権を、私に委ねると正式に発表した。レセプション会場を後にすると、廊下の突き当たりに誠司の姿があった。ずいぶんと痩せていて、仕立てのいいスーツも着ていない。その手首から、玲奈の腕時計は消えていた。「桐生開発を救ってくれと頼みに来たわけじゃない」彼は言った。「あの会社は、もう俺のものじゃないんだ」私が足を止めると、誠司は書類を取り出した。「離婚協議書への異議申し立てを取り下げた。
国際不動産投資の最前線への復帰は、拍子抜けするほどスムーズだった。桐生開発にいた3年間も、私は市場の研究を1日たりとも怠ってこなかったからだ。再開発地区の買収会議で、私は売り手側が2億円もの税務上の潜在債務を抱えていることに気づいた。もしその日に契約を結んでいたら、ファンドがその負債をすべて背負い込むところだった。私は契約を差し止め、交渉をやり直した。3日後、買収額を1億円引き下げることに成功した。取締役会は、新たな契約を満場一致で承認した。皆の前で、隆一は言った。「おかえり、恵理奈。やはりこのポストは、最初から君の指定席だったな」会議のあと、誠司から何通かメッセージが届いた。【玲奈は開発部長から外した】【家のスマートロックの権限も消した。あいつが俺たちの家に入ることは二度とない】【お前のオフィスはそのままにしてある。戻ってこい。そうすれば全部元どおりだ】まるで、最後のチャンスを恵んでやるとでも言わんばかりの文面だった。続いて、玲奈から長々とした謝罪文が届いた。若すぎて、公私のけじめがついていませんでした。恵理奈さんのご主人も、お仕事も、奪うつもりなんて全くありませんでした、と。そんなことが綴られている。数秒後、彼女はうっかり1件のボイスメッセージを送ってきた。「平気よ。あの女、海外じゃ1か月ももたないわ。どうせ追い出されて戻ってくるんだから。そしたら誠司さんは、また私の味方をしてくれるわ」彼女は慌てて送信を取り消した。けれど私は、削除される前にそのボイスメッセージを保存していた。そして、もう1通。【恵理奈さん、誠司さんとお幸せになってくださいね】私はふたりともブロックした。これでようやく終わった。そう思っていた。1週間後、誠司が知らない番号からビデオ通話をかけてきたのだ。画面に映った彼の顔は無精ひげが伸び放題で、目の下にはどす黒い隈が張り付いていた。「気は済んだか?」口調は相変わらずだった。まるで、自分から連絡してやったことに感謝しろとでも言いたげに。「俺たち、まだやり直せる。離婚手続きだって撤回できる」「撤回なんてしないわ」誠司は黙り込んだ。「わかってる。お前が会社に尽くしてくれたことを、俺が一度も公に認めてこなかったから、怒ってるんだ
私は言い返さなかった。スマホを取り出し、110番に通報した。「警察ですか。オフィスに監禁されて……出られないんです。住所は……」誠司の顔色が変わった。彼はすぐさまドアノブから手を離す。「恵理奈、正気か!?」「正気よ。夫が妻を無理やり監禁する権利なんてあるのか、警察に聞いてみるだけよ」誠司が私のスマホを奪おうと手を伸ばしてくる。私は一歩下がり、スピーカーに切り替えた。通信指令員の声が、はっきりと部屋に響く。「今、安全な状況ですか?相手は刃物など、何か凶器を持っていますか?」誠司の手が、ぴたりと止まった。それ以上、私に触れようとはしなかった。「安全です」彼はスマホに向かって言った。「ただの夫婦喧嘩の延長ですから」「だったら、そこをどいて」私は彼をまっすぐに見据えた。一瞬の沈黙のあと、ようやく誠司が脇へ退いた。私は、もう身の危険はなくなったと通信指令員に伝え、指示に従って通話を終えた。誠司は怒りで顔を強張らせていた。「俺を屈服させるためだけに、警察まで呼んだっていうのか?」「あなたが帰してくれなかったからでしょう」彼は怒りを押し殺すと、急に声を和らげた。「……わかったよ。最近、俺がお前を蔑ろにしていたのは認めるよ。明日からは、玲奈とふたりきりでは会わない。今夜のうちに、家のスマートロックからあいつの登録も消しておく。それでいいだろう?」誠司はスマホを取り出し、予約済みの旅程表を開いて見せた。「新婚旅行の話も嘘じゃない。もうホテルにもプライベートジェットの会社にも連絡してあるんだ」行き先は南の島の高級リゾートだった。ワイナリー、クルーザー、プライベートビーチ。どれも最近、玲奈がSNSで保存していたものばかりだ。私は船酔いしやすいし、ワインも飲まない。画面をスクロールすると、誠司と旅行コンサルタントのやり取りが出てきた。【玲奈いわく、女性なら誰もが喜ぶ鉄板のプランらしい。彼女が選んだものは全部押さえてくれ】私への埋め合わせであるはずの新婚旅行さえ、選んだのは玲奈だったのだ。「今夜の便で発つの」私はスマホを彼に返した。「この旅行は、本当に行きたがってる人のために取っておいてあげて」私はドアを開けた。玲奈が、弾かれたように後ず
誠司は離婚協議書を見つめたまま絶句し、全身を強張らせていた。玲奈の目に、一瞬だけ歓喜の色が走った。彼女はすぐにうつむいたけれど、私は見逃さなかった。「恵理奈さん、早まっちゃダメよ」玲奈はしおらしく言った。「3年も連れ添ってきたんでしょう?ちょっとした誤解くらいで、それを全部捨てるなんて……」「出ていけ」誠司が凄んだ。玲奈が凍りついた。「誠司さん、私はただ心配で……」「出ていけと言ったんだ」声を荒らげたわけではない。けれどその冷たさは、彼女を黙らせるには十分だった。玲奈は唇を噛んだ。「わかったわ。ふたりで落ち着いて話し合って。私のせいで傷つけ合ったりしないでね」そう言うと、隠しきれない笑みを口元に浮かべて出ていった。ドアが閉まった瞬間、誠司は離婚協議書をひったくった。「何が望みだ?」書面に目を走らせながら、彼は問い詰めた。「元のポストか?金か?それとも、玲奈を港南ハーバーレジデンスから外してほしいのか?」「何もいらないわ」「とぼけるな!」彼は離婚協議書をデスクに叩きつけた。「この1週間おとなしくしてたのは、離婚をちらつかせて、俺と駆け引きするつもりだったんだろう?恵理奈、海外にも連れていくと約束した。管理職にも戻すと言ったんだ。これ以上、どうすればお前は満足するんだ?」この期に及んで、彼はまだこれを私からの駆け引きだと勘違いしているのだ。私は取締役会からのメールの画面を彼に突き出した。「退職届は正式に受理されたわ。今夜を最後に、私はもう桐生開発の人間じゃない」メールにちらりと目を走らせた誠司の顔が、険しく曇った。「俺は認めない」「取締役会に出したの。あなたの承認はいらないわ」「俺はこの会社の社長だぞ!」「だから何?」誠司は言葉に詰まった。私は離婚協議書を手に取った。「家も車も、あなたが持ってる桐生開発の株も、全部放棄する。財産分与も求めないって、そこにちゃんと書いてあるわ」誠司はすぐさま、離婚協議書にある財産分与の項目を開いた。私が何ひとつ求めていないと知って、ようやく彼の表情が変わった。「……桐生の株も放棄するっていうのか?」「ええ」桐生開発を立ち上げたとき、私は貯金をすべてつぎ込み、会社の命運を左右する大きな商