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あなたが読まなかった一枚、それが別れ状

あなたが読まなかった一枚、それが別れ状

By:  ジャスミンCompleted
Language: Japanese
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桐生誠司(きりゅう せいじ)が私と口をきかなくなってから3日が経った。私たちが経営する会社の社長でもある彼は、秘書の皆川玲奈(みながわ れな)が持ち込んだ不動産投資案件を、あっさりと決裁した。 どう試算しても赤字にしかならない案件だった。 私、桐生恵理奈(きりゅう えりな)が社長室に怒鳴り込み、決裁を取り消せと詰め寄る。誠司はそう高を括っていたのだろう。 けれど、私は動かなかった。 1週間後。出張から戻った誠司は、私が文句ひとつ言わず騒ぎも起こさなかったと知ると、ここ数か月見せたことのない満足げな眼差しを私に向けた。 そしてあろうことか、私を役職から外し、その座に玲奈を据えたのだ。 今度こそ私が怒りを爆発させる。そう踏んだに違いない。 それでも、私は何も言わなかった。 担当していた案件の資料をひとつ残らず整理し、玲奈の新しいデスクに整然と並べて置いた。 すると誠司は、私が書き上げた企画書の責任者欄から私の名を消し、玲奈の名前に差し替えた。彼女にボーナスを受け取らせる、ただそれだけのために。 それに対してすら、私は抗わなかった。 玲奈は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、誠司の耳元で囁いた。 「ね、私の言った通りでしょ?恵理奈さんとは正面からぶつかっちゃ駄目なのよ。しばらく冷たくあしらい続ければ、勝手に折れてくるんだから。あなたを失うのが怖くて仕方ないのよ。だからやっと大人しくなったってわけ」 誠司はその言葉を、微塵も疑うことなく真に受けた。 それどころか、人の心理をよく分かっていると玲奈を褒めた。 その夜、誠司は私を社長室に呼び出した。昇給と元の役職への復帰、それに3年も先延ばしにしてきた海外への新婚旅行を約束すると言い出したのだ。 彼が私にこれほど優しい言葉をかけたのは、本当に久しぶりのことだった。 私が感極まって涙を流して喜ぶとでも思っていたのだろう。 でも、私は泣かなかった。 7日前、玲奈が持ち込んだ、破綻するのが目に見えていた案件を、ろくに確認もせず急いで決裁していたあの時。誠司は、私が書類の山に紛れ込ませておいた離婚協議書にも、中身を確かめることなく署名を済ませていたのだから。 そのことを、彼はまだ知らない。

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Chapter 1

第1話

「恵理奈さん。港南ハーバーレジデンスの最終提案書、明日の朝一で取締役会に出さなきゃいけないの。リスク評価は今夜中に仕上げておいてって、誠司さんが言ってたわ」

玲奈はそう言うが早いか、分厚い書類の束を私のデスクに無造作にどさりと置いた。

一番上には最新の環境調査報告書。その下にテナントとの係争に関する資料、融資条件、最新の改修予算書が積み重なっている。

どれか一つでも見落とせば、会社に数億円規模の損失が出かねない代物だ。

玲奈がこの案件を受け取ったのは午後3時。

だが、時刻はすでに夜の8時40分を回っている。

「わかったわ」

私は書類を手元に引き寄せた。

私があっさり引き受けるとは思っていなかったのだろう。玲奈は一瞬、拍子抜けしたような顔を見せた。

「私と誠司さん、今夜は銀行との打ち合わせなの。遅くなるかもしれないから、終わったら社長室に置いといてね」

踵を返しかけた彼女は、ふと立ち止まって振り返った。

「あ、そうそう。社長室の建築模型、埃をかぶってるみたいなの。ついでに拭いておいてくれる?」

言うだけ言うと、カツカツとヒールを鳴らしながら去っていった。

フロアに、しんとした静けさが戻る。

残業していた数人の社員が、気まずそうにちらちらとこちらをうかがっていた。

私が誠司の妻だということは、社内で知らない者はいない。

玲奈はただの秘書にすぎないはずだった。

それなのに、この桐生開発で我が物顔で周囲に指図する彼女は、まるで自分こそが社長夫人であるかのように振る舞っていた。

半年前、誠司は倒産寸前だった不動産会社から彼女を引き抜いてきた。

大型開発プロジェクトに携わった経験など皆無にもかかわらず、たった3か月で社長秘書から開発部次長の座へと駆け上がったのだ。

その彼女が今、港南ハーバーレジデンスに手を伸ばしている。

あの、私のプロジェクトに。

私は1年以上かけて用地取得の交渉を重ね、法務や資金繰りの問題を一つ一つ潰してきた。

ようやく着工にこぎつけたそのとき、誠司はプロジェクトリーダーを玲奈に替えると言い出したのだ。

先週の役員会では、7人の役員全員がこの理不尽な人事に異を唱えた。

この人事に賛成したのは、社長である誠司ただひとりだった。

それでも彼は考えを改めるどころか、私が役員たちを裏で抱き込み、新参者である彼女を追い出そうとしているのだと責め立てた。

「お前が裏で手を回したんだろう。競争相手が増えるのが気に食わないだけだ」

そして、私をプロジェクトから外した。

玲奈の起用に反対した役員たちもひとり残らず中核チームから外され、今期の賞与まで凍結された。

それ以来、誠司に楯突く者は誰もいなくなった。

その夜、帰宅した誠司は、彼なりの言い分を聞かせてくれた。

「お前は俺の妻なんだから、みんなが自然とお前の味方をするのは当たり前だろう?玲奈には、この会社に何の後ろ盾もない。庇ってくれる人間がひとりもいないんだよ。俺はただ、あいつにも公平にチャンスを与えたいだけなんだ」

それなのに私は、なぜかその言葉を信じてしまったのだ。

玲奈が港南ハーバーレジデンスの案件を引き継いで1週間後。彼女は物件の延床面積と賃貸可能面積を混同するという初歩的なミスを犯した。

そのせいで、会社は危うく12億円もの損失を出すところだった。

私は一睡もせずに収支モデルを一から組み直し、期限ぎりぎりで買付条件を再交渉する羽目になった。

それでも、玲奈がその座を追われることはない。

誠司は相変わらず、それを「公平」と呼んだ。

手柄はすべて玲奈のもの、尻拭いはすべて私の役目。

階段のほうから足音が近づいてくる。

私が顔を上げると、役員フロアから誠司が下りてくるのが見えた。

チャコールグレーのコートに、銀色の機械式腕時計。玲奈が誕生日に贈った時計だ。

私も今まで、彼に何本か高級な腕時計を贈ったことがある。けれど、彼がそれを身につけてくれたことは一度もなかった。

仕事中に手首に何かあると気が散る。それがいつもの言い訳だった。

それなのに、玲奈が贈ったあの時計だけは、この3週間、1日も欠かさず腕にはめているのだ。

誠司の視線が、一瞬だけこちらに向いた。

私のデスクを埋め尽くす書類の山に、その視線がわずかに止まる。

こんな時間まで何をしているのか、とは聞かなかった。

ただ腕時計に目をやり、そのままエレベーターへ歩いていった。

数分後、玲奈が化粧室から戻ってきた。

口紅を引き直し、ジャケットも脱いでいた。彼女が身にまとっていたのは、体のラインにぴたりと沿う黒のタイトワンピース一枚だけだった。

彼女は弾むような足取りで、私のデスクの脇を通り過ぎていった。

「あんまり頑張りすぎないでね、恵理奈さん」

エレベーターの扉が開いた。

中では誠司が待っていた。彼は扉を押さえ、玲奈が乗り込むのを待った。

扉が閉まるまで、彼が私に目を向けることは一度もなかった。

誠司は、すべてわかったうえでやっているのだ。

すべての始まりは3か月前。誠司の車のカーナビに、玲奈の住むマンションが「よく行く場所」として登録されているのを見つけたことだった。

ひと月で17回。

だから私は、彼を問い詰めた。

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第1話
「恵理奈さん。港南ハーバーレジデンスの最終提案書、明日の朝一で取締役会に出さなきゃいけないの。リスク評価は今夜中に仕上げておいてって、誠司さんが言ってたわ」玲奈はそう言うが早いか、分厚い書類の束を私のデスクに無造作にどさりと置いた。一番上には最新の環境調査報告書。その下にテナントとの係争に関する資料、融資条件、最新の改修予算書が積み重なっている。どれか一つでも見落とせば、会社に数億円規模の損失が出かねない代物だ。玲奈がこの案件を受け取ったのは午後3時。だが、時刻はすでに夜の8時40分を回っている。「わかったわ」私は書類を手元に引き寄せた。私があっさり引き受けるとは思っていなかったのだろう。玲奈は一瞬、拍子抜けしたような顔を見せた。「私と誠司さん、今夜は銀行との打ち合わせなの。遅くなるかもしれないから、終わったら社長室に置いといてね」踵を返しかけた彼女は、ふと立ち止まって振り返った。「あ、そうそう。社長室の建築模型、埃をかぶってるみたいなの。ついでに拭いておいてくれる?」言うだけ言うと、カツカツとヒールを鳴らしながら去っていった。フロアに、しんとした静けさが戻る。残業していた数人の社員が、気まずそうにちらちらとこちらをうかがっていた。私が誠司の妻だということは、社内で知らない者はいない。玲奈はただの秘書にすぎないはずだった。それなのに、この桐生開発で我が物顔で周囲に指図する彼女は、まるで自分こそが社長夫人であるかのように振る舞っていた。半年前、誠司は倒産寸前だった不動産会社から彼女を引き抜いてきた。大型開発プロジェクトに携わった経験など皆無にもかかわらず、たった3か月で社長秘書から開発部次長の座へと駆け上がったのだ。その彼女が今、港南ハーバーレジデンスに手を伸ばしている。あの、私のプロジェクトに。私は1年以上かけて用地取得の交渉を重ね、法務や資金繰りの問題を一つ一つ潰してきた。ようやく着工にこぎつけたそのとき、誠司はプロジェクトリーダーを玲奈に替えると言い出したのだ。先週の役員会では、7人の役員全員がこの理不尽な人事に異を唱えた。この人事に賛成したのは、社長である誠司ただひとりだった。それでも彼は考えを改めるどころか、私が役員たちを裏で抱き込み、新参者である彼女を追
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第2話
「玲奈は遅くまで残業してるんだ。家まで送ってやってるだけだろうが。それの何が問題なんだ?」誠司の口ぶりは、どこまでももっともらしかった。妻帯者が、深夜0時を過ぎてから女性秘書を幾度となく家まで送り届け、そのまま1、2時間も部屋に上がり込んでいる。それがさも当然であるかのように彼は言い放った。どうして一言も話してくれなかったのか。私がそう問い詰めると、誠司はみるみる険しい顔つきになった。「なんだ、尋問のつもりか、恵理奈」そして、あからさまに矛先を私へと向けてきた。走行履歴を盗み見るなんてプライバシーの侵害だ、束縛が激しすぎる、被害妄想だ、嫉妬深い、と。彼に言わせれば、玲奈はただの頑張り屋の若い部下であり、自信のない妻の嫉妬で辱めを受けるいわれなどない、ということらしい。翌朝、誠司は玲奈を自分の直属の部下にした。「そんなにあいつの能力が信用できないなら、これからは俺が直接面倒を見る」私が異を唱えても、彼が玲奈と距離を置くことはなかった。それどころか私の反対を口実に、ますます彼女との距離を縮めていく。それからの誠司は、玲奈へのえこひいきを隠そうともしなくなった。土地の入札に出向くときも、連れて行くのは玲奈ひとりだけ。業界の会食では彼女を自分の隣に座らせ、妻である私は別のテーブルへと追いやられる。ある晩、見かねた同業者がとうとう誠司のそばに寄り、小声で耳打ちした。「桐生さん、奥さんもいらしてますよ」誠司は眉をひそめ、私を見た。「恵理奈は、そんな些細なことで目くじらを立てるような女じゃないんですよ」彼は、何もかもわかっていたのだ。私が黙っていれば、このまま玲奈をパートナーのように扱い続けられる。私が口を開けば、それこそ私が心の狭い女だという証明になる。その夜、家に帰るなり私たちは激しく言い争った。お前のせいで恥をかいた。嫉妬深くて面倒な女と結婚したと皆に思われたと、誠司はそう私をなじった。そして私を懲らしめるために、4日間姿を消した。電話にもメッセージにも一切応じなかった。私が謝るまで、ずっと。ようやく帰ってきたとき、彼は友人を何人も引き連れていた。彼らはうちのリビングに陣取り、代わる代わる、いかに私が間違っているかを説いて聞かせる。「玲奈さんはただの部下だろう?」「誠司は仕事
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第3話
誠司と玲奈がホテル物件の入札と称して出発したあの日、私は港南ハーバーレジデンスの決裁書類の束に、離婚協議書を忍ばせておいた。出発を急いでいた誠司は、書類のタイトルにも目を通さなかった。付箋のついた箇所に、片っ端から署名していっただけだ。翌朝、弁護士から連絡があった。必要な手続きはほぼ整い、10日後には裁判所で最終確認が行われ、離婚が正式に成立する予定だという。残された時間は、あと3日。私は早川隆一(はやかわ りゅういち)に電話をかけた。かつての私の恩師であり、現在は外資系不動産投資ファンドを率いている。3年前、そのファンドの本社から、シニア投資マネージャーとして来ないかと声がかかった。けれどちょうどそのころ、誠司は桐生開発を立ち上げたばかりだった。私のことが必要だと、彼が言っていた。だから私はその誘いを蹴り、古びたアパート1棟の運用から始めて、彼と共に今の会社を築き上げてきたのだ。キャリアを犠牲にするな、と隆一には忠告された。それでも私は聞き入れなかった。恋に目がくらみ、大事な選択まで恋心に左右されてしまったのだ。「……恵理奈」長い沈黙のあと、隆一が言った。「本当に、また彼のために残ったりはしないんだな?」「ええ、しません。もう離婚協議書にサインしてもらいましたから」「離婚協議書って、何の話だ?」不意に、背後の戸口から声がした。振り返ると、書斎の入口に誠司が立ち、眉をひそめて私を見ていた。私が答えるより早く、彼のスマホが光る。誠司は画面に目を落とし、口の端をわずかに緩ませた。再び私に視線を戻したときには、その笑みはすっかり消え失せていた。先ほどの問いすらも、頭から抜け落ちてしまったようだ。「こんな時でも、仕事の電話か?」私は通話を終え、スマホを置いた。「ちょっと仕事を片付けてたの」誠司が、私の机の上の書類に目をやった。「港南ハーバーレジデンスの引き継ぎ、まだ終わってないのか?」「もうすぐ終わるわ」彼の眉間の皺が深くなる。「最近、仕事が遅いな。明日から玲奈が正式に引き継ぐんだ。プロジェクトを取られた腹いせに、ぐずぐず引き延ばすなよ」私は何も弁解しなかった。誠司は背を向け、寝室へ戻っていった。数分後、彼の笑い声が聞こえてきた。玲奈にボイ
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第4話
「それから、もうひとつ」と誠司は言った。「港南ハーバーレジデンスが正式に動き出す。玲奈はよくやってくれたから、開発部長に昇格させるつもりだ」彼は私の顔色をうかがい、反応を待っていた。「お前はどう思う?」意見を求めているような口ぶりだった。けれど辞令は、きっともう出来上がっているのだろう。「異論はないわ」誠司の動きが、目に見えて固まった。これまでなら、彼が私のプロジェクトを玲奈に回すたび、私は予算やデータ、リスク報告書を突きつけて食い下がってきた。今回は、一言も言い返さなかった。誠司の肩から力が抜けた。「ならいい。最近のお前は新規案件をひとつも取ってきてないからな。しばらくは文書管理課へ異動してもらう」開発部長は、会社の大型案件を一手に握るポストだ。文書管理課は、古い契約書を整理し、保管書類を点検する部署にすぎない。これは異動などではない。私を経営の中枢から引きずり下ろし、窓際部署に追いやろうとしているのだ。まず私からプロジェクトを取り上げ、次にその「実績がない」ことを口実に私を左遷するのだ。「一時的な措置だ」と誠司は付け加えた。「お前が気持ちを入れ替えたら、元に戻してやる」「わかったわ」誠司は数秒のあいだ、じっと私を見つめた。「……本当にいいのか?」「ええ」退職届はすでに取締役会に提出してある。2日後には、退職が正式に有効になる。彼が私をどこへ飛ばそうと構わない。もう、どうでもいいことだった。誠司は何も知らなかった。私の沈黙を、降伏と取り違えていた。彼を愛するなら彼に従うものだと、私がようやく悟ったのだと思い込んでいた。「じゃあ決まりだな」誠司は言った。「明日には下の階に移ってくれ。玲奈には投資家と打ち合わせできる広い部屋が必要なんだ」この部屋は、誠司と会社を立ち上げた最初の年に、私が自分で選んだものだった。それが今、彼の一言で玲奈のものになる。「わかったわ」立ち上がりかけた誠司の目が、私の本棚に留まった。「あの陶器の家はどうした?」初めて開発案件をまとめたとき、誠司が私に贈ってくれた置物だ。台座には、こんな言葉が刻まれていた。【誠司と恵理奈 すべてはここから】私はそれを、オフィスのいちばん目につく場所に飾っていた。
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第5話
私はスマートロックの履歴を誠司に突きつけた。すると彼は、防犯カメラの映像をいくつか再生して見せた。どの映像にも、プロジェクトの資料を胸に抱えた玲奈が自宅に入っていく姿が映っていた。「この家は職場から近いからな。打ち合わせには都合がいいんだよ」「せめて一言教えてくれればいいのに!」「ここは俺の家でもあるんだ。仕事で部下を連れてくるのに、いちいちお前の許可はいらないだろう」そして、スマートロックの履歴を監視し、冷蔵庫を漁り、被害妄想をこじらせていくお前のほうこそ異常だ、と私を責め立てた。それ以来、誠司はますます頻繁に玲奈を家へ連れてくるようになった。私を安心させようとしたのではない。わざと一線を越えてみせているのだ。私が文句を言えば、また罰を与えられるように。そう挑発するかのように。実のところ、ふたりが不倫関係にあるという決定的な証拠は、まだ何一つ掴めていなかった。家に来るときには、必ず仕事の資料がある。夜遅くなるときには、決まってもっともらしい仕事の口実があった。一時期、私は自分の感覚さえ疑った。ふたりが親密に見えたのは、私の思い過ごしだったのかもしれない。悪いのは、本当に私のほうなのかもしれない、と。ふたりのことをあれこれ考えるのに費やした労力の半分でも自分のキャリアに注いでいれば、今ごろもっと多くのことを成し遂げられていただろうに。翌朝、誠司は玲奈の開発部長への昇格を正式に発表した。私は下の階の文書管理課へ異動になった。誰もが、私が食ってかかるものと思っていた。けれど私は、自分の入館証と、仕上げた港南ハーバーレジデンスの資料一式を、玲奈のデスクの上に置いただけだった。その様子を見ていた誠司は、満足げに頷いた。ついに私の抵抗をへし折ったと思ったのだろう。ふたりが玲奈の昇格を祝って立食パーティーで談笑している間に、私は航空券を予約した。ふたりが投資家とゴルフコースを回っている間に、荷造りを終えた。ふたりが港南ハーバーレジデンスで笑顔で広報用の写真に収まっている間に、最後の引き継ぎを完了させた。ふたりの祝賀ムードは、これから始まる。私のここでの生活は、もうすぐ終わる。2日後、桐生開発での最終出社日を迎えた。退職手続きを終えたところで、人事部長の福田理沙(ふくだ
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第6話
「誠司さんったら、もう怒らないで」玲奈は一歩近づき、彼の腕にそっと手を添えた。「恵理奈さんは、誠司さんのことが大事だから、私に嫉妬してるだけなのよ」それから、私のほうに目を向けた。「ネックレスの留め具が外れちゃって、誠司さんに直してもらってただけなの。今夜は投資家の方とお会いするから、みっともない格好で行くわけにいかないでしょ?」その声が、駄々をこねる子どもをあやすような、甘ったるい声に変わる。「だから誤解しないでね、恵理奈さん。私たち、仕事をしてただけ。本当にそれだけなの」私の夫との一線を越えておきながら、今度はそれにどう反応すべきか、私に説いている。私は黙っていた。誠司は、その沈黙を後ろめたさの表れと受け取った。「会社には会社のルールがある」彼は言った。「許可なく社長室の前に現れ、中を覗き見た。今月の賞与は全額カット、給料も半額にする」玲奈が越えたどんな一線にも目をつぶってきた男が、今さら規則を振りかざすなんて。理沙が思わず口を挟んだ。「社長、でも彼女はもう……」誠司の冷たい一瞥が、その言葉を封じた。「つべこべ言わず、俺の指示に従え」理沙は口をつぐみ、部屋を出ていった。私はドアのほうへ向き直った。「待て」誠司の怒りは、もう収まっていた。私が素直に従ったのが気に入ったらしい。「恵理奈、別にお前をいじめたくてやってるわけじゃない。規則はきちんと守らせなきゃならないんだ。でないと示しがつかない」すかさず玲奈が割って入った。「今度何かあったら、まず私に聞いてくれればいいわ。誠司さんが忙しいときは、私が話す時間を調整してあげるから」夫の秘書が、妻である私に、夫と話す時間を取ってあげると言っているのだ。誠司は満足げに頷いた。「玲奈はいつも会社のことを第一に考えてくれる。お前は公私混同も甚だしい。少しは彼女を見習ったらどうだ」見習う?何を?他人のプロジェクトを横取りして、自分のミスの尻拭いを他人に押し付けるやり方を?妻の留守に上がり込み、その夫まで奪っておきながら、無垢な被害者を演じるやり方を?私は短く笑った。誠司は、それさえも取り違えた。ようやく私が従順になったのだと思ったのだ。彼は一歩近づき、私の髪を撫でた。付き合い始めたころ、よくそ
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第7話
誠司は離婚協議書を見つめたまま絶句し、全身を強張らせていた。玲奈の目に、一瞬だけ歓喜の色が走った。彼女はすぐにうつむいたけれど、私は見逃さなかった。「恵理奈さん、早まっちゃダメよ」玲奈はしおらしく言った。「3年も連れ添ってきたんでしょう?ちょっとした誤解くらいで、それを全部捨てるなんて……」「出ていけ」誠司が凄んだ。玲奈が凍りついた。「誠司さん、私はただ心配で……」「出ていけと言ったんだ」声を荒らげたわけではない。けれどその冷たさは、彼女を黙らせるには十分だった。玲奈は唇を噛んだ。「わかったわ。ふたりで落ち着いて話し合って。私のせいで傷つけ合ったりしないでね」そう言うと、隠しきれない笑みを口元に浮かべて出ていった。ドアが閉まった瞬間、誠司は離婚協議書をひったくった。「何が望みだ?」書面に目を走らせながら、彼は問い詰めた。「元のポストか?金か?それとも、玲奈を港南ハーバーレジデンスから外してほしいのか?」「何もいらないわ」「とぼけるな!」彼は離婚協議書をデスクに叩きつけた。「この1週間おとなしくしてたのは、離婚をちらつかせて、俺と駆け引きするつもりだったんだろう?恵理奈、海外にも連れていくと約束した。管理職にも戻すと言ったんだ。これ以上、どうすればお前は満足するんだ?」この期に及んで、彼はまだこれを私からの駆け引きだと勘違いしているのだ。私は取締役会からのメールの画面を彼に突き出した。「退職届は正式に受理されたわ。今夜を最後に、私はもう桐生開発の人間じゃない」メールにちらりと目を走らせた誠司の顔が、険しく曇った。「俺は認めない」「取締役会に出したの。あなたの承認はいらないわ」「俺はこの会社の社長だぞ!」「だから何?」誠司は言葉に詰まった。私は離婚協議書を手に取った。「家も車も、あなたが持ってる桐生開発の株も、全部放棄する。財産分与も求めないって、そこにちゃんと書いてあるわ」誠司はすぐさま、離婚協議書にある財産分与の項目を開いた。私が何ひとつ求めていないと知って、ようやく彼の表情が変わった。「……桐生の株も放棄するっていうのか?」「ええ」桐生開発を立ち上げたとき、私は貯金をすべてつぎ込み、会社の命運を左右する大きな商
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第8話
私は言い返さなかった。スマホを取り出し、110番に通報した。「警察ですか。オフィスに監禁されて……出られないんです。住所は……」誠司の顔色が変わった。彼はすぐさまドアノブから手を離す。「恵理奈、正気か!?」「正気よ。夫が妻を無理やり監禁する権利なんてあるのか、警察に聞いてみるだけよ」誠司が私のスマホを奪おうと手を伸ばしてくる。私は一歩下がり、スピーカーに切り替えた。通信指令員の声が、はっきりと部屋に響く。「今、安全な状況ですか?相手は刃物など、何か凶器を持っていますか?」誠司の手が、ぴたりと止まった。それ以上、私に触れようとはしなかった。「安全です」彼はスマホに向かって言った。「ただの夫婦喧嘩の延長ですから」「だったら、そこをどいて」私は彼をまっすぐに見据えた。一瞬の沈黙のあと、ようやく誠司が脇へ退いた。私は、もう身の危険はなくなったと通信指令員に伝え、指示に従って通話を終えた。誠司は怒りで顔を強張らせていた。「俺を屈服させるためだけに、警察まで呼んだっていうのか?」「あなたが帰してくれなかったからでしょう」彼は怒りを押し殺すと、急に声を和らげた。「……わかったよ。最近、俺がお前を蔑ろにしていたのは認めるよ。明日からは、玲奈とふたりきりでは会わない。今夜のうちに、家のスマートロックからあいつの登録も消しておく。それでいいだろう?」誠司はスマホを取り出し、予約済みの旅程表を開いて見せた。「新婚旅行の話も嘘じゃない。もうホテルにもプライベートジェットの会社にも連絡してあるんだ」行き先は南の島の高級リゾートだった。ワイナリー、クルーザー、プライベートビーチ。どれも最近、玲奈がSNSで保存していたものばかりだ。私は船酔いしやすいし、ワインも飲まない。画面をスクロールすると、誠司と旅行コンサルタントのやり取りが出てきた。【玲奈いわく、女性なら誰もが喜ぶ鉄板のプランらしい。彼女が選んだものは全部押さえてくれ】私への埋め合わせであるはずの新婚旅行さえ、選んだのは玲奈だったのだ。「今夜の便で発つの」私はスマホを彼に返した。「この旅行は、本当に行きたがってる人のために取っておいてあげて」私はドアを開けた。玲奈が、弾かれたように後ず
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第9話
国際不動産投資の最前線への復帰は、拍子抜けするほどスムーズだった。桐生開発にいた3年間も、私は市場の研究を1日たりとも怠ってこなかったからだ。再開発地区の買収会議で、私は売り手側が2億円もの税務上の潜在債務を抱えていることに気づいた。もしその日に契約を結んでいたら、ファンドがその負債をすべて背負い込むところだった。私は契約を差し止め、交渉をやり直した。3日後、買収額を1億円引き下げることに成功した。取締役会は、新たな契約を満場一致で承認した。皆の前で、隆一は言った。「おかえり、恵理奈。やはりこのポストは、最初から君の指定席だったな」会議のあと、誠司から何通かメッセージが届いた。【玲奈は開発部長から外した】【家のスマートロックの権限も消した。あいつが俺たちの家に入ることは二度とない】【お前のオフィスはそのままにしてある。戻ってこい。そうすれば全部元どおりだ】まるで、最後のチャンスを恵んでやるとでも言わんばかりの文面だった。続いて、玲奈から長々とした謝罪文が届いた。若すぎて、公私のけじめがついていませんでした。恵理奈さんのご主人も、お仕事も、奪うつもりなんて全くありませんでした、と。そんなことが綴られている。数秒後、彼女はうっかり1件のボイスメッセージを送ってきた。「平気よ。あの女、海外じゃ1か月ももたないわ。どうせ追い出されて戻ってくるんだから。そしたら誠司さんは、また私の味方をしてくれるわ」彼女は慌てて送信を取り消した。けれど私は、削除される前にそのボイスメッセージを保存していた。そして、もう1通。【恵理奈さん、誠司さんとお幸せになってくださいね】私はふたりともブロックした。これでようやく終わった。そう思っていた。1週間後、誠司が知らない番号からビデオ通話をかけてきたのだ。画面に映った彼の顔は無精ひげが伸び放題で、目の下にはどす黒い隈が張り付いていた。「気は済んだか?」口調は相変わらずだった。まるで、自分から連絡してやったことに感謝しろとでも言いたげに。「俺たち、まだやり直せる。離婚手続きだって撤回できる」「撤回なんてしないわ」誠司は黙り込んだ。「わかってる。お前が会社に尽くしてくれたことを、俺が一度も公に認めてこなかったから、怒ってるんだ
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第10話
「来る必要はないわ」私は雇用契約書をカメラに向けて掲げた。「任期は5年。途中で放り出せるような軽いポストじゃないの。長期滞在の申請も、もう承認されてる。私は戻らない」誠司は長いこと契約書を見つめていた。指輪のケースが、その手からこぼれ落ちる。「最初から、全部計画してたのか?」「ええ」「じゃあ、俺を脅すためにやったんじゃなかったってことか?」「一度もね」私は通話を切り、それきり彼のメッセージには返信しなかった。1か月後、ファンドは再開発地区の買収を完了させた。最後の書類には、ファンドを代表して私が署名した。同じ日、港南ハーバーレジデンスの工事が止まった。古い基礎を掘り返したところ、地中から大量の産業廃棄物が見つかったのだ。行政から、ただちに工事停止を命じられた。銀行は融資条項を盾に、繰り上げ返済を迫った。すでに手付金を払っていた購入者たちは、相次いで契約解除や損害賠償を求めた。そのリスクはどれも、私の最初の報告書にしっかりと記してあったものだった。玲奈はその警告を削除し、環境上問題がないことを示す証明書まで偽造していたのだ。事が明るみに出ると、彼女は会社の資金18億円を横領し、高飛びしようとした。そして空港で、警察に身柄を確保された。取締役会は、誠司を社長の座から解任した。彼は家と持ち株の大半を売り払っても、損害の一部を埋めるのがやっとだった。上場を目前に控えていた桐生開発は、一夜にしてほとんどすべてを失った。元同僚からその顛末を聞かされたとき、私はただ一言だけ答えた。「知ってるわ」もう、私には関わりのないことだった。再開発地区の調印式が終わると、ホテルのロビーには記者たちが詰めかけていた。隆一はその場で、ファンドが広域で手がける都市再開発プロジェクトの全権を、私に委ねると正式に発表した。レセプション会場を後にすると、廊下の突き当たりに誠司の姿があった。ずいぶんと痩せていて、仕立てのいいスーツも着ていない。その手首から、玲奈の腕時計は消えていた。「桐生開発を救ってくれと頼みに来たわけじゃない」彼は言った。「あの会社は、もう俺のものじゃないんだ」私が足を止めると、誠司は書類を取り出した。「離婚協議書への異議申し立てを取り下げた。
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