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死後3年、婚約者は私に罪を着せる

死後3年、婚約者は私に罪を着せる

By:  栗本こはるCompleted
Language: Japanese
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私・杉本美夕(すぎもと みゆ)が炎に包まれて死んでから、3年が経った。それなのに、社長である私の婚約者・木下辰哉(きのした たつや)は、またしても妹・木下遥香(きのした はるか)の罪を私に被せようとしている。 辰哉は偽造した供述書を手に、かつて私が暮らしていたアパートへ押しかけ、遥香の代わりに放火の罪を認めろと迫ってくる。 しかし、私はもうとっくに死んでいる。 辰哉は信じようとせず、大家の肩をつかんで、怒鳴り散らした。 「杉本美夕はどこだ!」 辰哉の剣幕に怯えながらも、大家は哀れむような目を向けて告げる。 「美夕ちゃん?3年前の商業ビルの火事で亡くなったんだよ。 逃げ遅れた小さな女の子を助けようとして、落ちてきた梁に足を挟まれて、動けなくなったまま炎に巻き込まれて……」 辰哉の顔から、血の気が引いていく。けれど次の瞬間、鼻で笑った。 「俺から逃げるつもりか?どうやら、あいつは自分の立場を分かってないな。 美夕に伝えろ。今すぐ姿を見せないなら、あいつの弟の移植用の心臓は、すぐにでも他の奴に回すってな!」 大家は目の前の男を見つめた。その目は、まるで正気を失った人間を見るようだ。 「心臓って、何の話? 美夕ちゃんの初七日に、弟の律希くんは病院の屋上から飛び降りたんだよ。 姉ちゃんが向こうで一人きりだと、暗くて寂しいから、自分がそばにいてあげなきゃって……」

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Chapter 1

第1話

私は宙に浮いたまま、辰哉を見下ろしている。

尊大なまでに自信に満ちていた辰哉の顔が、見る間に青ざめ、次第に土気色へと変わっていく。やがて信じられないと言わんばかりに、その顔が引きつった。

彼は大家をつかんでいた手を乱暴に離すと、よろめきながら後ずさり、階段の手すりに背中をぶつける。ドン、と鈍い音が響き渡る。

「そんなはずない」

歯を食いしばり、喉の奥から無理やり絞り出すように呟く。

「美夕は、あの病弱な弟を何より大事にしてたんだ。あいつが、弟を死なせるわけがない。

俺の気を引くために、こんな真似をしてるだけなんだろ?」

大家は哀れむように辰哉を見つめ、首を横に振った。それ以上は何も言わず、震える足取りで自分の部屋へ戻っていく。そして、静かにドアを閉める。

薄暗い廊下には、辰哉の荒い息遣いしか聞こえない。

私は冷ややかな目で、その姿を見つめる。

確かに、私は弟・杉本律希(すぎもと りつき)を何よりも大切にしていた。

心臓移植の費用を工面するため、学業もプライドも捨てた。そして、人として生きることすら、諦めた。

まるで忠実な飼い犬のように辰哉に付き従い、何を言われても、逆らわなかった。

遥香が私を気に入らないと知れば、言われる前に自分から姿を消した。

辰哉が不機嫌なときは、八つ当たりされながらも、必死に笑顔を作って耐えた。

すべては、律希を救ってやると辰哉が約束してくれたから。

しかし今、私も律希も、もうこの世にはいない。

それなのに辰哉は、私が死んで3年が経った今も、放火をした遥香の罪を私に被せようとしている。

これほど滑稽な話があるだろうか。

辰哉はその場に長く立ち尽くしていた。あまりにも長くて、廊下の人感センサーライトまで消えてしまう。

暗闇の中、スマホを取り出す。画面の冷たい光がその歪んだ顔を青白く照らし出した。

そして、どこかへ電話をかける。

「……俺だ。美夕と、その弟の律希が今どこにいるか調べろ。

そうだ。国内の病院を全部調べろ。出入国の記録もだ。どんな手を使っても、夜が明けるまでに、あいつらの居場所を突き止めろ!」

電話を切ると、辰哉は拳を壁に叩きつけた。

「美夕、絶対に見つけてやる。

死んだら、すべてが終わったと思うなよ」

階段を下りていくその背中を見つめながら、私の心は完全に冷え切っていた。

辰哉、あんたは間違っている。

死こそが、本当の始まりなのだから。

……

辰哉の車は夜の街を猛スピードで駆け抜け、やがて高級住宅街にある1軒の豪邸の前で急停車した。

辰哉の妹、遥香が暮らす家だ。

私はそのまま辰哉の後を追って屋敷の中へ入る。

リビングでは、遥香が落ち着かない様子で歩き回っている。辰哉の姿を見るやいなや、命綱にすがりつくように駆け寄る。

「お兄ちゃん!やっと帰ってきた!警察からまた電話があったの。もう一度、事情を聞きたいって!」

辰哉はジャケットをソファに放り投げ、険しい顔で言う。

「慌てるな」

遥香の目がたちまち潤む。

「慌てるに決まってるじゃない!あの火事で人が死んだのよ!もし私がやったってバレたら……」

「黙れ!」

辰哉は苛立たしげな目を向け、鋭い声で遥香の言葉を遮った。

「ちゃんと始末したんじゃなかったのか?どうして警察に目をつけられている?」

遥香は唇を噛み、恨めしそうに答える。

「そんなの知らないわよ!私はただ、あの女が目障りで、あいつのしょぼいギャラリーを燃やしてやりたかっただけだもん!

まさか、あの馬鹿な女が、ガキを助けるために火の中へ飛び込むなんて思わなかったのよ!」

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ひとみ
ひとみ
ビタミン剤、過剰摂取…とりすぎたらどうなるんや…幻覚みえるのか…? 放火の罪擦り付けようとしてたくせにそんな妹に対してえぇ?!…ってなったわ。 妹一発目の登場から(こいつ狂ってる…)やったで? しかもまた3年も放置て…時間軸がわからなさすぎる〜
2026-10-12 18:48:20
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松坂 美枝
松坂 美枝
睡眠薬じゃないんだから生きてるんだろうな あんなに後悔しといて三年も姉弟を放置して、身代わりに罪を着せようと思った時にようやく思い出す程度の愛なんか要らんよな せっかく逃げ出せるはずだったのにな
2026-10-12 11:17:37
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9 Chapters
第1話
私は宙に浮いたまま、辰哉を見下ろしている。尊大なまでに自信に満ちていた辰哉の顔が、見る間に青ざめ、次第に土気色へと変わっていく。やがて信じられないと言わんばかりに、その顔が引きつった。彼は大家をつかんでいた手を乱暴に離すと、よろめきながら後ずさり、階段の手すりに背中をぶつける。ドン、と鈍い音が響き渡る。「そんなはずない」歯を食いしばり、喉の奥から無理やり絞り出すように呟く。「美夕は、あの病弱な弟を何より大事にしてたんだ。あいつが、弟を死なせるわけがない。俺の気を引くために、こんな真似をしてるだけなんだろ?」大家は哀れむように辰哉を見つめ、首を横に振った。それ以上は何も言わず、震える足取りで自分の部屋へ戻っていく。そして、静かにドアを閉める。薄暗い廊下には、辰哉の荒い息遣いしか聞こえない。私は冷ややかな目で、その姿を見つめる。確かに、私は弟・杉本律希(すぎもと りつき)を何よりも大切にしていた。心臓移植の費用を工面するため、学業もプライドも捨てた。そして、人として生きることすら、諦めた。まるで忠実な飼い犬のように辰哉に付き従い、何を言われても、逆らわなかった。遥香が私を気に入らないと知れば、言われる前に自分から姿を消した。辰哉が不機嫌なときは、八つ当たりされながらも、必死に笑顔を作って耐えた。すべては、律希を救ってやると辰哉が約束してくれたから。しかし今、私も律希も、もうこの世にはいない。それなのに辰哉は、私が死んで3年が経った今も、放火をした遥香の罪を私に被せようとしている。これほど滑稽な話があるだろうか。辰哉はその場に長く立ち尽くしていた。あまりにも長くて、廊下の人感センサーライトまで消えてしまう。暗闇の中、スマホを取り出す。画面の冷たい光がその歪んだ顔を青白く照らし出した。そして、どこかへ電話をかける。「……俺だ。美夕と、その弟の律希が今どこにいるか調べろ。そうだ。国内の病院を全部調べろ。出入国の記録もだ。どんな手を使っても、夜が明けるまでに、あいつらの居場所を突き止めろ!」電話を切ると、辰哉は拳を壁に叩きつけた。「美夕、絶対に見つけてやる。死んだら、すべてが終わったと思うなよ」階段を下りていくその背中を見つめながら、私の心は完全に冷え切っていた。辰哉
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第2話
私は宙に浮いたまま、辰哉と遥香を見下ろしている。まるで氷水を浴びせられたように、魂の芯まで冷え切っていた。遥香が言っている「あの馬鹿な女」、つまりギャラリーのオーナーは、穏やかで優しいシングルマザーだった。「ガキ」とは、彼女の5歳の娘のことだ。そして私は、その子を助けるために炎の中へ飛び込み、落ちてきた梁に足を挟まれ、そのまま焼け死んだ。それなのに、彼らにとって人の命なんて、こんなにも軽いものなのか。辰哉はこめかみを押さえ、少しだけ声を和らげて言う。「もう泣くな。美夕の奴は見つかった。あいつにお前の罪を被せればいい」遥香の泣き声がぴたりと止まる。「本当!?あいつ、納得したの?」「あいつの意思など関係ない。拒否する権利もない」辰哉は鼻で笑う。その声には、すべてを自分の思い通りにできるという傲慢さがにじんでいる。「ただ……」そこで言葉を切る。その目に、一瞬だけ私には読み取れない感情が浮かんだ。「今日、あいつのいたアパートへ行ったんだが、大家が言うには……あいつは3年前に死んだそうだ。弟も、飛び降りて死んだってな」「はあ?」遥香は目を大きく見開き、次の瞬間には鼻で笑った。「お兄ちゃん、騙されてるよ!美夕って、昔からずる賢いじゃない?私たちが身代わりを探してるって知って、逃げおおせるためにわざとこんな芝居を打ってるのよ」そう言いながら遥香は辰哉のそばへ寄り、腕に絡みつく。「よく考えてみてよ。あいつにとって弟は何より大切な存在だよね。そんな弟を死なせるわけないじゃない。絶対に嘘よ!」辰哉の顔から険が落ちる。どうやら遥香の言葉に納得したようだ。「お前の言う通りだ。あいつは昔から、こういう小細工ばかりするからな」「お兄ちゃん、絶対に同情なんかしちゃだめよ」遥香の目に、ぞっとするほど冷たい光が宿っている。「今回は絶対に、あいつに罪をかぶせるの。そうしないと、私たちまで巻き込まれるんだから!」「分かっている」辰哉はなだめるように、遥香の手を軽く叩いた。「もう部下に調べさせてる。すぐに結果が出るはずだ。あいつを見つけ出したら、たっぷりと思い知らせてやる」兄妹が仲睦まじく寄り添う姿を見下ろしながら、私はただ、あまりにもバカバカしくて笑ってしまった。辰哉、あんたはもうすぐ
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第3話
「お金など、1円も受け取っていません。最後のときは、入院費も払えなくなりました。美夕さんは土下座して、もうすぐ金を用意できるから、あと数日だけ待ってほしいって泣いて頼み込んできました。しかしそのあと、彼女が火事で亡くなりました。木下さんが彼ら姉弟にしたことは、一生かかっても償いきれませんよ!」電話は一方的に切られた。辰哉は凍りついたように動けなくなった。力の抜けた手からスマホが滑り落ち、絨毯の上に音もなく転がった。カーテンの隙間から差し込む朝の光が、紙のように青白い顔を照らしている。彼の信じていた世界が、今この瞬間、音を立ててひび割れ始める。よろめきながら部屋を飛び出し、車のエンジンをかける。調べなければならない。あの火事のことを、すべて調べる。――美夕、お前は一体どこにいるんだ?頼むから、生きていてくれ。絶対に、生きていてくれ!辰哉は狂ったように警察署へと車を走らせた。木下家の権力とコネを使い、3年前の商業ビル火災に関するすべての捜査資料を取り寄せる。分厚いファイルの束を机に叩きつけると、ほこりが舞い上がった。辰哉の手はひどく震えており、紙の1枚をつかむことさえままならない。震える指で1ページずつめくっていく。読み進めるほど、顔から血の気が引いていく。火災調査報告書、現場検証の写真、目撃者の証言……すべての証拠が、一つの事実を突きつけている。――美夕は、本当に死んだ。報告書には、はっきりとこう記されている。【死亡者・杉本美夕。女性、23歳。大量の煙を吸い込み、さらに焼け落ちた梁に左脚を挟まれ、逃げられないまま焼死。発見時には全身が炭化しており、DNA鑑定により身元を確認】炭化……辰哉の体がぐらりと揺れ、机の縁に手をついて、かろうじて倒れるのをこらえた。私が最期にどれほどの苦しみと絶望を味わったのか、彼は想像することさえできないだろう。辰哉は、私が遥香の身代わりになったという自白調書を探すため、さらにページをめくっていく。しかし、最後まで目を通しても、私が罪を認めた記録などどこにも存在しなかった。代わりにそこにあったのは、1枚の表彰状だ。【杉本美夕殿。あなたは11月23日に発生した大規模火災に際し、自身の危険を顧みず冷静かつ勇敢な行動をもって、女児を救出されま
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第4話
辰哉は、まるで魂の抜け殻のように、車を走らせて遥香の住む豪邸へ戻った。ドアを押し開けると、遥香はパックをしたまま、ソファに寝そべってスマホをいじっている。辰哉の帰宅に気づくと、気だるそうにまぶたを持ち上げる。「お兄ちゃん、どうだった?美夕、見つかった?身代わりになることを引き受けたの?」辰哉は答えず、ただじっと遥香を見つめている。その視線は氷のように冷たい。まるで、敵を見るかのような目だ。遥香はその異常な空気に薄気味悪さを感じたのか、苛立たしげに身を起こす。「なによ、その目。まさか失敗したの?」辰哉は何も言わず、遥香に近づいていく。その足音が響くたび、私の胸まで踏みつけられているようだ。やがて、喉の奥から絞り出すような声で言う。「木下安奈って、誰だ」遥香の顔に貼りついていたパックが、床に落ちた。彼女の表情が凍りつき、あからさまに動揺している。「な……何を言ってるの?私、知らないわ」「知らない?」辰哉は笑った。その笑い声には、絶望と狂気がにじんでいる。テーブルの上に置かれていた書類をつかみ上げ、そのまま遥香の顔に叩きつける。「自分で見ろ!」紙が床に散らばる。その中の1枚、「木下安奈」の名が記された身元登録のページが、ひらひらと遥香の足元に舞い落ちた。遥香の顔から、一瞬で血の気が引いていく。「どうして……お兄ちゃんが、これを……」「どうして俺が知ってるのか?」辰哉は低く言い放つ。次の瞬間、遥香の首をつかみ、ソファに押し倒した。真っ赤に充血した目には、抑えきれない怒りが宿っている。「あのギャラリーがお前のものだってことも、お前がなぜ火をつけたのかも知ってるぞ!ギャラリーのオーナーが目障りだからじゃないよな。お前は、自分の娘を殺そうとしたんだ!」首を絞められ、遥香の顔が赤黒くなる。彼女は必死にもがきながら、辰哉の腕を爪で引っかく。「はな……して……っ!」しかし辰哉はさらに手に力を込める。その目には、今にも溢れ出しそうな殺意が宿っている。「どうしてこんなことをした!?自分の娘だろう!親なら、どんなことがあっても子どもを守るものじゃないのか!遥香、お前はそれでも人間か!」「ク、クッ!」遥香が窒息し、白目をむきそうになったそのとき、ようやく辰哉は我に返った。残さ
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第5話
辰哉が目を覚ますと、そこは病院の特別個室だった。鼻をつく消毒液の匂いに、思わず眉をひそめる。体を支えて起き上がると、手の甲に点滴の針が刺さっているのに気づく。木下家のかかりつけ医がベッドのそばに控えており、辰哉が目を覚ましたのを見ると恭しく口を開く。「社長、お目覚めになりましたか。精神的な負担と過労が重なっただけですので、少し休まれれば問題ありません」辰哉は何も言わず、点滴の針を引き抜き、布団をはねのけてベッドから降りようとする。「社長、どちらへ行かれるのですか!」「失せろ」ひどくかすれた声が響いた。靴を履くと、そのまま魂の抜けたような足取りで病室を出ていく。家にも帰らず、会社にも行かない。辰哉は何かに導かれるように車を走らせ、かつて私と暮らしていた高級マンションへ向かった。その部屋には、3年前に私が「失踪」して以来、一度も戻っていない。うっすらとほこりの積もったドアの前に立ち、震える手でポケットから長いあいだ使われず、錆びついた鍵を取り出す。何度か試して、ようやく鍵穴に差し込むことができた。カチャッ。ドアが開く。淀んだカビの匂いが、一気に鼻をつく。部屋の中は、どこも分厚いほこりに覆われている。汚れた窓から差し込む光が、空中を舞う無数のほこりを浮かび上がらせている。辰哉は中へ足を踏み入れるのをためらっている。まるでここが、魂が眠っている神聖な場所であるかのようだ。その背後にふわりと浮かびながら、かつて私たちの思い出や言い争いが詰まったこの部屋へ、辰哉が入っていくのを見つめている。彼の視線が、玄関のシューズボックスに止まる。そこには、私がよく履いていた白いスニーカーが置かれたままだ。何度も洗ったせいで、すっかり色あせている。私が「これ、すごく履きやすいの」といつも言っていたことを、彼は覚えているのだろうか。辰哉はあのとき、安っぽくて、木下グループの社長の婚約者にはふさわしくないと嫌がっていた。何度も捨てようとしたが、そのたびに私が止めた。伸ばした手が、靴に触れる寸前で止まる。まるで手に、目に見えない血がべっとりとこびりついているかのようだ。辰哉はリビングへ入る。そこにあるベージュの布張りソファは、私が食費を切り詰め、3か月かけてようやく買ったものだ。座面の1箇所がわ
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第6話
辰哉は、ほこりの積もった部屋で、丸1日ただ座り続けていた。翌日の夕方になって、突然インターホンが鳴り響く。彼はまるで糸に操られる人形のようにゆっくりと立ち上がり、ドアを開ける。そこに立っていたのは、大家だ。私と律希の死を辰哉に伝えた、しわくちゃの老婦人だ。今、辰哉を見つめるその目に以前のような哀れみはなく、ただ氷のように冷たい眼差しで、彼を見据えている。「木下さん」感情の一切抜け落ちた、平坦な声だった。辰哉は唇を動かしたが、声は出ない。大家は彼の返事を待たず、使い古された段ボール箱を無造作に押しつけた。「美夕ちゃんの荷物だよ」辰哉はうつむき、腕の中の箱を見下ろす。うっすらとほこりが積もっている。「ここを出ていく前に、これを私に預けていったんだ。『3か月経っても戻らなかったら、処分してください』って。きっと、どこか遠くへ行って、新しい人生を始めるつもりだったんだろうね」大家はため息をつき、遠くを見るように目を細める。「……でも、行けなかったけどね」辰哉は箱を抱えたまま、指先が白くなるほど手に力を込める。「本当は捨てるつもりだったんだ」大家の目が再び辰哉に向けられる。今度は、鋭い光が宿っている。「でも、あんたを見て、気が変わった。木下さん、知ってるかい?うちの息子はね、あの火事のときに現場へ出動した消防士の一人なんだよ。息子が言ってた。美夕ちゃんを見つけたときには、もう全身ひどい状態だったって。でも、腕の中に小さな女の子を抱えて、必死に守っていたそうだ。その女の子が、木下遥香の娘、木下安奈だよ」辰哉の体が大きく震える。「息子は、美夕ちゃんが運び出されて、息を引き取る直前まで、何かを口にしていたって言っていた。何を言ってるのか、はっきりとは聞き取れなかったけど、いくつかの言葉だけは聞こえたって」大家は辰哉の目をまっすぐ見つめ、はっきり言う。「逃げて、と」あれは、誰かに向けた言葉ではなかった。自分自身に言い聞かせていたのだ。私はずっと前から、何かがおかしいと感じていた。危険が迫っていることにも気づいていた。だから、律希を連れて、この地獄から逃げようとしていた。辰哉の胸が、見えない大きな手で引き裂かれたように痛む。その痛みは、全身へと広がっていく。「これ、返すよ
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第7話
日記のページをめくりながら、辰哉は私に与え続けた数え切れないほどの冷たい仕打ち、屈辱、そして裏切りを思い出した。さらに、私が律希のために何度も自分の気持ちを押し殺し、彼に自尊心を踏みにじられていたことも思い出した。そして、最後の日記帳を開く。日付は、あの火事の前の日だ。【〇年〇月〇日、雨。決めた。律希を連れて、ここを出る。辰哉からも、この街からも離れよう。南のほうにある病院には、もう連絡を取ってあるし、仕事も見つけた。給料は高くないけど、律希と二人で暮らしていけば、きっとなんとかなる。今日も辰哉は、遥香のことで私に怒鳴った。彼の顔を見ていたら、突然、見知らぬ他人のように思えた。私……もう辰哉のことを愛していないのかもしれない。下の階に引っ越してきたシンママは、とても優しい人だ。娘の安奈ちゃんもすごくかわいい。ただ、母親のほうはいつも何か思い詰めているようで、人目を避けているようにも見える。二人が幸せに暮らせるといいな。明日から、新しい人生が始まる。美夕、頑張れ】日記は、そこで途切れている。その先には、何ページもの白紙が続いている。辰哉は日記を閉じると、魂が抜けたようにへたり込んだ。私はとっくに、彼のもとを去るつもりだったのだ。とっくに……彼を愛していなかった。辰哉はずっと、私が彼なしでは生きていけない、弱々しいカナリアのような女だと思い込んでいた。しかし、私がこの弱々しい翼で、自分と律希の未来を切り拓こうとしていたことなど、辰哉は知る由もなかった。もし、あの火事さえなければ、遥香の娘を助けようとしなければ、私と律希は、新しい人生を始めていたはずなのに……辰哉はボイスレコーダーを手に取り、再生ボタンを押した。そこから流れてきたのは、遥香の甲高い声だ。「美夕、言っておくけど、お兄ちゃんに近づかないで!あんたみたいな貧乏人が、お兄ちゃんには釣り合わないのよ!これ、200万よ。この金を持って、さっさと消えなさい!」続いて、私の落ち着いた声が響く。「私と辰哉のことに、木下さんが口を挟む筋合いはないよ。そのお金は、自分のために使ったら?そのイカれた頭、精神科で診てもらったほうがいいよ」録音は短く、そこで終わっている。あのとき、私はたまたま録音していた。遥香の様子がおかしいと感じていたから
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第8話
辰哉の世界が、音を立てて崩れ落ちた。律希のために用意された心臓など、最初から存在しなかった。それはただ、彼が私の目の前にちらつかせるエサであり、私を繋ぎ止めるための冷たい鎖にすぎなかった。彼は偽りの希望で私を縛り、家族とともに私を傷つけ、踏みにじった。それだけではない。私が死んだあとでさえ、その嘘を使って、遥香の罪を私に着せようとした。あまりにも滑稽で、あまりにも残酷だ。「ハハ……アハハハハ!」辰哉は天を仰いで笑った。涙を流し、全身を震わせて笑い続ける。自分の愚かさを、傲慢さを、そして冷酷さを嘲笑っているのだ。辰哉は自分がすべてを支配できると思い込んでいた。しかし今になって、ようやく気づいた。彼はこの悲劇の中で、誰よりも哀れな道化にすぎなかったのだ。自分で紡ぎ出した嘘を、また自分で打ち砕く。最後には全身傷だらけになり、見るも無残な姿に成り果てた。まるで正気を失ったように笑う辰哉を見て、秘書は恐怖のあまり息を潜めている。辰哉は長いこと笑い続け、ようやくゆっくりと笑いを止めた。涙を拭うと、顔から表情が消え、死んだような静けさが戻る。そして、秘書に向けて口を開く。「当時、西園寺家との間で交わした取引について、証拠をすべて探し出せ。それから遥香だ……あいつがこれまでにやってきた、人に知られたくないことも全部だ。一つ残らず、洗い出せ」秘書は言葉を失った。「社長、いったい何を……」辰哉の顔にはぞっとするような笑みが浮かんだ。「あいつらに、償わせてやる」凄まじい嵐が、木下家と西園寺家を襲った。木下グループの社長・木下辰哉が、実の妹・木下遥香を警察に告発した。故意の放火、実の娘に対する殺人未遂、さらに、西園寺グループとの不正な臓器取引についても、すべて明らかにした。同時に、遥香の長年にわたる乱れた私生活や、会社の資金を私的に流用していた証拠まで次々と明るみに出た。この一件は、大きな波紋を広げていく。記者会見の場に、辰哉は全身黒のスーツ姿で現れた。その顔はひどくやつれているが、目だけは異様なほど強い光を放っている。彼は自身のための弁明を一切口にせず、ただ集めた証拠を一つずつ、報道陣の前に提示していく。日記、ボイスレコーダー、送金記録、カルテ……すべての証拠が重い鉄槌となり、
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第9話
ニュース画面に映る、ひどく寂しげで、それでいて決然とした辰哉の後ろ姿を見つめても、私の心はもう何も感じなかった。辰哉、こんなことで罪を償えたとでも思っているの?この世にはお金では償えない罪がある。どれだけ時が流れても、絶対に許されない過ちだってある。……辰哉は墓地へ向かった。彼はまず、律希の墓前に立った。小さな墓石が、ひっそりと佇んでいる。辰哉はしゃがみ込み、墓石のほこりを手でそっと拭き取る。その手つきは、まるでこの世で最も尊い宝物に触れるかのように、ひどく優しかった。「律希、ごめんな……」ひどくしゃがれた声には、鼻にかかったような響きがある。「俺……来るのが遅くなった。お前を治して、元気に生きていけるようにするって、美夕に約束したのに……俺は、約束を守れなかった。美夕がいつも言ってた。お前はイチゴケーキが一番好きだって。あとで買ってくるから。一番大きいやつを、な?」彼はまるで、生きた人間と会話しているかのように、ぽつりぽつりと語り続けている。涙が頬を伝い、冷たい墓石に落ちて、すぐに吸い込まれて消えていく。私はそこに立っている。律希の魂も、私の隣にいる。律希はまだ少年の姿のままで、どこまでも純粋で、澄んだ瞳をしている。辰哉を見下ろしているが、その顔には何の表情もない。彼も私と同じように、もう何も望んでいないのだ。辰哉は長い間、律希の墓の前から動かなかった。やがてゆっくりと立ち上がり、少し離れた場所にある、もう一つの墓へ向かって歩き出す。私の墓だ。辰哉は手を伸ばし、触れようとしたが、宙で手を止めた。私の墓を、汚してしまうのが怖いのだ。辰哉は、まるで敬虔な信者のように、ゆっくりと膝をつき、額を冷たい墓石に押し当てた。「美夕ちゃん……」彼はむせび泣きながら、私の名前を呼ぶ。「俺が悪かった。お前を疑うべきじゃなかった。傷つけるべきじゃなかった。お前を……自分の所有物みたいに扱うべきじゃなかった。もし……もし、もう一度やり直せるなら、俺は必ず、お前を大切にする。俺のすべてをやる。命も、愛も……全部、お前にやるから。だから……戻ってきてくれないか?美夕、頼むから、戻ってきてくれよ!」泣き声は次第に大きくなり、やがて絶望に満ちた叫びへと変わっていく。静まり返
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