Share

第3話

Author: ポップコーンビスケット
圭介はすぐ手を放した。

真琴も彼の視線に気づき、私の腕から指を離す。

――パシン。

私は迷いなく平手を振り抜き、圭介の頬を打った。

空気が、一瞬で凍りついた。

誰も言葉を失い、その場に固まっている。

私はバッグを掴み、背を向けて歩き出した。

圭介は反射的に追いかけようとした。

そのとき、真琴が小さく舌打ちする。

「紗月って、意外と気が強いんだね。先輩、家ではそんなに尻に敷かれてるの?」

軽く笑いながら、続ける。

「今日は身内だけでよかったよ。外で同僚や上司に見られてたら、これから職場で顔、立たなくなるでしょ?」

圭介が体面を何より気にすることを、私はよく知っている。

だから今まで、人前では必ず彼の顔を立ててきた。

――その結果、彼は私の好意に甘え、平気で踏みつけるようになった。

……もう、やめだ。

案の定、真琴の言葉を聞いた圭介は、追いかけかけた足を止める。

「いいって。今は触らないほうがいい。ほら、続けるぞ」

――バタン。

私はドアを叩きつけた。

耳障りな笑い声も、全部まとめて向こう側に閉じ込める。

外は、雲ひとつない青空だった。目が痛くなるほど、眩しい。

私はそのまま、会社へ戻った。

それから数日間、仕事に没頭して、圭介のことを考えないようにした。

私は二十六歳だ。

親族や友人に見守られて婚約し、入籍日も決まり、式場の予約まで済んでいる。

終わらせるにしても、続けるにしても、一度、互いに冷静になってから決めるべきだと思った。

けれど圭介は、友人の前で叩かれたことを、まだ根に持っているらしく、結局、こちらに連絡してくることはなかった。

月曜の夜、私は取引先の相手と会食の約束を入れていた。

会社のビルを出た瞬間、真琴がいきなり目の前に立ちはだかった。

「紗月。お金だけ受け取って逃げるとか、さすがに通らないでしょ」

わざと周囲に聞こえる声量で言う。通りを歩いていた人たちが、一斉にこちらを振り向いた。

「さすがにもう、式の直前に破談にするくらいで騒ぐ時代じゃないでしょ」

一拍置いて、にやりと笑う。

「でもね。付き合ってる間に贈り物だの現金だの、細かいの全部合わせたら、二千万円は軽く超えてるでしょ。男のほうは大人だからさ、それはもう返せなんて言わずに、全部あなたに渡した」

さらに、言葉を重ねた。

「……でも、結婚のために渡したお金は別。結納金が一千五百万円。車が二千万円。宝飾品が合わせて二千万円。それに、新居の頭金で四千万円。

ここまでいって、何もなかった顔で終わりにしようっていうのは、さすがに無理じゃない?」

矢継ぎ早にまくしたてられ、私は口を挟む隙もなかった。

話を聞いた通行人たちが、ひそひそと指をさす。

「金だけ取って逃げるって、結婚詐欺じゃないの」

「付き合ってるだけで何千万ももらうとか、完全に金目当てでしょ」

「見なよ、あの身なり。男を騙して稼いだ金で着飾ってるんだろ。ほんと、恥知らず。こういうのがいるから、世の中、どんどんおかしくなるんだよ」

「隣の男、新しいパトロンじゃね?次はそっちからも巻き上げるつもりなんだろ」

そう言いながら、何人かがスマホを取り出し、こちらに向けて動画を回し始めた。

隣に立つ取引先の社長が、眉をひそめる。

「高瀬さん……これは、どういうことですか」

低い声で、淡々と続ける。

「契約でも申し上げたとおり、御社側にネガティブな報道が出て、案件に影響が及ぶ恐れがある場合、当社は取引を打ち切り、損害賠償を請求する権利があります」

この案件は、簡単に取れたものじゃない。三か月、チームで踏ん張り、倒れて二度、病院に運ばれながら、ようやく成立させた案件だ。

失うわけにはいかなかった。

「中村さん、違います――」

必死に声を出した、その瞬間。

「何が違うの?」

真琴が、甲高い声で遮った。

彼女は最初から、そのつもりだったのだろう。バッグから、写真と明細書の束を取り出す。

「ほら。祝日や記念日に振り込んだお金。あなたの実家に買ったもの。婚約祝い」

一枚一枚、突きつける。

「それから、結婚のために渡した車と新居。全部、ちゃんと残ってる」

そして、勝ち誇ったように言った。

「ねえ中村社長。私が彼女を陥れてるのかどうか、あなたが判断してくれません?」

真琴は、明細の束を中村社長の目の前に突き出した。

中村社長は、苛立ったようにそれを押し返した。

「高瀬さん。まずは身の回りのことを整理してください。話は、それからにしましょう」

そう言い残して、彼は背を向けた。

私は思わず、後を追おうとした。

その瞬間、真琴が私の腕をつかむ。

「紗月。ここで逃げるのは、さすがにないよ」

低い声で、言葉を重ねた。

「理由もはっきりしないまま先輩を切るなら、お金の話は避けて通れないでしょ。みんな大人なんだから。

あとになって、金だけ取って逃げた女なんて言われたり、話が大きくなる前に、先に整理しといたほうがいいと思って」

少しだけ間を置き、わざとらしく視線を落とす。

「あなたは体裁なんて気にしなくてもいいかもしれないけど、ご両親のことは、少し考えたほうがいいんじゃない?」

突きつけられた明細は、嫌になるほど具体的だった。

二年間、私だって彼に贈り物をしてきた。婚約や結婚にかかる費用も、ほとんど折半だ。

新居の頭金は彼、内装は私。ローンも、二人で返している。

得をするつもりなんて、一度もなかった。

それなのに――彼がここまで細かく記録を残し、両家に破談を伝える前に、別の女に渡して、私に取り立てさせるなんて思いもしなかった。

しかも、その女は――私たちの関係をこじらせた張本人で、圭介が、私がいちばん嫌っている相手だと知っている女だ。

胸の奥が、刃物でえぐられたみたいに痛んだ。

吐き気が、ぞわりとせり上がってくる。

そのとき、真琴が突然、悲鳴を上げて後ずさった。

「ちょっと、何するの!?」

よろめいた拍子に、彼女のスマホが地面に落ちる。

「違う。私は、何もしてない。あなたが勝手に――」

言葉が、途中で途切れた。

彼女は無傷だった。傷ついているのは、爪で皮膚を引き裂かれた私の手だけ。

それでも、誰ひとり、私の声を聞こうとしない。

非難のうねりが、一瞬で私を飲み込んだ。

「ほら、やっぱりね。一見まともそうに見えても、金持ちに取り入って金を巻き上げる女だよ」

無数のスマホが一斉に掲げられ、フラッシュが、目を射抜くように瞬いた。

押し合いへし合いの中で、私は足を取られて倒れ、スマホは弾かれるように遠くへ飛んだ。

レンズが、私の顔、胸元、そしてスカートの奥へと、露骨に狙いを定める。

「仕事にスカート?まともな女の格好じゃないだろ」

「男を引っかけて金を抜くタイプだな。こんなの相手にするくらいなら、風俗の女のほうがマシだ」

「高級オフィスビルから出てきたから、エリートかと思ったら……ただの水商売かよ。はは」

止めに入ろうとした若い女性まで、人波に押し返され、弾き飛ばされた。

震える手で、私は地面に落ちたスマホへと必死に手を伸ばす。

指先が、ようやく触れたその瞬間――

強く踏みつけられ、息が詰まるほどの痛みが走った。

顔を上げると、真琴がこちらを見下ろしていた。

勝ち誇った笑みを、隠そうともしない。

――だが、次の瞬間。

その表情が、凍りついた。

「どけ!」

圭介が、人混みをかき分けて、こちらへ駆け寄ってきた。
Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • あなたと交わらない人生   第7話

    案件が一段落すると、私は真っ先にイタリア行きの航空券を取った。下調べも何もせず、思い立ったらそのまま出発することにした。圭介と一緒にいた頃、彼は三度、同じ約束をした。私と一緒に来てドレスの最終確認をして、それから少しこちらで過ごそう、と。その三度とも、真琴のせいで流れた。私は、待ってばかりだった。そして、そのたびに失望した。――もういい。ひとりで行けば、誰かを待つこともないし、期待を裏切られることもない。せっかくの機会だから、自分に少し長めの休みを与えることにして、まずは部屋を借りた。周囲に慣れてきた頃、私は改めてレインを訪ねた。電話では誤解も解け、謝罪も済ませていたけれど、やはり直接会って、きちんと頭を下げたかった。レインは、あのドレスを完成させてくれていた。「すごくきれいだ。君に、よく似合ってる。このドレスは、君のために作られたんだ。結婚がどうとか、そんなことは関係ない。せっかくだし、今日は君のための日にしよう」その通りだと思った。学生の頃から、デザインの夢を語っていた絵梨は、よく私に、ドレスのアイデアを話してくれた。目標は、私のためだけの一着を作ること。十年以上、何度も描き直しながら、手を加え続けてきた。亡くなる直前まで、未完成の原稿が残されていた。「紗月、二十六になっても二人とも結婚してなかったら、一緒にドレスで写真撮ろうね!」私は二十六になり、婚約は消え、彼女はもう、隣にいない。それでもせめて、彼女が関わったこのドレスを着て、約束の年を、形に残したかった。レインは自らカメラを構えてくれた。隣で見ていたアシスタントが、思いついたように言う。「せっかくだし、ツーショットも一枚どうです?」私は特に断る理由もなかった。レインは、生前の絵梨が憧れていた人だ。生きている間に一緒に仕事をすることは叶わなかったけれど、絵梨の発想が込められたドレスが、憧れの人と並んで写るなら――絵梨の思いを無駄にしなくて済む。そう思えた。「わあ、すごくいいですね。並ぶと、ほんと絵になります」アシスタントが無邪気に褒める。私は少し照れて笑った。レインもつられて笑い、その瞬間を、アシスタントが素早く切り取った。そしてそのとき、圭介が駆けつけ、ちょうどその光景を目にした。完

  • あなたと交わらない人生   第6話

    圭介は、スマホを睨んだまま、長いこと動けずにいた。たった一行のメッセージなのに、意味がうまく頭に入ってこない。真琴は、彼が食卓の前で固まっているのを不思議に思い、そっと近づいた。「なにそれ。親にまで言うとか、正直どうかと思うけど」「紗月が、そんなことするわけないだろ!」圭介は反射的に声を荒げた。真琴は、きょとんと目を瞬かせる。十年以上の付き合いの中で、圭介が他の女性と付き合っていた時期もあった。それでも、誰かのことで真琴に声を荒らげたことは、一度もなかった。真琴の顔に、じわりと悔しさが滲む。「違うなら、そう言えばいいじゃない。なんで、私に当たるの?」けれど今回は、圭介はいつものように宥めなかった。彼は真琴を押しのけるようにしてスマホを掴み、そのまま外へ出ていった。真琴は慌てて追いかけ、どこへ行くのか問いかけようとする。返ってきたのは、目の前で叩きつけられたドアの音だった。――ほどなくして、またドアが開く。真琴の目が、ぱっと期待に輝いた。だが聞こえてきたのは、圭介の冷えきった声だった。「もう帰れ。二度と俺の家に来るな。暗証番号も、変える」そう言い捨てて、圭介は再びドアを乱暴に閉めた。今度は、もう開かなかった。圭介は車を走らせ、まっすぐ私の会社へ向かった。来ようと思えば、いつでも来られた。それでも彼は、ずっと意地を張っていた。真琴の言葉に影響され、ここで一度突き放しておけば、私のほうから折れてくると考えていた。けれど今回は、私が本気で去るところまでは、想像していなかった。私は前から何度も言っていた。どれだけ揉めても、本当に終わるところまで行かない限り、親を巻き込むな、と。圭介は、私の性格をよく知っていた。筋さえ通っていれば、私は愛情で踏みとどまる。だから彼も、他の女とあからさまに一線を越えることだけは、慎重に避けてきた。――そこだけは、私が譲らない場所だった。圭介は、はっきりした言葉も交わしていないし、体の関係まで行っていない。だから、問題ないと思い込んでいた。私がどれだけ怒っても、どうせ時間が経てば落ち着いて、また元に戻る。そう、高をくくっていたのだ。真琴も、そんなふうに言っていた。女なんてそんなものだ、と。特に、私みたいに少し若い女は――と。そ

  • あなたと交わらない人生   第5話

    私は背を向け、そのまま歩き出した。圭介は、しばらくその場に立ち尽くしていた。真琴がつま先立ちになり、両手で彼の顔を包むようにして覗き込む。「……平気?あの子、やり方が乱暴すぎない?ちょっとしたことで、すぐ手が出る感じでさ。暴力的なところ、あるんじゃない?さすがに、あれはひどいよ」距離が近い。真琴が小さく息を吐くと、温い吐息が圭介の頬に触れた。圭介は一瞬、動きを止め、反射的に顔を背ける。真琴は、少し気まずそうに笑った。「あ、ごめん。心配で、つい……わざとじゃないからね、先輩」圭介は首を振って、「平気だ」と短く答えた。そして、ふと視線を上げ、ちょうど私が消えていった方向を見る。「……追いかけたほうが、いいんじゃない?」真琴は、迷うように言葉を選びながら続けた。「長い付き合いなんだしさ。紗月も、ただ意地張ってるだけだと思うよ。きっと、迎えに来てほしいんだと思う」少し間を置いて、付け足す。「……でも、また同じことになるかもだし。今度は、もっとひどくなるかもしれないけど。それにさ、最近みんなも言ってたよ。先輩の家、行きづらいって。また怒られたら、先輩も立場、きつくなるよね」圭介は、その瞬間、視線を引き戻した。「……何を気にする必要がある。俺の家だ。来たいなら、来ればいいだろ」そう言い捨てると、彼は迷いなく踵を返し、反対方向へ歩き出した。私のスマホは壊れている。服も汚れている。行く当てもないのに――彼は何も考えなかった。幸い、会社はすぐ近くだった。他の社員たちは、声を掛けることもできずに視線を逸らす。私の姿を見つけた秘書だけが、慌てて駆け寄ってきた。「新しいスマホを用意して。それから、着替えも一式」そう指示を出し、私は社用電話で弁護士に連絡した。警察に知り合いがいるなら、証拠の確保を頼みたい、と。カードをつかみ、そのまま病院へ向かう。私は、本当に圭介を愛していた。彼のために、真琴が「友だち」という顔で踏み込んでくるたび、何度も飲み込んできた。彼の気持ちを、疑ったことはなかった。私が離れそうになると、彼は決まって、優しい言葉で引き留めた。――でも。彼には、どうしても譲れないものがあった。男の体面というものの前では、私も、私の愛も、いつだって後回し

  • あなたと交わらない人生   第4話

    人に押されるうちに髪はぐしゃぐしゃになり、スカートにも汚れがついて、自分でも目を背けたくなるような格好になっていた。こんな姿を圭介に見られたくなくて、俯いたまま、涙だけが勝手にこぼれ落ちる。「紗月……大丈夫か?」圭介は上着を脱いで私を包み込み、そのまま腕の中に引き寄せた。「もう大丈夫だ。俺がいる」私を背中に庇うようにして前に出ると、顔を上げ、騒ぎの中心を鋭く見渡す。声も表情も、硬い。「今すぐ動画を消せ。警察はもう呼んだ。監視カメラにも全部映ってる。これ以上やるなら、覚悟しろ」男が前に出てきて、しかも「警察」という言葉が出た途端、さっきまで騒いでいた連中は、互いに顔を見合わせた。「いや……俺たちもよく分かってなかったんだよ。関係ないだろ。あの子がそう言ったから……」言い訳を並べながら、人波はばらばらに散っていった。――その場に残ったのは、真琴だけだった。真琴は圭介の前に駆け寄り、目を真っ赤にする。「先輩……やっと来てくれた。私が悪いの。紗月が先輩と別れるって言うから、止めたくて……」声を震わせて続ける。「先輩が、どれだけ紗月に尽くしてきたか、私、知ってるから。あんなに大事にされる人、他にいないよ。でも……」ちらりと私を見て、怯えたように視線を伏せた。圭介の声が、ふっと柔らぐ。「落ち着いて。ゆっくりでいい」真琴は小さくうなずき、唇を噛む。「紗月がね……全部先輩の自己満足で、尽くすのは当たり前だって。それに、もうもっといい人を見つけたって……」「何言ってるの!」遮ろうとした私の声を、真琴はわざと大きな声で掻き消した。「私も最初は信じなかったよ。でも、さっき……紗月が、別の男とすごく親しそうに出てくるの、みんな見たでしょ?見てられなくて、ちょっと言っただけなの。そしたら……急に転んだの。私、何もしてない」その言葉に、まだ立ち去っていなかった連中までが、口々に頷き始めた。「そうそう。さっきも別の男と、やけに親しげに出てきただろ。あの子だって、注意しただけなのにさ。それでさ、逆ギレしてきたんだよ」圭介が私を見た。その瞬間、顔色が変わった。目の奥に、探るような色が差す。二年、一緒に過ごして。式を目前にして。真琴の、ほんの数言で。圭介は私を、「

  • あなたと交わらない人生   第3話

    圭介はすぐ手を放した。真琴も彼の視線に気づき、私の腕から指を離す。――パシン。私は迷いなく平手を振り抜き、圭介の頬を打った。空気が、一瞬で凍りついた。誰も言葉を失い、その場に固まっている。私はバッグを掴み、背を向けて歩き出した。圭介は反射的に追いかけようとした。そのとき、真琴が小さく舌打ちする。「紗月って、意外と気が強いんだね。先輩、家ではそんなに尻に敷かれてるの?」軽く笑いながら、続ける。「今日は身内だけでよかったよ。外で同僚や上司に見られてたら、これから職場で顔、立たなくなるでしょ?」圭介が体面を何より気にすることを、私はよく知っている。だから今まで、人前では必ず彼の顔を立ててきた。――その結果、彼は私の好意に甘え、平気で踏みつけるようになった。……もう、やめだ。案の定、真琴の言葉を聞いた圭介は、追いかけかけた足を止める。「いいって。今は触らないほうがいい。ほら、続けるぞ」――バタン。私はドアを叩きつけた。耳障りな笑い声も、全部まとめて向こう側に閉じ込める。外は、雲ひとつない青空だった。目が痛くなるほど、眩しい。私はそのまま、会社へ戻った。それから数日間、仕事に没頭して、圭介のことを考えないようにした。私は二十六歳だ。親族や友人に見守られて婚約し、入籍日も決まり、式場の予約まで済んでいる。終わらせるにしても、続けるにしても、一度、互いに冷静になってから決めるべきだと思った。けれど圭介は、友人の前で叩かれたことを、まだ根に持っているらしく、結局、こちらに連絡してくることはなかった。月曜の夜、私は取引先の相手と会食の約束を入れていた。会社のビルを出た瞬間、真琴がいきなり目の前に立ちはだかった。「紗月。お金だけ受け取って逃げるとか、さすがに通らないでしょ」わざと周囲に聞こえる声量で言う。通りを歩いていた人たちが、一斉にこちらを振り向いた。「さすがにもう、式の直前に破談にするくらいで騒ぐ時代じゃないでしょ」一拍置いて、にやりと笑う。「でもね。付き合ってる間に贈り物だの現金だの、細かいの全部合わせたら、二千万円は軽く超えてるでしょ。男のほうは大人だからさ、それはもう返せなんて言わずに、全部あなたに渡した」さらに、言葉を重ねた。「…

  • あなたと交わらない人生   第2話

    姿を消していた圭介が、ようやく戻ってきた。真琴の手にある下着を一瞥し、次に私へ目を向けると、気まずそうに視線を逸らした。「紗月が着替えるんだ。そこにいないで、外に出ろ」それだけ言って、圭介は真琴の腕を引き、部屋の外へ出ていった。真琴は彼の脇腹を指でつつきながら、からかうように言う。「ねえ先輩。紗月を満足させるために、変な修行でも始めたの?」「お前の頭には、ろくでもないことしか詰まってないのか」「先輩のことは、ちゃんと入ってるよ」ふたりのじゃれ合う声は、リビングに移ってもなお耳に届いた。ほかの連中も見慣れているのだろう。私と圭介の寝室のことまで肴にして、面白がって笑っている。……付き合う価値もない。あんな連中のために怒ったり、涙を流したりするなんて、損でしかなかった。私は乱暴に頬を拭い、内鍵を掛けてシャワーを浴び、きれいな服に着替えた。部屋を出ようとした、そのときだった。ドレスデザイナー・レインのアシスタントから電話がかかってきた。「高瀬さん。以前レインのもとへいらした際、何度も約束をすっぽかされましたよね」一瞬、何の話か分からなかった。「絵梨さんのお顔を立てて、こちらも不問にしましたが、今回は違います。大口の客をいくつもお断りしてまで、お受けした案件です」声は丁寧だが、冷え切っている。「当日キャンセルだけならまだしも、電話口で罵倒までされました。どういうおつもりですか」頭の中が、一気に真っ白になった。芦原絵梨(あしはら えり)――彼女は私の親友で、圭介のいとこでもある。そして、最初に私たちを引き合わせたのも、彼女だった。彼女のいちばんの夢は、憧れのレインと組んで、私に贈るウエディングドレスを一着仕立てることだった。けれど、それを叶える前に、交通事故で帰らぬ人になった。葬儀の日、絵梨の母――圭介の叔母は、未完成のデザイン画を私たちに託した。そして、圭介に言い聞かせるように言った。「圭介。紗月は、絵梨のいちばんの友だちよ。ちゃんと大事にしてあげて。そうすれば、あの子も心残りがひとつ減るから」あのとき圭介は、私の手を強く握りしめ、一生大事にすると誓った。イタリアへ一緒に行って、レインにオーダーしようと言い出したのも、圭介のほうだった。一度目は、空港に着いた途端だった

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status