Masuk◇ 「縫合の必要はなさそうですね。傷口の洗浄も終わりました。化膿する恐れもなさそうなので、帰宅いただいて大丈夫ですよ」 あれから。 病院に搬送された苓さんを、お医者さんが診てくれた。 幸いな事に、手術するような大きな切り傷じゃなくて。 傷口を診て、処置をしてくれたお医者さんがそう言ってくれて私と苓さんはほっと安堵の息を吐き出した。 「良かった、帰宅出来るんですね……!」 「ええ、ですが今夜熱が出る可能性があります。解熱剤と抗生物質を処方しておきますので、熱が出たら必ず飲んでくださいね」 「分かりました」 「あの、先生……!お風呂とかは、入らない方がいいですか?」 私は、先生に質問をする。 すると先生は私に体の向きを変えて、答えてくれた。 「お風呂も入って大丈夫ですよ。ですが、傷口を濡らさないよう、奥様が入浴のお手伝いをしてあげてください」 「──分かりました」 「日常生活を送る分には支障はありません。ただ、工事現場で動く、とか走る、などの体を激しく動かすような行動は暫く避けてくださいね」 「はい、分かりました」 「では、処方箋を出しておきます」 「ありがとうございました」 先生の話を聞き終えた私達は、病室を出るために椅子から立ち上がる。 すると、苓さんが僅かに体を強ばらせ、顔を顰めた。 縫合するほどの傷ではないとは言え、切っているのだ。痛くないはずが無い。 「苓さん、手を……。私に掴まってください」 「俺が体重をかけたら、茉莉花が潰れてしまいます」 「それくらい大丈夫です!しっかり支えますから」 そんな事を話しながら私と苓さんは診察室を出た。 苓さんを待合室の椅子まで支え、座ってもらうと私は思い出す。 そうだった、警察に連絡をしないと……! 「苓さん、私ちょっとだけ離れて電話をしてきますね。警察の方に連絡をしないと……!」 「だけど、1人じゃあ──」 「大丈夫です、──ああ、ほら!護衛の方も少し離れた場所で控えてくれていますから!」 私が視線を向けた先に、苓さんが手配してくれていた護衛の姿を見つける。 救急車で搬送された時、護衛もしっかり後を追ってくれていたのだろう。 護衛の姿を確認した苓さんは安心したのだろう。 渋々ではあるけど、頷いてくれた。 「──分かりました。だけど、俺の目の届く所にいて
「──何だか、やけにあっさりとしていますね」 救急搬送されても、警察の監視があると思っていました、と苓さんが呟く。 私も苓さんと一緒に救急車に同乗していたから、警察と苓さんのやり取りを見ていた。 「確かに、苓さんの言う通りです。事情を聞く時も何だか……気遣い、のような物がありました、ね……?」 「ええ……。襲われた、と女性スタッフが言っているのに……どうして俺の気遣いを……?」 不思議そうに首を傾げる苓さん。 私は、苓さんが女性スタッフを襲うなんて、有り得ないと思っている。 それは、長い時間苓さんの人となりを見ているし、過ごした時間があるから。 だから、苓さんがそんな事をしない人だって事は分かる。 だけど、警察は苓さんの事を知らない。 小鳥遊財閥の事や、企業の事は知っていても、苓さん個人の事は知らないはずなのに。 それなのに、警察から感じたのは苓さんに向けられる気遣いの感情と、何だか──。 憐れむ、ような……? 私達が首を傾げていると、救急隊が「では、発進します」と声をかけてくれた。 苓さんはうつ伏せにベッドに横になり、その隣に救急隊員が座る。 「婚約者さんも、ベルトを締めてくださいね」 「あっ、すみません、分かりました!」 救急隊員に促され、私は急いでベルトをする。 救急車がサイレンを鳴らして走り出す。 車が走り出して、少し。 私の手を、苓さんがそっと握ってきた。 「茉莉花、こんな騒ぎにしてしまってすみません。せっかく明日はプレオープンの日だったのに……」 「苓さんが謝る事じゃないですよ。これは……事故ですから。苓さんの怪我が酷い物じゃなくて良かったです」 「ええ……」 私の言葉に頷いてはくれるけど、苓さんは悔しそうに唇を噛んでいた。 せっかく、晴れのプレオープン前だったのだ。 大事な大事な仕事の成果が、やっと現れる。 その日を楽しみにこれまでずっと一緒にやって来た。 大変な目に遭いながらも、この仕事を成功させたい一心でやってきたのに、大事な所でこんな事が起きてしまって、苓さんの悔しさは計り知れない。 「──くそっ、本当に油断していました……。まさか、あんな風に突進してくるとは思わなかったから……。馨熾さんにも迷惑をかける事になって、申し訳ない気持ちでいっぱいです」 「お父様の事も、私の事も、仕事の事
苓さんの説明を聞いていく内に、私の口は驚きであんぐりと開いてしまう。 し、信じられない……! 仕事先で、しかも協力会社の上司に対してそんな暴挙を……! 「苓さんの話が……」 「ええ、本当です。……とは言っても、証拠が無いですからね……。この辺りに防犯カメラがあればいいんですけど……」 「設置は本オープンに間に合うように手配していたから……」 「そうなんです。だから、プレオープン前の今はまだ設置されていないんですよね……」 ああ、くそ。 珍しく苓さんが憤りを顕にしていて。 本当に防犯カメラは設置されていないだろうか。 本オープン前に設置が完了していたら──。 そう思い、私は周辺を確認する。 このままじゃあ、あの女性スタッフの言い分が通る可能性の方が大きい。 苓さんの背中の怪我の具合にもよるけど……。 怪我の状態が酷ければ、女性スタッフに男性である苓さんが無理やり迫る、なんて事は状況的に無理だ、と判断されればいいけど、そうなると苓さんの怪我がかなり酷い状態じゃないと判断されない。 苓さんの潔白を証明するには、大怪我を願う状態な今のこの状況が悔しい。 プレオープン前の大事な今、どうして女性スタッフはこんな暴挙に出たのか。 私がそんな事を考えていると、苓さんがぽつりと呟いた。 「だけど、あの女性……。何だか様子がおかしかったんです。……切羽詰まっているような、何かに怯えているような……そんな感じがしました」 「……様子が?」 「──ええ、そうです」 こくり、と強くはっきりと頷く苓さん。 苓さんが違和感を覚えた、と言うならきっとその通りなのだろう──。 苓さんの話を聞いていた私の視界の隅に、ふととある物が入り込んだ。 「──あれは!」 私が大きな声を出した事に、苓さんがびっくりしたように目を見開く。 どうしたんですか?と言葉を発する苓さんに、私はぱっと顔を向けた。 「苓さんの潔白が証明出来るかも……!あそこに、防犯カメラが……!」 「──えっ!?」 本オープン前だから、と半ば諦めていたけれど。 まさか、カメラが設置されているなんて。 願わくば、あのカメラがしっかりと作動している事を祈るのみだ。 私と苓さんが喜んでいると、遠くから救急車のサイレンの音と、パトカーのサイレンの音がこの場所に近付いて来る音が聞こえた
「つ、通報!?そ、そんな事をしたら……っ、それに、小鳥遊部長は藤堂本部長の──」 ちらり、と足柄店長に視線を向けられる。 私はこくり、と頷いてから答えた。 「それとこれとは別です、足柄店長。もし本当に小鳥遊部長が女性スタッフに対してそのような事をしていたら、我が社はそれ相応の対処をいたします」 私のキッパリとした意見に、足柄店長は目を見開き、それから「分かりました」と頭を下げる。 女性スタッフをちらりと見ると、当人の女性スタッフは顔を真っ青にして小さく震えているのが見える。 その態度だけで、女性スタッフが嘘をついているのが分かった。 だけど、それならどうして苓さんがここに姿を現さないのか──。 それが、とても不安だ。 「小鳥遊部長の所に行きましょう、足柄店長」 「わ、分かりました!」 「その女性スタッフは他の女性スタッフが見ていてあげて。警察が来たら教えてください」 私の言葉に、他のスタッフ達は戸惑いつつも「はい!」と頷いてくれる。 それを確認した私は、足柄店長と一緒に庭園に急いだ。 足元に気をつけながら、苓さんが居るであろう場所に向かって小走りで向かう。 「藤堂本部長、東屋はこちらで──」 足柄店長がその方向を腕で示してくれた瞬間、私は視線の先に横たわる人影を見つけて叫んだ。 「小鳥遊部長!?」 「──えっ、あっ!」 「大丈夫ですか!?」 まさか、苓さんが地面に倒れているとは思わなかった。 苓さんの事だから、下手にその場を動かないようにしていたのだろう、と思ったけど、そうじゃなかった。 動きたくても動けなかったのだ。 「れ、苓さん……っ!」 「──茉莉花?」 私の声と、足音に気がついたのだろう。 苓さんは真上に向けていた顔を私たちがやって来る方向に向けてくれた。 眉を下げ、申し訳なさそうにしている苓さんのすぐ傍に膝を着くと、苓さんが申し訳なさそうに話した。 「すみません……ちょっとへまを……。背中を石の端っこでざっくり切っているみたいです。……救急車を呼んでもらっても……?」 「──わ、分かりました……っ!すぐに呼びます!」 足柄店長が真っ青な顔でスマホを取り出し、すぐに電話をかけてくれる。 その姿を横目に、私は苓さんに問いかけた。 「苓さん、大丈夫ですか?痛みは……?頭は打っていないですか?」
「きゃあああ!助けてぇぇぇぇ!」 女性スタッフは大声を出すと、俺の方をちらりと見てから庭園から店に通じる入口に走って行った。 「──っ、」 久しぶりにやられた、と俺は自分の行動の甘さに舌打ちをした。 こんな古典的な手にやられ、罠に嵌るなんて。 あの女性スタッフはきっと俺に襲われた、と騒ぐだろう。 そして、足柄店長や茉莉花、他のスタッフを連れてここにやってくるはず。 だけど──。 「……動けそうも、ないな……」 俺は首を上げて自分の背中を見る。 じくじくとした痛みに、背中が濡れた感触がする。 多分──石畳で背中を切っている。 「下手に動かない方が良さそうだ」 俺は、彼女に突撃されて石畳に背中を強かに打ち付けた。 その時の痛みが今も尚、引かないのだ。 そして多分背中も切っていて、出血もしている。 「……頭を打たなかったのが幸いだな」 俺がまた頭を打ったら。 意識を失った俺を見たら、また茉莉花が傷付く。 記憶を失った俺に冷たくされた事を思い出して、胸を痛めるはずだ。 もう、そんな思いを茉莉花にして欲しくない。 「……それにしても、あの女性スタッフの態度……おかしかった。……必死過ぎる」 切羽詰まったようにも見えた。 何か、追い詰められているような──、そんな必死さを感じた。 「とりあえず、俺がこんな状態だと警察が呼ばれるはず……」 そうじゃなくても、女性スタッフに対する暴行未遂で通報をする流れになるだろう。 だけど、俺がこんな状況だ。 すぐに逮捕されると言う事は無い。 俺が痛みに耐えつつそんな事を考えていると、バタバタとこちらに向かってくる複数の足音が聞こえて来た──。 ◇ 「たっ、助けてぇ……っ!助けてくださいっ!」 バタバタ!と慌ただしく店内に駆け込んで来た女性スタッフの剣幕に、私や足柄店長、それに他のスタッフは呆気に取られる。 だが、その女性スタッフの姿を見て私は咄嗟に近場にあった上着を女性に被せた。 「何があったの?どうして、そんな格好に……」 彼女は確か、苓さんを案内していたはず──。 私がそう考えていると、女性スタッフはちらりと私を見てから気まずそうに視線を逸らした。 「……その、実は、小鳥遊部長に無理強いをされそうに……」 「な、何だって……!?」 足柄店長がぎょっとして悲鳴のよ
「──あっ、あのっ、小鳥遊さん……っ!」 「……何か?」 また、この目だ。 媚びるような女性の目に、俺は嫌悪感を抱く。 ぞわぞわと腹を這い上がってくるような不快感。 俺の目の前にいる女性スタッフからの視線や態度は、今まで何度も経験してきた「財閥の息子」に対するへつらいや色仕掛けと一致する。 俺を濡れた目で見つめ、触れようと手を伸ばしてくる女性スタッフから、一歩後ずさり距離を取る。 オープンしている時ならまだしも、オープン前の今、この場所には恐らく俺と女性スタッフしかいない。 こんな場所で、万が一女性が騒ぎ出したら──。 圧倒的に不利なのは、男である俺だ。 「──店に戻ります」 「あっ、ま、待ってください……っ!」 俺は踵を返し、急いで店の方向へ歩き出す。 駆け出そうとした時、女性スタッフが俺の背中に突進してきた。 どん!と強い衝撃に、バランスを崩してしまう。 「──ぐっ」 「お、お願いしますっ!私を助けると思って……っ、少しだけ、少しだけ触ってくれればいいんですっ!それで、この場面をあの女に見せて……っ傷つけなきゃっ、そうしなくちゃっ」 「は!?何を──」 女性スタッフは突然叫び出すと、女性とは信じられない程の力でそのまま地面に俺を押し倒した。 「ぅぐ……っ!?」 硬い石畳に背中を強かに打ち付け、呼吸が詰まる。 痛みに頭が真っ白になっている間に、女性スタッフは俺の上に乗り上げてきて、ごそごそと何やら動いているようだった。 「こ、これならっ、す、すみません小鳥遊さんっ!だ、だけどあなたが私を1回も見てくれず、あの女ばっかり見るから!」 「──っ、」 「た、小鳥遊さんに一目惚れしたの!あなたみたいな人と付き合えたら……!あなたみたいに素敵な人に1回だけでも……っ!」 女性スタッフの震える手が、俺が着ていたワイシャツのボタンにかかる。 茉莉花以外の女に触られている。 それがどうしようもなく気持ち悪くて気持ち悪くて、吐き気が込み上げてくる。 「──ぅっ、」 「えっ、え?きゃっ」 俺が気持ち悪さに顔を顰めると、女性スタッフは察したのだろう。 急いで俺の上から立ち上がった。 そして、一拍遅れて顔を真っ赤に染めた。 「な、なんっ、失礼な人……っ!私に触られるのが気持ち悪いって言うの!?」 「──ごほっ、げほっ
スマホの向こうから、苓さんの低くて艶のある声が耳に届いた。 「こんばんは、苓さん」 軽くカーディガンを羽織り、窓際まで歩いて行く。 窓からは雲がかかり、朧月が幻想的で、ついつい私は窓に手を添えた。 もしかしたら、苓さんも今空を見ているかもしれない──。 同じように、こんな風景を見ていたら、と考える。 私がそんな事を考えていると、苓さんがふと言葉を発した。
ミーティングに参加してくれていたチームの皆が資料を食い入るように見てくれていたけど、その中でも志木チーム長と、矢田主任は熟読しているようで、私の説明が終わった後も、書類にじっと視線を落としていた。 「矢田主任に、代替案のメリット、デメリットの取りまとめをお願いしてもいい?皆の意見を纏めて欲しいの。市場調査データの修正と、施策の強化については、また皆で意見を出し合い、纏めましょう?」 私がそう言葉に出すと、資料に落としていた視線を上げた矢田主任とぱちり、と目が合う。 何だか、矢田主任の目がとても輝いているように見えた。 「かしこまりました、本部長!今日中に纏め、明日には提出い
御影ホールディングス。 以前、兄の会社に協力依頼があった。 俺の兄──一番上の、長男が代表取締役の小鳥遊建設で、部長として働いている俺は、以前も御影ホールディングスに見積もりのために訪れていた。 御影ホールディングスの求める額ではうちの小鳥遊建設は、到底仕事を請け負う事が出来ない。 だから仕事を断ったのだが、再度見積もり提出を頼まれ、見積もりを修正して再び来社した。 御影ホールディングスは、大きな企業で、御影家は昔から続く古い家
◇ 温かくて、柔らかくて、ふわふわする──。 微睡みの中で、俺は目の前の柔らかな物に擦り寄った。 いつまでも触っていたくなるような、そんな感触。 何かが邪魔をしていて、俺は無意識のうちに手を動かした。 手のひらに吸い付くようなしっとりとした手触りが気持ちよくて、力を込めてしまう。 瞬間。 「──んぅ」 「……っ!?」 頭上







