Mag-log in「離婚の話を、今からパパとするところだよ。ママはまだ、何も決めていない」
ひよりの顔を見て答えた。啓介は床の書類を拾い、自分の署名を伏せるように封筒へ戻した。
「会社の相談だ。ひよりには関係ない」
「関係なくないでしょう。私たちの話なんだから」
「じゃあ、パパはここにいる?」
ひよりが尋ねると、啓介は封筒を自分の側へ寄せた。
「パパの会社が、大きな会社と一緒になるかもしれないんだ。そのために、ママと話し合うことがある」
「会社が一緒になったら、パパは家からいなくなるの?」
「それはママと話してからだ」
「いつまで?」
啓介は答えなかった。ひよりが私を見た。私は一度言葉に詰まってから、娘のそばにしゃがんだ。
「今は、いつまでとは言えない。分からないまま約束はできないけど、決まったことは、ちゃんとひよりに話すよ」
ひよりはうなずかなかった。胸に抱えたカードには、折り目がついていた。
牛乳を温めていた鍋の火を止めた。夕飯の間も、ひよりはカードを脇に置いたままだった。啓介は娘と目が合うたび、早く食べなさい、と言った。
ひよりが自分の部屋に入ると、啓介は封筒をテーブルへ投げた。
「なんで家へ持ち帰った。ひよりに見られたじゃないか」
「私に何も言わずに署名して、知らない人に離婚を言わせようとしたのはあなたでしょう。あのメールも見せてもらったわ」
「高井さんから説明を受けたんだろ。話は分かったはずだ」
「説明を聞けば、私が離婚するとでも思った?」
「断ってどうする。5億だぞ。学費も家も心配しなくていい。お前もひよりも、それで十分だろ」
「ひよりが聞いたのは、あなたが家にいるかどうかよ」
啓介はネクタイを緩め、冷蔵庫から炭酸水を出した。
「そこはお前から説明してくれ。俺は会社のことで手いっぱいなんだ」
「自分が出ていく話なのに、娘への説明まで私にさせるの?」
「家は残すと言ってるだろ」
「家が欲しいんじゃない。あなたにいてほしいの。さっきの話、聞いてなかった?」
啓介は立ったまま炭酸水を飲んだ。娘にはあれだけ質問されても答えなかったくせに、会社のことはすぐに口にした。
「ここで売らなければ資金がもたないんだ。今さら揉めないでくれ」
「資金がないなんて初めて聞いた。会社のことは、私には話さなくなったでしょう」
「話したって分からないだろ」
創業した頃は、ひよりを寝かせてから毎晩話していた。私は家事をひとつずつ付箋に書き、家族で分担できる画面を考えた。「わが家帳」という名前も、私のノートに最初に書いた。
啓介は隣からのぞき込み、次のページも見せてくれと言っていた。
「何も分からない妻が作ったものを、ずっと使ってきたのね」
「またそれか。素人のメモを会社にしたのは俺だ。資金も人も集めて、営業した。台所で書いた紙に、最初から値段がついてたと思うなよ」
「あなたが会社を大きくしたことは否定してない。私が作った画面も文章も、なかったことにしないでと言ってるの」
「育児の合間の思いつきと、会社の成果を同じにするな」
自分の時間を削ってでも、啓介と一緒に形にしたかった。あの頃の仕事を、今の夫は思いつきと呼んだ。
「私の名前も消したでしょう。契約するって、何度も約束したのに」
「5億も受け取るのに、まだ足りないのか」
「今、増やしてほしいなんて言った? 私が何をしたか、何を嫌だと言っているか、聞いてよ」
啓介はボトルのキャップを閉めただけだった。
私は封筒を自分の手元に戻した。
「私と別れて、あなたはどうするつもりなの」
「高井さんとなら先のことを考えられる。あの人と結婚するつもりだ」
少し前まで、来年は3人で旅行すると言っていた。その夫が、今は別の女との先の話をしていた。
「高井さんは、お前と違って俺を分かってる。俺の会社をどれだけ評価してると思うんだ」
「私には離婚するとも言わないで、そこまで決めていたの?」
「だから今、話してるだろ」
「私があの書類を出さなかったら、いつ話すつもりだったの」
「もう条件は出してる。あとはお前が決めろ」
啓介は書斎へ入っていった。
子ども部屋からは物音がしなかった。私たちの声は聞こえていただろうか。私は扉をノックした。
「ひより。大きな声を出してごめんね」
「離婚しない?」
「今夜は決めないよ。ひよりが話したいことは、ママ、聞くから」
「もう寝る」
扉の下の明かりが消えた。私はしばらく、その前を離れられなかった。
……
翌朝、啓介は先に家を出た。
ひよりは牛乳を飲みながら、授業参観のことを確かめた。
「パパ、来るって。ママも来る?」
「行くよ」
「3人で帰れる?」
「パパに、仕事の予定を聞こう」
「いっつも仕事」
玄関でランドセルの肩紐を直そうとすると、ひよりは体を引いた。
「やっぱり、来なくていい」
閉まったドアを見ていた。私は、3人で帰ろうとさえ約束してやれなかった。
私は城戸律子(きど りつこ)という弁護士に相談を申し込んだ。ホテルで渡された書類を、自分ひとりで判断してはいけないと思った。
食卓を片づけていると、啓介が充電したまま置いていったタブレットに通知が出た。高井生活デザイン以外の会社は、資金支援を見送ったという連絡だった。
私は手を拭いて画面を開いた。ロックはかかっていなかった。通知の送り主は、買収の仲介担当者だった。
やり取りを少しさかのぼると、啓介が昨夜送った文面が見えた。
【妻には1億円でも十分です。5億円を出すなら、親権も写真利用も一括で処理してください】
担当者からの返事も残っていた。
【高井社長は、肖像利用と離婚を同一条件にできないと回答しています】
前のやり取りには、3週間前の啓介の言葉があった。
【では、離婚だけ先に。娘は母親に任せます。買収発表の家族写真は、離婚前に撮れば問題ありません】
ひよりには関係ない、と昨夜の啓介は言った。関係ないどころか、娘を誰に任せるかも、いつ写真を使うかも、私の知らないところで決めていた。
私は画面を撮って律子へ送り、タブレットを戻した。
昔の仕事の記録も見ておこうと、書斎の棚を開けた。生活設計ノートを入れた灰色の箱がない。箱を置いていた四角い場所だけ、埃が積もっていなかった。
昼前、学校から迎えを頼む連絡が来た。ひよりが腹痛を訴えているという。
保健室のベッドで、娘は膝を抱えていた。熱はなかった。養護教諭がカーテンの外へ出ると、壁を向いたまま言った。
「家族カード、出せなかった」
私はベッドの横の椅子に座った。
「先生には、ママから話そうか」
「離婚するかもしれないって?」
ひよりがこちらを向いた。
「ママは、お金がほしいの?」
「違うよ」
「じゃあ、5億円いらないって言って。旅行も行かなくていい。おうちでごはん食べればいいよ。パパも一緒に」
私はすぐには答えられなかった。娘はもう旅行さえ諦めて、父親が家にいるだけでいいと言っている。
「ママ、言ってよ」
「お金はいらないって言っても、パパが戻る約束はできないんだ。ママがお金を欲しがったから、パパが出ていく話になったんじゃないの」
ひよりの顔が曇った。それでも、戻ってくるよと嘘をつくわけにはいかなかった。
「ママも3人でいたかった。旅行も、一緒に行きたかったよ。今も悲しい。でも、ひよりが何かを我慢したら元に戻せる、という話じゃないんだ」
「私が、行きたいところいっぱい言ったから?」
「違う。ひよりのせいじゃない。旅行を楽しみにしたことも、パパにいてほしいと思うことも、何も悪くないよ」
ひよりは目を伏せ、連絡袋から家族カードを出した。
赤い屋根の下で、私の顔だけが消されていた。何度もこすったのか、紙が白く毛羽立っていた。
「でも、パパがいい」
娘はカードを胸へ引き寄せた。
「離婚するなら、私、パパのところに行く」
娘を置いていくと決めたのは啓介なのに、消されたのは私だった。
悲しかった。今すぐ抱きしめて、ママのところにいてと言いたかった。
けれど私は、ひよりが握りしめているカードを取り上げなかった。
4月の朝、ひよりは椀に残ったわかめを箸で集めていた。小学4年生になって、1週間がたっていた。「そろそろ出ないと、遅れるよ」「あとひと口」「わかめは逃げないから」「学校は逃げる」そんなことを言いながら、ひよりは最後まで味噌汁を飲んだ。椀を流しへ運び、ランドセルを背負った。「今日、家族カード返ってくる」3年生の授業で作ったものではなかった。新しい担任が、【わたしが帰りたい場所】という題で書かせたカードだった。「見せてくれる?」「考えとく」私はうなずき、玄関まで一緒に行った。「いってらっしゃい」「いってきます」エレベーターの扉が閉まるまで見送り、それから食卓を片づけた。書斎の窓際には、私の作業机があった。灰色の保存箱は、鍵のかかる棚に収めていた。7冊のノートはスキャンしても、原本を会社に預けてはいなかった。机の上には、介護する家族へ聞き取りをしたシートが広がっていた。誰が何を担当するか。それだけでなく、すぐには返事ができない日も書き込める冊子を作っていた。私は答えを読み返しながら、図解の横に入れる文章を整えた。まだ書き終わっていない箇所に印をつけ、続いて見積書を開いた。原稿と図解、修正の回数、使える範囲。依頼されている仕事と食い違いがないか、順に確かめた。最後に、自分の名前を入れた。高井生活デザインとの打合せへ出かける前に、紙をまとめた。机の外に
10月15日、律子から入金の連絡が来た。買収が成立し、高井側から、律子の事務所が管理する私のための口座へ5億円が直接送られていた。啓介へ渡す代金から、離婚の合意どおりに支払われたのだった。私は送られてきた明細を開いた。「これで、5億円の支払いは完了です」「ありがとうございます」電話を切ってからも、しばらく画面を見ていた。数字の桁を数え直した。これだけのお金が入ったことを、すぐには自分の暮らしと結びつけられなかった。夕飯の時間になると、ひよりはいつもの椅子に座った。「ママ、食べないの?」「食べるよ」私はスマートフォンを伏せ、向かいに座った。ひよりは手を合わせ、椀を持ち上げた。啓介がいた頃と同じ木のテーブルだった。娘はいつもどおり夕飯を食べていた。今日、入金があったと教えても、科学館のあの日が別の日になるわけではなかった。桁の多い数字を気にしていたのは、私だけだった。自宅の名義の手続きも済ませた。空いた書斎には、私の作業机を置いた。ひよりが学校から帰ってくると、どこまで終わったの、と入口からのぞくようになった。科学館でのことがあって、親子交流はいったん2か月休むことにした。冬になっても、ひよりの気持ちは揺れていた。学校から持ち帰ったプリントを見ながら、パパにも見せたかったと言う日があった。「また、会いたい?」私が聞くと、ひよりは紙を見たまま、うなずいた。「でも、またお仕事って言うかもしれない」
10月8日、律子の事務所で、私は条件変更案を読んだ。啓介への支払いから、条件付きだった2億円が外されていた。買収後の役員候補にも、啓介の名前は残らなかった。「監査に正しい情報を出さなかったことが、理由です」律子は、次のページを私に向けた。「成立すれば、啓介さんが受け取るのは8億円。そこから真帆さんへの5億円と、写真の削除や訂正などにかかる費用が引かれます」「私への支払いを減らすという話には、なっていませんね」「なっていません。合意した支払いは残っています」私はその欄をもう一度読んだ。その日の午後、啓介が変更条件を受け入れ、署名したと律子へ連絡が入った。ミナモリンクは、会社の名前で訂正を出した。私とひよりの写真や名前を同意なく使ったことを認め、削除して謝罪する。初期の制作物から私の名前を外し、使う範囲をきちんと決めなかったことも正すとあった。私は画面を下へ送った。元妻が会社へ過大な要求をしたという以前の発表は、事実ではなかった。先に離婚条件を提示したのは啓介で、その後、夫婦の間で離婚に合意した。その部分まで確かめてから、律子へ返事をした。ひよりが父親を求めて泣いたことも、私に話した言葉も、そこには載せなかった。学校の先生が訂正のリンクを共有し、記事を回していた保護者から、私に謝罪が届いた。家でそのことを伝えると、ひよりは黙って聞いていた。「5億円の子って言った人、明日忘れるかな」「すぐ
「娘に、もう会社の宣伝をさせないでください」10月5日、月曜日。高井生活デザインの審査室で、私は向かいに座る啓介へ言った。土曜の科学館で、啓介は嫌がるひよりに台詞カードを持たせ、会社向けの撮影をしていた。父親と遊びに行った日にまで、会社の都合を押しつけられた。その繰り返しを止めるために、私はここへ来た。隣には律子がいた。加奈と法務責任者、外部会計士、ミナモリンクの株主代表も席に着き、沙耶は手元の端末を開いていた。啓介は私を見ずに、加奈へ話しかけた。「元妻が、金額を増やすために騒いでいるんです。娘のことまで持ち出して」「ひよりを撮影に連れていったのは、あなたでしょう。私が断ったあとも、娘の顔を使っていた。なぜ止めなかったの?」「だから、それは広報の確認ミスだ」私は写真の同意書を机に置いた。隣に、ひよりの学童申込書の写しを並べた。「この署名は、学童の申込みに書いたものよ。広告に使っていいと署名したことはない」法務責任者が、会社で保全した保存履歴を画面に出した。同意書は広報担当のアカウントで作られ、学校へ出す書類から署名を転用したと記録されていた。啓介はようやく画面を見た。「俺は、署名を写せとは言ってない。急げと言っただけです」科学館に来ていた広報担当が、席を立った。「使える署名があるか社長に確認しました。家庭内の同意だから、以前のものでいいというお返事でした。やり取りも提出しています」「言い方の問題だろう。家族なんだから、いちいち書類を作り直さなくても――」「私が嫌だと言っ
10月3日、土曜日。湾岸科学館の入口で、ひよりは啓介を見つけると走り出した。「パパ!」啓介はベンチから立ち上がり、娘を抱き止めた。「新しい靴、似合ってるな。今日は宇宙の映像を見よう。昼はオムライスにするか」「ケチャップかけるやつ?」「そう。好きだったろ」ひよりが笑った。家ではなかなか見せなくなっていた顔だった。入口の売店で、啓介は星座のしおりを選んだ。娘の誕生月を探す手元を、ひよりがのぞき込んだ。見つけてもらうと、私に高く振ってみせた。「ママ、これ!」「よかったね。楽しんでおいで」以前の日曜と、同じように答えた。啓介に私からも撮影はしないよう念を押し、展示室へ入るふたりを見送った。私は館内のカフェへ移り、律子に到着したと連絡した。帰ってきたひよりが何を話してくれるか、楽しみにしている自分がいた。昼が近くなった頃、娘からメッセージが来た。【ママ、きて】続けて、もう1通。【2かいの休けい室。カメラある】私は席を立ち、案内板を見ながら2階へ上がった。ガラス扉の向こうで、小型カメラのレンズがひよりに向けられていた。娘は白いカードを持ち、その横に啓介が立っていた。「もう1回。今度は最後まで笑って」「やだ。ママに聞いて」「社員の家族へ見せるだけだよ。パパといる時間だろ。何でもママに決めてもらうのか」
月曜の朝、ひよりは玄関で上履き袋を落とした。拾おうとしゃがんだまま、動かなかった。「これ、クラスの子が送ってきた。その子のお母さんのスマホに来たって」差し出された画面に、私の顔があった。【5億円で夫を売った妻――家族アプリ創業者、買収の裏で離婚】前夜、ミナモリンクが出した説明文には、元配偶者から過大な要求があり、買収手続に影響している、とあった。記事はそこに、5億円とホテルでの面談を結びつけていた。啓介の顔が浮かんだ。けれど、誰が記者へ話したのかを示す証拠はなかった。保護者の連絡にも記事が添えられ、【子どもの前では触れないように】と書かれていた。その言葉と一緒に、ひよりのところまで来てしまった。仕事先からも、翌月に作る生活冊子を保留したいとメールが届いた。自治体向けの仕事なので、状況が落ち着いてから改めて相談したいという。私は承知しましたと返し、準備していた案を閉じた。私が書いた物を夫の物にされたうえに、自分で請けた仕事まで止まるのか。悔しかった。「ひより、今日は休もうか」「休んだら、ほんとだと思われる」「記事のようなことはしてないよ」「5億円は本当でしょ」「支払う約束は本当。でも、ママが会社にお金を出させようとしたんじゃない。離婚の条件を先に持ってきたのは、パパなの」ひよりは上履き袋を拾った。エレベーターへ向かい、振り返らずに言った。「迎え、来なくていい。見られるから」私は律子へ連絡し、記事と会社の説明文を送った。啓介のタブ