Mag-log in土曜の教室で、私は後ろの壁に貼られた家族カードを見つけた。
ひよりの絵には、私の顔が戻っていた。
消しゴムで毛羽立ったところに描き直したせいで、髪の色がむらになっていた。細くなった腕は、それでも真ん中のひよりとつながっていた。好きなところの欄には、【話を最後まで聞く】とあった。
保健室から帰って以来、ひよりは私と一緒に眠らなくなった。話しかければ返事はした。でも、靴を履く時に私の手をつかむことも、帰宅するとランドセルを預けることもなくなった。
その娘が、私をもう一度、赤い屋根の下に描いてくれた。
授業が始まっても、啓介は来なかった。私は隣を空けて立っていた。
「次は、水城さん」
ひよりが教壇に出た。
「私の家族は、3人です」
廊下から足音がした。紺色のスーツを着た啓介が入り、ほかの保護者に頭を下げた。ひよりの顔が、ぱっと明るくなった。
「パパは、家族が便利になる会社を作りました。忙しいけど、今日は来てくれました」
啓介はスマートフォンを構えた。先生に撮影を注意されると、すぐに下ろした。
「ママは、話を最後まで聞いてくれます」
ひよりは私を見なかった。私は拍手をしながら、あの絵を大切に持ち帰りたいと思った。パパのところに行くと言われたことも、消された顔を見た時の悲しさも忘れてはいなかった。それでも、描き直してくれたのがうれしかった。
休み時間、啓介は先生に名刺を渡していた。
「家族の会話を増やすのが、うちの理念なんです」
ひよりは父親の隣で、話し終わるのを待っていた。私もそのそばに立った。こうして並んでいれば、普通の家族に見えるのだろう。
帰りの階段で、ひよりが啓介の手を取った。
「3人で帰れる?」
「約束したからな。お昼、好きなものを食べよう」
娘は私にも手を伸ばした。
「うどんがいい。パパも同じお店ね」
「一緒に行こう」
私が握ると、ひよりはつないだ両手を少し持ち上げた。
校門の外に、ミナモリンクの広報担当がいた。
「社長、このあとの撮影ですが」
「場所を変えた。家族の昼食から撮ろう」
啓介は私たちに尋ねもしなかった。
「何の撮影?」
「買収発表用だ。会社が変わっても、家族を大事にする理念は変わらないと伝える」
広報担当の持つ紙には、【出演・肖像利用同意書】とあった。
「私は同意しません。ひよりも撮らせません」
「今の雰囲気を撮るだけだろ」
啓介は娘の肩に手を置いた。
「ママは急に予定が変わるのが苦手なんだ」
「予定の話じゃないでしょう。今日はひよりの授業参観よ。3人でごはんを食べると約束したんじゃなかったの?」
「今までだって写真は使ってきた。創業者の家族が出るのは普通だ」
ひよりが私の指を握り直した。
「ごはん食べるだけじゃないの?」
「食べているところを撮るだけだよ」
「やだ。今日は3人がいい」
娘は肩をすくめ、啓介の手を外した。私は広報担当にもう一度、撮影には応じないと伝えた。
結局、3人だけで近所のうどん店に入った。ひよりは壁側の席に座り、私と啓介を向かいに並ばせた。
ようやく娘の望んだ昼食になったと思ったのに、啓介は食べながら2度も電話に出た。
「ええ、家庭の調整は予定どおりです」
電話を切ると、ひよりが箸を置いた。
「パパ、高井さんと結婚するの?」
「誰がそんなことを言った」
「パパがおうちで言ってたよ」
啓介は私をにらんだ。
「子どもの聞こえるところで、余計な話をするな」
「言ったのはあなたよ。ひよりは聞いていたの。私を責める前に、この子に答えて」
「お前がしつこく聞くからだろ。あの人となら、会社を大きくしたあとのことを話せる。お前はいつも家の話ばかりだ」
「ここにいるひよりの話をしているのよ」
啓介はようやく娘へ向き直った。
「ひよりは今の家に住める。学校も変わらないよ」
「パパは住まないの?」
「仕事が落ち着いたら考える」
ひよりは揚げ玉をつゆの底へ沈めた。うどんは、半分以上残っていた。
店を出て、運河沿いを歩いた。娘が何度も尋ねるので、私は、名字はまだ決めていないこと、家と学校は変えないつもりだということを話した。
「パパは、朝ごはんの時もいない?」
半歩先を歩く啓介が振り向いた。
「いつでも会えるよ」
「朝、起きてから来るの?」
「毎日は無理だ。仕事があるからな」
ひよりは私を見上げた。
「ママ、離婚しないで」
「ママを困らせるな」
啓介が言うと、ひよりは今度は父親を見た。
「パパも、やめてよ」
啓介は時計を見た。私は夫を呼び止めた。
「待って。ひよりの話を聞いて」
「帰ってからにしよう」
ひよりは私の手も離した。
「友達に聞かれたら、まだ3人って言っていい?」
「言いたくないことは、説明しなくていいよ」
「そうじゃなくて。3人って言いたいの」
「うん。パパとママと、3人でいたいんだよね」
娘はうなずき、先にマンションへ入っていった。授業ではあんなに明るい顔で言えたことを、ひよりはもう、私に確かめなければ言えなかった。
帰宅すると、啓介は私の前へ同意書とペンを置いた。
「今日撮れなかったから、2年前の表彰式の写真を使う。これだけ署名してくれ」
買収発表、広告、採用広報、投資家向け資料。写真の利用先が並び、終了日は空欄だった。
「その写真も使わないで。私もひよりも、広告には出ない」
「もう資料はできてる。差し替えれば金がかかるんだぞ」
「ひよりは嫌だと言ったでしょう。古い写真なら使っていいとは言ってない」
リビングの奥で、娘の鉛筆の音が止まった。
啓介は同意書を引き寄せた。
「今は感情的になってる。時間を置こう」
私は返事の代わりに、署名していない同意書を撮っておいた。
その夜、在宅の仕事を納品してから、ミナモリンクの共有フォルダを開いた。創業時に画面原稿を渡すため、啓介に招待され、今も閲覧できる場所だった。
【家族肖像同意_水城家_確定.p*f】
開くと、昼間の同意書に私の署名が入っていた。
水城真帆。確かに私の字だった。でも、あの書類に名前を書いたことはない。
ひよりの学童申込書の控えを出して見比べた。最後の一画のかすれまで同じだった。
申込書を書いた夜、ひよりは39度の熱を出していた。啓介は会食で帰らず、私は娘の冷却シートを替えながら、締切間際の用紙に名前を書いた。
娘のために書いた字が、娘を広告に出す許可に使われていた。
私は画面を撮り、8年前のメールも探した。
【作成者名は残してください。会社へ渡す範囲は、正式に決めたいです】
私が啓介と、創業期から協力していたデザイナーの新田沙耶(にった さや)へ送ったメールだった。沙耶はノートから画面を起こすたび、私の名前を小さく入れてくれた。
啓介の返事も残っていた。
【分かった。会社が形になったら契約しよう】
署名の画像とメールを律子へ送り、私は写真の利用を断った、と書き添えた。
子ども部屋の扉が開いた。
「ママ、何してるの」
「ママがいいって言ってないのに、写真を使っていいことにされてたの。取り消してもらうために連絡してる」
「直る?」
「直してもらうよ。使わないでって、もう一度はっきり伝える」
律子から、資料を受け取り、会社へ不同意と掲載停止を通知すると返信が届いた。
ひよりは画面を見ずに尋ねた。
「家族も直る?」
私は仕事の椅子を娘のほうへ向けた。
「前と同じに戻れるとは、まだ言えない。でも、ひよりが嫌だと言ったことを、ママまで聞かなかったことにはしないよ」
ひよりは黙っていた。今この子が欲しいのは、写真を守る約束ではない。それは分かっていた。
「ここに座る?」
私は隣の椅子を引き、ひよりがそばに来るのを待った。
4月の朝、ひよりは椀に残ったわかめを箸で集めていた。小学4年生になって、1週間がたっていた。「そろそろ出ないと、遅れるよ」「あとひと口」「わかめは逃げないから」「学校は逃げる」そんなことを言いながら、ひよりは最後まで味噌汁を飲んだ。椀を流しへ運び、ランドセルを背負った。「今日、家族カード返ってくる」3年生の授業で作ったものではなかった。新しい担任が、【わたしが帰りたい場所】という題で書かせたカードだった。「見せてくれる?」「考えとく」私はうなずき、玄関まで一緒に行った。「いってらっしゃい」「いってきます」エレベーターの扉が閉まるまで見送り、それから食卓を片づけた。書斎の窓際には、私の作業机があった。灰色の保存箱は、鍵のかかる棚に収めていた。7冊のノートはスキャンしても、原本を会社に預けてはいなかった。机の上には、介護する家族へ聞き取りをしたシートが広がっていた。誰が何を担当するか。それだけでなく、すぐには返事ができない日も書き込める冊子を作っていた。私は答えを読み返しながら、図解の横に入れる文章を整えた。まだ書き終わっていない箇所に印をつけ、続いて見積書を開いた。原稿と図解、修正の回数、使える範囲。依頼されている仕事と食い違いがないか、順に確かめた。最後に、自分の名前を入れた。高井生活デザインとの打合せへ出かける前に、紙をまとめた。机の外に
10月15日、律子から入金の連絡が来た。買収が成立し、高井側から、律子の事務所が管理する私のための口座へ5億円が直接送られていた。啓介へ渡す代金から、離婚の合意どおりに支払われたのだった。私は送られてきた明細を開いた。「これで、5億円の支払いは完了です」「ありがとうございます」電話を切ってからも、しばらく画面を見ていた。数字の桁を数え直した。これだけのお金が入ったことを、すぐには自分の暮らしと結びつけられなかった。夕飯の時間になると、ひよりはいつもの椅子に座った。「ママ、食べないの?」「食べるよ」私はスマートフォンを伏せ、向かいに座った。ひよりは手を合わせ、椀を持ち上げた。啓介がいた頃と同じ木のテーブルだった。娘はいつもどおり夕飯を食べていた。今日、入金があったと教えても、科学館のあの日が別の日になるわけではなかった。桁の多い数字を気にしていたのは、私だけだった。自宅の名義の手続きも済ませた。空いた書斎には、私の作業机を置いた。ひよりが学校から帰ってくると、どこまで終わったの、と入口からのぞくようになった。科学館でのことがあって、親子交流はいったん2か月休むことにした。冬になっても、ひよりの気持ちは揺れていた。学校から持ち帰ったプリントを見ながら、パパにも見せたかったと言う日があった。「また、会いたい?」私が聞くと、ひよりは紙を見たまま、うなずいた。「でも、またお仕事って言うかもしれない」
10月8日、律子の事務所で、私は条件変更案を読んだ。啓介への支払いから、条件付きだった2億円が外されていた。買収後の役員候補にも、啓介の名前は残らなかった。「監査に正しい情報を出さなかったことが、理由です」律子は、次のページを私に向けた。「成立すれば、啓介さんが受け取るのは8億円。そこから真帆さんへの5億円と、写真の削除や訂正などにかかる費用が引かれます」「私への支払いを減らすという話には、なっていませんね」「なっていません。合意した支払いは残っています」私はその欄をもう一度読んだ。その日の午後、啓介が変更条件を受け入れ、署名したと律子へ連絡が入った。ミナモリンクは、会社の名前で訂正を出した。私とひよりの写真や名前を同意なく使ったことを認め、削除して謝罪する。初期の制作物から私の名前を外し、使う範囲をきちんと決めなかったことも正すとあった。私は画面を下へ送った。元妻が会社へ過大な要求をしたという以前の発表は、事実ではなかった。先に離婚条件を提示したのは啓介で、その後、夫婦の間で離婚に合意した。その部分まで確かめてから、律子へ返事をした。ひよりが父親を求めて泣いたことも、私に話した言葉も、そこには載せなかった。学校の先生が訂正のリンクを共有し、記事を回していた保護者から、私に謝罪が届いた。家でそのことを伝えると、ひよりは黙って聞いていた。「5億円の子って言った人、明日忘れるかな」「すぐ
「娘に、もう会社の宣伝をさせないでください」10月5日、月曜日。高井生活デザインの審査室で、私は向かいに座る啓介へ言った。土曜の科学館で、啓介は嫌がるひよりに台詞カードを持たせ、会社向けの撮影をしていた。父親と遊びに行った日にまで、会社の都合を押しつけられた。その繰り返しを止めるために、私はここへ来た。隣には律子がいた。加奈と法務責任者、外部会計士、ミナモリンクの株主代表も席に着き、沙耶は手元の端末を開いていた。啓介は私を見ずに、加奈へ話しかけた。「元妻が、金額を増やすために騒いでいるんです。娘のことまで持ち出して」「ひよりを撮影に連れていったのは、あなたでしょう。私が断ったあとも、娘の顔を使っていた。なぜ止めなかったの?」「だから、それは広報の確認ミスだ」私は写真の同意書を机に置いた。隣に、ひよりの学童申込書の写しを並べた。「この署名は、学童の申込みに書いたものよ。広告に使っていいと署名したことはない」法務責任者が、会社で保全した保存履歴を画面に出した。同意書は広報担当のアカウントで作られ、学校へ出す書類から署名を転用したと記録されていた。啓介はようやく画面を見た。「俺は、署名を写せとは言ってない。急げと言っただけです」科学館に来ていた広報担当が、席を立った。「使える署名があるか社長に確認しました。家庭内の同意だから、以前のものでいいというお返事でした。やり取りも提出しています」「言い方の問題だろう。家族なんだから、いちいち書類を作り直さなくても――」「私が嫌だと言っ
10月3日、土曜日。湾岸科学館の入口で、ひよりは啓介を見つけると走り出した。「パパ!」啓介はベンチから立ち上がり、娘を抱き止めた。「新しい靴、似合ってるな。今日は宇宙の映像を見よう。昼はオムライスにするか」「ケチャップかけるやつ?」「そう。好きだったろ」ひよりが笑った。家ではなかなか見せなくなっていた顔だった。入口の売店で、啓介は星座のしおりを選んだ。娘の誕生月を探す手元を、ひよりがのぞき込んだ。見つけてもらうと、私に高く振ってみせた。「ママ、これ!」「よかったね。楽しんでおいで」以前の日曜と、同じように答えた。啓介に私からも撮影はしないよう念を押し、展示室へ入るふたりを見送った。私は館内のカフェへ移り、律子に到着したと連絡した。帰ってきたひよりが何を話してくれるか、楽しみにしている自分がいた。昼が近くなった頃、娘からメッセージが来た。【ママ、きて】続けて、もう1通。【2かいの休けい室。カメラある】私は席を立ち、案内板を見ながら2階へ上がった。ガラス扉の向こうで、小型カメラのレンズがひよりに向けられていた。娘は白いカードを持ち、その横に啓介が立っていた。「もう1回。今度は最後まで笑って」「やだ。ママに聞いて」「社員の家族へ見せるだけだよ。パパといる時間だろ。何でもママに決めてもらうのか」
月曜の朝、ひよりは玄関で上履き袋を落とした。拾おうとしゃがんだまま、動かなかった。「これ、クラスの子が送ってきた。その子のお母さんのスマホに来たって」差し出された画面に、私の顔があった。【5億円で夫を売った妻――家族アプリ創業者、買収の裏で離婚】前夜、ミナモリンクが出した説明文には、元配偶者から過大な要求があり、買収手続に影響している、とあった。記事はそこに、5億円とホテルでの面談を結びつけていた。啓介の顔が浮かんだ。けれど、誰が記者へ話したのかを示す証拠はなかった。保護者の連絡にも記事が添えられ、【子どもの前では触れないように】と書かれていた。その言葉と一緒に、ひよりのところまで来てしまった。仕事先からも、翌月に作る生活冊子を保留したいとメールが届いた。自治体向けの仕事なので、状況が落ち着いてから改めて相談したいという。私は承知しましたと返し、準備していた案を閉じた。私が書いた物を夫の物にされたうえに、自分で請けた仕事まで止まるのか。悔しかった。「ひより、今日は休もうか」「休んだら、ほんとだと思われる」「記事のようなことはしてないよ」「5億円は本当でしょ」「支払う約束は本当。でも、ママが会社にお金を出させようとしたんじゃない。離婚の条件を先に持ってきたのは、パパなの」ひよりは上履き袋を拾った。エレベーターへ向かい、振り返らずに言った。「迎え、来なくていい。見られるから」私は律子へ連絡し、記事と会社の説明文を送った。啓介のタブ