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4話

Author: Amy
last update publish date: 2026-09-08 20:08:14

9月18日、私は城戸法律事務所の相談室にいた。

ホテルでもらった書類、啓介のタブレットを撮った画像、私の署名が使われた同意書。日付順に並べると、律子はひとつずつ確かめた。

相談を申し込んでから、面談までの間に資料を送ってきた。律子はすでにミナモリンクへ、私は写真利用に同意しておらず、掲載しないよう求める通知を出していた。

「ご主人の書類には、私が確認するまで署名しないでください。仕事の原本も渡さないで。離婚のお金で、作った画面や文章、写真の問題まで終わらせることには同意しないでくださいね」

「離婚するかどうかは、まだ決めていません」

「それでいいんです。今日は条件を確かめましょう」

律子は高井側に照会した資料を広げた。

「5億円を送るのは高井側ですが、負担するのはご主人です」

私はペンを止めた。

「高井さんが、自分のお金で私に払うんじゃないんですか」

「会社全体の買収額が50億円。そのうち、ご主人が受け取る予定の代金が10億円です。買収が成立する日に、その代金から5億円を、こちらの管理口座へ直接送る案です」

「夫の取り分から出るんですね」

「はい。最初の提案は1億円でした。高井側が、婚姻中の貢献と娘さんの生活を踏まえて5億円の案を出すよう求め、ご主人が署名しています」

啓介は自分の受取額を知っていた。そのうえで私には、5億も受け取るのにまだ足りないのかと言った。私から要求したお金でもないのに。

「私は株を持っていません。初期の画面や文章を作りましたが、それが5億円だと決まるわけではないですよね」

「ええ、法律で決まった額ではありません。今ある離婚の合意案です。真帆さんの仕事を今後どう使うか、その対価はいくらかは、別に確かめます」

律子は10億円の内訳を指した。

「このうち2億円は条件付きです。申告内容が正しく、買収後の仕事を果たした場合に支払われます」

私は、離婚のお金、仕事の利用、写真への同意を、別々の行に書いた。

どれかひとつを受け入れたら、あとのことまで夫に従う。そういう書類には署名しない。

「午後、高井さんに会います。写真を断ったことと、ノートがなくなったことも伝えます」

「話は記録に残し、書類は持ち帰ってください。終わったら私へ連絡を」

……

高井生活デザインの会議室で、私は加奈に録音の了承を求めた。加奈がうなずいてから、スマートフォンを机に置いた。

「5億円の出所は、弁護士から聞きました。今日は、夫の説明が本当なのか確かめに来ました」

「伺います」

私は封筒を机に置いた。

「50億円で買う会社なのに、夫は資金がもたないと言うんです」

「会社に買う価値があっても、日々の支払いに使う現金が尽きるんです。今の支出が続けば、12月までしかもちません」

「私が離婚を断ったら、買収もなくなるんですか」

「いいえ。確認するのは、会社が使っている画面や文章、写真の権利です。離婚でまとめて片づけるという案は、ご主人が持ち込まれたものです。弊社は、その条件を受け入れていません」

私は、署名の使われた同意書、学童申込書の控え、律子が送った通知の控えを渡した。

「これにも私は署名していません。学童の申込書から、名前だけ使われています。夫には私と娘の写真を使わないでと伝えました。弁護士から会社にも通知してあります」

加奈はふたつの署名を見比べた。

「この同意書が使えるという扱いにはしません。担当者にも今、確認を取らせます。掲載を進めないよう、こちらからもミナモリンクに求めます」

加奈は担当者を呼んで資料を渡し、連絡を指示した。

私は、机に残った別のファイルを見た。

「夫は、私の仕事をどう説明しているんですか」

加奈が開いたページに、啓介の回答があった。

【妻は会社に関わっていません。昔、家で相談した程度です】

現在の買収資料に載っていた「わが家帳」の画面では、作成者欄が塗りつぶされていた。加奈はその横に、同じ画面の古い版を並べた。そちらには、名前が残っていた。

【Maho M.】

「これは私です。この画面も、説明の文章も作りました。会社にどう渡すかは、正式に決めたいとメールにも書いています」

「メールも城戸先生を通して確認します」

「この古い資料は、どこから?」

「買収前の確認資料として出された保存箱です。手書きのノートが7冊、入っていました」

書斎の棚の、埃のない四角を思い出した。

「夫が持ち出したんですね。返してください。私のノートです」

「ご主人は、あなたから渡されたものだと説明しています」

「渡していません。表紙の裏に私の名前があります。ひよりの育児記録も入っています」

思わず声が大きくなった。

最初のノートには、夜泣きの時間とミルクの量を書いた。少しでも眠りたくて、啓介に任せたい家事を書き足した。2冊目から分担図が増え、7冊目では家族の負担を知らせる画面になっていた。

仕事になったページだけではない。ひよりが泣きやんだ時刻も、私がどうにかひと晩を越した記録も入っている。

「夫が私に黙って持ち出したことも、記録してください」

「分かりました。移動の記録を残したうえで、私物は返します」

今すぐ抱えて帰りたかった。私は、7冊全部だと念を押した。

「夫は、あなたと結婚するつもりだと言いました」

加奈はまっすぐに私を見た。

「結婚の約束はしていません。私は仕事の買い手で、交際相手ではありません。ご主人からはお話がありましたが、結婚はお断りしています」

「夫にも、そう伝えたんですね」

「はい。はっきりと」

それを聞いても、ほっとはしなかった。啓介が別の女に選ばれなかったからといって、私たちにしたことが消えるわけではない。

約束さえない相手との将来を語って、私には、お前とは違うと言った。娘には、その話を聞かせた。

「今日も署名はしません。離婚するかも、受け入れる条件も、私が決めます」

「今後の条件確認は、城戸先生を通します」

会社を出ると、学校から一斉連絡が来ていた。児童の家族写真が企業広告に出ている件で、問い合わせが寄せられているという。

駅へ入ったところで、大きな画面が切り替わった。

ミナモリンクの買収基本合意を知らせる広告だった。2年前の表彰式で撮った写真。啓介の左右で、私とひよりが笑っていた。

【家族から始まったサービスを、すべての家庭へ】

断ったはずだった。律子からも、使わないように通知してもらった。それなのに、娘の顔が駅で流れていた。

写真の中の私は、啓介を見ている。撮影の直前、ここまで来られたのは真帆のおかげだ、と言われたから笑ったのだ。

そばを通った人が、家族向けの会社なんだね、と話していた。

私は画面を撮り、律子へ送った。その直後、ひよりから電話が来た。

「ママ、みんなが私のこと知ってる」

「先生のところにいて。今行くから」

学校の会議室で、ひよりは家族カードを前に座っていた。

3人の顔の周りに、【広告】と何度も書かれていた。先生によると、駅やスマートフォンで写真を見た子たちが騒いだのだという。お金や離婚の話は出ていなかった。

私は娘の隣に座った。

「消そうか」

消しゴムに手を伸ばすと、ひよりが止めた。

「消したら、紙がまた薄くなる」

描き直した私の頬に、鉛筆の文字が重なっていた。ここをこすれば、ひよりが戻してくれた顔まで消えてしまう。

「パパとママに、見てほしかったのに」

「見たよ。発表も、ちゃんと聞いたよ」

ひよりは首を振った。

「こんな字がない時の、3人の絵を見てほしかった。私が描いたのに、みんな広告って言うんだもん」

私は消しゴムを置いた。

新しい紙をもらえばいい、とは言えなかった。ひよりが描き直し、ふたりの前で発表したカードは、これしかない。

娘はカードを半分に折った。赤い屋根が内側へ隠れた。

「勝手に書かれて、嫌だったね。ひよりが悪いんじゃないよ」

私は先生に、誰が書いたのか確認し、これ以上からかわれないよう対応してほしいと頼んだ。家族写真は同意なく使われていることも伝えた。

カードはひよりに持たせたまま、帰り支度をした。

「写真も、使わないでって伝えてあったんだ。今、弁護士さんにも連絡した。ママはこのままにしない」

ひよりは返事をしなかった。私はその手を取って、学校を出た。

今夜は啓介に、この子に何が起きたのか聞かせる。広告を止めるまで、会社の話だと言って逃げるのを許さない。

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